吉松隆の交響曲と言えば?
吉松隆は、「交響曲作家」として人気がある。
吉松隆は、日本の現代音楽の作曲家の中でも、類まれなる「交響曲作曲家」であり、その交響曲がどれも人気を有しているという稀有な存在である。
私も吉松隆は大好きで、「吉松隆」と聞けば、耳を傾けてしまうのです。
これらは、吉松隆の交響曲のCDジャケットなのですが、そもそも、交響曲がここまでCD化されているのも珍しいのです。
6つの交響曲を書いている。
吉松隆の公式ホームページには、各交響曲について、作曲者本人の説明があります。
◆カムイチカプ交響曲(交響曲第1番)(1990)
タイトルの〈カムイ・チカプ〉はアイヌ語で〈神(カムイ)の鳥(チカプ)〉を意味する。それは人間の村の守護神であり、高い樹の枝から人間たちの生と死とをじっと見つめている森の最高神でもある。
何回かの挫折の後、36歳でこの鳥の神の名を付した最初の〈交響曲〉を書こうと決めた時、それはどこか遺書を書く気分に似ていた。生き物がその死の直前に「自らの一生のすべてを走馬灯のように見る」ように、自分の頭の中に堆積している雑多で猥雑な音の記憶を俯瞰し、それをすべて楽譜に書き留めたいと、そう思ったからだろうか。
そして、鼓動、風の音、鳥たちの歌、森のざわめき、星たちの響き、讃美歌、古びたピアノの音、クラシックや現代の音楽、ロックやジャズ、邦楽や民族音楽…などの音の記憶を、ジグソウ・パズルのように並べ、オーケストラという回路に入力して連画にしてゆく作業が始まった。それは自分という人間の音の記憶であるともに、人類という生物そのものの音の記憶でもあるような気がしていた。
それゆえにこの交響曲には、五体(五つの楽章)がある。それは、〈創造〉〈保存〉〈破壊〉〈幻惑〉〈解放〉というシヴァ神の舞踏による五つの宇宙の姿とともに、地・水・火・風・空?という仏教における世界観〈五大〉をも模している。
第1楽章.GROUND 発生し増殖してゆく歪(いびつ)なるもの。
第2楽章.WATER 古風なる夢を紡ぐ優しきもの。
第3楽章.FIRE 破壊しながら疾走する凶暴なるもの。
第4楽章.AIR 死せるものたちを思う静かなるもの。
第5楽章.RAINBOW 虹と光を空に広げる聖なるもの。
作曲は1988年春から1990年春にかけて進められたが、第1楽章には19歳から23歳の頃書いていたオーケストラ曲、第3楽章には28歳の時に書いたロック曲などを一部使用したほか、二十代までに書いて破棄したさまざまな自作曲の破片が組み込まれている。また、GROUNDには森の神としてシベリウスの「タピオラ」が、FIREには原始の神としてストラヴィンスキーの「春の祭典」がエコーする。
初演は、民主音楽協会の委嘱作品として1990年5月26日尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー、同年6月2日東京フィルハーモニーにより行われた。op.40。◆交響曲第2番「地球にて」SYMPHONY No.2 "At Terra"(1991)
レクイエムを考えていた。ひとつは死んだ猫たちについての。もうひとつは人間と地球についての。
とりたてて悲観的な未来や宗教的な死生観について考えたわけではないが、音楽はすべて基本的にはレクイエムの様な気がする。特に、新しいこと増やすこと開発すること…が、ここまで<破壊>と同義になってしまった現在では、何かについて音楽を書くこと、というのは、すなわち鎮魂歌を書くことに等しいのだ。
人間も音楽のように大気から発生し、音楽のように大気に消えてゆく存在だったらどんなによかっただろう、とつくづく思う。副題の「地球(テラ)にて」は、手紙の最後に「東京にて」と書くような一種の署名。人間と地球についての愚考を試みたことと、アジアからアフリカに至る音の素材を混在させたことに因っている。3つの楽章を持ち、それぞれが<アジア><ヨーロッパ><アフリカ>風のレクィエムの形をしている。
1. 挽歌...東からの Dirge ... from the East
アジア風の旋法と旋律の堆積による挽歌。冒頭のチェロによる悲歌を核にして、様々な歌や祈りや舞踏が通り過ぎてゆく。
2. 鎮魂歌...西からの Requiem ... from the West
ヨーロッパ風の死者のためのミサ曲の形(Introitus,Kyrie,Offertorium,Sanctus,Agnus Dei,Libera Me)をもつ鎮魂歌。
3. 雅歌...南からの Canticle ... from the South
アフリカ風の律動による軽やかな雅歌。延々と繰り返されるリズム細胞の上でアレルヤの歌声が増殖してゆく。
1991年5月22日、「現代日本のオーケストラ音楽」第15回演奏会(東京文化会館)において、外山雄三指揮東京フィルハーモニー交響楽団で初演。◆交響曲第3番op.75(1998)
「交響曲」とは何か?と聞かれたら私はこう答える。「オーケストラという音響合成システムで紡がれた巨大な質量とエネルギーとを持つ音の構造物」であり「作曲家というひとりの人間の内部に仕込まれた音楽の記憶のすべてを収斂させた情念(パッション)の複合体」。
人間の心の中に〈希望〉や〈調和への希求〉とともに〈怨念〉や〈破壊への衝動〉など様々な情念が混在しているように、20世紀後半の日本に生まれた私の中には大いなる〈西洋クラシック音楽の記憶〉や〈東洋音楽の記憶〉とともに〈ロック〉や〈ジャズ〉や〈民族音楽〉あるいは〈アヴァンギャルド〉〈コンピュータ・アート〉など様々な20世紀の記憶が混在している。
それらの感情や記憶のすべてを「交響曲」と言うフォーマットの中に解放し、〈五線譜〉というソフト・ウエアで走る〈オーケストラ〉というハード・ウエアをフル駆動させる音楽。そして、現代音楽が封印してきたメロディやハーモニーそしてビートを完全に解き放ち、ベートーヴェンやチャイコフスキーやシベリウスの交響曲を聴いてワクワクした少年の頃の音楽への情熱を小賢しい知性の歯止めなしに全開にする音楽。
私は、そういう音楽を書きたかった。そして、前作であるピアノ協奏曲「メモ・フローラ」op.67の女性性(女神)に対して、男性性(男神)の性格を持った対の作品を考えていた。それは怒りや悲しみや夢のエネルギーと共に莫大な労力と無意味さをも吸い込んで、4つの棟を持つ奇妙な神殿のように私の内なる地平に屹立した。それがこの交響曲である。
第1楽章:アレグロ。「陰」と「陽」、「希望」と「怨念」、「慈悲あるもの」と「凶暴なるもの」と言った相反する二面の性格が交錯しぶつかり合うドラマとしてのアレグロ楽章。
第2楽章:スケルツォ。ジャズやロックからアフリカやアジアの民族音楽に至る様々なリズムの断片がパズルのように錯綜し変化してゆく、リズムの万華鏡としてのスケルツォ楽章。
第3楽章:アダージョ。アジア風の暗い情念によるアダージョ楽章。2本のチェロが核となって語られる悲歌でもあり、真夜中の走馬灯の中に映る遠い昔の記憶のような仮面劇でもある。
第4楽章:フィナーレ。前3楽章の素材が合流し堆積してゆく大団円としてのフィナーレ。雲の切れ目から射すかすかな日の光が巨大な日の出へと拡大してゆき、太陽の祝祭を迎える。
1991年に前作第2番op.43の完成直後より構想。当初は、真昼~夕暮れ~夜~真夜中~夜明けという5楽章からなるアジア的な自然讃歌のような交響曲を考えていたが、現代日本において交響曲を発表するということの絶望的な状況から破棄。その一部をギター・ソナタ「空色テンソル」op.52に転用。しかし、その後1995年にCHANDOSでの録音初演の可能性を示唆されたことから、アレグロ~スケルツォ~アダージョ~フィナーレという疑似古典的な外観を備えた4楽章の純器楽交響曲として再構成。97年冬より翌98年夏にかけて作曲を進め、98年9月に完成。op.75。
1998年12月15日にイギリス・マンチェスターBBCスタジオにおいて録音初演され、CD化。公開初演は2000年5月25日藤岡幸夫指揮日本フィルハーモニー交響楽団によって行われた。この曲は、その誕生と初演に尽力してくれた指揮者、藤岡幸夫氏に献呈されている。◆交響曲第4番 op.82 (2000)
1998年にアレグロとフォルテに徹した〈交響曲第3番〉を書いた後、その反動のような交響曲を一つ書いてみたいと思った。それは、最初の構想では重く暗いアダージョ交響曲だったのだが、ミレニアムの区切りに降臨した奇妙なミューズ(楽想の女神)の微笑みのせいだろうか、第3番という嵐の後の「谷間に咲く小さな花のような」間奏曲風で軽やかなミニ・シンフォニーのイメージがそれを押しのけて鳴り始めた。
それは新しい世紀に遊ぶ子供のイメージを持った、春の緑をたたえる小交響曲であるとともに、雑多な音楽の記憶を並べた音の「オモチャ箱」でもある。だから、この交響曲をひとことで言うなら、「パストラル(田園)・トイ(おもちゃ)・シンフォニー」ということにでもなるだろうか。
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第1楽章:アレグロ。さまざまなビート(リズム)とモード(旋法)の間を走り回る〈鳥〉の思考によるアレグロ楽章。少年時代の夢の中で、機会仕掛けの鳥、木彫りの操り人形、すましたお姫さまの人形、ブリキの兵隊たちとネズミたちなどなど、様々な玩具が春の田園を夢見ながら飛び回る。
第2楽章:ワルツ。歪んだワルツがひたすら堆積してゆくリズムの万華鏡としてのスケルツォ楽章。後半では過去のさまざまな交響曲作曲家たち(ベルリオーズ、ブルックナー、ショスタコーヴィチ、マーラー、ベートーヴェンetc)のワルツが乱舞しつつ織り込まれてゆく。
第3楽章:アダージェット。ノスタルジックなメロディと甘いハーモニーによる後期ロマン派風の緩徐楽章。中間部とコーダには、遠い春の記憶がふと頭をよぎるように、ピアノによるオルゴールのメロディが走り抜ける。
第4楽章:アレグロ・モルト。春を讚えてひたすら明るく軽やかに走り抜けるロンド風フィナーレ。鳥たちのパッセージと、幸せに満ちて春の野をスキップするようなリズムとが艶やかな饗宴を繰り広げ、最後は夢の向こうに消えてゆく。2000年初春より夏9月にかけて作曲をすすめ12月に完成。指揮の藤岡幸夫氏と共に第3番以降の交響曲を書く大きな原動力となってくれたシャンドスのプロデューサー、ラルフ・カズンズ氏に献呈。公開初演は2001年5月29日、大阪において藤岡幸夫指揮関西フィルによって行われた。
◆交響曲第5番op.87(2001)
〈第5番〉というナンバーの付く交響曲を書くにあたっては、ひとつの夢があった。それは「冒頭は(例の)運命のモチーフで始まり、最後はハ長調の主和音(ドミソ)で終わる」ということである。
この(恐ろしい)夢は、音楽を始めた(そしてまだチャイコフスキーやシベリウスくらいしか交響曲を知らなかった)時代には単なる微笑ましい〈少年の夢想〉にすぎなかったのだが、その後、交響曲どころかドミソすら非現実的な夢として封印された(あの忌まわしい)現代音楽全盛の時代を経るに至って、怒りとともに増幅された確信犯的な〈課題〉として育っていったような気がする。
ただし、この交響曲は「運命」交響曲ではなく、一種の「ファウスト交響曲」(文学で言うなら「モン(我が)ファウスト」)である。それゆえ、前半の3つの楽章では(誤解を恐れずに敢えて説明するなら)それぞれ、ファウスト的な「思索し(後悔し)疾走(暴走)する自我」、メフィスト的な「幸福と地獄とを共に見せてくれる悪魔」、そしてグレーチェン的な「悲しみとしての永遠なる女性性」が語られる。それらが交錯し錯綜する4幕からなる(芝居がかった)人間ドラマ。…とでも解説すれば、この奇妙な交響曲の内容の一部を語ったことになるだろうか。(もっとも、作曲者のそんな解説を本気にする人はきわめて少ないとは思うけれど…)第1楽章:3つの異質なモチーフが登場する軋んだ序奏と、後悔と希望とが歪(いびつ)に錯綜しながら疾走する分裂症的なアレグロ。
第2楽章:冷笑的で悪魔的な乾いたスケルツォ。ジャズ風のベース・ラインに乗って悪夢が皮肉な笑みの中で跳梁跋扈する。
第3楽章:女性性によせる悲歌風のアダージョ。星くずの下での鳥たちの夢と回想、そして亡き妹へよせるワルツの残像。
第4楽章:祝祭的なファンファーレで始まり、ロックのビートで駆け抜ける錯乱した舞踏としてのフィナーレ。夢の収斂と昇華。曲は、交響曲第3番op.75(1998)を書き上げた後、サントリー音楽財団の委嘱により1999年夏より次の交響曲として構想。しかし、翌年春から秋にかけて小型の「パストラル(田園)・トイ(オモチャの)・シンフォニー」の性格を持った交響曲第4番op.82の作曲を挿入したため一時中断。その後、2001年初春に改めて「第5番」として構想を再開し、晩春から夏にかけて作曲。8月31日に完成。op.87。2001年10月6日、作曲家の個展「吉松隆」にて、藤岡幸夫指揮東京都交響楽団により初演。我が父、吉松正高に献呈。
◇交響曲第6番《鳥と天使たち》(2013)
私にとって「鳥」と「天使」(そして「星」)は、自分の音楽のイメージを支える重要なテーマである。「鳥」は(音楽家として人間の先輩であると同時に)空を飛びひたすら歌を囀る自由なものであり、「天使」は人間を傍観しながら透明にただ浮遊するものである。
そんな2つの存在について60歳を迎えて改めて回顧したのが、夢の中に浮かぶ鳥と天使の絵が描かれた「音のおもちゃ箱」。それが今回の交響曲の最初のイメージだった。第1楽章:右方の鳥(Bird in Right)
第2楽章:忘れっぽい天使たち(Forgetful Angels)
第3楽章:左方の鳥(Bird in Left)楽章はコンパクトに急・緩・急の3つ。右方と左方というのは、雅楽で言う「右方の舞(高麗楽)」と「左方の舞(唐楽)」のもじり。と同時に、右の鳥は「光の」という意味の「In Light」の日本語なまり、左の鳥は日本語の「酉(とり)」に「?(さんずい)」をつけると「酒」なので、「左利き」(酒飲みの隠語)という洒落。まあ、他愛のない言葉遊びのようなものなので「ふーん」と聞き流して頂ければそれでいい。
もうひとつの「忘れっぽい天使」の方は、パウル・クレーの有名なペン画。人の生き死にをコントロールするのは全能で冷酷な「神さま」だが、それに対して、人の出会いや別れを担当するのは忘れっぽくてトロい「天使」。そんなイメージがこの落書きのような絵を見ているとひしひしと感じられる。
さらに、そんな「鳥と天使たち」の絵が描かれた箱(交響曲)なので、色々なものが「記憶」として雑多に紛れ込んでいる。第6番…ということでSibelius、Beethoven、Tchaikovskyは勿論(笑)、タルカスや私の旧作の幾つか、そして60年代に勉強した前衛音楽のサウンドやJAZZのリズムも走馬燈のように交叉する。
タイプとしては第4番(2000)と姉妹作品で「Pastoral(田園)」的な「Toy(おもちゃ)」のシンフォニーなのだが、楽譜は鬼のような変拍子と転調が渦巻き、高度なアンサンブルの精度とテクニックが要求される。
いずみシンフォニエッタの委嘱により2013年春より作曲を始めて6月に完成。同年7月13日いずみシンフォニエッタ定期演奏会にて飯森範親指揮(いずみホール)で初演。op.113。
これらの吉松隆の名曲の中で、私が好きなのは交響曲2番「地球(てら)にて」です。
この曲は、吉松らしい、現代人のリズム感覚に独特の音響感を載せることに成功していますし、1楽章と3楽章は、非常にノルことができて楽しいのです。基本レクイエムなのであるが、死者を感じさせない「活き活きとした」交響曲です。
吉松隆さんへの思い
その他にも交響曲3番も4番も5番も6番も1番も良い。ただ、吉松隆の曲で初めてCDを買ったのがこの曲であり、そして、スコアまで買ったのが、この曲なのです。思い入れも強いです。
もし、吉松隆さんがこっそりと、スマホで検索して、このページから私の作品を聞いてくれたらなあ・・・・というぐらいの大ファンです。