音というもの――生活の不協和音と海の即興が心をほどく、沈黙の居場所を聴く私の記録

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私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。

音というものを生活と海からエッセイ風に私がどう感じているのかを綴りました。生活の不協和音に宿る物語、楽器で掬い取る空気の揺れ、変化に富みながら安らぐ海の音――言葉にならない美しさを、静かな視線で確かめます。耳を澄ますほど、自分の内側の沈黙がほどけていく感覚も描きました。読後に、身の回りの音が少し違って聴こえるはずです。

音というもの

音は不思議なものだ。目で見えないくせに、私たちの一日を支配している。朝、目が覚める前に聞こえるのは、スマホのアラームという人工の号令か、窓の外の鳥の声か。台所の湯気が立つ音、冷蔵庫の低い唸り、階段を上る自分の足音。そういう「生活の音」は、だいたいが整っていない。むしろ不協和音ばかりだと言ってもいい。なのに、私はそこに引き込まれる。きれいに揃った和音より、少しだけずれた響きの方が、身体の奥に残る瞬間がある。

楽器は空気を揺らす装置だ

楽器は、音を取り出す道具だ。ピアノでも、笙でも、吹奏楽の金管でも、結局は空気を揺らしているだけだ。しかし、その揺れの選び方で、人は泣いたり、笑ったり、立ち上がったりする。音は「理屈の手前」で心に触る。言葉のように意味が固定されず、同じ旋律でも、聴く日の気分で表情が変わる。だから私は、作曲するとき、正しさや整合性を一度ほどいてから始めたくなる。生活の中で私が拾っている音――雑踏のざわめき、信号機の電子音、遠くの工事の金属音、電車のレールの擦れ――そうした「粗い音」を、音楽の中でどう生かせるかを考える。

不協和音には物語がある

不協和音には物語がある。たとえば、誰かの怒りが混じった声。疲れが滲んだため息。小さく割れた言葉の端っこ。そういう音は、きれいに整えた瞬間に死んでしまう。私は、整えすぎない音の中に、むしろ美しさが潜むと思っている。美しさとは、磨いた宝石だけではなく、擦り傷の入ったガラスにも宿る。そこに「生きた時間」が映るからだ。音楽をやる人は、きっと皆、音の背後にある時間や、人の手触りを聴いている。だからこそ、たった一音でも、演奏者が変われば景色が変わる。音は、同じでありながら同じではない。

生の音と空間の肖像

私は時々、音の「輪郭」を確かめたくなる。録音された音は便利だが、どこか平らになる。生の音は、空間と一緒に立ち上がってくる。壁の反射、床の吸い込み、空気の湿り、聴き手の距離。そういう条件が音を育てる。だから、ホールでの残響を聴いたとき、私は「場所そのものが楽器だ」と感じる。音は空間の肖像画であり、同時に、その場にいる人間の心の温度計でもある。


海の音の不思議

その不思議を、私は海で強く感じる。海の音は、単調に聞こえるようで、同じ波は二度と来ない。寄せては返す、という言葉では済まない複雑さがある。波が崩れる瞬間の白い泡の弾け、砂に吸い込まれる水の擦れ、遠くのうねりの低音。風の強さが少し変わるだけで、海は別の顔になる。それなのに、私たちはその音に安らぐ。変化し続けるのに、落ち着く。これは矛盾ではなく、むしろ人間の神経の仕組みに近いのかもしれない。

規則と乱れのあいだ

海の音は、情報量が多い。強弱、周期、周波数の偏り、空間的な広がり。しかも、規則と乱れが同居している。完全な規則は飽きるし、完全な乱れは怖い。海は、その中間にいる。だから、耳が「次はこうなる」と予測しつつ、いつも少しだけ裏切られる。その絶妙な裏切りが、私たちを眠らせ、また目覚めさせる。私は海辺に立つと、頭の中の雑音がほどけていくのを感じる。日常で抱えている怒りや焦りが、波の層に吸い取られていくようだ。

海は巨大な即興演奏だ

不思議なのは、こんなに身近な海の音を、真正面から研究している人の話をあまり聞かないことだ。もちろん物理学としての波や音響は研究されているだろう。だが、あの「変化に富みながら安らぐ感じ」を、感覚の側から丸ごと掬い上げる試みは、まだ余白が大きい気がする。音楽家の耳で言えば、海は巨大な即興演奏だ。誰も指揮していないのに、破綻しない。何万年も続けているのに、退屈しない。そういう演奏体を前にすると、私は自分の作曲の野心が少し恥ずかしくなる。同時に、学びたいとも思う。海のように、変わり続けながら人を受け入れる音を、どうしたら書けるのか。


結局、言葉にしきれない

結局、音の魅力は言葉にしきれない。だが、言葉にしきれないからこそ、私は書き、そして作曲する。生活の不協和音も、海の安らぎも、どちらも「生きている音」だ。音は、私たちの内側にある沈黙を揺らし、そこに小さな灯りをともす。その灯りが見えた瞬間、私はまた、次の一音を探しに行く。


聴くという行為

音の不思議は、「聴く」側にもある。耳は勝手に働く。目は閉じられるのに、耳は閉じられない。だからこそ、私たちは無意識に取捨選択をしている。カフェで友人の声だけを拾い、隣の席の会話を背景に沈める。駅のホームでアナウンスを探し、雑踏を霧のように薄める。この取捨選択が乱れると、人は一気に疲れる。大きな音が苦手な人がいるのも、単に音量の問題ではなく、選別の負荷が跳ね上がるからだろう。私は自分が疲れているときほど、音が鋭く刺さるのを知っている。心が荒れている日は、同じ生活音が「攻撃」に聞こえる。逆に、落ち着いている日は、同じ音が「風景」に戻る。音は外界の現象でありながら、同時に内面の鏡でもある。

音楽の中の沈黙

だから作曲のとき、私は「聴かせたい」より先に、「どう聴かれるか」を考える。押しつけの音は、たとえ美しくても息苦しい。聴き手が自分の呼吸を取り戻せる余白が必要だ。旋律を語りすぎない。和声を詰めすぎない。リズムで縛りすぎない。音楽の中の沈黙は、単なる休符ではない。聴き手が自分の感情を置ける棚であり、景色を切り替える扉だ。沈黙があるから、音は音として立ち上がる。私は沈黙を「怖がらない」作曲をしたいと思っている。


街の音と私の好み

生活の不協和音の話をしたが、私は決して、汚い音が好きだと言いたいわけではない。むしろ私は、音の中の「筋」を聴き分けたい。雨の日のアスファルトには、乾いた日にはない低い響きがある。冬の朝の空気は硬く、音が遠くまで飛ぶ。夏の夜は湿って、音がすぐ近くに落ちる。街は季節で調律が変わる。そんな変化を感じ取ると、同じ道でも別の国を歩いているようになる。私はその感覚が好きだ。音は、地図より先に場所を教えてくれる。


音楽と社会

もう一つ、私は音に「倫理」を感じる。音は人に届く。届いてしまう。だから、音を出す側には責任がある。怒鳴り声は耳だけでなく心にも傷が残り、優しい声は身体をゆるめる。社会の摩擦の根には、聴き合いの不足があるのではないか。相手の声を、意味だけでなく温度として受け取り、自分の声も正しさだけでなく息として差し出す。合奏が成立するのは、互いの音を聴くからだ。音楽は娯楽であると同時に、共同体の練習でもある。


海に戻る

海の音に話を戻す。私が海で安らぐのは、海が私に何も要求しないからだ。正しくあれ、とも言わない。急げ、とも言わない。ただ、揺れている。揺れながら、境界を更新している。岸と沖のあいだで、世界を毎秒作り直している。その大きな営みの前では、人間の小さな焦りがほどける。私は海を聴きながら、作曲とは「世界の作り直し」を小さく真似ることなのだと思う。音を並べて、時間の中に居場所を作る。聴いた人が、少しだけ呼吸しやすくなるような居場所を。

結び

言葉にできないものを、言葉と音で追いかける。この矛盾を抱えたまま、私はこれからも音に近づいていく。たぶん、完全にはつかまえられない。けれど、つかまえられないものを追うとき、人は一番生きている。海の波がそうであるように、私も、寄せては返しながら、次の一音を探し続ける。だから私は、今日も少しだけ耳を澄ます。

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