彦坂忠義先生について。~私が感じる「彦坂のおじさん」~
私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。
目次
エピローグ 8月に思い出すのは、父のこと、そして彦坂忠義先生。
だからでしょうか、なんとなく今年は、父の満州逃亡の話をよりリアルに感じます。あの時の父は、本当にどんな思いを抱えて逃げてきたのだろう、そして父から伝え聞いた、満州逃亡時に日本行きの船に乗せてくれたという「彦坂忠義」先生の偉業を思うときに、今の時代を生きる私としては、戦争・原発・原爆・核兵器に対する思いが様々に駆け巡る季節です。
彦坂忠義先生とは、原子核物理学の世界に大きな功績を遺した方
彦坂忠義先生は、父の言葉を借りると「彦坂のおじさん」です。その彦坂のおじさんは、具体的にはこのようなお方です。
彦坂忠義先生、いや、「彦坂のおじさん」はどんな人? をChatGPTに聞きました。
端的に彦坂忠義先生について知るには、ChatGPTに聞いた方が良いので、聞いてみました。
彦坂忠義(ひこさか ただよし)博士は、日本の物理学者で、特に原子核物理学の分野で先駆的な業績を残しました。note(ノート)+1
👨🎓 経歴と学問的背景
- 生年:1902年12月25日
- 学歴:1926年、東北帝国大学(現在の東北大学)理学部物理学科を卒業
- 学位:1950年、東北大学より理学博士の学位を取得。学位論文は「原子核エネルギー利用の一新法に就いて」
- 主な職歴:山口高等学校、第二高等学校、旅順工科大学、岩手大学、新潟大学、東北学院大学などで教鞭を執った。特に、1941年から1942年にかけて大阪大学の菊池正士研究室に内地留学しており、原子核物理学の研究を深めた 。note(ノート)+1
🔬 原子核の殻模型の提案
1930年代、彦坂博士は原子核中の中性子と陽子が特定のエネルギー準位を持つという「原子核の殻模型」のアイデアを提案しました。これは、原子内の電子がK殻、L殻、M殻といったエネルギー準位を持つのと類似した構造を原子核にも適用しようとするもので、当時の主流であったニールス・ボーアの「液滴モデル」とは異なる視点を提供しました。しかし、彦坂博士の論文はアメリカ物理学会の『フィジカル・レビュー』誌に投稿されたものの掲載を拒否され、その後、東北帝国大学の『理科報告』にドイツ語で発表されました 。note(ノート)+2アキューム+2
⚛️ 原子炉の先駆的提案
戦時中の1944年、彦坂博士はウランからエネルギーを取り出す可能性について検討し、現在の高速増殖炉に近い原理を提案しました。この研究成果は、戦後の原子炉開発において重要な基盤となりました。彼の学位論文は1945年に東北帝大に提出されましたが、仙台空襲で焼失しました。幸いにも手書きの写しが博士と共に旅順を往復し、1950年に再提出されて学位が授与されました 。学術文化同友会:アルスの会+3アキューム+3note(ノート)+3
🏛️ 評価と後世への影響
彦坂博士の研究は当時の主流からは評価されませんでしたが、後の研究者たちによってその重要性が認識されました。例えば、1963年にノーベル物理学賞を受賞したマイヤー女史とイェンゼン博士の研究は、彦坂博士の提案と類似した原子核のエネルギー準位に関する理論を展開しており、彼の先見性が証明されています。また、彼の原子炉に関する理論は、戦後の原子力研究において重要な位置を占めています 。note(ノート)アキューム+1
🕊️ 晩年と逝去
彦坂忠義博士は1989年3月27日に逝去されました。彼の業績は、原子核物理学や原子力研究の発展に多大な影響を与え、現在も高く評価されています。アキューム
彦坂博士の研究は、当時の科学界の主流とは異なる視点を提供し、後の発展に大きな影響を与えました。彼の業績は、科学の進歩において独創性と先見性の重要性を示すものとして、今後も多くの研究者に影響を与え続けるでしょう。
彦坂忠義の業績 より(ChatGPTの答え)
また、東北大学は、彦坂忠義先生の偉業について、パネルを公開しています。
私が感じる「彦坂のおじさん」は、今、私が生きていることに繋いでくれた人。
父は、7歳のときに北海道の陸別町というところから、牡丹江のニヘイさんという軍属の方に養子に行きました。
そして、父が10歳の時に、10歳という年齢ながら、満州へのソ連軍の進軍に、一人で逃亡して日本に還ってきて来たという凄烈な体験をしています。牡丹江から奉天(現在の瀋陽)へ戦火の中一人でたどり着き、そして、奉天の駅で出発しようとした列車の蒸気機関車の運転台に飛び乗り、旅順まで行って、彦坂のおじさんの元にたどり着き、そして、彦坂のおじさんが日本行きの船に乗れるよう手配してくれて、父は日本で命をつなぐことができました。
命からがら逃げてきた父は、実父母のいる北海道陸別町に無事に帰り着くことができました。
私にとっては、彦坂忠義先生は、私の命がここにあることを繋いでくれた方です。一人で戦火を逃げまどって生還した父も凄いと思うけど、やはり、当時の状況から言えば、日本に帰る船に乗れたことが、父の命をつないだことは、間違いありません。
だからこそ、私の感じる彦坂忠義先生は、今、私が生きていることに繋げていただいた、かけがえのない方なのです。
「木蓮の花 : 彦坂忠義追悼文集」を読んで確信した彦坂のおじさんと父のつながり
実は、父と彦坂忠義先生の繋がりを強烈に感じた出来事があります。国立国会図書館で、彦坂忠義先生の津藤文集である「木蓮の花」を読んだときのことです。
記憶を辿りますので、正確な描写はできませんが、「木蓮の花」には、次のようなことが書かれていました。
終戦直前に彦坂先生のもとに赤紙、召集令状が来た。令状に従い、召集場所に向かったが、終戦になったので、帰ることになったが、その時、彦坂先生は、列車の蒸気機関車の運転台に乗って帰ってきた。
正確な描写は確認しなければならないのですが、この太字の部分に当たる記述を「木蓮の花」で読んだときに、私は父と彦坂忠義先生のつながりを確信したのです。
父も、奉天から旅順行きの列車の蒸気機関車の運転台に乗って帰ってきたのですから・・・
追悼文集ということは、彦坂先生から聞いたことを、没後に記憶を掘り起こして書いている部分もあると思います。
でも、彦坂先生が父から奉天から旅順まで列車の蒸気機関車の運転台に乗って帰ってきたことを聞き、何かの折に、このことを誰かに話していたとしたら、間違った伝聞として残ることは往々にしてあると思います。しかし、「列車の蒸気機関車の運転台に乗る」という具体的な行為の一致が、むしろ、父と彦坂先生のつながりを強く確信させたのです。私はこの記述をみた時に、国立国会図書館という場所柄ではあったけれども涙が出てきたことを覚えています。
父・母と共に行った彦坂先生のお墓まいり
父が心の中に深く刻み込んだ存在・・・それが彦坂忠義先生だったのかも知れません。
偶然にも私が彦坂先生のお墓が、豊橋の老津のお寺にあることを知ったとき、私は父に「彦坂のおじさんのお墓が、老津のお寺にあるとわかったけど、お墓参りに行く?」と聞きました。そしたら、父は行くと言いました。
ここで、父と彦坂忠義先生の関係をもう少し詳しく伝えなければいけません。
彦坂忠義先生は、豊橋市老津町(当時は老津村)の出身で、父の父、私の祖父も豊橋市老津町の出身です。今でも、原田家の本家が老津町にあります。
つまり、祖父と彦坂先生は同郷なのです。また、正確な関係は分からないのですが、親戚筋でもあるということもうかがっています。
とにもかくにも、父は原田家本家の方に連絡し、その方と共に父・母・私と彦坂先生のお墓に参りました。原田家本家の方に連絡したのは、親戚筋でもあるから、筋目は通さなければいけないということでしょう。筋を通すことにこだわった父らしさをここに感じます。
原爆の開発にも、原発の開発にも、関わらなかった彦坂忠義先生
私にとって、戦争という状況で父の命を私につないでくれた彦坂先生は、言い換えれば「平和へと命をつないでいただいた方」とも思います。それは、父を助けたこともさりながら、その学者としての姿勢から感じていることです。
戦前・戦中と原子核物理学の先駆的な貢献をしながら、彦坂先生は原爆の開発も、戦後の原子力の平和利用にも関わりませんでした。純粋に学問の探求をしていくことにこだわったのではないかと思うのです。
そして、戦後は原子核物理学から遠のき、高層大気物理やオーロラの研究にシフトしていきます。
純粋に学問を探求していく、それこそが彦坂忠義先生の平和を貫く姿勢だったのかもしれません。
はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
私、原田芳裕は、様々な方と繋がりたいと思っています。もし、私と繋がりたいという方は、是非、下のメールフォームから、ご連絡ください。ご相談事でも構いません。お待ちしております。