西尾市はなぜ「抹茶の産地」へと進化したのか。そこに地域ぐるみの「差別化」があった

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私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。

実は、西尾市議の「やまいち志保」さんの選挙の応援に行っているうちに、「なんで、西尾は抹茶の産地なんだろう?」と調べたら、そこには驚きの戦略があったので、紹介します。

西尾市が「抹茶の産地」として全国的な知名度を持つようになったのは、決して偶然ではありません。むしろ、その歩みをたどると、地域ぐるみで積み上げられた“差別化の歴史”が、一本の太い線として浮かび上がります。他産地が煎茶や玉露の生産で競争を続けるなか、西尾は一貫して「てん茶=抹茶原料」に特化し、最終的に“抹茶のまち”という独自のポジションを確立しました。この特化戦略こそ、地域が選び取った差別化の核心です。

始まりは1271年。実相寺で聖一国師が茶の種をまいたという記録が残りますが、当時はまだ茶の文化的痕跡にすぎません。本格的な茶産業が根づくのは明治期、紅樹院住職・足立順道が宇治から茶の種と製茶技術を持ち帰ったことに始まります。ここで西尾は、全国でも早い段階で「宇治品質」を模範とした高級茶の産地を目指します。しかし他地域との差別化を模索する過程で、やがて玉露ではなく“てん茶(抹茶原料)”に生産を集中させるという、大きな産地戦略を選びました。この転換こそ、地域の方向性を決定づけた最初の重要な選択です。

そして大正〜昭和期には、三河式トンネルてん茶機などの技術革新が生まれ、てん茶生産を大量かつ安定的に行える体制が整います。さらに高度経済成長期には、煎茶の増産不況に対し、西尾は「抹茶を飲料だけでなく食品原料として売る」という新たな市場開拓を進めました。この大胆な発想こそ、西尾の抹茶が“全国の菓子メーカーに欠かせない素材”へ進化した理由です。

2009年には、地域団体商標「西尾の抹茶」が登録され、地域ブランドとして法的にも確立。今や市内で生産されるお茶の96%以上がてん茶であり、文字通り全国唯一の“抹茶専業地帯”となっています。

つまり、西尾市が「抹茶の産地」へと進化した背景には、
歴史の節目ごとに、地域ぐるみで進められた「差別化の意思決定」
があったのです。

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西尾抹茶産業史年表と、地方自治から見た「地域ブランド政策論」

① 起点 ― 聖一国師と「お茶の種」(1271年)

文永8年(1271)、西尾・実相寺の開祖・聖一国師が境内に茶の種をまいたことが、「西尾茶」の原点とされています。

この段階では、まだ産業ではなく、寺の中の嗜好品・薬湯としての茶です。

👉 地方自治的に言えば、ここはまだ「文化資源の芽」。
後世になってから、「西尾茶のルーツ」として物語化し直され、観光・シティプロモーションの素材にされています。

参考:


② 導入 ― 足立順道と近代茶産業のはじまり(1870年代)

明治5年(1872)頃、紅樹院住職・足立順道が、京都・宇治から茶種と製茶技術を導入し茶園を開いたのが、近代的な茶産業の始まりとされます.

その後、周辺の農家にも栽培が広まり、「産業としてのお茶」が西尾に定着していきます。

👉 ここで重要なのは、外部の先進地(宇治)から技術とブランド文脈を持ち込んだこと。
今日の言葉でいえば、市域を超えた「広域連携」による産業振興であり、自治体が今も観光連携でやっていることの原型です。

参考:


③ 専業化 ― てん茶への特化と技術革新(大正末〜昭和)

大正後期になると、西尾では煎茶や玉露だけでなく、抹茶原料の「てん茶」栽培・製造が主流となり、日本有数の抹茶産地として名が知られるようになります。

さらに昭和期には、連続乾燥を可能にする「三河式トンネルてん茶機」などの機械化が進み、てん茶を大量かつ安定的に供給できる体制が整いました。これは、産地内部の技術者たちが生み出した「ローカル・イノベーション」と言えます。

👉 自治体の視点から見ると、

  • 単なる農作物ではなく「特化した加工原料」としての位置づけ
  • 機械化・施設整備への支援
    によって、「一次産業+製造業」のハイブリッド型地場産業が形成されていった段階です。

④ 危機と転換 ― 増産不況から「食べる抹茶」へ(高度経済成長期)

戦後の増産政策の結果、1960年代にはお茶価格の暴落=増産不況が起こります。西尾でも同様に、量は作れるが値段がつかないという事態に直面します。

そこで産地が選んだのが、抹茶を「飲むため」だけでなく「食べる原料」として売る戦略でした。
洋菓子・アイス・パン・清涼飲料など、食品産業向けの抹茶需要を開拓し、今日の「抹茶スイーツ激戦区・西尾」につながっていきます。

👉 ここでは、自治体も含めて、

  • 加工用原料としての抹茶PR
  • 菓子メーカーとのマッチング
  • 観光と絡めたスイーツ企画
    など、産業政策と観光政策が重なるフェーズに入っていきます。

関連記事:


⑤ 地域ブランド化 ― 「西尾の抹茶」という名前を守る(2005〜2009)

2005年、西尾市周辺の茶葉の付加価値を高めるため、西尾市茶業組合が「地域ブランド」取得の検討を開始。ウィキペディア
2007年に西尾茶協同組合が設立され、**「西尾の抹茶」**の名称で特許庁の地域団体商標を申請、2009年2月に登録されます。特許庁+1

👉 ここはまさに地方自治の「地域ブランド政策」の核心です。

  • 産地名+品名(地名+抹茶)を商標として押さえる
  • 組合を通じて使用ルール・品質基準を共有する
  • 「西尾産でない抹茶」が“西尾”を名乗ることを防ぐ

これにより、「どこでも作れる粉末緑茶」ではなく、
“地域と紐づいた抹茶”としての法的保護と物語性が確保されました。

公式:


⑥ 現在 ― 96%以上がてん茶という「専業地帯」とシティプロモーション

現在、西尾市で生産されるお茶の96%以上が抹茶原料のてん茶であり、抹茶に特化した生産地は全国でもほぼ西尾だけとされています。

自治体は、

  • 茶畑・茶摘み体験
  • 抹茶ミュージアムや工場見学
  • 「西尾の抹茶の日」イベント
    などを通じて、産業+観光+シビックプライドを一体にしたシティプロモーションを展開しています。

⑦ 地方自治から見たまとめ

西尾の抹茶産業史を、地方自治の文脈で一言でまとめるなら、

「寺の一杯のお茶」が、
「地域ぐるみで守るブランド」へと育っていく物語

です。

  • 起点は僧侶・寺院という宗教的文化資源
  • 明治以降は、民間とともに拓いた地場産業
  • 技術革新と市場転換で「食べる抹茶」へ
  • 21世紀に入り、地域団体商標という法的枠組みと、観光・シティプロモーションという政策枠組みで再定義

この二重の「制度化」によって、
西尾の抹茶は、単なる農産物ではなく **「地域の顔」**として位置づけられています。

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