春日井 勝川を貫く上街道―古代条里制からゼロ戦部品輸送まで続く“歴史の道”を歩く
私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。
目次
1 古代:古墳と荘園の時代 ― 道より先にあった「権力の軸」
古墳が先にあり、あとから街道が通った
春日井市全体としては、旧石器時代から人が住み、段丘上に多数の遺跡・古墳が点在します。とくに西部には、
**味美二子山古墳(墳長94mの前方後円墳・国史跡)や春日山古墳(全長74m)**など、大型古墳がまとまって残っています。春日井市公式サイト+1
二子山古墳は6世紀前半頃の築造と考えられ、人物・馬形・家形埴輪を含む多量の埴輪や須恵器が出土していることから、
この一帯を支配した 有力豪族の墓 とみられます。
現在、上街道はこの古墳群のすぐ近くを通りますが、時間軸で言えば
- ① まず古墳が築かれ(6世紀ごろ)
- ② その後、古代〜中世を経て集落・荘園が発達し
- ③ 江戸時代に、古墳の間を縫うように公式街道が敷かれた
という順番で、「古代権力のランドマークの中を、近世のインフラが走っている」状態です。
勝川・味鋺周辺の条里制と 安食荘 について


以下、勝川味鋺地域(現 春日井市西部・名古屋市北区北部を含む)における条里制と「安食荘」の概要を、できる限り史料を基に整理します。
1.条里制・地割の骨格としての地域構造
- この地域(春日井市・名古屋市北区など)は、律令期以降「郡・里」の区分が導入され、さらに条里制的な土地区画が展開したと考えられています。
- 例えば、研究によれば、勝川・松河戸・柏井・味鋺あたりでは「東西1.4 km、南北1.8 kmといった直線的な条里型地割」が確認できるとの報告があります。 愛知県公文書館+1
- 地名にも条・里・坪といった区画名が残っており、「上条・下条」といった地名がこの地区に実際にあります。これも条里制度の名残と見られています。
このように、勝川地域は 「条里制が空間構成の基本になっていた農地景観」 を背景に持っていたことが、近年の地割・地名研究で再確認されています。
2.「安食荘」の成立と展開
- 安食荘(あじきしょう)は、少なくとも延喜14年(914年)に寄進地系荘園として成立したとされ、当時の所有者が統正王(王臣家)であったという記載があります。
- 寺院領として、山城国の 醍醐寺 に寄進された記録があり、尾張国春日部郡(現 春日井市・名古屋市北区あたり)にその領域が及んでいたとされています。 春日井市公式ホームページ+1
- 春日井市域の研究によれば、安食荘の絵図(「醍醐寺領安食荘絵図」)が遺されており、その絵図は東西・南北に直線的な区画線が引かれており、条里制的な区画を基盤としていた可能性が高いとされています。
- 地域として、「勝川村」「柏井野」「味鏡(味鋺)野」といった地名が絵図に記載されており、勝川地域が安食荘の中核だったとする研究が提示されています。
このように、安食荘とは 古代中世期における荘園領域として、かつ条里制的な区画を背景にしていた大規模農村領域 であったと整理できます。
3.勝川周辺における条里+荘園構造の特徴
- 勝川地域では、条里制による碁盤目状区画(田・畑・水路)がかなり明確に残っており、例えば松河戸地区では「14世紀後半から16世紀の地割を継承している」地中調査も出ています。
- 安食荘絵図でも「東西・南北に直線の境界」が描かれており、これは条里制を反映したものと研究者は考えています。
- また、区画内部の1町(約109m)四方と思われる「坪界」の延長線が、近世の「上条・下条」の村界と一致する可能性も指摘されています。
つまり、勝川周辺の現在の町域・農地・水路・集落配置を読み解く鍵として「条里制+安食荘」という二つの枠組みが有効です。
4.時代を貫くライン:古代〜中世〜近世
- 古代の条里制期:律令制下、郡・里・条の概念が導入され、田地制度・水利の基盤が整えられた。
- 中世の荘園期(安食荘期):条里制を基盤とした領域内に、貴族・寺院領として「不輸・不入」の権を持つ荘園構造が生まれた。
- 近世以降:この土地構造の上に、街道(例:上街道)・新田開発・集落展開が重なっていきます。
勝川・春日井西部を俯瞰すると、 “条里制という農地の枠組み” → “荘園という領域支配の枠組み” → “街道・集落という交通・居住の枠組み” が重なっていることが見えてきます。
2 近世初頭:無人の藪原に「稲置街道(上街道)」が引かれる
1620年代、藪と湿地だった春日井原・味鋺原に街道を通す
江戸時代、尾張藩は 名古屋城東大手門から中山道伏見宿(岐阜県御嵩町)まで を結ぶ街道を整備しました。
これが 上街道(木曽街道) で、全長19里(約75km)、藩主や武士の通る「公式街道」と位置づけられました。
ただし、味鋺原(名古屋市北区〜春日井市西部)から春日井原一帯は、開発前は「いばらの茂る無人の荒野」で、湿地が点在していただけ と記録されています。
- 元和9年(1623)には、名古屋・小牧・犬山を結ぶ 稲置街道(=のちの上街道) が春日井原の西側に開通。
- しかし沿道は荒野のままで、実際の新田開発が本格化するのは 開通から30年ほど後の承応元年(1652)頃から とされています。春日井市公式サイト+1
つまり、西部上街道は
「まず軍事・政治上の必要から、ほぼ人のいない藪原の中に道だけが先に通された」
という成り立ちをしており、その後に農地と集落が追いかける形で広がっていきました。

安藤家と味鋺原新田 ― 「豪農+庄屋」が街道沿いを開拓
街道沿いの開拓を象徴するのが、安藤家 です。
- 寛永元年(1624)、安藤家初代の五兵衛が、名古屋市北区如意村から現在の春日井市西部に移住し、
一帯の開拓を進めて 豪農・庄屋 として栄えました。network2010.org+1
- その後、味鋺北方の湿地帯が「味鋺原新田」として開墾され、のちの味美地区の原型 となっていきます。春日井市公式サイト+1
尾張家14代藩主・徳川慶勝が中山道を使って参勤交代や犬山城成瀬家への御成りの際には、
安藤家が「御小休所(お成りの間を備えた休憩所)」として使われた ことも記録されており、
街道沿いの庄屋が、政治インフラの一部として組み込まれていたことがうかがえます。
3 江戸時代の上街道:一里塚・古墳・寺社・地蔵が点在する「信仰と旅の道」

味鋺原新田一里塚と上街道のランドマーク
名鉄味美駅西交差点の南側には、かつて 「味鋺原新田一里塚」 がありました。network2010.org+1
- 清水御門(名古屋城側)からの距離を示すマイルストーンで、
- 街道の両側に土盛りの塚とエノキが植えられ、その下に秋葉社や津島社が祀られていたと伝わります。春日井市公式サイト+1
昭和初期の道路拡張で塚そのものは壊されましたが、
現在も 「旧稲置街道味鋺原新田一里塚跡」の石柱 が西本町に建てられており、地名「一里塚」も残っています。春日井市公式サイト+2春日井市公式サイト+2
古墳と白山神社 ― 古代祭祀と江戸の信仰が重なる場所
上街道が春日井市に入るあたりには、
- 味美二子山古墳(前方後円墳・6世紀前葉)
- 御旅所古墳(円墳)
- 白山神社古墳(前方後円墳・約84m)
が集まる古墳群があり、現在は二子山公園として整備されています。network2010.org+1
白山神社は、養老元年(717)に開かれた加賀白山の信仰を受け、
万治2年(1659)に名古屋市北区味鋺村の「白山藪」から現在地に遷座され、
二子山古墳にあったといわれる物部神社を合祀して建立 されたとされています。network2010.org+1
ここでは
- 古代:豪族の墓(古墳)
- 中世〜近世:白山信仰と物部神を合祀した神社
- 近代〜現代:公園と史跡・観光資源
と、ひとつの場所に 三層くらいの時代が折り重なっている のが特徴です。
椎樫地蔵と勝川道 ― 交差点としての西部上街道
一里塚から北へ進み、航空自衛隊小牧基地を左手に見ながら上街道を行くと、
上街道と勝川道の追分(分岐)に「椎樫地蔵」が祀られている と紹介されています。network2010.org+2network2010.org+2
ここは、
- 北へ行けば小牧・犬山方面(上街道)
- 東へ折れれば勝川〜下街道(善光寺街道)方面
という、春日井西部の交通の「ハブ」 で、地蔵が旅の安全を見守るランドマークになっていました。
松尾芭蕉の句碑・行者堂 ― 旅と修験道の記憶
上街道沿いの正念寺(中町)には、松尾芭蕉の句碑 が立ち、
「いざともに 穂麦喰わん 草枕」
の句が刻まれています。これは、芭蕉が『野ざらし紀行』(貞享2年・1685年)の旅の途中、
近くの農家に一宿した際に詠んだものと伝えられています。network2010.org+1
また、宮町の行者堂は、江戸中期以降、大峯山参りの信者が多く、
安永5年(1776)に役行者像を祀る堂が建てられたのが始まりで、
現本堂は寛政12年(1800)の再建とされています。network2010.org+1
こうした寺社・堂宇・句碑が、上街道を
- 旅人・行者・巡礼
- 地元の農民・商人
が交差する 「信仰と旅の共同体空間」 にしていたことがわかります。
4 近代:鉄道と軍用飛行場が、上街道沿いの景観を塗り替える
明治〜昭和前期:味鋺原新田 → 味美村 → 勝川町 → 春日井市
味美地域の行政的な変遷は、ざっくり以下の通りです。
- 江戸時代 :味鋺原新田(上街道沿いの新田村)
- 明治22年 :町村制施行で 味美村 となる
- 明治39年 :勝川町に合併
- 昭和18年 :勝川町などとともに 春日井市として市制施行
- 昭和23年 :町名制により、味美知多・味美美濃・味美上ノ・味美中新・味美西本・味美白山・味美花長の7町に分割
この間に、名鉄小牧線の味美駅(昭和6年=1931年開業) も設置され、
街道+鉄道という二重の軸で、西部が名古屋・小牧と結ばれていきます。ウィキペディア+1
小牧陸軍飛行場〜航空自衛隊小牧基地
昭和19年(1944)には、上街道北側一帯に 小牧陸軍飛行場 が建設され、
戦後は米軍接収を経て、1958年に返還され 航空自衛隊小牧基地 となりました。ウィキペディア+1
現在の小牧基地は
- 航空輸送や空中給油・救難などを担う
- C-130H輸送機やKC-767空中給油・輸送機などが配備されている
など、東海地方の航空拠点として機能しており、
上街道を歩くと、基地のフェンス越しに大型輸送機を間近に見ることができます。防衛省+1
この軍事・航空インフラの立地によって、
- 街道沿いに軍需工場・関連産業が広がる
- 戦後は工業都市・物流拠点としての性格が強まる
という、近代以降の「国策インフラの表玄関」としての西部上街道 という側面も生まれました。
4−2 ゼロ戦の部品を運んだ道としての上街道
太平洋戦争のさなか、名古屋市港区の三菱重工名古屋航空機製作所・大江工場では、海軍の主力戦闘機である**零式艦上戦闘機(ゼロ戦)**が製造されていました。
しかし、大江工場の近くには本格的な飛行場がなかったため、試験飛行は岐阜県の各務原飛行場で行うしかありませんでした。バス総合情報誌「バスマガジン」公式WEBサイト+1
そのため、完成した機体や主要部品は
- 胴体・主翼・尾翼などに分解し
- 荷車に載せ、牛や馬に引かせ
- エンジンや細かな部品はトラックに積む
という、きわめて原始的な方法で 大江工場から各務原(約48km)まで陸送 されていました。
このときの輸送ルートについて、各務原側の研究では、
名古屋市港区の大江から市内を通って各務原までの48kmの道程は、
かつての木曽街道(旧41号線、現在の県道102号線)と中山道(旧21号線)を経由していた
と説明されています。
木曽街道は、名古屋城下から春日井・小牧・犬山を北上して中山道に合流する上街道の幹線ルートです。
したがって、春日井市西部の上街道沿いも、ゼロ戦の機体や部品を牛車・馬車・トラックが引いていった「軍用輸送路」の一部だったと考えられます。
当時の道は未舗装で狭く、
とくに小牧から犬山にかけては、曲がり角で牛や馬の綱を外し、人力で台車ごと持ち上げて向きを変えたという記録も残っています。
近代兵器である戦闘機を、牛車でガタガタ道を2日がかりで運ぶ──
その光景は、
古代の古墳群と江戸の街道が残る春日井西部の上街道を、戦時のゼロ戦部品輸送路としても使わざるを得なかった、
日本の軍事とインフラのアンバランスさを象徴しているとも言えるでしょう。
5 戦後〜現在:工業都市・住宅都市の中に残る「古墳とハニワのまち」
春日井市の工業都市化と住宅都市化の中で
春日井市は、昭和18年の市制施行時には軍需工業都市としてスタートし、
戦後は農業奨励と工場誘致により 内陸工業都市 へと歩みを進めます。春日井市公式サイト+1
- 昭和30年代後半以降、土地区画整理や高蔵寺ニュータウン建設などにより住宅都市としての性格も強まり
- 現在は人口30万人規模の名古屋圏の中核都市となっています。春日井市公式サイト+1
その中で、西部上街道沿いは
- 古い商店や町家、工場
- 1960〜80年代の住宅・団地
- さらに最近の分譲住宅
が入り混じる、「多層的な街並み」 になっています。
味美=「古墳とハニワのまち」としての現在
春日井市観光協会は、名鉄味美駅周辺を
「歴史を感じられる 古墳とハニワのまち」
と紹介し、まちなかの古墳群と「ハニワまつり」などのイベントを通じて、
古代から続く歴史景観を地域アイデンティティとして前面に出しています。kasugai-kanko.jp+1
- 味美駅周辺には古墳・公園・住宅・工場・昔ながらの商店街が混在し
- 何世代にもわたって住み続ける人と、新しく転入してきた住民が共存し
- ローカルな祭りや商店街イベントが「顔の見えるコミュニティ」を維持している
とされており、上街道沿いの暮らしは 「歴史資源+生活都市」 として再解釈されつつあります。kasugai-kanko.jp
6 まとめ:一本の道に重なる「古代権力・江戸の街道・戦後の基地・住宅都市」
春日井市西部の上街道沿いを、時間軸でざっと眺めると、
- 古代:庄内川段丘上に古墳と条里制耕地が広がり、豪族・荘園が支配
- 近世初頭:無人に近い藪原の中に、尾張藩が稲置街道(上街道)を通す
- 江戸中期〜後期:一里塚・庄屋安藤家・寺社・地蔵・句碑・行者堂が建ち、旅と信仰の道として賑わう
- 近代〜戦時:鉄道・飛行場(のちの航空自衛隊小牧基地)が立地し、軍需・工業・交通の拠点となる
- 戦後〜現在:工業都市・住宅都市としての発展の中で、「古墳とハニワのまち」として歴史資源も再評価される
という、非常に“層”の厚い地域史 が見えてきます。
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