江戸時代の食事を《農民・漁民・都市・流通・経済》からつなげる
私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。

「江戸時代 食事 農民」という言葉から、どのような食卓を思い浮かべるでしょうか。
白いご飯に味噌汁、漬物。江戸の町では寿司や蕎麦、天ぷらが売られ、農村では農民が米を作りながら雑穀を食べていた――。
こうした説明は、決して間違いではありません。
しかし、「江戸時代 食事 農民」という視点から考えていくと、私はもっと大きな問題が見えてくるように思います。
それは、
「その食べ物は、どこで作られ、どう保存され、どう運ばれ、誰が売り、誰がお金を払って食べていたのか」
という問題です。
同じ江戸時代でも、江戸の町人と山間部の農民では、食べているものは大きく異なりました。
しかし、それは単純に「都会は豊かで農村は貧しかった」ということだけではありません。
海の近くなのか、山の中なのか。
街道に近いのか、川の船着場に近いのか。
大都市の市場と結ばれているのか。
米を商品として売ることができるのか。
現金収入を得られるのか。
そして何より、食べ物を腐らせずに、どこまで運ぶことができるのか。
こうした条件によって、人々の食卓は変わります。
私は、江戸時代の食事とは、単なる「食文化」の問題ではなく、農業・漁業・物流・保存技術・都市化・貨幣経済が交差する場所だったのではないかと思います。
目次
- 1 江戸時代の食事を考える出発点は、やはり「米」
- 2 江戸時代の食事――農民は本当に米を食べられなかったのか
- 3 江戸時代の経済は、「米を作る人」と「米を食べる人」が同じとは限らないところが面白い
- 4 江戸時代の食事と農民――雑穀食は『貧しい食事』だったのか
- 5 漁民なら、毎日新鮮な魚を食べられたのか ~貨幣・商品という点から~
- 6 食べ物を遠くへ運ぶためには「腐敗」という壁がある ~農・漁の経済化の技術革新の根本~
- 7 塩・乾燥・発酵――保存技術は物流技術でもあった
- 8 そして江戸時代は、「容器」も物流技術だった。だから、食文化も育った
- 9 江戸時代の海運・川運・陸運は、それぞれ別の役割を持って、有機的なネットワークとして繋がっていた。
- 10 江戸時代の「高速輸送」は、《保存》と、《止まりを減らす》に快速を加えて成り立っていた。
- 11 巨大都市・江戸では「食べ物を買う」ことが日常になる ~食文化成立のメカニズムの原点~
- 12 日本橋魚河岸が示す「江戸時代の食の都市システム」~魚一皿から見える分業~
- 13 江戸時代の農村経済の変化⇒都市の為の農へ ~市場と結びつく~
- 14 江戸時代の農村は「自給自足の世界」ではなくなっていく ~農民の食事から考える~
- 15 江戸時代の食事――農民と都市をつないだ町と物流
- 16 江戸時代の食事と農民を変えた川運と市場
- 17 江戸時代の食事は「時間」と「距離」に支配されていた
- 18 江戸時代の食事を農民からたどる――一膳の朝飯から経済が見える
- 19 「米の経済」と「貨幣の経済」を、食事が結んでいた
- 20 「江戸時代 食事 農民」というテーマから見えてくる経済システムと社会
- 21 はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
江戸時代の食事を考える出発点は、やはり「米」

江戸時代の経済を考えるうえで、米は特別な存在です。
大名の領地は「何万石」という石高で表され、武士の俸禄も米を基準としていました。年貢も米を中心として徴収されました。
つまり米は単なる食べ物ではありません。
政治的な経済力を測る尺度であり、幕府や藩の財政を支える基礎でもありました。 農林水産省も、江戸時代には武士の給与や大名領の経済規模が米を基準としていたことを説明しています。
ただし、ここで一つ考えなければならないことがあります。
米で税を取ったとしても、藩は米だけでは運営できません。
江戸屋敷を維持する。
職人に仕事を頼む。
衣服を買う。
材木を買う。
参勤交代をする。
こうした支出には貨幣が必要です。
そこで集められた米は市場へ送られ、商人を通して貨幣へと換えられます。
つまり江戸時代の経済は、
米で政治や財政を組み立て、貨幣で実際の経済を動かす
という二重構造を持っていました。
そして、この二つを結びつけていたのが「流通」です。
江戸時代の食事――農民は本当に米を食べられなかったのか

「江戸時代 食事 農民」というテーマで最もよく語られるのが、
「農民は米を作っていたが、その米を年貢として取られてしまい、自分たちは粟や稗を食べていた」
という話です。
確かに農村では、米だけの飯ではなく、麦、粟、稗、芋、野菜などを加えた糅飯・かて飯が広く食べられていました。重労働をする農村では三食が早くから普及した地域もありますが、その内容は雑穀を中心とする質素なものだったことが史料から確認されています。
しかし、ここは注意が必要です。
「農民は米を食べられなかった」と全国一律に考えてしまうと、実態を単純化しすぎます。
日本列島は南北に長く、水田に向く土地もあれば、麦や蕎麦、粟、稗などに向く土地もあります。
たとえば青森でも、津軽では稲作が盛んだった一方、やませの影響を強く受ける南部地方では小麦や粟、稗などを中心とした食文化が発達しました。山梨では水田に適する平地が限られ、麦・雑穀・蕎麦などの粉食文化が発達しています。
つまり農民の食事は、
身分だけではなく、土地と気候によって大きく違った
のです。
江戸時代の経済は、「米を作る人」と「米を食べる人」が同じとは限らないところが面白い

ここからが、江戸時代の経済の面白いところです。
農民が米を作る目的は、自分たちが食べるためだけではありません。
年貢として納める。
市場で売る。
酒や菓子などの原料として供給する。
こうした「商品」としての米が、江戸時代には大きな意味を持つようになります。
下野国、現在の栃木県周辺を研究した事例では、17世紀後半以降、農民は領主へ納めるためだけでなく、市場で販売する商品として米を生産するようになっていったことが指摘されています。
その米は江戸だけでなく、城下町、村、河岸、山村など広い範囲へ販売されました。
さらに興味深いことに、19世紀初頭には、農民自身が市場で安価な米を買って食べる動きもみられます。
これは重要だと思います。
自分の田で作った米をそのまま自分で食べる。
そういう自給自足的な農村だけを想像していると、この仕組みは理解できません。
農民は、米を生産する人であると同時に、米を売る人でもあり、場合によっては市場から米を買う人でもあったのです。
ここまで来ると、農村もすでに貨幣経済の外側にはありません。
江戸時代の食事と農民――雑穀食は『貧しい食事』だったのか

農村の食生活について、もう一つ考えておきたいことがあります。
現代から見ると、白米をたくさん食べることが豊かで、雑穀や野菜を混ぜることが貧しい食事のように見えてしまいます。
しかし、これは現代の価値観をそのまま江戸時代に持ち込んだ見方でもあります。
農家では麦、粟、稗、蕎麦、芋、大根、豆、山菜など、その土地で得られるさまざまな食材が使われました。
米を節約するという必要から生まれた食べ方であっても、その土地の気候、農業、保存方法に適した食文化でもありました。
しかも都市の白米中心の食生活が、必ずしも健康上優れていたわけではありません。
江戸では精白した米を大量に食べる食生活が広がり、ビタミンB1不足による脚気が「江戸わずらい」と呼ばれるほど問題になりました。農林水産省も、都市部で白米食が広がったことと脚気との関係を紹介しています。
ここには面白い逆転があります。
農村では白米を十分食べられない。
しかし、
都市では白米を食べられることによって、別の栄養問題が発生する。
食の豊かさとは、単純に白米の量だけでは測れないのです。
漁民なら、毎日新鮮な魚を食べられたのか ~貨幣・商品という点から~

では、漁村はどうでしょうか。
海のそばに住んでいる漁民なら、毎日新鮮な魚をたくさん食べていたように思えます。
確かに農村に比べれば、魚介類へのアクセスは圧倒的に良かったでしょう。
しかし、ここにも「商品」という問題があります。
価値の高い魚が獲れたなら、それを全部自分たちで食べてしまうより、市場へ売った方が現金になります。
特に江戸のような巨大都市が形成されると、魚は重要な商品になります。
国立国会図書館の資料でも、江戸や大坂の人口増加によって大規模な魚市場が形成され、荷主から問屋、仲買、小売へと魚が流れる流通の仕組みが発達したことが紹介されています。
つまり漁民もまた、
魚を獲る人であると同時に、市場へ商品を供給する生産者でした。
ここでも農民と同じ構造が見えてきます。
農民が米を作るからといって、作った米をすべて食べるわけではない。
漁民が魚を獲るからといって、良い魚をすべて自分たちで食べるわけではない。
生産物は市場へ流れ、貨幣へ変わります。
江戸時代の食事を理解するためには、生産と消費を分けて考える必要があるのです。
食べ物を遠くへ運ぶためには「腐敗」という壁がある ~農・漁の経済化の技術革新の根本~

ここで物流の問題が出てきます。
米は物流に非常に適した食品です。
乾燥した状態で保存でき、一定量ごとに俵などにまとめることができ、大量に積むことができます。
ところが魚や野菜は違います。
時間がたてば傷みます。
冷蔵庫も冷凍トラックもない時代です。
そこで江戸時代の食品流通を考えるうえでは、
「何を、何日間維持できるのか」
という視点が非常に重要になります。
食べ物の保存可能時間が、流通可能な距離を決めるからです。
この問題に対して、人々は大きく二つの方法をとりました。
一つは、食べ物そのものを長持ちする形へ変えること。
もう一つは、傷む前にできるだけ早く運ぶことです。
塩・乾燥・発酵――保存技術は物流技術でもあった

遠くへ運びたい魚を、そのまま生魚として運べないのであれば、加工すればよい。
塩を使う。
干す。
燻す。
発酵させる。
酢を使う。
こうして保存できる時間を延ばします。
干物、塩魚、鰹節などは、その典型です。
昆布や干した海産物も長距離輸送に適しています。
ここで重要なのは、保存食を単に「昔の人の知恵」として見るだけではなく、
物流可能距離を伸ばす技術として見ることです。
一日しかもたない食べ物なら、一日で届く範囲にしか市場を作れません。
一か月保存できるなら、何百キロも離れた市場へ運ぶことができます。
つまり、
保存期間が延びることは、市場が広がることなのです。
味噌、醤油、酒などの発酵食品についても同じことが言えます。
大豆や米そのものとは違った商品へ加工され、保存・運搬が可能になることで、地域を越えた商品になります。
実際、利根川や江戸川沿いでは舟運によって各地の産物が集まり、大消費地江戸と結ばれたことを背景として、醤油、味噌、酒などの産業が発達しました。
つまり、
農業+加工業+保存技術+物流
が一体となって、江戸時代の食文化を作っていったのです。
そして江戸時代は、「容器」も物流技術だった。だから、食文化も育った

食べ物を運ぶには、船や道だけでは足りません。
何に入れて運ぶのかも重要です。
米なら俵。
酒や醤油なら樽。
魚なら桶や籠。
乾物なら俵や箱。
液体を長距離運搬するためには、漏れにくく、積み込みやすく、荷役しやすい容器が必要になります。
現代の物流で段ボール箱やコンテナが重要なのと同じです。
食文化というと、中身ばかりに目が向きます。
しかし、江戸時代の食事を支えていたのは、
船、河岸、街道、問屋、倉庫、樽、俵、桶
といった、一見すると料理とは関係なさそうな仕組みでした。
江戸時代の海運・川運・陸運は、それぞれ別の役割を持って、有機的なネットワークとして繋がっていた。

江戸時代の物流を考えるとき、海運・川運・陸運を一つにまとめて考えてはいけません。
それぞれに得意分野があります。
海運は、大量の荷物を長距離運ぶことに向いていました。
米、酒、塩、木材、乾物などを船に大量に積み、一度に遠くまで運ぶことができます。
川運も、陸運に比べて大量輸送に適していました。
利根川水系では、江戸の人口増加と大量の物資需要を背景に大規模な舟運網が形成されました。東北や北関東からの米や各地の産物が河川を通じて江戸へ運ばれ、川沿いには河岸、倉庫、河岸問屋などが発達しています。
一方で陸運には、水運にはない強みがあります。
船は水のある場所にしか行けません。
村から河岸まで。
港から町まで。
市場から店まで。
最後は人や馬によって運ばなければならない場合があります。
つまり江戸時代の物流は、
陸運か、水運か、海運か
という選択ではありません。
実際には、
村から陸路で河岸へ運び、川船に積み、港から海船へ載せ替え、都市の河岸へ着いたら再び陸上輸送する
というように、それぞれを組み合わせたネットワークでした。
これは現代のトラック・鉄道・貨物船を組み合わせた物流に近い発想です。
江戸時代の「高速輸送」は、《保存》と、《止まりを減らす》に快速を加えて成り立っていた。

生魚のような傷みやすい食品では、保存加工するだけでなく、できるだけ短時間で市場へ届けるという方法もありました。
江戸周辺では「押送船」と呼ばれる快速船が使われました。
押送船は、魚を江戸へ送るために関東周辺で用いられた船で、櫓を使って進むことからその名がついたとされています。
重要なのは、「高速」といっても現代のようにエンジンを強力にするという話ではないことです。
風が悪い。
人が疲れる。
荷物の積み替えに時間がかかる。
途中で長時間止まる。
こうした時間を少しでも削っていく。
つまり、
輸送速度そのものだけでなく、「止まっている時間を減らす」
ことが高速化でした。
ここで保存技術と高速輸送は、反対方向から同じ問題を解決していることが分かります。
保存とは、
腐るまでの時間を長くする技術。
高速輸送とは、
到着するまでの時間を短くする技術。
この二つの時間の競争の中に、江戸時代の生鮮食品物流があったのです。
押送船とは――鮮魚を江戸へ急いで運んだ快速船

押送船(おしおくりぶね)は、江戸時代に、房総半島や三浦半島などで獲れた鮮魚を江戸の魚市場へ急いで運ぶために使われた快速船です。
生魚は時間がたつほど商品価値が落ちるため、普通の廻船のように大量の荷物をゆっくり運ぶのではなく、「少しでも早く市場へ届けること」そのものに価値がありました。
押送船は比較的小型で速力を重視し、帆を使うだけでなく、必要に応じて複数の櫓を漕いで進みました。そのため、風が弱いときにも人力で船を進めることができました。
つまり押送船の重要な点は、単に「速い船」だったことだけではありません。
風を待つ時間を減らし、魚が傷む前に市場へ到着する確率を高めるための物流技術だったのです。
江戸の巨大な魚市場と、その周辺に広がる漁村を考えると、
漁場 → 押送船 → 江戸の魚市場 → 仲買・小売 → 消費者
という、生鮮魚を時間との競争の中で届ける流通経路が成立していました。
したがって押送船は、冷蔵・冷凍技術のなかった江戸時代に、「保存期間を延ばす」のではなく、「輸送時間を縮める」ことで鮮度を維持した技術の代表例と考えることができます。
巨大都市・江戸では「食べ物を買う」ことが日常になる ~食文化成立のメカニズムの原点~

農村と都市の最大の違いの一つは、ここにあります。
農村では、自分の家や周囲で作られた食べ物を食べる割合が大きい。
一方、江戸の住民の多くは、自分で米を作っていません。
魚も獲りません。
味噌や醤油も、すべて自分で作るとは限りません。
つまり都市生活では、
食べるためには、食べ物を買わなければならない。
ここで食事と貨幣経済が直接結びつきます。
米を買う。
豆腐を買う。
魚を買う。
蕎麦を食べる。
酒を飲む。
料理屋へ行く。
こうして都市では、食事そのものが巨大な消費市場になります。
江戸時代の食文化についての研究では、17世紀には大名や上層町人を中心として食文化が発達し、18世紀前半以降には中下層町人にも広がり、18世紀後半には料理本や料理屋も増加していったとされています。
寿司、蕎麦、天ぷら、蒲焼などの江戸の食文化も、この巨大な消費市場なしには発展しません。
料理人がいるだけでは外食産業は成立しません。
毎日食べ物を買う大勢の客がいる。
食材を供給する市場がある。
市場まで荷物を運ぶ物流がある。
そして客が貨幣を持っている。
これらがそろって初めて、都市の食文化が成立します。
日本橋魚河岸が示す「江戸時代の食の都市システム」~魚一皿から見える分業~

江戸の魚を考えるうえで象徴的なのが、日本橋魚河岸です。
江戸周辺や各地から集まった魚介類は、日本橋周辺の市場へ運び込まれました。
中央区の資料によれば、日本橋川北岸の河岸地は、生鮮魚類の荷揚げに便利だったため、魚市場の中枢となりました。
ここで注目したいのは「川沿い」という立地です。
市場があるから川が利用された、というだけではありません。
水運で大量の食料を直接荷揚げできる場所だから、市場が発達した
とも考えられます。
魚が到着する。
荷を下ろす。
問屋が扱う。
仲買が買う。
小売へ流れる。
そして町の人々が食べる。
この流れを見ると、魚料理一皿の後ろに、
漁師・船乗り・問屋・仲買・小売・料理人・消費者
という分業が存在していたことが分かります。
「江戸の人は魚をよく食べた」というだけでは、江戸の食文化の半分しか見えていないのです。
江戸時代の農村経済の変化⇒都市の為の農へ ~市場と結びつく~

巨大都市では、遠くから運べる食品だけを食べるわけにはいきません。
米や乾物なら遠距離輸送できます。
しかし、葉物野菜などの生鮮食品は、遠距離から運ぶほど鮮度が落ちます。
そこで都市の周囲に、
都市住民へ生鮮食品を供給する近郊農村
が重要になります。
江戸周辺でも、都市市場を意識した野菜などの生産が行われました。国土交通省の資料でも、多摩や江戸周辺地域と江戸との間で農産物の供給関係が形成されていたことが紹介されています。
ここで農業の意味が変わります。
単に家族が食べるために野菜を作るのではありません。
何十万人もの都市住民に売るために作る。
そうなると、
何を作れば高く売れるのか。
どの季節に出せばよいのか。
市場までどれくらいで運べるのか。
いくらで売れるのか。
という判断が必要になります。
農業そのものが、市場と結びついていきます。
江戸時代の農村は「自給自足の世界」ではなくなっていく ~農民の食事から考える~

この点は、「江戸時代 食事 農民」を考えるうえで、とても重要だと思います。
私たちは江戸時代の農村を、
田んぼを耕し、
そこで取れたものを食べ、
必要なものを村の中で作って暮らす、
閉じた自給自足社会として想像しがちです。
しかし実際には、江戸時代が進むにつれて農村も市場経済との関係を強めていきます。
米を売る。
野菜を売る。
綿を作る。
菜種を作る。
薪炭を売る。
魚肥などの肥料を買う。
衣類や道具を買う。
必要なら米も買う。
こうして、
「作る農民」と「買う消費者」が同じ人物の中に存在する
ようになります。
先ほど触れた下野国の研究でも、農民が市場の米価や作柄に対応し、生産や生活を変化させていたことが示されています。
これは、江戸時代の農民を理解するうえで大きなポイントです。
農村にも貨幣が入り、農民自身が市場価格を意識する。
そうなると農民の食事も、市場経済から無関係ではありません。
江戸時代の食事――農民と都市をつないだ町と物流

ただし、江戸時代の食事を、
「都市」と「農村」
だけに分けてしまうことにも問題があります。
江戸や大坂のような巨大都市もあれば、名古屋、金沢、仙台などの城下町もあります。
さらに地方の小さな城下町があります。
港町があります。
宿場町があります。
門前町があります。
河岸の町があります。
在郷町があります。
そして農村、漁村、山村があります。
つまり実際の食文化は、
都会/田舎
という二つに分かれるのではなく、連続しています。
特に重要なのが、交通路との位置関係です。
たとえば山奥の村でも、大きな街道の近くなら商品が入ってきます。
大都市から離れていても、河岸が近ければ川を通じて江戸の商品を入手できます。
地方でも港町なら、遠隔地の商品が大量に入ってきます。
反対に、大都市からそれほど離れていなくても、交通条件が悪ければ商品の種類は限られます。
だから江戸時代の食事の地域差を理解する本当の鍵は、
「都市か農村か」だけではなく、「物流網にどの程度接続されていたか」
にあったのではないでしょうか。
江戸時代の食事と農民を変えた川運と市場

物流網への接続が地域を変えた例として、利根川水系は非常に分かりやすいと思います。
利根川の流路改変や水路整備は、治水や新田開発だけでなく、江戸への物流にも大きな意味を持ちました。
江戸の人口が増えると、年貢米だけでなく大量の日用品・食品が必要になります。
利根川や江戸川を通じて、東北・北関東から米や大豆などが江戸へ流れ、逆方向には塩、茶、衣料、肥料などの商品が地方へ向かいました。倉賀野河岸では、上り荷と下り荷の双方に多様な商品があったことが国土交通省の資料からも分かります。
つまり物流は一方通行ではありません。
農村 → 都市
だけではなく、
都市 → 農村
にも商品が流れます。
この往復が地域経済を変えていきます。
農民が食料を都市へ売り、その代金で別の商品を買う。
ここに貨幣が介在します。
そう考えると、
物流の発展とは、貨幣経済が地方へ浸透することでもあった
と言えます。
江戸時代の食事は「時間」と「距離」に支配されていた

ここまで考えると、江戸時代の食事を見るための一つの面白い尺度が見えてきます。
それは、
「その食品は、何日もつのか」
です。
保存性の高い米や乾物なら、遠くから運べます。
塩漬けにした魚も遠距離輸送できます。
発酵食品も比較的長く保存できます。
一方、傷みやすい魚や葉物野菜などは、産地と消費地の距離が重要になります。
つまり都市の食卓には、
全国規模の遠距離流通で入ってくる食品
と、
都市近郊から短時間で入ってくる食品
が同時に並びます。
これは現代でも基本的には同じです。
現在は冷蔵・冷凍技術によって、この「時間」の制約が大幅に緩和されました。
しかし江戸時代には、保存できる時間が流通距離を強く制約しました。
だからこそ、
塩蔵する。
乾燥させる。
発酵させる。
加工する。
早く運ぶ。
近くで作る。
という、それぞれ異なる方法が発達したのです。
江戸時代の食事を農民からたどる――一膳の朝飯から経済が見える

ここで、江戸の町に暮らす一人の人の朝食を想像してみます。
ご飯。
味噌汁。
豆腐。
漬物。
魚。
醤油。
何気ない食事です。
しかし、一品ずつ由来を追っていくと、巨大な経済システムが現れます。
米は農村で作られます。
年貢として動いた米もあれば、商品として売られた米もあります。
川船や廻船によって都市へ運ばれます。
味噌や醤油には大豆や塩が必要です。
原料は別々の地域から集められ、加工され、樽に入れられて運ばれます。
豆腐は傷みやすいため、大豆などの原料を都市へ運び、江戸市中や町場の豆腐屋で製造して、近隣の消費者へ売る形が適していました。
野菜も近郊農村から運ばれます。
魚は江戸湾周辺や各地の漁場から、市場へ届けられます。
その魚を問屋が扱い、仲買が買い、小売が町へ売ります。
そして消費者は貨幣を払います。
つまり、一膳の食事の中に、
農業、漁業、食品加工、保存技術、包装、海運、川運、陸運、卸売、小売、貨幣、信用、市場
が全部入っているのです。
「米の経済」と「貨幣の経済」を、食事が結んでいた

最初の話に戻ります。
江戸時代は、確かに米を中心とした社会でした。
石高が経済力を表し、年貢米が幕府や藩の財政を支えました。
しかし、実際の日常経済は貨幣なしには動きません。
藩も米を売って貨幣を得ます。
武士も米を貨幣へ換えて生活します。
農民も生産物を売り、必要な商品を買います。
漁民も魚を市場へ出します。
都市住民は貨幣を払って食べ物を買います。
その間を、海運・川運・陸運が結んでいます。
だから江戸時代の経済を私は、
「米で政治を組み立て、貨幣で経済を動かし、物流がその二つを結びつけた社会」
と考えると分かりやすいと思います。
そして食事こそ、その仕組みが毎日現れる場所です。
「江戸時代 食事 農民」というテーマから見えてくる経済システムと社会

「江戸時代 食事 農民」というテーマを調べ始めると、最初は、
「農民は何を食べていたのだろう」
という疑問から始まります。
しかし、その疑問を少しずつ広げていくと、
なぜ農民は米を作るのか。
その米は誰が食べるのか。
売られた米はどこへ行くのか。
都市では誰が食料を作っているのか。
魚はどうやって腐らずに届くのか。
なぜ港や河岸に市場ができるのか。
醤油や味噌の産地が舟運沿いに発達するのはなぜなのか。
そして、都市では白米がどのように広がったのか。
なぜ農村にも貨幣が必要になるのか。
という問題へつながっていきます。
そして最後には、
江戸時代の社会そのものが見えてくる。
私はここが、「食事」から歴史を見る面白さだと思います。
食事をつなげて見ると、江戸時代の社会が見えてくる
江戸の寿司や天ぷらだけを見ていても、江戸時代の食事の全体像は分かりません。
農民のかて飯だけを見ても分かりません。
漁民の魚だけを見ても分かりません。
それぞれを、
生産する人、運ぶ人、加工する人、売る人、買う人、食べる人
としてつなげてみる。
すると、都市と農村、農業と漁業、米と貨幣、保存技術と物流が、一つの大きな循環として見えてきます。
江戸時代の食卓は、その土地だけで完結していたわけではありません。
とりわけ商品経済が発達した地域では、一膳の食事の背後に、遠く離れた村、漁場、河岸、港、市場、商人が存在していました。
そう考えると、江戸時代の「食事」は、単なる毎日の生活の一場面ではありません。
日本列島に広がっていった市場経済の、最も身近な到達点だった。
そして農民も漁民も都市の町人も、その大きな流れの中で、それぞれ食べ、作り、売り、買いながら生きていた。
私は、江戸時代の食事を考えるとき、そこまで視野を広げてみたいと思います。
はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
私、原田芳裕は、様々な方と繋がりたいと思っています。もし、私と繋がりたいという方は、是非、下のメールフォームから、ご連絡ください。ご相談事でも構いません。お待ちしております。





