経済の語源から考える。どうして「お金」で安心を作れないの?
私たちの社会の在り方に、「経済」はとても重要な要素となっています。しかし、本来の「経済」という言葉の意味と、その由来から考えると、実は本質的な捉え方ができないのも良く分かります。今回は、その語源から経済の本質的に足りない部分を論じていこうと思います。
目次
経済の語源
経済の語源というと、まず、「経世済民」という言葉を思い出す方も多いのではないでしょうか?
その外にも、「経世済俗」「経国済民」の略称が経済の語源ということも言えそうです。
この場合の「経」とは、どういう意味なのでしょうか。まず、「経」の字の意味を見出しましょう。
「経」の字の意味
では、「済」意味は何でしょうか?
「済」の字の意味
ここから見える、「経済」の本当の意味。
ここから、「経済」の本当の意味を見ていくと、次のようになるでしょう。
- 助けることを営む
- 救うことを治める
「済」という字の意味からいえば、助けることを社会のルールとして営んでいく、治めていくことが本来の「経済」の意味なのだと思います。
では、経済という熟語の意味は、何でしょうか?
「経済」の意味
不思議なことに、ここに要は「お金」が絡んできます。
また、経済は「economy」の訳語としても知られていますが、ここに経済という言葉にお金が絡んできた理由が分かるかもしれません。一つの興味深い資料を見つけましたので、紹介します。
経済とeconomyの関係。
そもそも、誰がeconomyを経済と訳したのでしょうか? それは、福沢諭吉だともいわれています。
ただ、それは「political economy」の訳としての経済だとのことです。
実際にそれを記した、神戸大学経済経営研究所 井澤教授の寄稿がありますので、それを見てみましょう。
Microsoft Word - column103.doc (kobe-u.ac.jp) から
economyの語源を考えたとき、家の管理にはお金がかかり、そこに政治=社会というものがかかってきたときに、社会全体のお金の循環が経済という言葉に結び付いたともいえるのではないでしょうか。お金の循環も、助けることを営むことでコントロールできると直感したならば、そういう結びつきもアリなのだと思います。
ですが、お金の循環やコントロールと、助け合い・救い合いにはどうしても交わえないところがあります。それは「心」です。救ってもらった安心感や助けてもらった安心感は、どうしてもお金で救いきれない部分があるのです。
どうして、「お金」で安心感が作れないのか?
では、なぜ「お金」で安心感が作れないのでしょうか?
これは、「お金」が私たちの生活や社会の中で、あらゆる「不安」を作り出す要素になっているからです。
- お金は稼がないといけない(入らないといけない)
- お金を出さないと、満足や安心が得られない。
- 十分なお金がないと不安である。
- 十分なお金があっても不安である。
枚挙にいとまが無いのですが、実は重要な事実があります。
ゆるぎない安心感を与えるお金の状態って、どんな状態? を説明できる人はいままで一人もいなかったということです。
これは、国家レベルであっても、一個人であってもです。
私たちは、過去のお金の不安も、今のお金の不安も 未来のお金の不安も、一切解決できないまま、今も未来も過ごさなければいけないのです。
「経済」を絡めた、私が作った詩
ここで、私が昔、「経済」という言葉を使って書いた詩があるので、紹介します。
↑ここに、収蔵されている「もっと もっと」という詩がそれにあたります。ここでも、改めて紹介します。
もっと もっと
作者 はらだよしひろ
もう少しがあっていい
私が生きるための安寧は
笑みが交わされた挨拶だから
もっともっと息をしてていい
あったかさは
人の体の中にあるから
もちろん、いつ食べてもいい
一生懸命には
たくさんのエネルギーが必要だから
人は経済のおもちゃじゃない
だから君はもっとであっていい
私ももう少しであっていい
ここに、「人は経済のおもちゃじゃない」という一節があります。不安要素を作る「お金」という代物に、人の心がないがしろにされている反発を表現したんだなあと、今では思います。
心を豊かにする、お金の在り方。それが、これからの時代をよりよくしていく、一つの視点なのだと思います。