思い通りにならない人生。そして、人生思い通りとは慈悲からはじまる。
私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。
思い通りにならない!から始めた思索
今日は、「思い通りにならない」について、語っていこうと思います。
正直、つらつら日記みたいなものですので、ご了承ください。
生きることにおいて、「夢」や「希望」をもつことはどんな意味があるのでしょうか?
正直に言って、「夢」や「希望」を持つことは、ただ、苦しいだけです。なぜなら、そこに「思い通りにならない」ものがあるからです。
では、「思い通りにならない」が絶望なのか?
「思い通りにならない」は、はっきり言ってしまえば、独りよがりな絶望だと私は感じます。
なぜなら、絶望とは、苦しみだからです。
思い通りにならない。気持ちが分かってもらえない。認められない。・・・・満たされない心が苦しみを産む・・・・であれば、どうすれば満たされるのでしょうか?
意外と人は、この「満たされた心」を知らないのです。
それに反して、「いいや、そんなことないよ。私は○○の時、満たされているよ!」という人もいるでしょう。
でも、それは条件付きの満たされた心でしかありません。「~であれば・・・・」「~だったら・・・・」という条件を知らず知らずのうちに付けてしまっているのです。
これは、自分の心を、他の要因によって満たそうとしているからです。でも、それは人間が持つ本能の部分がそうさせるのだと私は確信しています。人間も動物としての本能を持っています。知性を発達させた人間は、本能を絡ませて、「思い通りにならない」ものを征服しようとするのです。
だからこそ、「思い通りにならない」感情が入ってしまうと、そこに苦しみが生まれ、その苦しみから逃れるために、自己逃避したり、自己正当化をしてしまうのです。しかも、無自覚に。
でも、結局は何の問題も解決していないのだから、結果的に無自覚の苦しみが続いているのです。
とどのつまり、「思い通りにならない」が絶望なのは、苦しみの本質と向き合おうとしない人間の本能のなせる業(ごう)なのだと思うのです。
思い通りにならない からはじめる人生
苦しみの本質は何か。仏教でいえば、「貪(むさぼり) 瞋(いかり) 痴(無自覚の愚かさ)」の三毒になると思いますが、私は「本当の安らぎに向き合わない」=「他者と自分の安らぎに向き合わない」=「慈悲の心が欠けていること」だと思います。
言い換えれば、苦しみの本質とは、「思いやりが無い」という一言になるかと思います。
「思いやりの無い心」は、思い通りにならない感情が入ると、怒りや貪りのスイッチが入り、無自覚の愚かさの連鎖に入ってしまいます。
「思いやりの無さ」は、不安や恐れの感情を慈しみの心へと転換させることが無いのです。
要は、不安になりっぱなし、恐れっぱなしで心穏やかになることが決してない。それでも時間が過ぎれば落ち着くので、ホッとはするが、似たようなケースが起これば、また不安や恐れの感情にさいなまれます。つまり、心に怒りや恐れや不安の種が植え付けられ、何かの折にその感情が芽吹くのです。
思いやるとは、自分を癒し、相手を癒すことだと思っています。思いやりの基礎は「目の前にいる人に笑顔で、明るい声で接すること」です。場合によっては声をかけることは難しいのであれば、笑みを送ったり、心の中で「ありがとう」と念じたり・・・・
私の場合は、すれ違った人に、挨拶をするというところから実践をしています。
挨拶をするということは、結構、恥ずかしかったりするものです。でも、その「恥ずかしい」という感情は「思いやりの無さ」と直結していることも感じます。ですから、私はその恥ずかしい気持ちを突破して、挨拶をし続けているのです。
心地よい挨拶は、相手の心もほぐし、そして、自分の心の成長を促します。思いやりとは、思い通りにならない傲慢な心を慈しみへと変えていくものだと思うのです。
ちょっとした心遣いが、「気持ちわかって貰えた~」「なんか、心地いいな~」と思ってもらえることもあります。自分の心遣いに「ありがとう」と返してもらったら、嬉しいですよね。
実は、人生思い通りになるとは、こういった些細な喜びや嬉しさの感情を創り出す積み重ねなのだと思います。だからこそ、慈しみの心をもって人に接していくことが、思い通りにならない人生を豊かにして、思い通り以上の命の謳歌に繋がっていくのだと思います。
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