家族が癌になったら。母がすい臓がんステージⅣになった経験から思うこと。
家族が癌になったら・・・・・・、私は今、それを経験しています。2022年12月12日に母(当時80歳)のすい臓がんステージⅣが見つかりました。
現在(2023年5月21日現在)、私を主として、姉二人が家族の看病に当たっていますが、そのことを踏まえ、「家族が癌になったら・・・・ということをテーマに述べていきたいと思います。
ちなみに、母は、2023年6月22日に亡くなりました。
目次
もともと、母が倒れて、回復させていった経験が、私たち家族にはある。
ここにもあるように、私たち家族には、母が倒れて、回復させていった経験があります。患者である母本人はもちろんのこと、そこで、「家族が、命に係わる病気になったときに、どう向き合っていくか!!」というのを学びました。その原点となった出来事(母が脳出血で倒れる)について、まず触れようと思います。
母がいきなり、身体が動かない状態で家に担ぎ込まれた。
もともと、私の母は、54歳の時に、脳出血で急に右半身が動かなくなったことがあります。
急に母が倒れたあの日(私が大学4年生2回目の時)のことを覚えていますが、あの時、急遽、近所の女性の方に担ぎ込まれて、母が家に来たことを覚えています。
母は、その時、喫茶店でその方とお茶をしていた時に、急に気分が悪くなったとのことで・・・・ その方は救急車を呼ぼうか?と聞いたらしいのですが、母が「息子(←つまり、私のこと)がいるから、家に連れて行ってくれ」と言って、担ぎ込まれたのです。
なぜ、母が家に連れて行ってほしいと言ったのか・・・・・、その方だと、判断がオタオタシテいて、取り返しのつかないことになると思い、息子のいる筈の家に担ぎ込んでほしいと強くお願いました(←と、実際に母から聞いた。)。
そして、母が家に担ぎ込まれたのですが、その時は、意識ははっきりしていて、身体が辛うじて動く状態でした。
私は、とにかく、母を居間へと連れていき、連れてきていただいた方には帰っていただき、どういう気分なのか、詳細に聞きました。
母の体が動かない状況を見て、私は直感的に、「救急車呼ぶよりも、自分で担ぎ込んで、病院に行った方が早い!!!」と判断しました。家の車があったからです。
そして、私は、何とか母を車に乗せて、春日井市民病院(当時は、今の春日井警察署のところにありました。)に連れていきました。
脳出血が分かり・・・だんだんと意識が無くなっていく母・・
市民病院に向かう途中の車の中・・・・まだ、母の意識はありました。そして、病院に着いて、正面玄関に車を止め、すぐに看護師さんや医師が来るように、大声で叫びながら、母を車いすに乗せて、病院の中へ…
すぐに看護師さんと医者さんが来てくれて、緊急対応してくれたのは本当に良かったです。病院に着いたときは、意識も朦朧とし始めていたので、すぐにベットに乗せ換えて、精密検査などをしてくれました。
その結果、分かったのが「脳出血」。CT写真で、脳の中央の左側に、出血の白い影が見つかりました。
手術対応できないところなので、出血を押さえていく対応をしていただきました。
ですが、お医者さまには、(白い影がまだ小さいとはいえ、)命を落とす可能性も無きにしもあらず、ということと、身体の麻痺が一生残る可能性が高いということを言われました。
これが私たち家族が突き付けられた現実です。
そのような中でも、、母の意識は混沌としていきます。春日井市民病院に急遽入院し、父や姉が来たときは、声をかけても、誰か分からない状況でした。
今でも、覚えているのは、父が「誰かわかる?」と聞いても、唸りながら「親・・戚・・のひと」とたどたどしく応える母の姿です。
これから、どうなるのか・・・・、この日、私たち家族は、非常に不安な夜を過ごしました。下の姉は、夜通しでワンワン泣いていたのも覚えています。
驚異の回復力を見せた、母。
しかし、ここから母は、驚異の回復力を魅せました。
なにしろ、入院2日目にして、うるおぼげな状態ながら、おしっこの管を外して、トイレに這いつくばって、行こうとする人です。(←これを看護師さんから聞いた時、啞然としたと同時に、なぜか、ほっとしました。)
普通、2~3ヶ月は入院するところを、1か月で退院し、その後、リハビリもしながら、1年後には、周りから見て、麻痺を感じさせないほどになり、近くのスーパーで働き始めました。※ちなみに母が退院するとき、「どの患者さんも、これぐらいの気持ちもって退院してくれるといいんだけどなあ~」とお医者さんに褒められました。
この時の母の驚異の回復力を、私は忘れていないのです。
本人の意志から、幸せ=「どういう状態が幸せなのか」を求めていき、それを達成していくためのアクションをしていく!
家族が病気になったときの心構えを、私たちは、母から学びました。
母の場合は、「普通に働いて、普通に生きる!」ところに夢を見出していたのだと思います。
だからと言って、母が復活するための「苦行」をしていたわけでありません。
むしろ、復活する過程を楽しんでいたところがあります。
私ははっきり覚えていますが、母は脳出血からの意識朦朧から、表情が回復していくと同時に、普段からの様子が変わっていきました。具体的には・・・・
- 笑顔であることが圧倒的に多くなった。
- 家族に甘えることが多くなった。
倒れたことで、どういう心境の変化があったのかは、分かりません。ただ、このポジティブな変化が家族に安心感をもたらしたのは確かですし、母の驚異的な回復につながった要因であることは間違いないと思います。
(すい臓がんステージⅣの)母にとって、どういう状態が「幸せ」なのか。
母が癌と分かったとき、どういう状況が母にとって幸せなのか、と言うことを考えました。
母はよく、「楽に死にたい」とも言っていました。そういう会話を普段から良くしていたので、私は、苦しい中で病気と闘い続けるよりも、いかにして、日々「楽」な状況を作っていくかが、大事だな思いました。
実際、脳出血から復活する母を経験した私たちにとって、エンドレスな苦しさを伴って、見込みが分からなさすぎる回復を選ぶよりも、楽に人間らしく死を迎えさせることがどれだけ幸せか!!!が大事でした。
楽に生きることができるのであれば、完治も期しながら治療するを選ぶこともできるでしょう。
しかし、現実的に死が避けられないのであれば、その過程で、いかに楽に過ごせる環境を創っていくかが大事で、その先に『幸せに生きる』『幸せに死を迎えさせる』姿を描き、家族としてそれを目指すことが大事だと思ったのです。
ですから、私は、密かに「母を幸せに死なせる指針」を作り、それに向かって、動くことにしました。
母を幸せに死なせる指針
理念
母が幸せ実感をもって、死を迎える
指針
- 【母が】自宅で生を終える。
- 母に苦痛を感じさせない環境づくりに、邁進する。
- 家族と母が、触れ合える状況をできるだけ多く創る
- 母が余生を穏やかに過ごせる環境を創る。
とにかく、母が穏やかにその生を終えることができるような環境を創っていくことに徹していこうと思ったのです。そのために、自宅で家族の温かみを感じながら、身体的苦しみを無くし、精神的な苦しみを無くすことで、穏やかに命を終えていく環境を創ろうと考えたのです。
具体的にどのようにやっていくかまで述べたら、時間が無くなるので、少なくとも、どのように日々を過ごしてきたか記すことで、その実践記録としたいと思っています。それをブログという形の日記で、やっていきます。
母が、すい臓がんステージⅣになりました。(←をクリック)
そして、2023年6月22日に亡くなりました。
母のいのちと向き合うブログを書いています。
この記事も、そのブログの一記事です。
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