津地鎮祭事件。政教分離原則は信教の自由の保障するための制度!だから目的効果説なのだ!【憲法判例が面白い3】

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私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。

目次

津地鎮祭事件最高裁判決の魅力は・・・・憲法20条3項の「政教分離原則」について、細かく判示したところ。

憲法を学んでいる方にとって、重要な判例の一つが「津地鎮祭事件」(最高裁昭和52年7月13日大法廷判決)です。実際の判決文は、以下からも見ることができます。

津地鎮祭最高裁判決全文

この判決は、最高裁として①憲法における政教分離原則 を明示し、その上で②憲法20条3項により禁止される宗教的活動 とは何かを判断しています。つまり、政教分離原則とはどういうものかを具体的に明示しているのがこの判決であり、同時に魅力でもあると思います。

とは言っても、元々、どういう経緯でこの事件が起こったのかを述べなければ、この判決の魅力が薄れてしまいますので、そこから見ていきましょう。

津地鎮祭事件の経緯。

この最高裁判決には、津地鎮祭事件の経緯を、以下のように明示しています。

 一 本件の経過
 (一) 本件は、津市体育館の起工式(以下「本件起工式」という。)が、地方公
共団体である津市の主催により、同市の職員が進行係となつて、昭和四〇年一月一
四日、同市船頭町の建設現場において、宗教法人D神社の宮司ら四名の神職主宰の
もとに神式に則り挙行され、
上告人が、同市市長として、その挙式費用金七六六三
円(神職に対する報償費金四〇〇〇円、供物料金三六六三円)を市の公金から支出
したことにつき、その適法性が争われたものである。

hanrei-pdf-54189.pdf (津地鎮祭事件最高裁判決文)から

ここからも津市が主催して、体育館の起工式を神式で行ったことが憲法20条3項の政教分離原則に反していると原告側が主張してきたことが読み取れます。(※ちなみに、この事件は、被告である津市が上告した事件です)

この事件の第1審判決は、憲法について、どう判断したか。

では、この事件の第1審判決は、憲法について、どう判断したのでしょうか。最高裁判決の中では、このように書かれています。

 (二) 第一審は、本件起工式は、古来地鎮祭の名のもとに行われてきた儀式と同様のものであり、外見上神道の宗教的行事に属することは否定しえないが、その実態をみれば習俗的行事であつて、神道の布教、宣伝を目的とした宗教的活動ではないから、憲法二〇条三項に違反するものではなく、また、本件起工式の挙式費用の支出も特定の宗教団体を援助する目的をもつてされたものとはいえず、特に神職に対する金四〇〇〇円の支出は単に役務に対する報酬の意味を有するにすぎないから、憲法八九条、地方自治法一三八条の二に違反するものではない、と判断した。

hanrei-pdf-54189.pdf (津地鎮祭事件最高裁判決文)から

つまり、神式の地鎮祭は「習俗的行事」なのだから、憲法20条3項に反しないと第1審は判決したのです。

この事件の控訴審判決は、憲法について、どう判断したの?

では、津地鎮祭事件の控訴審は、憲法20条3項について、どういう判断をしたのでしょうか? まずは最高裁判決から、その一節を引用しましょう。

 これに対し、原審は、本件起工式は、単なる社会的儀礼ないし習俗的行事とみることはできず、神社神道固有の宗教儀式というべきところ、憲法は、完全な政教分離原則を採用して国家と宗教との明確な分離を意図し、国家の非宗教性を宣明したものであるから、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動とは、単に特定の宗教の布教、教化、宣伝等を目的とする積極的行為のみならず、同条二項の掲げる宗教上の行為、祝典、儀式又は行事を含む、およそ宗教的信仰の表現である一切の行為を網羅するものと解すべきであるとし、本件起工式は、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に該当し許されないものであり、したがつて、これがため上告人が市長としてした公金の支出もまた違法なものである、と判断した。

hanrei-pdf-54189.pdf (津地鎮祭事件最高裁判決文)から

この判決では以下のような論理構成で違憲判決を導いています。

津地鎮祭事件 (原審)控訴審判決の違憲判決の論理

  • 憲法は、完全な政教分離原則を採用している
  • よって、国家と宗教との明確な分離を意図し、国家の非宗教性を宣明している
  • だから、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動とは、単に特定の宗教の布教、教化、宣伝等を目的とする積極的行為のみではなく、
  • 憲法二〇条二項の掲げる宗教上の行為、祝典、儀式又は行事を含む、およそ宗教的信仰の表現である一切の行為を網羅するものである。

津地鎮祭事件最高裁判決は、「政教分離原則」をどのように判断したのか。

では、津地鎮祭事件の最高裁判決は、「政教分離原則」をどのように判断したのでしょうか。見てみましょう。

まず、この判決の原審である控訴審判決を見て、そこから最高裁判決を見ていく方が良いかと思います。

日本国憲法20条3項「政教分離原則」とは。~本件控訴審判決はどう読み取ったの?~

まず、日本国憲法20条3項「政教分離原則」について、控訴審判決に触れて、述べます。

「政教分離原則」は、憲法20条3項に明記されています。20条全文をのせます。

日本国憲法第二十条 
①信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

この事件の原審である控訴審判決は、憲法が、「完全な政教分離原則を採用して」いるとして、その行為を憲法20条2項を用いて、「宗教上の行為、祝典、儀式又は行事を含む、およそ宗教的信仰の表現である一切の行為を網羅するもの」が憲法20条3項の対象になると判断しました。
しかし、この「完全な政教分離原則」の部分が最高裁では変わっていきます。

憲法における政教分離原則を津地鎮祭最高裁判決は、どう判示したのか。

では、憲法における政教分離原則を、最高裁は津地鎮祭事件でどう判示したのでしょうか。まずは判決文を見ましょう。

 (一) 憲法における政教分離原則
 憲法は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」(二〇条一項前段)とし、また、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」(同条二項)として、いわゆる狭義の信教の自由を保障する規定を設ける一方、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」(同条一項後段)、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」(同条三項)とし、更に「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、・・・・・・これを支出し、又はその利用に供してはならない。」(八九条)として、いわゆる政教分離の原則に基づく諸規定(以下「政教分離規定」という。)を設けている。
 一般に、政教分離原則とは、およそ宗教や信仰の問題は、もともと政治的次元を超えた個人の内心にかかわることがらであるから、世俗的権力である国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は、これを公権力の彼方におき、宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされている。もとより、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によつて異なるものがある。わが国では、過去において、大日本帝国憲法(以下「旧憲法」という。)に信教の自由を保障する規定(二八条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という同条自体の制限を伴つていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対しきびしい迫害が加えられた等のこともあつて、旧憲法のもとにおける信教の自由の保障は不完全なものであることを免れなかつた。しかしながら、このような事態は、第二次大戦の終了とともに一変し、昭和二〇年一二月一五日、連合国最高司令官総司令部から政府にあてて、いわゆる神道指令(「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)が発せられ、これにより神社神道は一宗教として他のすべての宗教と全く同一の法的基礎に立つものとされると同時に、神道を含む一切の宗教を国家から分離するための具体的措置が明示された。昭和二一年一一月三日公布された憲法は、明治維新以降国家と神道とが密接に結びつき前記のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至つたのである。元来、わが国においては、キリスト教諸国や回教諸国等と異なり、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであつて、このような宗教事情のもとで信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつた。これらの諸点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。
 しかしながら、元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であつて、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。ところが、宗教は、信仰という個人の内心的な事象としての側面を有するにとどまらず、同時に極めて多方面にわたる外部的な社会事象としての側面を伴うのが常であつて、この側面においては、教育、福祉、文化、民俗風習など広汎な場面で社会生活と接触することになり、そのことからくる当然の帰結として、国家が、社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するにあたつて、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れえないこととなる。したがつて、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないのであつて、例えば、特定宗教と関係のある私立学校に対し一般の私立学校と同様な助成をしたり、文化財である神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のため国が宗教団体に補助金を支出したりすることも疑問とされるに至り、それが許されないということになれば、そこには、宗教との関係があることによる不利益な取扱い、すなわち宗教による差別が生ずることになりかねず、また例えば、刑務所等における教誨活動も、それがなんらかの宗教的色彩を帯びる限り一切許されないということになれば、かえつて受刑者の信教の自由は著しく制約される結果を招くこと
にもなりかねないのである。これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いをもたざるをえないことを前提としたうえで、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが、問題とならざるをえないのである。右のような見地から考えると、わが憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが右の諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである

この判示を構造的に説明すると、以下のようになります。

憲法の政教分離原則についての判事の構造的説明

1 憲法の政教分離原則についての諸規定

判決は、まず、政教分離原則の憲法における諸規定を示します。

  • 「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」(二〇条一項前段)
  • 「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」(同条二項)
  • 「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」(同条一項後段)
  • 「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、・・・・・・これを支出し、又はその利用に供してはならない。」(八九条)
2 一般的な政教分離原則について

その上で、判決は、一般的な政教分離原則について、「およそ宗教や信仰の問題は、もともと政治的次元を超えた個人の内心にかかわることがらであるから、世俗的権力である国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は、これを公権力の彼方におき、宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされている」とし、日本国憲法に政教分離原則が定められた経緯を述べています。
すなわち、大日本国憲法19条の信教の自由には制約が課せられ、その上で国家神道に事実上国教的な立場が与えられ、一部の宗教団体にきびしい迫害が加えられた等があり、かつ、第2次大戦後GHQにより、神道指令が日本政府に出された事情から、明治維新以降国家と神道とが密接に結びつき種々の弊害を生じたことにかんがみ、日本国憲法では、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至つたことを述べているのです。

加えて判決は、わが国では、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのだから、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつた。と説示します。そして、以下のように結論付けるのです。

一般的な政教分離原則に対する津地鎮祭事件最高裁判決の結論

憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。

そして、この「国家と宗教との完全な分離を理想とし、」という文言が、後に完全な政教分離は現実不可能だから、目的効果説で違憲判断するしかないという論理に繋がっていくのです。

3 政教分離原則は信教の自由を保障するための、制度的保障

この結果、この最高裁判決は、政教分離原則は信教の自由を保障するための、制度的保障なのだと述べています。

 しかしながら、元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であつて、信
教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として
保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。

hanrei-pdf-54189.pdf (津地鎮祭事件最高裁判決文)から

そしてここから、宗教について「同時に極めて多方面にわたる外部的な社会事象としての側面を伴うのが常であつて、この側面においては、教育、福祉、文化、民俗風習など広汎な場面で社会生活と接触することになり、そのことからくる当然の帰結として、国家が、社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するにあたつて、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れえないこととなる。」と説示し、「現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。」と結論付けるのです。

要するに、この判決は、憲法20条3項(政教分離原則)は、「国家と宗教との完全な分離を理想とし」ながらも、国家と宗教の完全な分離を実現することは不可能と、現実的な側面から判断しようしているのです。

4 政教分離原則は、目的効果説で違憲判断をしなければいけない理由

そして、ここから判決は、政教分離原則は目的効果説で違憲判断をしなければいけない理由を述べていきます。

まずは、国家と宗教の完全な分離を実現することは不可能であることを例示するところから、見ていきましょう。

更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないのであつて、例えば、特定宗教と関係のある私立学校に対し一般の私立学校と同様な助成をしたり、文化財である神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のため国が宗教団体に補助金を支出したりすることも疑問とされるに至り、それが許されないということになれば、そこには、宗教との関係があることによる不利益な取扱い、すなわち宗教による差別が生ずることになりかねず、また例えば、刑務所等における教誨活動も、それがなんらかの宗教的色彩を帯びる限り一切許されないということになれば、かえつて受刑者の信教の自由は著しく制約される結果を招くことにもなりかねないのである。

hanrei-pdf-54189.pdf (津地鎮祭事件最高裁判決文)から

ここでは、政教分離原則を完全に貫いた場合に起こりうるだろう、信教の自由が著しく制約される例をあげています。

そこから判決は、政教分離原則は、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で問題となるとして、目的効果説によって、違憲判断すべきと以下のように述べていくのです。

これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いをもたざるをえないことを前提としたうえで、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが、問題とならざるをえないのである。右のような見地から考えると、わが憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが右の諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。

hanrei-pdf-54189.pdf (津地鎮祭事件最高裁判決文)から

津地鎮祭事件最高裁判決における「政教分離原則」の結論

以上、見てみると、津地鎮祭事件最高裁判決は、「政教分離原則」を以下のように系統的に結論付けていることが分かります。

津地鎮祭事件最高裁判決は、
「政教分離原則」をこのように系統的に結論付けている。

※各項目「」書きで、話し言葉で分かりやすくまとめています。

  • およそ宗教や信仰の問題は、もともと政治的次元を超えた個人の内心にかかわることがらであるから、世俗的権力である国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は、これを公権力の彼方におき、宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされている
    「宗教や信仰は、個人の内心の問題。だから、宗教に対する国家の性質は『非宗教性ないし宗教的中立性』なんだよね~」
  • わが国では、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのだから、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつた。
    「ただ、日本では歴史的に国家と宗教が結びついているから、信教の自由を保障するためには、憲法で政教分離規定を設ける必要性がとても大きかったんだ!」
  • 憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。
    「だからこそ、国家と宗教との完全な分離を理想として、政教分離規定を設けたんだよ!」
  • しかしながら、元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であつて、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。
    「ただね。政教分離規定は信教の自由を確保するために、国家と宗教との分離を制度として保障するものなんだ。」
  • 宗教は「同時に極めて多方面にわたる外部的な社会事象としての側面を伴うのが常であつて、この側面においては、教育、福祉、文化、民俗風習など広汎な場面で社会生活と接触することになり、そのことからくる当然の帰結として、国家が、社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するにあたつて、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れえないこととなる。」
    「とはいっても、社会において、国家が宗教と関わり合いをもつことは免れない現実があるのは確か。」
  • 現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。
    「だから、国家と宗教との完全な分離を実現することは、ほぼ不可能に近いという現実がある」
  • 更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないのであつて、例えば、特定宗教と関係のある私立学校に対し一般の私立学校と同様な助成をしたり、文化財である神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のため国が宗教団体に補助金を支出したりすることも疑問とされるに至り、それが許されないということになれば、そこには、宗教との関係があることによる不利益な取扱い、すなわち宗教による差別が生ずることになりかねず、また例えば、刑務所等における教誨活動も、それがなんらかの宗教的色彩を帯びる限り一切許されないということになれば、かえつて受刑者の信教の自由は著しく制約される結果を招くことにもなりかねないのである。
    「更に、国家と宗教のかかわりを完全に貫いたら、かえって不利益な取り扱いが出たり、信教の自由が著しく制約される結果を招きかねないよ。」
  • 国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いをもたざるをえないことを前提としたうえで、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが、問題とならざるをえないのである。
    「だから、政教分離原則は、信教の自由の保障を確保という目的から、違憲かどうかを見ていかなければいけないのだよ」
  • 右のような見地から考えると、わが憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが右の諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。
    「ということは、①宗教との関わり合いをもたらす行為 の、②目的 及び ③ 効果 を基準として=目的効果基準から違憲かどうかを見ていかなければいけないんだよ」

とどのつまり、

憲法20条3項は、信教の自由を確実に保障するために、制度として国家と宗教の分離を規定したもの

と、この判決は述べているのです。

この判決は、「目的効果基準」の基準をどのように示しているのか。

そして、この判決は目的効果基準について、述べていきます。
まずは、憲法20条3項の「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」の、『宗教的活動』について、以下のように判示します。

 憲法二〇条三項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動も
してはならない。」と規定するが、ここにいう宗教的活動とは、前述の政教分離原
則の意義に照らしてこれをみれば、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわ
り合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当
とされる限度を超えるものに限られるというべきであつて

hanrei-pdf-54189.pdf (津地鎮祭事件最高裁判決文)から

つまり、国家と宗教の関わり合いが「相当の限度を超えるものに限られる」のが『宗教的活動』なのだとし、
では、その「限られる範囲」が何かということで、以下のように説示します

当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。その典型的なものは、同項に例示される宗教教育のような宗教の布教、教化、宣伝等の活動であるが、そのほか宗教上の祝典、儀式、行事等であつても、その目的、効果が前記のようなものである限り、当然、これに含まれる。

hanrei-pdf-54189.pdf (津地鎮祭事件最高裁判決文)から 

これを分かりやすくすると、以下のようになるでしょう。


津地鎮祭事件最高裁判決における、目的効果基準

行為の目的・・・宗教的意義をもつこと

行為の効果・・・宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為

そして、ここからより具体的な評価基準として、

  • 当該行為の外形的側面
    • 主宰者が宗教家であるかどうか
    • その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則つたものであるかどうか
  • それ以外の諸般の事情(社会通念に従つて、客観的に判断するために)
    • 当該行為の行われる場所
    • 当該行為に対する一般人の宗教的評価
    • 当該行為者が当該行為を行うについての
      • 意図
      • 目的及び宗教的意識の有無、程度
      • 当該行為の一般人に与える効果、影響

が判決では示されています。

実際の判断 (本件起工式の性質)

では、最高裁は、本件についてどのように判断したのか見てみましょう。

まず、判決は、起工式が宗教との関わりを持つことを肯定します。

本件起工式は、原審の説示するところによつてみれば、建物の建築の着工にあたり、土地の平安堅固、工事の無事安全を祈願する儀式として行われたことが明らかであるが、その儀式の方式は、原審が確定した事実に徴すれば、専門の宗教家である神職が、所定の服装で、神社神道固有の祭式に則り、一定の祭場を設け一定の祭具を使用して行つたというのであり、また、これを主宰した神職自身も宗教的信仰心に基づいてこれを執行したものと考えられるから、それが宗教とかかわり合いをもつものであることは、否定することができない。

hanrei-pdf-54189.pdf から

しかし、判決は、ここから本件起工式が宗教的意義が薄くなってきていることを説示するのです。
その理由として、起工式は建物等の建築の着工にあたって工事の無事安全等を祈願する儀式は、今日では宗教的意義がほとんど認められなくなった建築上の儀礼と化していることを挙げています。

 しかしながら、古来建物等の建築の着工にあたり地鎮祭等の名のもとに行われてきた土地の平安堅固、工事の無事安全等を祈願する儀式、すなわち起工式は、土地の神を鎮め祭るという宗教的な起源をもつ儀式であつたが、時代の推移とともに、その宗教的な意義が次第に稀薄化してきていることは、疑いのないところである。
 一般に、建物等の建築の着工にあたり、工事の無事安全等を祈願する儀式を行うこと自体は、「祈る」という行為を含むものであるとしても、今日においては、もはや宗教的意義がほとんど認められなくなつた建築上の儀礼と化し、その儀式が、たとえ既存の宗教において定められた方式をかりて行われる場合でも、それが長年月にわたつて広く行われてきた方式の範囲を出ないものである限り、一般人の意識においては、起工式にさしたる宗教的意義を認めず、建築着工に際しての慣習化した
社会的儀礼として、世俗的な行事と評価しているものと考えられる。

hanrei-pdf-54189.pdf から

つまり、判決は、起工式に宗教のかかわりがあることは認めるが、一般的な意識においては、起工式にさしたる宗教的意義を認められず、社会的儀礼として、世俗的な行事であると評価しているのです。

そこから、判決は、クライマックスに至ります。

 また、現実の一般的な慣行としては、建築着工にあたり建築主の主催又は臨席のもとに本件のような儀式をとり入れた起工式を行うことは、特に工事の無事安全等を願う工事関係者にとつては、欠くことのできない行事とされているのであり、このことと前記のような一般人の意識に徴すれば、建築主が一般の慣習に従い起工式を行うのは、工事の円滑な進行をはかるため工事関係者の要請に応じ建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼を行うという極めて世俗的な目的によるものであると考えられるのであつて、特段の事情のない本件起工式についても、主催者の津市の市長以下の関係者が右のような一般の建築主の目的と異なるものをもつていたとは認められない

hanrei-pdf-54189.pdf から

まずは、起工式が「世俗的な目的によるもの」である、と結論付け、続けて、なぜ「世俗的な目的によるもの」と判断できるのかを具体的に述べて、「信教の自由を脅かすとは到底考えられない」と結論付けていくのです。

 元来、わが国においては、多くの国民は、地域社会の一員としては神道を、個人としては仏教を信仰するなどし、冠婚葬祭に際しても異なる宗教を使いわけてさしたる矛盾を感ずることがないというような宗教意識の雑居性が認められ、国民一般の宗教的関心度は必ずしも高いものとはいいがたい。他方、神社神道自体については、祭祀儀礼に専念し、他の宗教にみられる積極的な布教・伝道のような対外活動がほとんど行われることがないという特色がみられる。このような事情と前記のような起工式に対する一般人の意識に徴すれば、建築工事現場において、たとえ専門の宗教家である神職により神社神道固有の祭祀儀礼に則つて、起工式が行われたとしても、それが参列者及び一般人の宗教的関心を特に高めることとなるものとは考えられず、これにより神道を援助、助長、促進するような効果をもたらすことになるものとも認められない。そして、このことは、国家が主催して、私人と同様の立場で、本件のような儀式による起工式を行つた場合においても、異なるものではなく、そのために、国家と神社神道との間に特別に密接な関係が生じ、ひいては、神道が再び国教的な地位をえたり、あるいは信教の自由がおびやかされたりするような結果を招くものとは、とうてい考えられないのである。

hanrei-pdf-54189.pdf から

そして、この結論として、

本件起工式は、宗教とかかわり合いをもつものであることを否定しえないが、その目的は建築着工に際し土地の平安堅固、工事の無事安全を願い、社会の一般的慣習に従つた儀礼を行うという専ら世俗的なものと認められ、その効果は神道を援助、助長、促進し又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められないのであるから、憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動にはあたらないと解するのが、相当である。

として、憲法20条3項に違反しないと結論付けたのです。

この判決の面白さ=政教分離原則ではじめての大法廷判決だからか、どこか、ぎこちないところがあるところ。

この判決を読み込んでみて、

なんか、ぎこちないないぞ!? この判決

と感じました。ある意味、この、ぎこちなさが、この判例の面白さなのかもしれません。なぜ、このようなぎこちなさを感じるのでしょうか。それは、大雑把に判決が以下のような構造をもっているからかもしれません。

  • 起工式は・・・・宗教的関わり合いをもつ。
  • 起工式は・・・・社会の一般的な慣習に従った儀式で、専ら世俗的

ただ、もともと、起工式の挙式費用金七六六三円(神職に対する報償費金四〇〇〇円、供物料金三六六三円)を津市の公金から支出したのだから、十分に一定の宗教に対する援助はあったと解すべきではないか?と私は思ってしまうのです。

まるで、「世俗的行事であれば、宗教的関わり合いをもっていても、公金を支出しても問題ないし、憲法に違反しない。」と言っているようなもので、これだと、宗教的なものは、世俗的なものにこじつけてしまえば、憲法違反は逃れられる! と示唆しているようなものです。

ただ、こういうぎこちない判決になってしまった背景に、原審が原告側を勝たせすぎて、憲法違反を認定したことも考えられます。
それに対し、津市側は、上告理由で、起工式(地鎮祭)の世俗的側面を主張しました。それには一定の理由があると最高裁が認めた結果、ぎこちない論理性に終わってしまったのだと感じます。
それに加えて、原告側が上告時の津市への反論で、神職に対する報償費金四〇〇〇円、供物料金三六六三円)を津市の公金から支出したことが宗教への支援になることを主張しなかったことも、ぎこちなさをますます増長させる要因になったのではないかと推測できるのです。

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