武田信玄の面白いエピソードを『甲斐』という国の当時の歴史的背景と地政学からまとめてみる

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私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。

はじめに――「最強の武将」より先に、「甲斐の条件」を読む

武田信玄の面白さは、逸話の派手さ(川中島、風林火山、軍略)だけではありません。むしろ“甲斐という国がそうさせた”という見方をすると、エピソードが全部「地形・交通・水・政治」に結びついて、一本の線になります。
甲斐は海がない。盆地は豊かだが、川は荒い。峠は閉じるが、開けば東西をつなぐ。そういう「閉鎖と接続」の同居が、信玄を“戦う行政官”にした――そんな読み方で、信玄の面白い話を並べ直してみます。


1 甲斐の地政学――要塞のようで、交差点でもある

甲斐は山々に囲まれた内陸国で、外とつながるルートが峠に集約されます。峠は防衛線である一方、物流・外交・侵攻の入口でもある。
つまり甲斐は「守りやすい」だけでなく、「出入口を押さえる者が国を押さえる」土地です。だから国内統一は“城取り”だけでなく、“通路の掌握”で決まる。

さらに甲斐は川の国でもあります。盆地をうるおす川は、同時に洪水の脅威でもある。ここで重要なのが、のちに語られる信玄堤のような治水・利水です。治水は土木ではなく、領国経営そのもの――信玄の逸話は、軍事と行政がいつも同じ方向を向いています。国土交通省の解説でも、釜無川・御勅使川の流れを“セットで制御する構想”として描かれています。

1-2 古代から室町中期まで――甲斐の支配層と国人の「でき方」(武田氏との関係込み)

甲斐を「信玄の国」として理解する前に、もう一段さかのぼっておくと、信玄の逸話が“突然変異”ではなく、古代以来の支配の積み重ねの上に立っていることが見えてきます。甲斐は、山で閉じられた国であると同時に、峠を通じて中央と東国をつなぐ回廊でもある。だから支配の形は、つねに「閉じる(防衛)」と「開く(交通・動員)」の両方を要求されてきました。

1-2-1 古墳~律令国家:甲斐国造→国司・郡司へ――「馬」と「官道」の国

古代の甲斐では、古墳の築造に代表される地域支配層が形成され、そうした在地の支配者(国造層)がヤマト政権へ馬を貢進した「甲斐の黒駒」伝承は、甲斐が早い段階から“馬の供給地”として国家に組み込まれていたことを示す語りとして有名です。 コトバンク+1
律令制が整うと、支配の中核は「国府=国司の拠点」に置かれ、国司(任期制で派遣される中央官人)と、在地豪族が任じられ終身性の強い郡司が、二層構造で地方行政を回す仕組みが整備されました。甲斐でも国府(国衙)の所在や移転が論じられるほど、国府の設置は“支配の要”でした。 city.fuefuki.yamanashi.jp
さらに国分寺の建立は、軍事や租税だけでなく、宗教政策を通じても地方統合を進めた国家の意思を象徴します(甲斐国分寺が現在の笛吹市一宮町付近に置かれたことなど)。 museum.pref.yamanashi.jp+1

1-2-2 平安後期:国衙(行政)と荘園(私領)のせめぎ合いが、武士を育てる

ところが平安後期になると、国司支配の“きれいな行政”だけでは地方が動かなくなり、荘園・公領の錯綜の中で、国衙の実務を担う在地の官人(在庁官人)や、荘園を現地で動かす武装勢力が台頭します。象徴的な史料として知られる「長寛勘文」では、甲斐守(国司)と熊野系の所領をめぐる争いのなかで、在庁官人(三枝守政)らが登場し、現地の実力が政治を左右していく様子が描かれます。 コトバンク
ここで重要なのは、甲斐では「山に閉じた地形」のため、いったん在地の実力者が峠道や河川沿いの要所を押さえると、行政・軍事・徴税が一体化してしまうことです。後に信玄が“法と軍と土木”を一体で動かしたのは、突飛な発想ではなく、甲斐の支配構造がそういう方向へ収斂しやすかった、と読めます。

1-2-3 鎌倉~室町中期:守護武田の成立と、国人ネットワークの固定化

この流れの上に「甲斐源氏」が現れます。12世紀頃、八ヶ岳南麓の逸見に源清光が移り、「逸見」を名乗ったこと、当地が馬産や御牧と関わりうる環境だったことが、甲斐源氏の軍事的伸長と結びつけて説明されています。 山梨県公式サイト
そして武田信義(信玄に連なる系譜)が武田八幡宮で元服して「武田」を称した、という“発祥ストーリー”が、甲斐国内の正統性の核になります。頼朝が独立心の強い甲斐源氏を警戒し排除を図った(一条忠頼の殺害など)という説明まで含めると、武田氏は早くから「中央に必要とされ、同時に警戒される」立場に置かれていたことがわかります。 山梨県公式サイト

鎌倉期の甲斐は、守護・地頭制のもとで、武田氏だけでなく複数の在地武士が制度的に位置づけられます。山梨県立博物館の展示解説では、鎌倉幕府が大善寺の古文書をめぐって、甲州市深沢郷の地頭である逸見氏・武田氏・野呂氏に尋問した史料が紹介されており、甲斐の権力が「武田一強」ではなく、地頭層の横並びの現実の上に組み立てられていたことが読み取れます。 museum.pref.yamanashi.jp
また、建久3年(1192)に石和五郎(武田信光)が甲斐国守護を命じられ、石和御厨に拠点を置いたという伝承整理もあり、武田の守護権力が“甲府盆地東部(峡東)”の拠点形成と結びつくことが示唆されます。 山梨県公式サイト

室町中期に入ると、甲斐はさらに「国人の政治」が前面に出ます。関東(鎌倉府)と京都(将軍)の二重権力のはざまで守護権力が揺れると、守護代クラスが国人連合を組織して実権を握る局面が生まれます。都留市立図書館の解説では、守護不在期に守護代跡部氏が「輪宝一揆」を組織して伸長し、これに対して武田側が「日一揆」を組織して対抗した、という構図が整理されています。 lib.city.tsuru.yamanashi.jp+1
つまり、室町中期の甲斐は、守護(武田)=絶対権力というより、守護―守護代―国人連合という“層”で動く国になっていた。ここで形成された国人ネットワーク(峡東・峡北・郡内など地域ごとの有力層)が、のちに信虎・信玄が統合していく「領国」の素材になります。


2 武田氏の成り立ち――源義光から信玄へ

ここを入れると、信玄の「国家運営っぽさ」が急に腑に落ちます。武田は“いきなり戦国で出てきた新興勢力”ではなく、長い時間をかけて甲斐に根を張った「甲斐源氏=守護の家」だからです。コトバンク

そしてその「根の張り方」は、武田氏の系譜だけで完結しません。甲斐は古代以来、国府・国分寺など政治・宗教の中心が盆地東部(峡東)に置かれ、牧(御牧)や荘園の展開を背景に、国衙の実務を担う在庁官人や在地武士が育つ土壌がありました。たとえば平安末期の「長寛勘文」は、荘園(熊野社領)と国衙の衝突の中で、在庁官人(三枝守政ら)を含む“現地の実力”が政治を動かしていたことを示します。こうした「国衙・荘園・在地勢力のせめぎ合い」が、のちに甲斐源氏(武田を含む)が伸長する下地になった――という流れで読むと、信玄の“法・軍事・土木の一体運用”が、甲斐の歴史の延長線上に見えてきます。 コトバンク+1

2-1 祖・源義光(新羅三郎)――武と文化の源流

武田氏の遠祖として語られるのが、清和源氏の一流である源義光(新羅三郎)。弓術に長じ、笙(しょう)をよくしたという人物像は、“武だけの家”ではなく“文化も背負った家”としての武田の原型を感じさせます。コトバンク
ただし、義光その人が甲斐へ実際に入国したかは否定的見解もあり、山梨に残る伝説は「甲斐源氏の始祖と考えられていた」ことから生まれた面がある、と整理されています。レファレンス協同データベース
ここが面白いポイントで、「史実としての移住」以上に、「祖として崇められる物語」が、のちの武田の権威の土台にもなるわけです。

なお甲斐側の条件としても、古代から“甲斐の黒駒”に象徴される馬産・牧の伝統があり、国家に組み込まれる形で「馬と動員」の基盤が形成されていました。甲斐源氏が騎馬戦力を得やすかった、という説明がしばしば出てくるのは、こうした長期の蓄積が背景にあります。 コトバンク+1

2-2 “配流”から始まる甲斐武田――義清→信義へ

武田氏の起点として、義光の子・源義清(武田冠者)が常陸国武田郷から甲斐国へ配流され、武田氏を称した、という説明が辞典類で示されています。コトバンク
地名「武田」自体も、甲斐国内の「武田郷(韮崎市付近)」に由来して武田姓を称した、という語りがあり、武田郷は“発祥の地”として知られます。コトバンク+1

ただし、ここで重要なのは「甲斐源氏=武田だけ」ではない点です。甲斐源氏は、清光・信義の系統が甲斐の牧場地帯や荘園を基盤に伸長する過程で、逸見・安田・加賀美・小笠原・南部などの諸氏へ分岐し、峡北・峡東・郡内といった地域ごとの国人層を形作っていきました。武田は、その“分岐した国人ネットワーク”の棟梁格として位置づくことで、守護としての統治が可能になっていきます。 コトバンク+1

この流れの中で、嫡流は義清の孫・信義が継承し、鎌倉期に御家人として甲斐国守護に任じられた、とされます。コトバンク

もっとも鎌倉期の甲斐は、守護武田の“一元支配”で動いたわけではなく、地頭・国人が横並びに存在しました。たとえば大善寺に関する古文書をめぐり、鎌倉幕府が深沢郷(甲州市)の地頭である逸見氏・武田氏・野呂氏に尋問した史料が紹介されており、甲斐の現実の統治が「守護+複数地頭・国人」の層で成り立っていたことが見えてきます。 山梨県立美術館

源頼朝の挙兵(1180年)に対して、甲斐源氏=武田信義(当時の当主)は「頼朝の家臣団の一部」というより、まずは東海道・東山道方面で平氏と対峙する有力な“同族勢力”として動きます。富士川の戦いののち、頼朝は信義を駿河守護に補任して取り込みを図りますが、その後、信義の子(一条忠頼)が謀反嫌疑で殺害されたことを契機に、信義は守護職を解かれたと考えられています。ここには、頼朝が甲斐源氏を必要としつつも、同時に“警戒対象”として統制していった緊張感が見えます。コトバンク
とはいえ中長期では、武田氏は鎌倉幕府の枠組みに組み込まれ、御家人として甲斐国守護を担う家へと定着していきます。さらにその後、信義の子孫・信光が頼朝の信任を得て安芸国守護も兼ねたとされ、武田一族が甲斐の外へ配置されていく“全国展開”の起点にもなりました。コトバンク https://www.mogurin.or.jp/museum/hwm/details/tenzi04/4/t04_4_g2_kaisetu.html

この「他国守護への展開」は武田の権威を高める一方で、甲斐国内では先ほどの通り、逸見・野呂などの地頭層や、地域ごとに根を張る国人層が並存していました。つまり武田の守護権力は、古代以来の“在地勢力の厚み”の上に立ちつつ、その調整・統合を迫られる性格を帯びていた――この構造が、室町中期以降にいっそう鮮明になります。 山梨県立美術館+1

2-3 守護の家から戦国大名へ――「統治の血筋」が信虎・信玄に接続する

武田は南北朝期以降も守護としての地位を保ち、安芸守護を兼ねるなど勢力を広げた時期もあった、と整理されています。コトバンク

ただ、室町中期の甲斐は「守護が強い国」よりも、むしろ守護権力が揺らぐことで国人政治が前面化する国として描けます。実際、上杉禅秀の乱(1416年)をめぐって甲斐守護武田が打撃を受け、一時衰退したことが整理されており、その間に守護代跡部氏が国人連合(輪宝一揆)を組織して勢力を伸ばし、武田方も日一揆を組織して対抗した、と都留市立図書館や研究論文で説明されています。ここで形成された「守護―守護代―国人連合」という層構造こそが、のちに信虎・信玄が“統合すべき甲斐”の実体でした。 lib.city.tsuru.yamanashi.jp https://www.pref.yamanashi.jp/documents/99115/yamanashishiromap1-2.pdf repo-0287-3877_109_10.pdf

南北朝~室町初期に入ると、武田氏は「京都の将軍(室町幕府)」と「鎌倉公方(鎌倉府)」という二重権力の狭間で立ち回ることになります。そのなかで、安芸守護・若狭守護へ枝が分かれるのは、偶然ではなく、幕府の守護配置(恩賞)と、武田一門の“在国(現地駐在)”によって生まれた構造でした。

まず南北朝動乱期、武田信武が足利尊氏に早くから従って戦功を挙げ、甲斐・安芸二カ国の守護に任ぜられた、と整理されています。そして嫡男・信成が甲斐守護を継ぐ一方、次男・氏信が安芸に在国して安芸守護となり、ここに甲斐武田(嫡流)/安芸武田(分流)がはっきり分岐します。広島市公式サイト+1
次に若狭武田氏
は、この安芸武田の系統からさらに分かれます。広島市の整理では、安芸国国分郡守護・信繁の子の信栄(のぶひで)が、1440年(永享12年)に将軍義教の命で一色義貫を討った功により、若狭守護職に補任されたことが「若狭武田氏の分立」の起点とされます。若狭武田はしばらく京都から国を統治する“在京守護”的性格も強く、以後約120年にわたり若狭支配が続いた、と説明されています。広島市公式サイト https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/en/R4-00085.html

そしてもう一つ重要なのが、鎌倉公方との関係です。甲斐は関東の縁辺にあり、甲斐武田は「京都(将軍)」だけでなく「鎌倉府(公方)」の政治状況にも巻き込まれやすい。典型例が、1416年(応永23年)の上杉禅秀の乱で、甲斐武田が関東の内乱構造に深く接続していく点です(この内乱は鎌倉公方・足利持氏を軸に関東社会を二分した、と研究でも位置づけられています)。chuo-u.repo.nii.ac.jp
さらに、将軍権力が鎌倉公方を牽制するために、甲斐武田の帰国・所領付与を政治的に利用したと読める事例(鎌倉府色の強い土地を足掛かりにする、など)も指摘されており、甲斐武田が「将軍—公方の綱引き」の“要所”に置かれていたことがわかります。tosyokan.pref.shizuoka.jp

要するに、室町中期までの甲斐は、「古代以来の行政中心(国府・国分寺)」「荘園化と国衙衰退が生む在地実力者」「守護武田の権威」「守護代・国人連合の台頭」が折り重なった“多層支配”の国でした。信虎・信玄の甲斐統一は、単なる内戦の勝利ではなく、この多層構造を**“一本線の領国支配”へ組み替える仕事**だった――そう位置づけると、次の「国人層との抗争」「法度」「土木」が全部つながります。 コトバンク lib.city.tsuru.yamanashi.jp

そして戦国期、信玄の父・武田信虎は内紛や国人層との抗争を制し、1530年代頃までに甲斐統一を果たした人物として説明されます。コトバンク
信玄(晴信)は1541年、信濃海野平の合戦から凱旋直後の信虎を駿河へ追放し、家臣の支持を得て当主となった――この「父追放」事件は、単なる家庭内クーデターではなく、“守護の家が戦国大名へギアを上げる瞬間”として読めます。


3 面白いエピソード① 父・信虎追放――甲斐の「入口」を塞ぐ政治

信虎追放で象徴的なのは、武力より「国境・通路の管理」が効いている点です。信玄側は、信虎が甲斐へ戻れないようにして実権移行を完成させます。コトバンク
ここで効いているのは、甲斐が古代以来「官道・峠の押さえ」で動員と統治が決まってきた土地だ、という前提です。室町中期までの甲斐は、守護(武田)・守護代・国人連合が層をなして動く国であり、ひとたび権力が割れれば、国人が峠筋で結び直されて“別の甲斐”が立ち上がりかねない。だからこそ信玄のクーデターは、単に父を追い出す事件ではなく、国人ネットワークの結節点(通路・要害)を押さえて「一本線の統治」に切り替える儀式として成立した、と読めます。

甲斐のように出入口が限られる土地では、峠や国境の掌握=権力の掌握。ここに甲斐の地政学がそのまま出ます。
しかも信虎期までの甲斐は、国人層が横に厚く、合議と対立が常に同居する“多層支配”の国でした。信玄が「戻れない形」にしたのは、父子の感情よりも、国人が再編成する“政治の隙間”を作らないため――つまり内乱の再発防止策でもあります。

そして信虎が進めた甲斐統一(国内の割拠を潰す)は、信玄が“外へ伸びる”ための前提条件になった。親子は対立したが、政策は地続き――これが武田家の皮肉であり、面白さです。コトバンク


4 面白いエピソード② 法と軍――「甲州法度之次第」は軍略の裏面

信玄は領国内の制度整備にも力を入れ、1547年に「甲州法度之次第」を制定した、と説明されています。コトバンク
ここで思い出すべきなのが、甲斐では古代から「国府(国衙)の行政」と「在地の実力」がせめぎ合い、平安末には在庁官人のような現地運用者が政治を回していた、という蓄積です。中世を通じて「守護が命じる」「国人が現地で実装する」という二重構造が続いたからこそ、戦国期に必要なのは“理念”より、現地のバラバラな運用を一つの規範に束ねる文章でした。

ここで効いてくるのが第2章の“守護の家”という出自です。武田は戦が強いだけでなく、「統治の形式」を持っていた。
しかも室町中期の甲斐では、守護代が国人連合(輪宝一揆)を組み、武田方も日一揆で対抗したという「連合政治」の記憶が残っています。法度は、その“連合の力学”を否定しきるための宣言ではなく、むしろ連合を領主権力の下に組み替えるための道具――国人を「勝手に連合する存在」から「規範の下で動員される存在」へ変える設計図として機能します。

甲斐では、家中が割れれば峠が破れる。だから家中統制は軍事と同義になる。信玄の“法”は、理想主義というより、甲斐の国土条件に即した安全保障策として見ると腑に落ちます。


5 面白いエピソード③ 信玄堤――戦わずして国を強くする「川の支配」

信玄の事績として語られる治水(信玄堤)は、「釜無川と御勅使川をどう制御し、どこで流れを分け、どこで受け、どこで逃がすか」という“システム設計”として説明されています。
この「川の設計」は、単なる土木技術ではなく、古代の国衙支配が担った“公共”の再構築でもあります。甲斐は盆地が豊かな一方、洪水で一気に崩れる。つまり治水は、年貢・兵糧・人口を安定させるだけでなく、国人がそれぞれの谷で独自に握っていた水と土地の支配を、領国の秩序に取り込む作業でもある。信玄堤が“国家経営”に見えるのは、そのためです。

これは戦国武将のロマン話ではなく、兵站と人口と税収の話です。
さらに言えば、甲斐が古代以来「馬と動員」で国家に組み込まれてきた土地であるなら、動員を支えるのは最終的に“食わせる力”です。騎馬や軍略の前提には、洪水で崩れない穀倉が必要で、治水は軍事の裏方ではなく、軍事の土台そのものになります。

海を持たない甲斐が強国化するには、盆地の生産力を安定させるしかない。だから信玄の強さは、合戦だけでなく「洪水に勝つ」ことで出来上がっていく。武将の逸話が、そのまま公共事業史になるのが、信玄の面白さです。


6 面白いエピソード④ “海がない”からこそ駿河へ――出口をめぐる戦略

信玄は信濃へ進出し、のちに駿河へも侵攻して領有した、と整理されています。コトバンク
ここも、甲斐の長期構造を踏まえると輪郭がはっきりします。甲斐は「閉じた要塞」ですが、同時に峠を抜けて中央と関東・東海をつなぐ回廊であり、政治も経済も“通路の確保”で決まってきました。中世の甲斐が守護・地頭・国人の層構造で動いたのも、各勢力がそれぞれ“道と要害”を握っていたからです。信玄の対外進出は、単なる野望ではなく、甲斐という内陸国が生き延びるために、出口(交易路・補給路)を自前化する動きとして読めます。

これを欲張りと見るより、「内陸国が“外洋に触れる窓”を持ちたがる」動きとして見ると、地政学の筋が通ります。
とりわけ海産物・塩の供給は、戦時の兵站にも直結します。だから駿河をめぐる攻防は「海を持つ/持たない」の格差を埋める試みであり、峠の国が“峠の外側”に政治空間を延伸していく必然の帰結でもあります。

峠の先にあるのは、敵地であると同時に市場であり、外交の回路であり、塩や物資の供給線です。甲斐の強国化は、山の内側だけでは完結しない。信玄が“外へ”こだわるのは、国の構造がそう要求しているから、という読みができます。


まとめ――信玄とは、「甲斐の多層支配」を一本線に束ねた“統治の編集者”である

本稿で見てきた信玄像は、「強い武将」の一言では収まりません。甲斐という国は、古代には国府・国分寺を核に、馬と官道によって国家に組み込まれました。中世に入ると、国衙(行政)と荘園(私領)のせめぎ合いが在地の実力者を育て、鎌倉期には守護・地頭・国人が重なり合う“層”の政治が固定化します。さらに室町中期には、守護権力の揺らぎの中で、守護代や国人連合が局面の主役になりうる――つまり甲斐は、はじめから一枚岩の国ではなく、多層支配が常態の国でした。

だから信玄のエピソード①~④は、それぞれが単発の逸話ではなく、同じ仕事の別の側面として並びます。
父・信虎追放は、家族の悲劇である以前に、峠と要害を押さえて「権力の空白」を作らず、国人ネットワークの再編を許さないための“政治の封鎖”でした。甲州法度之次第は、国衙以来の行政と在地運用の二重構造、そして連合政治の記憶を前提に、ばらばらな現地運用を規範で束ねる“統治の言語化”でした。信玄堤は、土木を超えて、谷ごとに分節化されがちな水と土地の支配を「公共」として再編集し、動員と兵站の基盤を固める“国力の設計”でした。駿河へ出口を求めた戦略は、内陸の峠国家が交易路・補給線を自前化して生存条件を広げる“回廊の延伸”でした。

要するに信玄は、甲斐の地形(峠・盆地・河川)と、甲斐の歴史(国府・荘園・守護・国人連合)が生んだ複雑さを、軍事と行政と土木で同時に処理し、多層支配を「一本線の領国」へ組み替えた人物です。信玄が何度でも語られてしまうのは、天才の逸話が面白いからだけではありません。甲斐という国が抱え続けた“閉鎖と接続”“分権と動員”“災害と生産”の矛盾を、ひとつの政治技術として可視化してしまった――その点に、信玄の面白さの核心があります。

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