民事訴訟法140条から考える民事裁判の構造―国民主権、基本的人権、憲法12条・32条・82条、私的自治、弁論主義との関係

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私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。

民事訴訟法140条の問題を考えるとき、単に「訴えを口頭弁論なしで却下できる条文がある」という理解だけでは足りません。大事なのは、その条文が日本国憲法のどのような原理の中に置かれているのか、そして民事訴訟という制度全体の中でどのような例外的位置を占めているのかを、きちんと押さえることです。

私は、この問題を考えるとき、まず出発点に置くべきなのは国民主権だと思います。国民主権は、一見すると国会や選挙に関する原理のように見えます。しかし本当は、それだけではありません。司法もまた、国民主権の下で正統化されている国家作用です。裁判所は、自らの力で権威を持つのではなく、主権者たる国民の憲法制定行為によって、その権能と正統性を与えられています。そうだとすれば、裁判とは、国民から切り離された閉鎖的な技術装置ではなく、国民の権利を守るために存在し、国民の監視に耐える制度でなければなりません。

この視点に立つと、憲法12条、32条、82条は、それぞれ別々の条文ではなく、司法制度の民主的正統性を支える一続きの条文として読むことができます。そして、私的自治の原則や弁論主義もまた、その憲法的土台の上に位置づくものとして理解し直すことができます。さらに、その流れの中で見ると、民訴法140条がいかに例外的な規定であるかも、はっきりと見えてきます。

1 国民主権は司法の正統性の根である

国民主権とは、国家の最終的な意思決定の根拠が国民にあるという原理です。立法も行政も司法も、この原理の外には存在できません。もちろん、裁判官が一件ごとの事件について多数決で判断を決めるわけではありませんし、司法は政治部門から独立していなければなりません。しかし、その独立自体が、国民主権の否定ではなく、むしろ国民の権利保障のために憲法が用意した構造です。

つまり、司法の独立は、国民から自由であるという意味ではありません。国民の権利を守るために、他の国家機関から独立しているにすぎません。裁判所が国民から遊離した存在であってよいということにはなりません。むしろ国民主権の下では、裁判所は「誰のために存在するのか」という問いに常にさらされることになります。その答えは明確で、国民のために存在するのです。

このことは、裁判所の判断が公開され、誰でも裁判を利用でき、当事者が十分に主張立証する機会を与えられるべきことを意味します。ここで憲法32条と82条が大きな意味を持ってきます。

2 基本的人権は司法制度の目的である

もっとも、司法の正統性を支える原理は、国民主権だけではありません。日本国憲法のもう一つの柱である基本的人権の保障もまた、民事裁判の構造を考えるうえで不可欠です。国民主権が「国家権力は誰に由来するのか」という問いに答える原理だとすれば、基本的人権は「国家権力は何のために行使されるべきか」という問いに答える原理です。司法もまた例外ではなく、ただ国家作用の一部として存在するのではなく、国民一人ひとりの自由、権利、利益を現実に守るために存在しているのです。

ここでいう基本的人権とは、単に抽象的に「人権は大切だ」と語るための観念ではありません。権利が侵害されたときに、それを救済し、回復し、侵害の継続を止める制度が伴ってはじめて、基本的人権は現実の保障となります。どれほど立派に権利が憲法や法律に書かれていても、その侵害を訴え、第三者である裁判所に判断を求める道が閉ざされていれば、その権利保障は半ば空文化してしまいます。したがって、司法制度とは、権利侵害の最終的な救済装置であるという意味で、基本的人権保障の核心部分を担う制度なのです。

とりわけ民事裁判は、私人間における権利侵害や法的紛争を処理する場であると同時に、個人の人格的利益、財産的利益、名誉、生活基盤などを具体的に守る場でもあります。そこでは、単なる財産計算や形式的な勝敗だけが問題なのではありません。人が自らの権利を主張し、相手方と対等な立場で争い、その結果として公正な判断を受けること自体が、人格の尊重と権利保障の一部を成しています。言い換えれば、民事裁判は、基本的人権を事後的に救済する場であるだけでなく、権利主体としての個人を公的に承認する場でもあるのです。

このように考えると、司法制度において大切なのは、単に裁判所が存在することではなく、その裁判所が人権保障の制度としてきちんと機能しているかという点にあります。当事者が十分に主張し、反論し、必要に応じて補正し、公開された手続のもとで判断を受けることができるのでなければ、基本的人権保障の制度としての司法は弱体化してしまいます。だからこそ、憲法32条の裁判を受ける権利や、憲法82条の公開法廷原則は、単なる手続技術の問題ではなく、基本的人権を実効的に保障するための制度的条件として理解されなければなりません。

この意味で、司法制度は国民主権によって正統化され、基本的人権保障によって目的づけられていると言えます。そして、その両者をつなぐ具体的な制度保障として、憲法32条と82条が極めて重要な位置を占めるのです。

2-1 行政訴訟・住民訴訟における基本的人権

もっとも、基本的人権と司法の関係は、民事裁判に尽きるものではありません。とりわけ行政訴訟や住民訴訟の場面では、司法は、国家権力ないし地方公共団体の権力行使が、憲法と法律の枠内にとどまっているかを審査する役割を担います。ここでは、私人間の利害調整とは異なり、公権力そのものが人権を侵害し、あるいは侵害の危険を生じさせていないかが問われます。その意味で、行政訴訟は、基本的人権保障の最前線に位置する訴訟類型だと言ってよいでしょう。

行政処分や公権力の行使は、国民の財産、営業、生活、表現、人格的利益などに直接の影響を及ぼすことがあります。だからこそ、それに対する不服申立てや取消訴訟、義務付け訴訟、差止訴訟などの制度は、単なる行政統制の技術ではなく、国民の自由と権利を守るための制度的保障として理解されなければなりません。もし行政作用によって権利利益が侵害されても、それを裁判所で争う道が狭く解され、あるいは形式論によって過度に閉ざされるのであれば、基本的人権保障は現実の場面で大きく後退することになります。

住民訴訟もまた、直ちに個々人の私的権利救済を目的とする訴訟ではないとしても、基本的人権と無関係ではありません。住民訴訟は、地方自治体の財務会計行為の適法性を住民が争うことを通じて、地方財政の適正運営を確保し、違法な公金支出や財産管理を是正するための制度です。これは一見すると「客観訴訟」的な性格を帯びるようにも見えますが、その根底には、住民が主権者の一員として、自らの自治体の統治のあり方を監視し、是正を求めるという、民主制的かつ権利保障的な意味があります。地方財政が違法に運用され、情報が隠され、あるいは法の支配が後退するならば、その被害は最終的に住民の生活基盤、福祉、環境、知る権利、さらには地方自治への信頼そのものに及ぶからです。

したがって、行政訴訟や住民訴訟においては、形式的に「個人の権利救済訴訟ではない」と整理できる場面であっても、そのことから直ちに基本的人権との結び付きを切り離してしまうべきではありません。むしろ、国家や自治体の行為を法の下に置き、住民・国民が裁判所を通じてその適法性を問い得ること自体が、憲法の保障する自由と権利を支える制度的基盤です。行政訴訟・住民訴訟における入口論や手続的制限を考える場合にも、この基本的人権保障との連関を見失ってはならないのです。

3 憲法32条は「裁判所へ行ける権利」ではなく、適正な裁判を受ける基礎を保障する

憲法32条は、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」と定めています。この条文は、しばしば「裁判所に訴えることができる権利」と理解されますが、それだけでは十分ではありません。裁判所に書面を出せるというだけで、実質的には門前払いが自由に許されるのだとすれば、32条の保障は空洞化してしまいます。

裁判を受ける権利とは、単に裁判所の建物に入れる権利ではありません。自分の権利利益に関する争いについて、法律に従った手続の下で、裁判所の判断を受けることができるという保障です。もちろん、この権利にも一定の限界はあります。不適法な訴えや、権利濫用的な訴えまで無制限に保護されるわけではありません。しかし、その制限はあくまで例外です。原則は、当事者に裁判の場を開くことにあります。

この32条を、国民主権との関係で見ると、その意味はさらに深まります。主権者たる国民が、自らの権利を国家機関に対して、あるいは私人との関係において、裁判所で争うことができないとすれば、法の支配は大きく傷つきます。裁判を受ける権利は、国民が主権者であることの具体的な制度的保障の一つなのです。

4 憲法82条は司法を国民の前に開く原理である

憲法82条は、「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」と定めます。この公開原則は、単なる儀式ではありません。司法が密室で運営されることを防ぎ、裁判の公正さを国民が監視できるようにするための根本原理です。

ここで重要なのは、「公開」とは結果の公表だけではないということです。判決文だけが後で読めれば足りるのではなく、その判断に至る過程、とりわけ当事者が主張を戦わせる対審の場が公開されることに意味があります。なぜなら、裁判の正しさは、結論だけでなく、その結論がどのような手続を経て導かれたのかによって支えられているからです。

この82条もまた、国民主権と結びついています。司法は、国民から権威を与えられた国家作用なのだから、その運用は国民に見える形で行われなければならない。公開法廷原則は、その要請を最も端的に制度化したものです。32条が「裁判にアクセスする権利」を支える条文だとすれば、82条は「その裁判が国民に対して開かれているべきこと」を支える条文だと言えるでしょう。

5 憲法12条は権利保障を支える国民の主体性と節度を示す

憲法12条は、国民に保障された自由及び権利は、国民の不断の努力によって保持しなければならず、また濫用してはならないと定めています。私は、この条文を、民事訴訟の世界でも非常に重要な条文だと考えています。

第一に、12条は、権利が国家から一方的に与えられる恩恵ではなく、国民が主体的に保持し、行使し、守るべきものであることを示しています。裁判を受ける権利も同じです。権利侵害があったとき、声を上げ、訴えを提起し、主張立証を尽くすことは、まさに不断の努力の一形態です。

第二に、12条は、権利行使には節度が必要であることも示しています。裁判制度を嫌がらせや妨害のために使うことは許されません。ここから、不適法却下や訴権濫用法理のような制限の理論が一定の意味を持つことになります。しかし重要なのは、12条は権利行使を抑圧するための条文ではないということです。むしろ原則は権利の保持と行使であり、濫用禁止はその例外的な歯止めです。この順序を逆転させてはいけません。

6 私的自治の原則は民事裁判の出発点である

民事法の世界では、私人相互の法律関係は、基本的に当事者の意思によって形成されます。これが私的自治の原則です。誰と契約するか、どのような権利義務関係を作るか、どこまで争うか。こうしたことは、本来、国家ではなく私人自身が決めるべきものだという考え方です。

この原則があるからこそ、民事訴訟もまた、国家が職権で全面的に真実を探る制度としては設計されていません。民事訴訟は、私人が自らの権利関係をめぐって裁判所の判断を求める制度であり、何を請求し、どの範囲で争うかは、まず当事者の自己決定に委ねられます。ここに、私的自治が訴訟法の中へ反映されていく通路があります。

7 私的自治は処分権主義と弁論主義として訴訟法に現れる

私的自治が民事訴訟の中で具体化したものが、まず処分権主義です。処分権主義とは、訴訟の開始、終了、そして審判対象の範囲を当事者が決めるという原則です。原告がどの請求を立てるか、請求を取り下げるか、和解するかといったことは、原則として当事者の意思に委ねられています。裁判所は、原告が求めてもいない権利を勝手に与えることはできません。

次に弁論主義があります。これは、裁判所が判断の基礎にできる主要事実は、当事者が主張した事実に限られるという原則です。民事訴訟では、裁判所が自由に事件の筋書きを作り替えるのではなく、当事者が出した主張を前提に審理判断が進みます。ここに、当事者の手続的自己決定が表れています。

この二つは、単なる技術論ではありません。私的自治の訴訟法的な表現であり、ひいては国民主権の下で国民が自らの権利を主体的に争うという構図の具体化でもあります。だからこそ、当事者が主張を尽くす機会、補正する機会、公開の法廷で争う機会は、軽視されてはならないのです。

8 民訴法140条はこの全体構造に対する例外規定である

まず、問題となる民訴法140条の条文を確認しておきます。

民事訴訟法140条
訴えが不適法でその不備を補正することができないときは、裁判所は、口頭弁論を経ないで、判決で、その訴えを却下することができる。

ここで重要なのは、この条文が、単に「不適法な訴えを処理する規定」であるというだけではなく、口頭弁論を経ないで終局判決に至ることを認める点にあります。だからこそ、この条文は、裁判を受ける権利、公開法廷原則、そして当事者主導の民事訴訟構造との関係で慎重に読まれなければなりません。

ここで民訴法140条が登場します。140条は、訴えが不適法で、その不備を補正することができないときは、裁判所は口頭弁論を経ないで判決により訴えを却下できるとする規定です。つまり、通常なら公開の法廷で対審を経るはずの事件を、その前の段階で打ち切る制度です。

この規定があること自体は、制度上理解できます。明らかに不適法で、どう補正しても訴訟として成立しない場合まで、必ず全面的な口頭弁論を開かなければならないとすると、訴訟経済に反する面があるからです。しかし、それでも民訴法140条が例外規定であることは変わりません。

なぜなら、民訴法140条の運用は、憲法32条が保障する裁判を受ける権利に直接かかわり、憲法82条が予定する公開の対審を経ずに終局判決へ進むことを許し、さらに私的自治の反映である処分権主義・弁論主義の展開の場を、入口で閉じてしまうからです。特に、補正可能性があるのに補正不能と扱うことは、当事者の手続的主体性を不当に奪う危険を持ちます。

9 結論――民訴法140条は国民主権的・憲法適合的に限定解釈されるべきである

以上を総合すると、関係は明確です。国民主権が司法の民主的正統性を基礎づけ、憲法32条が裁判を受ける権利を、憲法82条が公開法廷原則を、憲法12条が権利保障の主体性と濫用禁止の節度を、それぞれ支えています。そして民事法の世界では、私的自治の原則が、訴訟法の中で処分権主義と弁論主義として具体化されます。

この大きな原則構造の中に置いて見ると、民訴法140条はあくまで例外です。したがって、その適用は厳格でなければなりません。本当に訴えが不適法であり、しかも補正不能である場合に限って、はじめて口頭弁論なしの却下が許される。そうでなければ、32条、82条、12条、そして私的自治・弁論主義の基礎を掘り崩してしまいます。

民訴法140条の問題は、単なる訴訟技術の問題ではありません。そこには、主権者である国民に対して司法がどこまで開かれているのか、国民が自らの権利をどこまで主体的に争えるのかという、憲法秩序の核心がかかっています。だからこそ、この条文は常に、国民主権と憲法上の裁判保障の光の下で読まれなければならないのです。

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