民主主義の終わり、を日本の今から考えると、危機が見える。自公政権から自維政権への流れから考えること。
「民主主義が終わりつつある」――この言葉が現実味を帯びて聞こえるのは、いまの日本の政治が“制度は動いていても、心が動いていない”からだ。
私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。
目次
序章 「制度としての民主主義」よりも、「感情としての民主主義」が壊れている
制度は生きている。しかし、心は死にかけている。
選挙も、議会も、報道もある。それなのに、政治が遠い。
この違和感の正体は、「制度の欠陥」ではなく、「国民の信じる力」の衰弱だ。
かつて人々は「この国を良くしたい」と願った。
いまは「どうせ変わらない」と口にしながら、それを当然と思う。
それは諦めではなく、責任の放棄だ。
民主主義とは、制度ではなく感情の共有であり、
「私が関わる」という意志そのものだ。
その感情を失ったとき、民主主義は自動的に崩れていく。
私たちはもう一度問わねばならない。
この沈黙に、私はどう関わっているのか。
第1章 無関心が関心に変わるとき――参政党現象が映す国民の心理地図
「政治なんて関係ない」と言ってきた層が、
突然、熱を帯びて政治を語り出した。
参政党の台頭は、単なる新党ブームではない。
それは、**国民の中で眠っていた「関与への衝動」**の噴出だった。
SNSが可視化したのは政策ではなく、孤独と渇きだ。
人々は「誰かと繋がるために」政治を語り始めた。
だがその関心は、しばしば“怒りの信仰”へと変わる。
私たちはこの現象を、他人事として見てはいけない。
「語ること」「参加すること」そのものが、
民主主義を支える国民の責任だからだ。
無関心から関心へ。
その転換の裏にあるのは、責任を取り戻そうとする心の反応である。
第2章 平和の党の崩壊――公明党が信仰から政治へ、そして政治から信仰へ
公明党は、かつて「庶民の平和」を祈る政治だった。
だが、いつしか「与党であり続けること」が目的となった。
祈りは数字に、理念は議席にすり替えられた。
この変化は、党だけの問題ではない。
信仰を政治に委ね、批判を避けてきた国民の責任でもある。
「自分の声で平和を語る」という基本的な責任を、
私たちは“組織”に預けてしまった。
創価学会員の中にも、心の奥でこの矛盾に気づく人がいる。
だが、彼らだけでなく、私たち全員が問われている。
祈りを制度に任せ、行動を他人に任せた結果、
平和の理念は形骸化した。
信仰と政治が癒着したのではない。
信じる責任を他者に譲渡したことが、崩壊の根である。
第3章 無関心より政権維持――自民と維新の「現実主義」の病理
「改革」と「安定」という言葉が、同義になった。
自民党と維新が連立を組むという現実は、
政治がすでに“理念を演じる制度”になったことを示している。
だが、その背景には国民の共犯関係がある。
私たちは「変わらなくていい安定」を望み、
「選ばない自由」を選んでいる。
政治家の保身は、国民の安堵の裏返しだ。
「どうせ同じ」と言って投票を放棄することもまた、
政権維持に加担する行為である。
民主主義は、権力者の行動よりも、
国民の沈黙によって滅びる。
現実主義という言葉に逃げ込む私たち自身が、
この終焉を支えているのだ。
第4章 “政権を取る”という虚構――民主主義が自己模倣を始める瞬間
どの政党も「政権を取る」ことを目標に掲げる。
だが、それはもはや手段ではなく、目的になっている。
政権交代が希望ではなく、儀式となった今、
政治は“自己模倣の劇場”と化した。
この虚構を生み出しているのも、私たちだ。
「誰に投票しても同じ」と呟くたびに、
民主主義の主体性は一つずつ削られていく。
政治家が演じ、メディアが照らし、
国民はその芝居を見て「退屈だ」と嘆く。
だが、その観客としての姿勢こそが、
民主主義の演出を成立させている。
観客でいる限り、私たちは支配の共犯者だ。
第5章 政治家の快楽と国民の冷笑――承認欲求が国家を溶かす
今の政治家は、信念よりも承認を糧に生きている。
「いいね」「拍手」「再生数」――それが新しい権力の源だ。
だが、彼らをそうさせたのは誰か。
承認という麻薬を与えてきた国民自身である。
私たちは批判を娯楽に変え、
政治家を「人気の対象」として消費する。
批判することで安心し、笑うことで距離を取る。
この関係の中で、国家の精神は溶けていく。
承認と冷笑の往復が、民主主義を“情報芸能”に変える。
「怒るべきときに怒る」こと、
「語るべきときに語る」こと――
それを怠ることが、最大の責任放棄である。
終章 沈黙する民、自己模倣する国家――民主主義の終焉予言
民主主義は暴力ではなく、沈黙によって終わる。
選挙は続く。議会も開かれる。
しかし、そこに思想はない。あるのは“運用”だけだ。
政治家は統計を語り、メディアは演出を繰り返し、
国民は「まあ仕方ない」と呟く。
この瞬間こそが、民主主義の終焉である。
国家は自己を模倣し続け、
人間は制度に政治を委ねる。
そして誰かが言うだろう。
「もう民意なんて、いらないじゃないか」と。
その言葉が自然に受け入れられたとき、
民主主義は静かに息を引き取る。
だが、その死を看取るのは他人ではない。
私たち国民自身だ。
語られぬ民、自己模倣する国家。
この沈黙を破る責任が、
いま、ひとり一人に突きつけられている。
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