中日新聞が蒲郡市を著作権法などで訴えた件で思うこと

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私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。

中日新聞などが、著作権法で蒲郡市を提訴しましたね。

訴えた内容としては、

新聞記事を無断で利用され著作権を侵害されたとして、愛知県蒲郡市をそれぞれ東京地裁に提訴した。市が各社の許諾を得ないまま、職員らが閲覧できる市のイントラネット上に記事を掲載したとして損害賠償を求めた。

蒲郡市は遅くとも2012年12月から24年7月にかけ、許諾を得ずに記事を画像データとして複製し、市職員らが閲覧できるイントラネット内の掲示板に掲載したと主張した。日経の複製権や公衆送信権を侵害したと訴えた。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD144OL0U5A011C2000000 から

といったものです。

今日は、その件について、思うことを述べたいと思います。

「報道の自由が行き過ぎているのでは?」——今回の件を見て、まずこの直感が立ち上がるのは自然だと思う。自治体の危機対応も政策形成も、結局は情報戦である。情報が遅れれば被害が拡大し、情報が薄ければ政策は空回りし、情報が偏れば住民への説明責任が崩れる。そこに「新聞記事の庁内共有」に訴訟が絡むと、民主的統治のエンジンそのものが細ってしまうのではないか、という不安が出てくる。

ただ、私はこの問題を「報道の自由の行き過ぎ」と短絡的に呼ぶ前に、いったん構図を正確に置き直したい。今回の争点は、新聞社が「不都合な報道で行政を黙らせた」話ではない。報道の内容や論調をめぐる対立でもない。核心は、新聞記事という著作物を、自治体が庁内でどう扱ったのか——具体的には、記事のデータ化やイントラネット掲載など、複製・共有の方法が著作権法の枠組みに照らして許されるのか、という点にある。

だから、言葉の焦点は「報道の自由」ではなく、むしろ 著作権(財産権)をどの強さで行使するかが、行政の情報流通を萎縮させうるという緊張関係だ。ここが見えてくると、「行き過ぎ」かどうかの判断軸も、少し冷静に組み立てられる。

目次

序 著作権法42条ーー蒲郡市が職員らが閲覧できる市のイントラネット上に記事を掲載した法的根拠

まず、前提となるのは、蒲郡市が著作権法42条を根拠に市が閲覧できる市のイントラネット上に記事を掲載していたと考えられることです。

著作権法42条

(立法又は行政の目的のための内部資料としての複製等)
第四十二条 著作物は、立法又は行政の目的のために内部資料として必要と認められる場合には、その必要と認められる限度において、複製し、又は当該内部資料を利用する者との間で公衆送信を行い、若しくは受信装置を用いて公に伝達することができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びにその複製の部数及びその複製、公衆送信又は伝達の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。

つまり、行政=蒲郡市の目的のために、内部資料として、必要だから新聞記事を共有していたとも言えます。

では、何を新聞各社は訴えたの?

では、新聞各社は何を訴えたのでしょうか。

訴状を具体的に見たのではないので、推察しかないのですが・・・・おそらく、著作権法42条の但し書きの部分だと思います。

著作権法42条但書

ただし、当該著作物の種類及び用途並びにその複製の部数及びその複製、公衆送信又は伝達の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。

つまり、蒲郡市はここに該当することをやったから、中日新聞等は蒲郡市を提訴したのだと考えられます。

しかし、私は著作権法42条の立法趣旨から言っても、中日新聞等は行き過ぎの提訴をしたと考えています。それは①なぜ、著作物の複製が「行政の目的の利用に必要と認められる」のか、ということです。そして、そこには②行政が民主主義によって成り立っている という本質があることも忘れてはいきません。

つまり、私はこの提訴に関して「民主主義統治に影響する行き過ぎた提訴」と考えているのです。

1. 「民主的統治に影響するなら行き過ぎ」——その基準を具体化する

私は、この件について、——民主的統治に影響しうるなら、それは行き過ぎと言える——にかなり共感している。問題は、その「影響」が、感情的な圧迫感なのか、実務上の機能不全なのかで、評価が大きく変わることだ。

そこで私は、“行き過ぎ”を測るための物差しを3つに分けたい。

① 統治に必要な情報の流れが「実質的に」細るか

危機対応では、状況認識(被害、避難、医療、物流、治安、風評など)が遅れると、被害が増える。政策形成では、問題の実態や世論の反応、他自治体の動向を把握し損ねると、制度設計が現実離れする。つまり「情報が回らない」は、単なる不便ではなく、統治の質を落とす。

ここで大事なのは「読める/読めない」ではない。読むこと自体は購読で可能でも、庁内で必要な人に必要なタイミングで共有できないと意思決定が止まる。民主的統治の観点で怖いのは、この“共有の萎縮”が、判断の遅延・誤り・説明不能につながる点だ。

② 代替手段が現実的に機能しているか(費用・手間・調達の実在)

「購読すればいい」「ライセンスを買えばいい」という答えが理念として正しくても、現場で回らなければ統治は守れない。小規模自治体や財政が厳しい自治体、調達が遅い自治体ほど、合法的手段が“存在するだけ”になりがちだ。

逆に言えば、代替手段が十分に整い、リンク共有や要約、最小限の引用、包括ライセンスなどが無理なく回るなら、「行き過ぎ」評価は弱まる。問題は、その整備が社会的に追いついているかどうかだ。

③ 比例性:権利行使が過剰な萎縮効果を生むか

訴訟の怖さは、判決の内容だけでなく、判決前から社会に与えるメッセージにある。「自治体が新聞記事を共有すると巨額訴訟になる」という印象が広がると、自治体側はゼロリスク志向に倒れやすい。すると、危機対応でも政策形成でも「共有しない」「見ない」「触らない」が合理的選択になってしまう。

この“萎縮効果”が広がるほど、民主的統治のコストは跳ね上がる。だから、行き過ぎかどうかは、権利行使の正当性だけでなく、社会全体への副作用(比例性)で評価すべきだと思う。


2. 著作権法42条は万能の通行証ではない——「必要性」と「限度」が中心にある

ここで登場するのが、著作権法42条(立法・行政目的の内部資料)だ。行政の目的のために内部資料として必要な範囲で著作物の利用を認める、いわば“統治のための安全弁”として設計されている。

しかし、ここが最も誤解されやすい。デジタル化が進むと、つい「内部資料ならイントラネットで回していい」「庁内だからセーフ」という感覚に寄りがちだが、42条の中心はそこではない。魂はあくまで、

  • 内部資料として必要であること(必要性)
  • 必要と認められる限度であること(限度)
  • 権利者の利益を不当に害しないこと(市場代替をしない)

にある。つまり42条は「便利だから」の免罪符ではない。行政が“よい目的”を掲げたからといって、新聞記事を庁内で恒常的にアーカイブし、誰でも閲覧できる仕組みにしてしまえば、例外ではなく本則(許諾・契約)を食い潰す。

この点、民主的統治の観点でも二段構えで考える必要がある。第一に、行政が情報を必要とするのは事実だ。しかし第二に、報道機関が取材し、編集し、報じ続ける基盤が痩せれば、長期的には民主主義の情報基盤そのものが弱る。つまり「行政の情報アクセス」を守るために「報道の供給能力」を削ってしまうと、結局は民主的統治が損なわれる。ここが難しい。


3. 危機対応から見た42条——射程が比較的広がりうるが、油断すると外れる

危機対応(災害、感染症、重大事故、治安・テロ、広域停電など)は、42条の「行政目的」との親和性が高い。なぜなら、時間制約が強く、判断遅れが被害に直結するからだ。

危機対応で「必要性」が立ちやすい典型

たとえば、次のような場面を想像するとわかりやすい。

  • 台風・豪雨で避難指示の判断を迫られ、交通・河川・医療の情報を同時に把握する必要がある
  • 感染症で医療逼迫が起き、病床、救急搬送、学校閉鎖、経済支援を横断的に調整する
  • 事故や事件で風評や誤情報が拡散し、住民向け広報を即時に組み立てる必要がある

こういうとき、新聞報道が「一次情報」ではないとしても、社会の受け止め方や広がり方を把握し、行政の説明戦略を作る材料になる。政策判断の根拠というより、状況認識とコミュニケーションの基盤として重要になることがある。

それでも「限度」で落ちる典型

一方で危機対応は、“危機”という言葉の強さゆえに、運用が膨張しやすい。ここで限度を外すと、42条の射程から外れやすい。

  • 「危機対応」を名目に、全庁が恒常的に新聞記事をPDFで蓄積し、誰でも見られる状態にする
  • 期間が無限定になり、収束後も閲覧可能な“庁内新聞データベース”になる
  • 記事が必要最小限ではなく、関係ない記事も含めて毎日大量に並ぶ(実質クリッピング)

危機対応だからこそ、必要性は立ちやすいが、だからこそ「限度」を厳密に設計しないと逸脱しやすい。民主的統治を守る目的で設けた例外が、逆に報道機関の基盤を削ってしまうからだ。

危機対応で“適法側”に寄せる運用

危機対応で42条を使うなら、私は次の「4点セット」を強く推す。

  1. 対象者の限定(対策本部、関係課、必要最小限のメンバー)
  2. 期間の限定(発災〜収束まで、明確な終了条件)
  3. 量の限定(必要な記事・必要部分、全紙の恒常蓄積は避ける)
  4. 出所の明示(透明性の確保)

この設計は、法律論としての「必要な限度」に沿うだけでなく、行政内部の説明責任(後から「なぜ共有したか」を説明できる)にも資する。


4. 政策形成から見た42条——射程は基本的に狭く、常態化すると危うい

政策形成(調査、企画、制度設計、条例・要綱案、予算編成など)は、危機対応と違って「時間がある」ことが多い。ここが決定的に違う。時間があれば、購読や契約、引用、要約といった代替が取りやすい。だから42条の射程は相対的に狭くなるのが自然だ。

政策形成で射程から外れやすい運用

政策形成でよくあるのが、「朝の会議のために毎日ニュースを切り抜いて庁内共有」「担当課がニュースをPDF化して庁内に置く」という習慣だ。これは行政の効率としては理解できるが、42条の観点から見ると、どうしても「職務上の参考」「便利な情報サービス」に見えやすい。しかも反復継続するほど、クリッピングの市場を代替し、権利者利益の不当害に近づく。

政策形成は、統治に重要であるがゆえに、逆説的に「ちゃんと合法ルートを整えよ」という圧力が強くなる。必要性が高いなら、なおさら制度として手当てすべきで、例外で恒常運用するのは筋が悪い、という発想だ。

政策形成でも“狭い窓”がある

とはいえ、政策形成でも42条が全く使えないわけではない。たとえば、

  • 短期間に条例案・要綱案を詰める局面で、関係部署が同じ社会状況を共有する必要がある
  • 重大な制度変更で、住民説明の前提となる社会的論点を整理する必要がある
  • 監査や議会答弁で、行政判断の背景として一定の資料共有が不可欠になる

こうした場面では、「内部資料としての必要性」を具体的に説明しやすい。ただしこの場合も、危機対応と同様、対象者・期間・量を絞り、常態化しないことが重要だ。

外部有識者が混じる会議はどうなる?

政策形成では、審議会や研究会、有識者との打合せなど、外部参加者がいることが多い。この点は誤解が多いが、「外部者がいる=内部ではない」と機械的に切り捨てるより、会議の性質、配布部数、保存方法などで「限度」を詰めるべき領域だと思う。外部者が参加すること自体が、政策形成の質(民主的統治の質)を高める面もあるからだ。ここを過度に萎縮させると、透明性と熟議が痩せる。


5. 憲法の座標:21条と29条、地方自治の実務

憲法の見取り図に置くと、この対立はより立体的に見える。

  • 21条(表現の自由):今回、行政が報道を抑える構図ではない。しかし、社会全体として情報流通が萎縮し、政策形成や危機対応の判断が遅れたり粗くなったりすれば、住民が判断する材料が劣化する。民主政の基盤への間接的な影響は無視できない。
  • 29条(財産権):著作権は財産権として保護される。無断複製・無断共有を是正すること自体は、憲法秩序として正当化されやすい。
  • 92条以下(地方自治):自治体には法令遵守が求められる一方、地域課題への機動的対応も期待される。だからこそ、現場が回る合法ルート(調達・契約・共有ルール)の整備が「統治能力」の一部になる。

つまり、これは「自由 vs 規制」という単純図式ではなく、**民主政の情報基盤(21条的価値)**と、**創作・報道を支える財産権(29条)**をどう両立させるか、という制度設計の問題だ。


6. 「行き過ぎ」の核心は“萎縮効果”——そして、その解決は運用設計だ

ここまで整理すると、私の結論はこうなる。

私は、この件を「報道の自由の行き過ぎ」と断定はしない。新聞社が著作権を行使すること自体は正当な面があるし、無断共有が常態化すれば報道の取材基盤が毀損される。それは長期的に民主主義の損失でもある。

しかし同時に、民主的統治の観点から最も気になるのは、訴訟のインパクトが全国の自治体に与える萎縮効果だ。危機対応や政策形成の現場が「ゼロ共有」に倒れてしまえば、統治の質が落ちる。住民への説明責任も弱る。そこまでの副作用が生じるなら、「行き過ぎ」と呼ぶ余地があると私は考える。

だから、落としどころは感情的な賛否より、制度と運用の再設計になる。

自治体側にできること(明日からでもできる)

  • リンク共有+要約+最小限引用を原則にする(全文PDFの常設をやめる)
  • 共有が必要な場合は、目的・対象者・期間・量を必ず記録する
  • 危機対応は「例外運用」として、対策本部等に限定し、収束後の停止・保存方針を決める
  • 職員研修(著作権・引用・出所明示)を定期化する

ただ、本件に関して、蒲郡市が、これらが出来ているということであれば、それはまさしく中日新聞側の「行き過ぎ提訴」が証明されたことにもなろう。

国・業界側にできること(統治を守るインフラ整備)

  • 自治体が現実に使える 包括ライセンス/共同調達モデルを整え、調達負担を下げる
  • 42条の「必要性」「限度」を、危機対応・政策形成の典型例でガイド化して、過剰な萎縮を避ける
  • 報道機関側も「是正→合意形成」を重視し、社会全体の学習コストを下げる(いきなり殴り合うより、ルールを共有する)

7. 最後に:民主主義は「行政の判断」と「報道の基盤」の両輪で回る

民主主義は、行政が正しく判断し、住民に説明し、議会が監視し、住民が評価する——その循環で回っている。その循環には情報が必要だ。だから行政が情報にアクセスできないのは問題だ。

同時に、その情報の重要な供給源である報道が、取材や編集を継続できないのも問題だ。報道の供給能力が痩せれば、長期的には住民の「知る材料」が減り、民主主義は弱る。

結局、今回の件が突きつけているのは、「どちらが正しいか」ではなく、どちらも傷つけない制度を作れているかという問いだと思う。危機対応と政策形成の現場が萎縮せずに回り、かつ報道機関の基盤も守られる。42条はそのための安全弁になり得るが、万能ではない。だからこそ、必要性と限度を丁寧に設計し、例外を“例外”として運用する知恵が必要になる。

この件を、単なる「新聞社が強い/自治体が悪い」の対立として消費するのではなく、民主的統治のインフラ設計の問題として受け止めたい。そういう意味で私は、ここに“行き過ぎ”の可能性と、同時に“学び直しのチャンス”の両方を見ている。は「著作権を弱める」ではなく、統治を支える情報アクセスを“複製依存”にしない仕組みを作る方向に向かうはずだ。

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私、原田芳裕は、様々な方と繋がりたいと思っています。もし、私と繋がりたいという方は、是非、下のメールフォームから、ご連絡ください。ご相談事でも構いません。お待ちしております。

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