高市政権の現状を「民主主義の崩壊」という観点から見る。憲法を国民自ら活かすことが大基本

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私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。

1 はじめに

いまの日本政治を見るとき、私はフアン・リンスの『民主主義の崩壊』という視点が、やはり非常に大事だと思います。リンスが見ていたのは、民主主義が軍事クーデターのような一撃だけで壊れるのではなく、制度への敬意の低下、対立の激化、政治主体の相互不信、そして「勝った側は何をしてもよい」という空気の広がりの中で、内側から傷んでいくという過程でした。現代の研究でも、民主主義の後退は、しばしば選挙で選ばれた側が制度を徐々に弱らせる形で進み、分極化はその過程を後押ししやすいと指摘されています。

この視点から高市政権を見るとき、私は「もう日本の民主主義は壊れた」と言いたいのではありません。そうではなく、崩壊へ向かう条件がどこで育っているのかを見たいのです。民主主義の危機は、完成した独裁として現れる前に、まず制度の軽視、反対意見への苛立ち、政治倫理への鈍感さ、そして国民の側の諦めとして現れます。だからこそ、いまの日本を論じるには、「壊れたかどうか」という二者択一ではなく、「壊れやすくなっていないか」という問いが必要なのだと思います。

2 高市政権の現在地

その前提として、まず現在の事実関係を押さえておきたいと思います。第2次高市内閣は2026年2月18日に発足しました。2月8日の衆院選では自民党が316議席を獲得し、衆議院465議席の3分の2を単独で超えています。そして4月5日の共同通信系世論調査では、高市内閣の支持率は63.8%、不支持率は26.0%と報じられています。つまり、いまの高市政権は、脆弱な少数政権ではなく、強い議席基盤と高い支持率を持つ政権なのです。

ここで重要なのは、危うさの出発点が「弱い政権の混乱」ではなく、「強い政権の自己過信」になり得ることです。強い民意を得た政権は、本来ならその分だけ慎重であるべきです。ところが現実には、圧勝はしばしば「国民が自分たちの方向を全面的に承認した」という感覚を生みます。リンスの視点から見れば、民主主義の不安定化は、反民主的勢力の暴力だけでなく、正統性を得た側が自己抑制を失うところからも始まります。私は、いまの高市政権を見るとき、まずその点を警戒したいと思います。

3 多数の獲得が「白紙委任」に変わるとき

高市首相は施政方針演説で、総選挙の結果について「重要な政策転換を、何としてもやり抜いていけ」と国民から背中を押されたと受け止める趣旨を語っています。また、1月23日の衆院解散に際する政府声明でも、「大きな政策転換実現のため、ギアをもう一段上げる必要」があると述べています。つまり政権自身が、今回の選挙結果を単なる政権維持ではなく、大きな転換への強い信任として位置づけているわけです。

もちろん、選挙に勝った政権が公約実現を目指すこと自体は当然です。問題は、その勝利が「白紙委任」にすり替わるときです。日本国憲法は前文で国政の権威が国民に由来すると定めていますが、同時に96条では憲法改正に各議院総議員の3分の2以上の賛成と国民投票での承認を求め、99条では公務員に憲法尊重擁護義務を課しています。多数派の勝利は、憲法の枠内で行使されるべきものであって、その外へ踏み出す免罪符ではありません。いまのように単独で3分の2を超えた政権が危ういのは、何でもできるからではなく、「できるのだから進めてよい」という心理が権力側にも支持者側にも生まれやすいからです。

ここで私は、単に「白紙委任ではない」と言うだけでは足りないと思います。なぜなら、日本国憲法の前文は、国政の権威が国民に由来し、その権力は代表者が行使し、その福利は国民が享受すると定めているからです。しかも15条は、公務員を選定し罷免することを国民固有の権利とし、公務員は「全体の奉仕者」であって「一部の奉仕者」ではないと明言しています。つまり選挙とは、政権に白紙委任を与える場ではなく、「あなたは全体に奉仕せよ」という憲法上の命令を国民が発する場なのです。さらに96条は、憲法改正について各議院総議員の3分の2以上の賛成と国民投票での承認を要求しています。多数派の勝利がそのまま憲法秩序の書き換えに直結しないよう、最後に主権者たる国民が関与する構造が最初から埋め込まれているわけです。だからこそ、国民に必要なのは、選挙を一回のイベントとして消費することではなく、選んだ後も「本当に全体の奉仕者として振る舞っているか」を見張り続けることだと思います。

4 国会の時間が痩せていく危うさ

私は、高市政権の現状でかなり気になるのが、国会審議の時間の扱いです。1月23日、政府は通常国会冒頭で衆議院を解散しました。その理由として、政権枠組みも政策内容も従来と大きく異なる以上、直接国民に信を問う必要があると説明しました。しかし、その結果として2026年度予算案の提出は例年より遅れ、審議時間の短縮が問題になりました。3月の共同通信系調査でも、予算案の審議時間短縮については賛成47.1%、反対46.5%で拮抗しています。1月の複数調査でも、解散判断について「評価しない」が「評価する」を上回っていました。

ここで問われるべきなのは、解散が違法かどうかだけではありません。民主主義とは、ただ選挙を行うことではなく、議会で時間をかけて審議し、反対意見や修正意見を吸収しながら統治する仕組みです。憲法83条から86条は、財政を国会の議決に基づかせ、予算について国会の審議と議決を必要としています。多数を得たのだから審議は短くてよい、という発想は、財政民主主義の精神に逆行します。民意を受けた政権ほど、むしろ国会を丁寧に扱わなければならない。その当たり前の感覚が痩せていくとき、民主主義は見かけ上は元気でも、中身から弱っていきます。

国会審議の時間が痩せるという問題も、単なる運営論ではありません。憲法83条は国の財政を国会の議決に基づいて処理しなければならないとし憲法85条は国費支出や債務負担に国会議決を要求し憲法86条は内閣が予算を作成して国会に提出し、その審議と議決を経なければならないと定めています。さらに憲法62条は、両議院が国政調査権を持ち、証人や記録の提出を求められることを明記しています。つまり憲法83条以下は、予算を通すための技術規定ではなく、国民の税と財政を、議会による公開の審議と調査の下に置くための規定なのです。だから国民に必要なのは、予算の賛否を感覚的に眺めることではなく、予算書、付属資料、委員会審議、議事録、提出文書を追い、必要なら情報公開や監査につなげていくことです。財政民主主義は、条文だけでは動きません。国民が「予算を読む主体」になって初めて実質を持ちます。

5 政治倫理への鈍感さが広がるとき

さらに見逃せないのが、政治倫理の感覚です。高市首相は、衆院選で当選した自民党衆院議員315人に対し、1人当たり約3万円相当のカタログギフトを配布したことを認め、「法令上問題はないと認識している」と述べました。他方で、共同通信系調査ではこの配布について「適切ではない」が65.7%に達しています。それでも同時期の内閣支持率は64.1%と高水準を維持し、4月5日時点でも63.8%でした。

私は、ここに民主主義のかなり深い危険を見るのです。問題は、違法か適法かの線引きだけではありません。もっと深いところで、「それくらいはいいではないか」「結果を出してくれるなら気にしない」という政治倫理の鈍感さが広がることが怖いのです。民主主義は、条文や制度だけでは維持できません。支えるのは、権力者に対して「合法でも不適切ではないか」と言い続ける市民感覚です。リンスが見ていた崩壊も、制度違反への感度が鈍り、味方の逸脱に甘くなっていく過程と無関係ではありません。制度が壊れる前に、まず感覚が壊れる。そのことを私は軽く見てはいけないと思います。

政治倫理の鈍感さに対しても、国民の側には憲法上の回路があります。憲法13条は、すべて国民が個人として尊重されることを定め、21条は表現の自由を保障し、憲法16条は平穏な請願権を保障しています。つまり「合法なら問題ないのか」「適法でも不適切ではないか」という問いを public に発し、文章にし、署名を集め、議員や議会へ届け、請願として形にすることは、単なる感情論ではなく、憲法に根拠を持つ行動です。国会に対する請願は、衆議院でも参議院でも、憲法16条に基づく国民の権利として案内されており、議員の紹介によって提出されます。政治倫理が弱るときほど必要なのは、怒りの瞬間的発散ではなく、憲法21条と言論、憲法16条と請願をつないで、政治的違和感を制度の言葉に変えていくことです。

6 安全保障の転換と憲法の緊張

高市政権は、施政方針演説で外交力、防衛力、情報力を含む「総合的な国力の強化」を前面に出しています。その路線は、経済政策だけではなく、安全保障政策でもはっきりしています。しかし3月の共同通信系調査では、防衛装備品の輸出ルール緩和によって、殺傷能力のある武器輸出を認めるべきではないという回答が56.6%で、賛成を上回りました。つまり、政権が押し出す方向と、国民の側の感覚のあいだには、すでに緊張が生じているのです。

日本国憲法の前文は、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする決意を掲げ、9条は戦争と武力による威嚇又は武力の行使を放棄すると定めています。もちろん、現代の安全保障環境は厳しく、国家に対応が必要なこと自体は否定できません。けれども、その現実を理由にして、憲法との緊張をできるだけ見えなくしながら政策だけを先に進めるとすれば、それは民主主義にとって危険です。なぜなら、民主主義とは単に政策を通す仕組みではなく、価値の衝突を可視化し、議論し、合意の幅を探る仕組みだからです。強い政権が安全保障を急ぐときほど、必要なのはスピードよりも説明であり、熱狂よりも憲法的自制なのだと思います。

安全保障の問題でも同じです。憲法前文は、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする決意を述べ、9条は戦争と武力による威嚇又は武力の行使を放棄しています。その一方で、憲法62条は国会に国政調査権を与えています。ということは、安全保障をめぐる大きな転換が進むとき、国民はただ賛成か反対かを叫ぶだけではなく、前文と憲法9条を手掛かりに問いを立て、国会審議を追い、説明不足を批判し、必要な文書の開示を求め、改憲に至るなら96条の国民投票段階まで視野に入れて監視しなければならない、ということです。安全保障のような重い領域で、憲法的緊張を見えにくくする政治が進むなら、主権者の側はその緊張を見える言葉にして押し返す必要があります。

7 崩壊を防ぐ手段としての「国民による憲法の活用」

では、こうした危うさに対して何が歯止めになるのでしょうか。私は、結局のところ最大の手段は「国民による憲法の活用」だと思います。憲法は、政治家や裁判官だけが扱う特別な文書ではありません。前文は、国政の権威が国民に由来し、その権力は代表者が行使し、その福利は国民が享受すると定めています。12条は、自由と権利が国民の不断の努力によって保持されなければならないと述べ、13条は個人としての尊重を掲げ、15条は公務員の選定・罷免を国民固有の権利としています。つまり憲法は最初から、権力を作る文書であると同時に、権力を縛るために国民の手元へ渡された文書なのです。

この活用の第一は、選挙です。ただしそれは、人気投票としての選挙ではありません。15条がいうように、投票とは「全体の奉仕者」を選び、必要なら罷免するための行為です。選挙のたびに、誰が好きか嫌いかだけでなく、その政治家が個人の尊重を本気で受け止めているか、財政を国会の議決と審議に委ねる気があるか、憲法尊重擁護義務を軽んじていないかを問う必要があります。選挙は、政治家を持ち上げる場ではなく、国民が条件を突きつける場なのです。

第二は、言論です。21条の表現の自由は、単に「好きなことを言ってよい」という抽象的権利ではありません。批判を書くこと、情報を整理すること、議事録や公文書を読んで論点を明らかにすること、周囲と議論すること、地域で問題提起すること、そうした一つ一つが権力に対する監視の実践です。民主主義が崩れるとき、最初に弱るのは制度より先に「語る力」です。だから21条の活用とは、感情的に騒ぐことではなく、権力の問題を言葉にし続けることだと思います。

第三は、請願です。16条は、何人も平穏に請願する権利を持つと定めています。実際、衆議院も参議院も、請願は憲法16条に保障された国民の権利であり、国政への要望や苦情を直接国会に述べる制度だと案内しています。請願書は議員の紹介により提出される仕組みですが、だからこそ市民は、問題を単なる不満で終わらせず、文章化し、紹介議員を探し、国会審査へ持ち込むという行動に変えることができます。請願は古い制度ではなく、代表制民主主義の中に残された「国民が直接に押す手」です。

第四は、情報公開です。国民が権力を監視するといっても、資料がなければ監視はできません。e-Gov文書管理では、各行政機関の情報公開窓口や開示請求手続が案内されており、一部行政機関ではオンラインでの開示請求も可能だとされています。つまり、行政文書を取りに行く入口は、すでに制度として整えられているのです。表現の自由や請願権が有効に働くためにも、まず事実を掘り起こすことが必要です。民主主義において、情報公開は脇役ではありません。国民が主権者であり続けるための基礎作業です。

第五は、監査です。とりわけ83条以下の財政民主主義を本気で生かすなら、予算や支出は国会や議会に任せきりでは足りません。地方自治の現場では、住民監査請求という直接の手段があります。地方自治法242条に基づく住民監査請求について、自治体の案内では、市民が執行機関や職員による違法または不当な財務会計上の行為や怠る事実があると認めるとき、監査委員に監査を求め、その防止や是正など必要な措置を請求できると説明されています。しかも、請求には事実証明書として公文書の写しや新聞記事の写し等の添付が必要とされます。ここには、憲法83条以下の財政統制を、市民が地域で具体化する回路が見えています。

第六は、裁判です。32条は、何人も裁判所において裁判を受ける権利を奪われないと定めています。これは、最後は法廷で争えるという意味であると同時に、国民が行政や政治に対して「理由を示せ」と迫る最終的な出口でもあります。請願や情報公開や監査が、法的統制へつながる途中の手段だとすれば、裁判はそれらを束ねて権力の違法や不当を問う場所です。民主主義の崩壊を防ぐとは、批判にとどまらず、必要なときには法的争訟にまで持ち込める市民社会を維持することでもあります。

そして第七に、96条と99条の活用があります。96条は改憲の最終局面で国民投票を要求し、99条は国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員に憲法尊重擁護義務を課しています。つまり国民は、改憲論議が動くときに「手続を見張る主体」であり、日常政治では「あなたは憲法を守る義務がある」と権力者へ突きつける主体でもあります。憲法は、学者が解説するためだけのものではありません。国民が、選挙、言論、請願、情報公開、監査、裁判へとつなげることで初めて、生きた武器になります。

8 日本国憲法12条の「不断の努力」が、今こそ問われている

ここで私が特に強調したいのは、日本国憲法12条です。12条は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」と定めています。これは、自由や権利が、国家から自動的に与えられ、放っておいても維持されるものではないことを意味しています。憲法は最初から、国民に対して「権利の受け手」であるだけでなく、「権利の保持者」であれと求めているのです。

私は、この12条の感覚が、今の日本ではかなり弱っていると思います。多くの人が政治に不満を持ち、国の政策に自分たちの声が十分反映されていないと感じています。実際、内閣府の2026年3月公表の世論調査でも、国の政策に民意が「かなり反映されている」と答えた人は1.0%にとどまり、「あまり反映されていない」が53.5%、「ほとんど反映されていない」が17.8%でした。つまり、7割以上が、民意の反映に乏しさを感じているのです。

けれども、ここで重要なのは、その不満がそのまま12条の「不断の努力」に結びついていないことです。同じ調査で、「どうすればより民意が反映されるか」と問われたとき、最も多かったのは「政治家が国民の声をよく聞く」28.1%であり、「政府が世論をよく聞く」も14.5%でした。他方で、「国民が国の政策に関心を持つ」は18.5%、「国民が選挙のときに自覚して投票する」は15.3%、「国民が参加できる場をひろげる」は9.7%にとどまっています。私はここに、今の日本の弱点があると思います。つまり、政治が悪い、政府が聞かない、政治家がだめだ、という認識はあっても、それを押し返すために国民自身が権利を使い、参加し、監視し、問い続けるという12条的感覚が、まだ十分には育っていないのです。

ここで見えてくるのは、12条の「不断の努力」とは、漠然と政治に関心を持つことではなく、前文、13条、15条、16条、21条、32条、83条以下、96条、99条を、それぞれ選挙、言論、請願、情報公開、監査、裁判、改憲監視、憲法違反の指摘という具体的行動へ変えていくことだ、という点です。内閣府の2025年10月調査では、国の政策に民意が「あまり反映されていない」が53.5%、「ほとんど反映されていない」が17.8%で、71.3%が「反映されていない」と答えました。他方で、より反映される方法として最も多かったのは「政治家が国民の声をよく聞く」28.1%であり、「国民が国の政策に関心を持つ」18.5%、「国民が選挙のときに自覚して投票する」15.3%、「国民が参加できる場をひろげる」9.7%でした。ここには、政治への不満は強いが、それを憲法上の行動へ変える感覚はなお十分に強くない、という日本社会の弱点が表れています。だから12条の課題は、まさにそこにあるのだと思います。

本来、12条の「不断の努力」とは、単に関心を持つことだけではありません。選挙で自覚して投票すること、16条の請願権を使って制度の改廃や救済を求めること、21条の表現の自由を使って批判し議論を広げること、32条の裁判を受ける権利を使って違法を争うこと、さらに情報公開制度を通じて行政文書を掘り起こし、権力の不透明さをそのままにしないことまで含んでいます。実際、e-Govでは行政文書の開示請求手続が案内されており、一部の行政機関ではオンライン請求も可能です。つまり、権利を守るための制度的な入口は、すでに存在しているのです。

それにもかかわらず、今の日本では、憲法を「いいことが書いてある文書」として眺める姿勢はあっても、「自分が使う道具」として扱う姿勢はなお弱いように思います。政治に失望しても、文書は取らない。疑問を抱いても、請願しない。怒っても、監査請求や訴訟までは行かない。選挙にも、消極的な比較の中で何となく行くか、あるいは行かない。その状態では、権力に対する不満はあっても、憲法12条のいう「保持する努力」にはなりません。民主主義は、不満を言うだけでは守れないのです。権利を現実に使い続ける国民がいて初めて、民主主義は崩壊を免れます。

要するに、日本国憲法12条は、今の日本に対してかなり厳しい問いを投げかけています。あなたは本当に権利を使っているのか。政治を批判するだけでなく、権利を保持する努力をしているのか。民主主義の崩壊を防ぐとは、強い政権を批判することだけではありません。国民の側が、憲法を自分の手で使い、監視し、問い、掘り起こし、押し返すことです。その意味で、いま日本に足りないのは、憲法がないことではなく、憲法12条を生きた行動に変える「不断の努力」そのものなのだと、私は思います。

9 おわりに

高市政権の現状を「民主主義の崩壊」という観点から見るとは、今すぐ独裁だと叫ぶことではありません。私が言いたいのは、圧倒的多数の獲得、国会時間の圧縮、政治倫理への鈍感さ、安全保障の加速、そして支持率の高さがもたらす自己過信が、民主主義を内側から傷める条件になり得るということです。民主主義は、敵が攻めてきたときだけ壊れるのではありません。むしろ、勝者が自制を失い、敗者が諦め、市民が「まあ仕方がない」と言い始めたときに壊れ始めます。

だから私は、いまの日本に本当に必要なのは、誰か一人の強い指導者ではなく、国民の側の憲法感覚だと思います。前文、12条、13条、15条、16条、21条、32条、83条以下、96条、99条。こうした条文を、教科書の知識として暗記するだけでは足りません。前文と15条を選挙へ、16条を請願へ、21条を言論へ、21条と行政公開制度を情報公開へ、83条以下と地方自治の制度を監査へ、32条を裁判へ、96条を改憲監視へ、99条を権力者への憲法責任追及へ結びつけていくこと。その一つ一つが、12条のいう「不断の努力」の中身です。その努力がある限り、民主主義はすぐには壊れません。逆にそれを失えば、制度が形だけ残っていても中身は空洞化していきます。高市政権の現状を前にして問われているのは、首相の強さそのものではなく、日本の市民社会がまだ憲法を生きた武器として使えるかどうかなのである、と私は思います。

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