1976年2月愛知県名古屋市生まれ。同年11月より愛知県春日井市で育ちました。現在も愛知県春日井市在住。父は日本人で、母は在日済州島人2世です。
現在は「職場環境改善工房」の代表として、ハラスメント防止をコンセプトとして企業研修やコンサルティングを行っています。
また、ハラスメントの個人相談対応もしております。
目次
「はらだよしひろ」がこだわってきたこと。
私は、私の人生の中で、こだわってきたことがあります。それを紹介します。
1⃣ 「パワハラ」の専門家であること。
私は、35歳の時に就職した会社で、上司のパワハラに遭い、一年半闘った経験があり、それを2013年に本として出版しています。
このパワハラ地獄敢闘記は、パワハラが始まった日から、労働審判によって、最終解決するまでの道のりを、リアルに描いたものです。
実際の録音や労働審判の書類のやりとりなどを元に、実際に行われたことをリアルに表現しているので、パワハラ実体験本として、今でも高い質を保っていると評価されています。
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そして、これをきっかけにパワハラを無くしたい!という想いで、パワハラの個人相談と、企業向けコンサルティングを始めました。
ハラスメント相談窓口
また、このハラスメント窓口以外にも、愛労連相談センターの相談員も行っています。
今まで、1000件以上のハラスメント相談に対応してきました。
ハラスメントと言っても、詳細をみると、別の労働問題だったりします。つまり、私は「ハラスメントを起点とした労働問題解決のスペシャリスト」と言えます。
ハラスメント防止コンサルタント
企業向けのハラスメント防止のコンサルタントや研修を行っております。
これだけではなく、管理職研修・新入社員研修などの研修も行っています。
ハラスメントがあるということは、自分が自分らしく働けない状況があることを示しています。自分が自分らしく働けないことを受け入れてしまっている日本社会。それを少しでも変えていくために活動しています。
2⃣ 父の想いを知って「自分らしく」社会に貢献すること。
父が小学生6年生だった私に、ポツリとこう言いました。「俺は、お前が社会に貢献する人間であれば、それで良い」
あまりの突然の言葉に、驚き、そして今でも鮮烈に私の記憶に残っています。
父は、昭和10年に、北海道十勝郡陸別町※日本一寒いまち、オーロラの町として知られています。で生まれ、7歳の時に満州(現在の中国東北部)の牡丹江の軍属の家に、養子に出されました。そして、1945年8月9日、ソ連軍軍が満州に攻めてきたことにより、父は当時の親とはぐれ、一人決意して1000Km以上の道を牡丹江から奉天(当時の瀋陽)まで歩き、奉天から出る最終列車の運転台(蒸気機関車の運転台)に飛び乗り、大連にから船に乗って、日本にいる実父母(私の祖父母)のもとに帰った経験をもっています。
大連では、私の祖父と同郷(豊橋市老津町)であり、当時、旅順工科大学の教授をしていた彦坂忠義氏※原子力に関する世界にも先駆的な研究成果を出していたことで知られる。 の尽力で日本行きの船にかろうじて乗ることができ、日本に戻ることが出来ました。
父が満州にいたこと、そして、ソ連軍の侵攻によって、一人で逃避行をしたことをはじめて私に語ったのは、私が18歳の時でした。
昼は山などで隠れ、夜に移動する・・・・の繰り返しで、場合によっては草などを食べ空腹に耐えながらも生き延びる。ソ連軍飛行機の機銃掃射に対して、死体を盾にして難を逃れたこともあった。
とてもここでは書ききれる内容ではありません。しかし、わたしは話を聞いた時に、こういう状況の中でも一人で生き延びてきた父を誇らしく思いました。いや、本当に生きててありがとうと思いました。
理不尽は、戦争の中にだけあるものではありません。 一見平和の中にあっても理不尽は多々あります。日常生活における理不尽や問題とキチンと向き合い解決していくことは、豊かな生活の基盤となっていきます。
父は10歳の時に、苛烈な状況の中で決断をし、戦火の中を生き延びた体験をしました。
「生きる意思」の中で、目の前に迫る死という現実に対し、打破したことで、母と出会い、幸せな人生を手に入れました。それを、「生きる意思をもって幸せを手に入れた」というならば、父が私に言った冒頭の言葉は、生きる意思をもって、社会に貢献をするということなのだと思います。
ですから、私は「社会に貢献する」ということを次のように考えています。
社会貢献の大原則
- 自分らしく、「こうありたい」という意思をもって、生きること
- 自分と自分の関わる全ての人が幸せであることを常に目指すこと。
私は、父が言った何気ない言葉を、自分の意志として信念を持ちながら、今も、生きています。
3⃣ 母のルーツと生きる信念に、誇りをもって、未来へと生きること
私の母は、在日コリアンです。※現在は日本国籍 昭和17年に京都で生まれ、昭和20年に終戦を迎えると、祖父(母から見たら父)の生地である済州島表善面兎山里に祖母(母から見たら母)と帰ります。 ※祖父が亡くなったという事情もここにはあると思われる
そして、事情があり、昭和22年ごろまでには日本に戻ってきました。
そして、1948年(昭和23年)4月3日に済州島4・3事件が始まります。
この事件では、8万人の島民が虐殺されました。私の母もこの時まで済州島に残っていれば、この虐殺された一人だったかもしれません。
済州島四・三事件 - Wikipedia (事件の内容は、左をクリック)
そして、実際に、様々な虐殺エピソードが済州島のあちこちに残されています。そして、そのうち、祖父の生地である兎山里での虐殺をモチーフにした小説が、日本の講談社から、出版されています。
この小説では兎山里はT村という名前で出てきますが、この時の虐殺の時、私の大叔父が実際に亡くなっています。
母は運よくこの壮絶な事件で命を奪われることはありませんでした。しかし、この事件の影響は、日本における母の人生にも、大きな影響を与えていたことは間違いありません。
別のところで、語るかもしれませんが、母は、自分らしく生きることに、シビアに、文化的に、人間らしく、独立独歩ながら、家族への愛情を降り注いだ人でした。
平和時においても、権力は人を都合よく生かそうとします。
ひとりひとりが自分らしく生きるということは、意思をもって生きることであり、自分が自分らしく生き抜くことなのだと思います。
ちなみに、私は「母は、在日コリアンです」ではなく、「母は在日済州島人です」と言っています。これは、自分のルーツを誇り高く名乗るとき、コリアンよりも済州島人のほうがしっくりくるからです。※但し、普段の会話で言うときは、「母は、在日コリアンです」ということもしばしばです。理由は簡単。その方が分かりやすいからです。
私は何人か?について、あなたに贈るメッセージ
そして、私自身「日本人」であると思っています。日本人とは日本で生きることに誇りを持つ人のことだと私は考えています。ですから、あなたが私のことを在日コリアンと思っていたり、お前は日本人なんかじゃない!朝鮮人だ!と思っていても構わないのです。しかし、私が何人であるかは私自身が決めることです。あなたが私をカテゴライズすることはできないのです。そして、たくさんの誇りを持てば持つほど、同時にいくつもの人になれるのです。
私は、日本に生きることに誇りを持っているから、日本人です。
私は、春日井に生きることを誇りをもっているから、春日井人です。
私は、済州島のルーツに誇りを持っているから、在日済州島人です。
4⃣ 自分らしく生きる=自分の人生理念を生きる
私は自分の人生理念を次のように定義しています。
人生理念の定義
自分の自分の関わる全ての人が幸せになる法則
そして、自分の人生指針を次のように定め、自分らしく生きようとしています。紹介します。
このように、自分の人生を生きていこうとしています。
はらだよしひろプロフィール
私、はらだよしひろのプロフィールは、以下のようになります。
はらだよしひろプロフィール
- 春日井市立西部保育園卒園
- 春日井市立春日井小学校卒業
- 春日井市立西部中学校卒業
- 愛知県立春日井西高等学校卒業
- 名城大学法学部法学科卒業
- 但し、一年留年。