認知症の父が亡くなりました。2024年8月21日未明、小牧第一病院にて

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春日井市在住です。
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私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。

【父がなくなりました。】~父へのおもい、そしてどう終を迎えるか、認知症と向き合って~

本日、令和6年8月21日の未明に、父が亡くなりました。

8年前から認知症を患っており、その進行と向き合ってまいりました。最後は本当に穏やかな環境で亡くなりました。

私が父の介護をする中で心がけてきたのは、「父が父らしく穏やかに亡くなること」です。デイサービスから老健、そして、特養へと私は父が建てて私たち姉弟を育てた家から近いところを選んできました。 

父が生きた証の匂いがする場所、父が何があってもすぐに駆け付けることができる場所を選んできました。 

おかげさまで同じ校区内の施設で穏やかな入所生活ができ、最後は誤飲性肺炎がキッカケではありますが、小牧でも、父が建てた家に近い病院で息を引き取りました。 

いつも、家族が来てくれる環境の中、父も安心していたと思います。そして、私自身、父が苦しまないで息を引き取ったことに安心を感じています。それが私の目指した・・というより望んだ父の最後のあり方だからです。 

昨年に母が亡くなりました。父は母が大好きで、自分のことよりも母のことを案じていました。だから自分がどういう状況であっても、とにかく母より長生きして悲しませたくないという想いもあったのだと思います。それが母よりも長く生き、そして母が亡くなって一年以上生き続けた、父の最後のプライドなのだと思います。 

「ようやくお母さんのそばに、安心していけるね」と冷たくなりつつある父の顔に語り掛けたら、自然と涙が出てきました。 

本当にありがとう。お父さん。そして、最後まで見届けさせてくれて、ありがとう。

僕は、お父さんのことが大好きです。

在りし日の父の写真

ここに在りし日の父の写真を載せます。

父が老健にいた時に、一緒に春日井市民病院に行った時の写真です。

別のところで語った、父への想い。【戦争体験、そして、母との出会い】

また、別のところでLINEで語った父への想いがあるので、それも紹介します。

【父が亡くなりました。】

いつもお疲れ様です。冒頭のタイトルの通り、今日の未明に、父が亡くなりました。8年前から認知症でしたが、穏やかに毎日を過ごせる環境を作ってきました。その結果、本当に父が苦しまずにその一生を終えたことに、安心しております。

父は、昭和10年生まれで、終戦の時は10歳。当時満州にいて、8月9日のソ連満州侵攻に対して、戦火や遺体も散乱するような中、子供ひとりで牡丹江から1000Km以上の道を歩き通し、残留孤児になることも無く、旅順から日本行きの船に乗ることが出来、生き延びたという、壮絶な体験の持ち主です。
また、その体験の中で、朝鮮族の方に優しくしてもらった体験が、後に朝鮮籍であった母との出会いと結婚との遠因にもなっています。
あと、豊橋関連で言えば、父が旅順から日本行きの船を乗れるようにしてくれたのは、豊橋老津の出身で、原子核の構造や、原子力の平和的利用において独創的で世界の遥か先を行き過ぎていた彦坂忠義先生です。実はこの先生は、私たちの親戚筋であり、豊橋にお墓があるので、街宣車を回しているときに、こっそりと何回かお墓参りに言っています。

父の生きる力と不思議な縁が、私には、つじさんが豊橋で選挙に立つ状況になったようにも思えています。

ともかく、本当に父に「今まで生きてくれて、ほんとうにありがとう」と言いたく思います。

戦争を生き残った父の凄惨さ、そしてそこから生まれた思いと母との出会いに繋がっていく様をどうしても、この亡くなった日に語っておきたかったのです。

本当に本当にありがとうと父に言いたい。

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