映画『済州島四・三事件 ハラン』をみて感じたこと。~この事件で親族が殺された者としての想いを寄せる~
私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。
目次
1 4月3日という日が来るたびに
今日もこの日がやってきました。2026年4月3日です。
この「4月3日」という日がやってくると、私の心には済州島4・3事件のことが浮かびます。
私の母は、1942年に京都市東山区で生まれました。元朝鮮籍で、父との婚姻届提出後に帰化しましたが、母方の外祖父母は済州島から日本に来た人たちです。
終戦後、母は一度、外祖母とともに済州島へ帰っています。そして一年ほどして、日本に戻ってきたとのことです。つまり、済州島4・3事件が始まる直前あたりに、日本へ戻ってきたのです。
1948年4月3日、済州島4・3事件が始まりました。朝鮮半島南半分だけの選挙に反対する武装蜂起を討伐するという名目のもと、多くの武器を持たない人々が殺され、三万人以上が命を奪われたとも言われています。
2 墓標の裏に刻まれた一族の歴史
今でも、私と母は済州島とのつながりを持っています。
外祖父の墓が済州島にあり、その墓標の裏面には、一人娘としての母の名と、その配偶者としての父の名、そして息子である私の名前が刻まれています。
ちなみに、私の外祖父は、この済州島4・3事件で殺されたわけではありません。墓標には、日本で病気により亡くなったことが刻まれています。
ただ、朝鮮半島には祭祀を男が受け継ぐ伝統があります。そのため、外祖父の死後、一族によって同族から養子が迎えられました。母から見れば従弟にあたる方であり、養子であっても私にとっては叔父にあたる人です。ここでいう一族とは、宗親会、すなわち共通の遠祖を持つ血縁関係者によって組織される同姓団体・親睦団体のことです。
そして、その叔父の実の御父上の墓が、私の外祖父の墓の隣にあります。外祖父のすぐ下の弟にあたり、私から見れば大叔父にあたる人です。その墓標の裏には、こう刻まれています。
「千九百四十八年 十二月十四日別世」
実は、この日が、大叔父が済州島4・3事件で虐殺された日なのです。
3 済州島4・3事件は、「ありとあらゆる殺され方」をした事件
済州島4・3事件は、「ありとあらゆる殺され方」をした事件だとも言われています。
その言葉は、決して大げさではないのだと思います。
大叔父の場合、村の人々全員が、1948年12月14日の夜8時に討伐隊によって広場に集められました。そして、18歳から45歳までの男たちと、数名の女性が選び出され、表善国民学校に監禁されたのち、銃殺されたといいます。
その数名の女性については、その夜、月がとても明るく、討伐隊が「月を見ろ」と言って上を向かせ、そのまま引っ張り出して連れて行ったと言われています。
この「月を見ろ」というエピソードは、あまりにも印象が強いものです。だからこそ、小説『火山島』の著者である金石範さんは、『満月』という小説の中で、この村の虐殺をモチーフにしながら、死と生き残った事実の狭間を、幻想的でありながらも現実の苦しみの連鎖として、済州島のシャーマン的な要素を織り込みつつ描いています。
4 叔父の沈黙が私の中に入ってきた
実は、私はこの大叔父の虐殺について、叔父から直接聞いたことがあります。
「血染めの衣服を渡された」と。
私は多少韓国語ができます。けれども、このとき叔父が語った韓国語そのものは、もう覚えていません。覚えていないのに、その場にあったものだけは、今でもはっきり残っています。
それは、叔父の引き裂かれた沈黙に宿る痛烈さでした。
その痛烈さが、そのまま私の母語である日本語として、私の躰の中に入り込んできたのです。
言葉そのものを覚えているのではない。
けれども、言葉にならなかったもの、言葉になりきれなかった痛みが、私の中には残っている。私はそう感じています。
5 映画『済州島四・三事件 ハラン』をみて蘇ったもの
最近、私は『済州島4・3事件 ハラン』という映画を見ました。
殺と死の連鎖の中で、虐殺の場面も描かれていました。そこには、銃殺によって血に染まった衣服をまとい、斃れている素朴な済州島の人々の姿がありました。
そのシーンを見たとき、私は叔父の「血染めの衣服を渡された」という言葉を思い出しました。
いや、思い出したというだけでは足りません。あの言葉の奥に宿っていた、痛みさえも引き裂かれ、沈黙せざるを得なかった苦しみが、心を締め付けるようにして蘇ってきたのです。
映画を見ながら、私は単に一つの作品を見ていたのではありません。
自分の一族の中に残されてきた痛みと、もう一度向き合わされていたのだと思います。

6 殺された者の痛みは黙して繋がる
殺すことと殺されたことは連鎖します。
殺された痛みもまた、繋がっていきます。
沈んだ命は、痛みとなって残り、膿み、熟し、形を変えながら、生きている者の中に入り続けるのだと思います。だから、決して忘れきることはできません。殺された者の痛みは、黙したまま、それでも確かに繋がっていくのです。
この苦しみに向き合うこと。
それこそが、生きている私たちが、無残に殺された人々を、ただ死者として終わらせず、その存在を生かしていく道なのだと私は思います。
4月3日が来るたびに、私はそのことを思わずにはいられません。
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