安心を創る政治5原則【はらだよしひろ の政治姿勢】を制定しました。
私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。
目次
- 1 私の政治姿勢として、「安心を創る政治 5原則」を制定しました。
- 2 はらだよしひろの「安心を創る政治5原則」
- 3 「安心を創る政治5原則」を貫く三つの基準
- 4 はらだよしひろの「安心を創る政治5原則」、具体的説明
- 5 「安心を創る政治」の根本理念――私が考える「暴力」とは何か
- 6 はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
私の政治姿勢として、「安心を創る政治 5原則」を制定しました。
なぜ、「安心をつくる政治5原則」をつくったのか。
私は、政治の役割とは「不安を放置すること」でも「不安を利用すること」でもなく、市民の不安を直視し、それを安心へと変えることだと考えています。そのために、この「安心を創る政治 5原則」を掲げました。
第一に、不安を正面から受け止めること。
第二に、その原因を制度や社会構造の中で分析すること。
第三に、漠然とした不安を市民が共有できる言葉にすること。
ここまでで「共感と理解」を築きます。次に、
第四として、不安から出発して「安心の条件」を具体的に提示します。
水を安心して飲めること、税金の使い道が見えること、子育てや老後に破綻しないこと、そうした生活実感に即した条件です。そして、
第五に、その条件を実現する政策の道筋を描き、制度や予算に落とし込む。
これにより、不安を安心に変える道を現実に示すのです。
私は、この原則を通じて、「安心を創る政治」を軸に、市民と共に歩む政治を実現していきたいと考えています。
はらだよしひろの「安心を創る政治5原則」
- 不安を直視する
人々が抱える生活・健康・将来への不安から出発する。耳をふさがず、事実に向き合う。 - 不安を分析する
不安の背景を制度・社会構造から解剖する。根源を突き止めなければ、解決には至らない。 - 不安を言葉にする
人々が気づいている漠然とした不安を、誰もが理解できる言葉で表現する。政治の役割は、不安を見える形にして、安心へと解決すること。 - 不安から、安心の条件を提示する
「水を安心して飲める」「税金の使い道が市民に見える」「子育ても老後も破綻しない」など、具体的に“安心”を実感できる条件を示す。 - 安心から、政策として実現する道筋を描き、実行に移す
その条件を満たすために、制度改革・予算配分・行政改善など、現実に実行可能な政策へと落とし込み、実行に移す

「安心を創る政治5原則」を貫く三つの基準
「安心を創る政治5原則」は、不安を発見し、分析し、政策へ結びつけるための手順です。しかし、その手順を政治家や行政だけで進めれば、市民のためと称しながら、市民不在の政治になる可能性があります。
そこで、5原則のすべてを貫く基準として、次の三点を重視します。
1.安心の条件は、市民とともに決める
何を不安と感じ、どのような状態を安心と考えるかは、政治家だけで決めるものではありません。
政治家や行政には、市民が判断するために必要な情報を公開し、対話と参加の場を保障する責任があります。特に、その問題によって直接影響を受ける当事者の経験と意見を、政策決定の中心に置かなければなりません。
政治家が市民に代わって安心を定義するのではなく、市民が安心の条件を決められるようにする。それが「安心を創る政治」の基本です。
2.最も不利益を受けている人から政策を検証する
社会全体の平均値が改善しても、一部の人に危険や負担が集中しているなら、本当の安心が実現したとは言えません。
同じ制度の下でも、所得、年齢、障害、性別、国籍、居住地域、家族状況などによって、受ける影響は異なります。政策を検証するときは、「全体として良くなったか」だけでなく、「誰の不安が残っているのか」「誰が制度から取り残されているのか」を確認します。
最も困難な状態に置かれている人が安心できるかどうかを、政策評価の重要な基準とします。
3.政策の実行後にも、市民が検証し、修正を求められるようにする
政策は、条例を制定し、予算をつけ、事業を実施すれば終わりではありません。
政策の目的、根拠、予算、実施状況、成果と失敗を公開する必要があります。その上で、市民が行政の判断に異議を申し立て、第三者による検証や司法的な救済を求められる仕組みを保障します。
効果がなかった政策や、新たな不利益を生んだ政策は、停止し、修正し、見直さなければなりません。市民が実行後も政治を統制できることが、継続的な安心につながります。

はらだよしひろの「安心を創る政治5原則」、具体的説明
1. 不安を直視する
政治の出発点は、市民が抱えている「不安」を正面から見据えることです。生活費の上昇、子どもの教育費、健康や老後の不安、災害や環境汚染への恐れ――こうした声を、政治家が「大げさだ」「仕方ない」と切り捨ててしまえば、国民と政治の間には決定的な溝が生まれます。現実には、多くの人が不安を口にできずに我慢していることも少なくありません。だからこそ、政治家は耳をふさがず、現実に起きている事実に向き合い、その不安を自らの課題として抱える覚悟が必要です。直視するとは、単なる共感のポーズではなく、市民と同じ地平に立ち、「私もその不安を共有する」という姿勢を取ることです。ここを避ける政治は、必ず人々から遠ざかります。
さらに、政治が直視すべきなのは、すでに言葉になっている不安だけではありません。不利益を当然のこととして受け入れている人、行政に声を上げることを恐れている人、障害や言語などの理由から意見を届けられない人もいます。相談記録、統計、現地調査、情報開示請求などを通じて、まだ声になっていない不安や被害を発見することも、政治の責任です。
2. 不安を分析する
不安を見つけただけでは解決にはつながりません。その不安がどこから生じているのか、制度や社会の仕組みを丹念に解剖することが欠かせません。例えば「生活が苦しい」という声があったとき、単に物価高のせいだと片づけるのではなく、賃金体系や税制、社会保障制度のどこに原因があるのかを探り当てることが必要です。水や環境に関する不安であれば、検査体制や公表の仕組み、行政の隠蔽体質にまで踏み込みます。不安の根源を突き止めることは、時に痛みを伴う作業ですが、そこから逃げれば問題は放置されるだけです。政治の役割は、この根本原因を制度的に明らかにし、市民に見える形にすることです。分析なき政治は、その場しのぎのスローガンに堕します。
また、分析するときには、社会全体の平均だけを見るのではなく、危険や負担が誰に集中しているかを調べます。同じ災害、物価高、環境汚染、制度変更であっても、すべての人が同じ影響を受けるわけではありません。どの地域、どの階層、どの立場の人が、より大きな不利益を受けているのか。回避できたはずの被害が、社会の仕組みによって特定の人に集中していないか。そこまで明らかにすることが、構造を分析するということです。
3. 不安を言葉にする
多くの人々が抱える不安は、漠然としていて、うまく言葉にできないことが多いものです。「なんとなく将来が心配」「税金がどこに消えているのかわからない」といった感覚はあるものの、それを政治に届ける言葉に変えることは容易ではありません。ここで政治家が果たすべき役割は、専門用語や複雑な制度の説明ではなく、市民が自分の思いを重ねられる言葉で不安を表現することです。「あなたの水道の安全は守られていません」「税金が市民ではなく大企業のために使われています」と明快に示すことが、共感と理解を広げます。不安を言葉にすることは、市民と政治をつなぐ橋を架ける作業であり、その言葉を通じてこそ、人々は自らの不安が共有され、解決に向かう希望を持つことができます。
ただし、政治家が市民に代わって不安を言葉にし、市民の声を独占してはなりません。政治家の言葉は、当事者自身が経験を語り、問題を定義し、解決方法を提案するための入口であるべきです。不安をあおるのではなく、確認できた事実、まだ分からないこと、考えられる危険、利用できる対策を区別して伝えます。市民が自ら判断し、行動できる言葉をつくることが、政治の役割です。
4. 不安から、安心の条件を提示する
不安を言葉にしたら、それを放置せず、どのような状態になれば「安心」と言えるのかを具体的に提示しなければなりません。安心は抽象的な理想ではなく、市民が日常で実感できる具体的な条件であるべきです。たとえば、「水を安心して飲める」とは、定期的な検査が行われ、その結果が隠されずに公開される状態です。「税金の使い道が市民に見える」とは、議会や行政が使途を透明にし、誰でも確認できる仕組みがあることです。「子育ても老後も破綻しない」とは、教育費や介護費用が過度な負担とならず、社会全体で支え合う制度が整っていることです。このように、不安を「安心の条件」として具体化することで、市民は初めて「こうなれば安心できるのだ」と未来像を共有できます。
安心を支える五つの条件
安心とは、単に不安を感じなくなることではありません。「心配ありません」という行政の説明だけで生まれるものでもありません。安心を支えるためには、少なくとも次の五つの条件が必要です。
安全――生命や健康を脅かす危険が実際に減っていること。
権利――行政の善意ではなく、制度として保障されていること。
公正――危険や負担が特定の人に集中していないこと。
参加――当事者が情報を得て、政策決定に参加できること。
救済――問題が起きたとき、調査、是正、補償を求められること。
これらの条件を市民とともに具体化し、誰が見ても確認できる形にすることで、安心は抽象的な約束から、検証可能な政治目標になります。
5.安心の条件を政策として実現し、検証と見直しにつなげる
最後に必要なのは、提示した「安心の条件」を絵に描いた理想で終わらせず、現実の政策として実現に結びつけることです。ここで政治家の力量が試されます。制度改革をどう進めるのか、予算をどのように配分するのか、行政の仕組みをどう改善するのか。その道筋を明確に描き、実行可能な形に落とし込むことが不可欠です。たとえば「水を安心して飲める社会」を実現するためには、水質検査を義務化し、その結果を公表する法制度を整えることが具体策となります。安心を実感する社会は、計画と実行の積み重ねでしか形になりません。政治とは、市民の不安を分析し、安心の条件を提示し、それを政策として実行に移す不断の営みです。これを怠る政治は、安心を約束できません。
政策は実行して終わりではない
政策を実行した後には、当初の目的が達成されたか、誰かに新たな不利益を生じさせていないかを検証します。そのため、政策には、期限、予算、責任主体、達成目標、評価方法をあらかじめ定めます。
実施状況と評価結果は、成功した部分だけでなく、失敗や未達成を含めて公開します。さらに、市民が異議を申し立て、第三者の審査や司法的救済を求められるようにします。
政策に効果がなければ修正する。人権侵害や重大な不利益が判明すれば停止する。新しい不安が生じれば、再び事実を直視し、原因を分析する。この循環を続けることが「安心を創る政治」です。

ただし、ここでいう「安心」とは、政治家や行政が市民に対して「心配ありません」と一方的に説明することではありません。必要な情報が公開され、市民が意見を述べ、政策決定に参加し、問題が起きたときには異議を申し立て、救済を求められること。そのような制度的な条件が整って、初めて本当の安心が生まれます。
政治家の役割は、市民に安心を与えることではなく、市民が自ら安心の条件を考え、選び、確かめられる政治の仕組みをつくることです。「安心を創る政治」とは、政治家だけで完成させる政治ではなく、市民とともにつくり続ける政治です。
「安心を創る政治」の根本理念――私が考える「暴力」とは何か
私が「安心を創る政治5原則」を掲げるのは、市民の不安を解消することだけが目的ではありません。
その根底には、本来であれば安心して生きられるはずの人々が、なぜ安心して生きることを妨げられているのか、という問題意識があります。
例えば、必要な医療を受けられない人、働いても生活を維持できない人、職場でのハラスメントに苦しむ人、環境汚染への不安を抱えながら十分な情報を得られない人がいます。
こうした問題を、単なる個人の不運や努力不足として片づけてよいのでしょうか。
私は、安心して生きられる環境が実現可能であるにもかかわらず、人の行為や社会の仕組みによってそれが妨げられているならば、そこには「暴力」の問題があると考えています。
そこで、私は暴力を次のように定義しました。
原田芳裕の「暴力の定義」
原田芳裕の「暴力の定義」
暴力とは、一人ひとりが安心して生きられる環境を実現できるにもかかわらず、人の行為や社会の仕組みによって、その環境が奪われ、損なわれ、またはその実現や回復が妨げられることである。

安心とは何か――心の平安・安定・満足という三つの状態
私が考える「安心」とは、単に不安がないことでも、危険を感じていないことでもありません。
一人ひとりが、自らの生命と尊厳を守られながら、生活を営み、自分の意思で人生を生きていけることです。
私は、その「安心」を次の三つの状態として定義しています。
- 心が平安であること
- 心が安定していること
- 心が満足していること
この三つは互いに関係していますが、それぞれ異なる意味を持っています。
1.心が平安であること――恐怖に支配されずに生きられる
心が平安であるとは、生命や尊厳を脅かされる恐怖に支配されずに生きられることです。
例えば、戦争によって命を奪われる恐怖、家庭内暴力や虐待への恐怖、職場でのハラスメントによる威圧、差別や排除への恐怖などが挙げられます。
また、環境汚染によって健康が損なわれるのではないかという不安や、行政に異議を申し立てたことで不利益を受けるのではないかという恐怖もあります。
こうした状況に置かれた人は、たとえ身体を直接傷つけられていなくても、自由に発言したり、行動したりすることが難しくなります。
例えば、職場で上司からの報復を恐れ、自分の意見を述べられない労働者がいるとします。その人は、暴行を受けていなくても、威圧によって心の平安を奪われている可能性があります。
政治や行政には、こうした恐怖を生み出している行為を防止し、被害を受けた人を保護し、安心して生活できる環境を整える責任があります。
心の平安とは、ただ静かに暮らせることではありません。他者や権力からの不当な威圧を恐れることなく、自分の意思で発言し、行動できることなのです。
2.心が安定していること――明日も安心して暮らせる見通しがある
心が安定しているとは、生活の基盤が確保され、将来への見通しを持ちながら生きられることです。
例えば、毎月の収入で生活を維持できること、病気になっても必要な医療を受けられること、失業しても直ちに生活が破綻しないこと、子育てや介護を社会の支えを受けながら続けられることなどです。
生活が成り立っているように見えても、病気になれば医療費を払えない、仕事を失えば住居を失う、老後の生活が全く見通せないという状態では、心を安定させることは困難です。
例えば、働いて収入を得ていても、雇用が極めて不安定で、突然解雇されれば生活を維持できない人がいるとします。
その人は今日の生活を送ることができても、明日以降の生活が保障されていません。
また、行政による支援制度が存在していても、必要な情報が知らされず、実際には利用できなければ、安心を支える仕組みとして十分に機能しているとはいえません。
政治には、所得、住居、医療、介護、教育、雇用など、生活を支える制度を整えることが求められます。
さらに、制度が突然変更されたり、行政の判断が不透明だったりすることも、将来の見通しを損なう原因になります。そのため、情報公開や政策決定への市民参加も、心の安定を支える重要な条件です。
心の安定とは、今日を生きられることだけではありません。明日も、来年も、その先も、自分の生活を続けていけるという見通しを持てることなのです。
3.心が満足していること――自らの意思で人生を選び、充実して生きられる
心が満足しているとは、自らの意思が尊重され、自分の生き方を選び、尊厳と充実を感じながら生きられることです。
人間は、生命が守られ、生活が安定していれば、それだけで十分という存在ではありません。
学びたいことを学ぶ、希望する仕事に挑戦する、家族や友人との関係を大切にする、地域社会に参加する、自分の考えを表現する。こうした活動を通じて、人は人生に意味や充実を感じます。
例えば、障害があることを理由に、本人が希望する教育や就労の機会から排除されている人がいるとします。
その人に生活費を支給するだけでは、自らの可能性を実現できる環境が整ったとはいえません。
また、住民が地域の課題について意見を持ち、政策に参加したいと考えていても、行政が情報を公開せず、意見を述べる機会も保障しないのであれば、住民は自らの地域の未来を選ぶことができません。
政治には、人々の生活を保障するだけでなく、教育、文化、労働、社会参加、自己決定など、一人ひとりが自分の可能性を発揮できる環境を整えることが求められます。
ただし、ここでいう「満足」とは、あらゆる希望や欲望が実現することではありません。他者の権利や尊厳を侵害してまで、自分の望みをかなえることを意味するものでもありません。
心の満足とは、他者の自由と尊厳を尊重しながら、自らの意思で人生を選び、その生き方に意味や充実を見いだせることなのです。

三つの安心が実現できる環境をつくることが、政治の役割である
この三つの状態を整理すると、私が考える「安心」の意味が明確になります。
心の平安――恐怖に支配されずに生きられること。
心の安定――生活の基盤が確保され、将来への見通しを持てること。
心の満足――自らの意思で人生を選び、尊厳と充実を感じられること。
そして、この三つは切り離して考えられるものではありません。
生命の危険がなくても、生活が不安定であれば、安心して暮らすことは難しくなります。
生活が安定していても、自分の意思が尊重されず、自由に生き方を選べなければ、人生に満足することは難しくなります。
また、自分の人生に充実を感じていても、暴力や差別によって生命や尊厳が脅かされれば、心の平安は損なわれます。
ただし、政治がすべての人の心を直接平安にし、安定させ、満足させることはできません。何を幸福と感じ、どのような人生に満足するかは、一人ひとり異なるからです。
だからこそ、政治が保障すべきなのは、特定の幸福観を市民に押しつけることではなく、一人ひとりが心の平安・安定・満足を得ながら生きられる社会的な条件です。
私が「安心を創る政治5原則」において、安全、権利、公正、参加、救済という五つの条件を重視するのも、そのためです。
そして、こうした環境を実現できるにもかかわらず、人の行為や社会の仕組みによって、その環境が奪われ、損なわれ、実現や回復を妨げられているのであれば、私はそこに「暴力」の問題を見いだします。
安心を創る政治とは、一人ひとりの心を政治が支配することではありません。一人ひとりが自らの意思で安心と幸福を追求できる環境を、市民とともに実現していくことなのです。

暴力とは、人を殴ったり、傷つけたりすることだけではない
一般的に「暴力」と聞けば、殴る、蹴る、脅迫する、戦争によって人を殺傷するといった行為を思い浮かべるでしょう。
しかし、暴力は目に見える行為だけに限られるのでしょうか。
平和学者ヨハン・ガルトゥングは、暴力を直接的暴力、構造的暴力、文化的暴力という観点から考えました。
直接的暴力とは、暴行、殺傷、脅迫など、人が人を直接的に傷つける暴力です。
構造的暴力とは、特定の加害者が直接手を下さなくても、社会の制度や資源配分の仕組みによって、人々の生命や生活、可能性が損なわれることです。
文化的暴力とは、直接的暴力や構造的暴力を正当化し、あるいは当然のこととして受け入れさせる思想、言葉、価値観などの働きです。
例えば、生活に困窮する人に対して「努力が足りないからだ」と決めつければ、生活を困難にしている制度上の問題が見えなくなる可能性があります。
職場のハラスメントを「本人を鍛えるため」と正当化すれば、被害を受けた人が声を上げにくくなります。
こうした考え方は、暴力を放置し、継続させる原因にもなり得るのです。
私は、このガルトゥングの平和学を踏まえながら、暴力の問題を「一人ひとりが安心して生きられるか」という視点から捉え直しました。

「実現できるにもかかわらず」という言葉に込めた意味
私の暴力の定義で、特に重要なのは、**「安心して生きられる環境を実現できるにもかかわらず」**という部分です。
人間が生きていく以上、病気、死別、自然災害、将来の不確実性など、すべての不安や苦痛をなくすことはできません。
したがって、不安が存在すること自体を、すべて暴力と呼ぶわけではありません。
問題は、その不安や苦痛を生み出している環境について、改善できる可能性があるにもかかわらず、人の行為や制度によって改善が妨げられている場合です。
例えば、水道水に有害物質が含まれている疑いがあり、検査結果が存在するにもかかわらず、それを適切に公表しなければ、市民は自分たちの健康を守るために必要な判断ができなくなります。
また、ハラスメントを受けた労働者が、職場の制度や使用者の対応によって被害を申し出られず、救済も受けられないとすれば、被害だけでなく、その回復まで妨げられます。
ここで問わなければならないのは、単に「誰が不安を感じているのか」ではありません。
安心して生きられる環境を実現するために、何が可能であり、何がそれを妨げているのか。
これを明らかにする必要があるのです。
もちろん、すべての制度上の不備や政策への不満を、直ちに暴力と断定することはできません。実現可能な改善の内容、具体的な不利益、行為や制度との因果関係を検証する必要があります。
この検証こそが、私の掲げる「不安を分析する」という政治原則の重要な役割です。

暴力は、安心を奪うだけでなく、その回復を妨げる
私の定義では、すでに存在する安心を奪うことだけでなく、安心の実現や回復を妨げることも暴力に含めています。
これは、政治のあり方を考える上で重要です。
例えば、ハラスメントが発生した職場で、加害行為が止まったとしても、被害者が職場に復帰できず、適切な救済を受けられない状態が続いていたらどうでしょうか。
直接的な加害行為は終了していても、被害者が安心して働く環境は回復していません。
環境汚染についても同様です。汚染源を除去することだけでなく、健康影響の調査、情報公開、必要な支援や救済がなければ、市民が安心して生活する環境は十分に回復しません。
したがって、暴力をなくすということは、単に加害行為を停止させるだけではありません。
奪われた安心を回復できる環境をつくることまで含まれるのです。
ここに、私が政治の原則として「救済」を重視する理由があります。
本人が不安を訴えていなくても、暴力は存在し得る
もう一つ、重要な問題があります。
それは、本人が不安を感じていなければ、安心して生きられる環境が実現しているといえるのか、ということです。
私は、必ずしもそうではないと考えます。
例えば、危険について必要な情報が知らされていなければ、本人は危険を認識せず、不安を感じないかもしれません。
また、長年の差別や不公正な待遇を「社会とはそういうものだ」と受け入れている人もいるでしょう。
しかし、不安を感じていないからといって、その人の生命や尊厳を守る条件が満たされているとは限りません。
逆に、制度を改善し、客観的な危険を減らしても、過去の被害による恐怖や苦痛がすぐに消えるとは限りません。
だからこそ政治は、市民が表明する不安だけでなく、まだ自覚されていない危険や、当然のものとして受け入れられている不利益にも目を向ける必要があります。
ただし、政治家が本人の意思を無視して「あなたは被害者だ」と一方的に決めつけてはなりません。
当事者の経験と意思を尊重し、必要な事実を明らかにしながら、ともに安心の条件を考えることが重要なのです。
「安心を創る政治5原則」は、暴力を発見し、減らし、回復を実現するための政治原則である
ここまで考えると、私が掲げる「安心を創る政治5原則」と「暴力の定義」は、密接に結びついていることが分かります。
第一の「不安を直視する」とは、安心を奪われている人々の存在や、まだ表面化していない被害を見逃さないことです。
第二の「不安を分析する」とは、その原因となっている人の行為、社会構造、制度、価値観などを明らかにすることです。
第三の「不安を言葉にする」とは、個人の問題として片づけられていた苦痛や不利益を、社会全体で解決すべき問題として共有することです。
第四の「安心の条件を提示する」とは、どのような環境を整えれば暴力を防ぎ、失われた安心を回復できるのかを具体的に示すことです。
そして第五の「政策として実現し、検証と見直しにつなげる」とは、安心を妨げる原因を制度や予算、行政の仕組みから取り除き、その成果を市民とともに検証することです。
つまり、私の5原則とは、不安を出発点として、暴力を発見し、その原因を明らかにし、安心して生きられる環境を実現するための政治の方法なのです。
私が目指すのは、暴力のない社会から、安心して生きられる社会への発展である
ガルトゥングは、平和を単に戦争や直接的暴力が存在しない状態としてだけではなく、構造的暴力が克服され、社会正義が実現している状態としても考えました。
これは「積極的平和(Positive Peace)」と呼ばれる考え方です。
私は、この平和学の考え方を、政治の目標としてさらに身近な言葉にしたいと考えています。
それが「安心」です。
戦争が起きていなくても、人々が貧困、差別、ハラスメント、不公正な制度によって尊厳ある生活を妨げられているのであれば、それだけで十分に平和な社会とはいえません。
また、暴力がなくなったとしても、安心して暮らし、将来を見通し、自らの人生に満足できる条件が整っていなければ、私が目指す社会には到達していません。
だからこそ、政治は暴力を防止することにとどまらず、安全、権利、公正、参加、救済という五つの条件を整えなければなりません。
そして、政策を実行した後も、誰かの安心が奪われていないか、誰かの回復が妨げられていないかを問い続ける必要があります。
私が考える「安心を創る政治」とは、政治家が市民に「安心してください」と語りかける政治ではありません。
一人ひとりが安心して生きられるはずの環境を奪い、損ない、その実現や回復を妨げている行為や社会の仕組みを明らかにし、市民とともに変えていく政治です。
それは、暴力を減らす政治であり、失われた安心を回復する政治であり、一人ひとりが自分の人生を生きられる社会をつくる政治です。
私は、この「暴力の定義」を、「安心を創る政治5原則」の根本に据えたいと考えています。
はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
私、原田芳裕は、様々な方と繋がりたいと思っています。もし、私と繋がりたいという方は、是非、下のメールフォームから、ご連絡ください。ご相談事でも構いません。お待ちしております。






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