戦争体験を語り継ぐ――10歳で満州で一人で逃げ帰った父と、済州島4・3事件を母方の親族から直接聞いた私
私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。
さらに、社会問題・政治問題にも首を突っ込みます。
日常で思ったことも、戦争体験について触れ、書いていきたいと思います。
目次
- 1 はじめに:私たちは、当事者が感じてきた「血」から逃げてきた父の満州、母の済州島4・3、そして私が家族の戦争体験を語り始めるまで
- 2 1 北海道に生まれ、七歳で満州へ渡った父
- 3 2 「敵が来たら、手榴弾を持って飛び込め」
- 4 3 1945年8月9日、ソ連軍の満州侵攻
- 5 4 父が語った戦争体験――逃避行の六つの場面
- 6 5 800キロという距離を、十歳の身体で考える
- 7 6 朝鮮人の家で命をつないでもらった
- 8 7 奉天で「最終列車」に乗せてもらう
- 9 8 旅順で彦坂のおじさんに会う
- 10 9 1994年3月18日、それは、父が初めて戦争体験を家族に語った日だった。
- 11 10 父はなぜ、満州と母の出自を同じ日に語ったのか
- 12 11 父はなぜ母を愛したのか
- 13 12 父はなぜ、母のルーツである済州島へ行こうとしたのか
- 14 13 2000年、父母と初めて済州島へ
- 15 14 墓の裏に、父と母と私の名前が刻まれた
- 16 15 母の尊厳に向き合うことは、父自身の尊厳を取り戻すことでもあった
- 17 16 済州島4・3事件とは何か
- 18 17 1948年12月14日、兎山里で起きたこと
- 19 18 殺された人だけでなく、生き残った母たちの人生
- 20 19 遺体ではなく、「血に染まった服だけ」が戻った
- 21 20 三日間の結婚式の後、叔父が、実の父が殺されたことを語った
- 22 21 「ことばが躰から離れない」
- 23 22 『満月』という題が照らすもの
- 24 23 父と済州島の叔父をつなぐ「血」
- 25 24 私は、父の話を聞いていた。しかし、受け取ってはいなかった
- 26 25 済州島4・3事件に向き合うことで、父の苦しみが迫ってきた
- 27 26 『別れを告げない』を読み、父と母の記憶が交差した
- 28 27 私たちは、当事者が感じてきた血から逃げてきた
- 29 28 受け継ぐとは、同じ傷を背負うことではない
- 30 29 父が家族に渡した歴史を、今度は社会へ渡す
- 31 30 戦争、虐殺、満州、済州島4・3を、一人ひとりの人生から考える
- 32 おわりに――当事者が感じた血と向き合うこと
- 33 当事者の血と向き合うことを、命をつなぐ平和の礎に
- 34 はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
はじめに:私たちは、当事者が感じてきた「血」から逃げてきた
父の満州、母の済州島4・3、そして私が家族の戦争体験を語り始めるまで

私は今、父から直接聞いた戦争体験を語り継ごうとしています。
戦争は、本当に遠い過去の出来事なのでしょうか。私にとって戦争は、父と母の人生をたどるうちに、決して過去のものではなくなりました。
戦争体験として、父は敗戦時の満州を、10歳でたった一人、歩いて逃げました。
また、母は済州島にルーツを持つ在日朝鮮人として生まれました。
母方の親族には1948年の済州島4・3事件で殺された人がいます。
私は父から満州での凄惨な体験を直接聞き、済州島でも親族から4・3事件の記憶を聞きました。しかし長い間、その言葉の奥にあった臭い、音、恐怖、血の感触、そして残された家族が何十年も抱えてきた痛みまで、十分に受け止めてはいませんでした。
いま私は問い続けています。親の戦争・虐殺体験を、私はどう受け継いだのか。そして、直接聞いた者として何を語り継ぐのか。
ここでは、家族から直接聞いたこと、歴史資料から推定できること、そして現在の私自身の解釈を区別しながら、家族に残された戦争と虐殺の記憶をたどります。
1 北海道に生まれ、七歳で満州へ渡った父

父・原田裕は、1935年、北海道陸別町に生まれました。
父は七歳の時、ニヘイさんという軍属のもとへ養子に行き、満州の牡丹江で暮らすことになりました。北海道から稚内へ行き、樺太を経て、ウラジオストクから牡丹江へ向かったと父は話していました。
七歳の子どもが、実の父母や兄弟姉妹から離れ、海を越え、国境を越えて生活を始める。その時点で、父の人生にはすでに大きな断絶がありました。
ただし、父は自分を「かわいそうな子ども」として語ったわけではありません。父の語りは、いつも驚くほど淡々としていました。どこを通ったか。誰と暮らしたか。何が起きたか。父は出来事を順番に並べるように語りました。
その淡々とした話し方を、私は長い間、「父の中では整理できているのだ」と受け止めていました。
しかし、今は違う見方をしています。
感情がなかったのではなく、感情を入れたら最後まで話せなかったのではないか。出来事を事実に変え、身体の感覚から切り離すことで、初めて子どもたちに伝えることができたのではないか。そう考えるようになりました。
父が十歳になった頃、日本の戦争は末期を迎えていました。
2 「敵が来たら、手榴弾を持って飛び込め」

父は満州の国民学校で、軍事教練を受けていました。
父が家族に話した言葉で、私の記憶に強く残っているものがあります。
「敵が来たら、手榴弾を持って、敵のところへ飛び込め」
教師から、そのように教えられていたというのです。
まだ十歳の子どもに、自分の命を投げ出して敵を倒すことを求める。そこには、子どもの未来を守る教育ではなく、子どもの命まで国家の戦争に差し出す教育がありました。
ところが父は、心の中でこう思っていたそうです。
「冗談じゃない。そんなことするもんか」
この小さな拒否は、父の人生を考えるうえで、とても重要だったのではないかと思います。
命令に従うことが正しいと教え込まれていた時代に、十歳の父は、自分の命を自分のものとして守ろうとしていた。敵に飛び込んで死ぬことを拒み、「自分は生きる」と、まだ言葉にならないところで決めていたのではないでしょうか。
後に父が一人で満州を歩いて逃げ切れた背景には、身体の強さや偶然だけでなく、この内側の拒否があったのだと思います。
「国のために死ね」と言われても、死なない。
誰かに命を使われるのではなく、自分の命を自分でつなぐ。
父の逃避行は、敗戦による単なる移動ではありませんでした。私はそれを、「引き揚げ」という言葉だけでは表しきれないと感じています。父は保護された集団の一員として帰ったのではなく、戦場の中で、自分の判断によって日本へ向かい続けたからです。
3 1945年8月9日、ソ連軍の満州侵攻

1945年8月9日、ソ連軍が満州へ侵攻しました。
当時十歳だった父は、養父母と離れ、たった一人で逃げたと語っています。
父の心にあったのは、ただ一つでした。
「何が何でも生き残る」
父は、旅順にいる彦坂のおじさんのところまで行けば、何とかなると思ったそうです。その「彦坂のおじさん」こと彦坂忠義氏は旅順工科大学の教授で、父の実家ともつながりがあった人物でした。具体的に言えば、私の父の父である祖父と同郷で愛知県渥美郡老津村(現在の豊橋市老津)の出身だったのです。
牡丹江から旅順までは、地図の上で見ても途方もない距離です。父はまず、牡丹江から奉天まで、およそ800キロの道のりを、一人で歩きとおした、ということなのです。

大事なことは、その800キロの一歩一歩に、十歳の子どもの足があったことです。
腹が減り、命をさらされても、父は止まれなかった。軍隊が迫り、銃弾に晒され、死体をあちこちで見て、死に晒されている中で、日本へ帰るために歩き続けたのです。
4 父が語った戦争体験――逃避行の六つの場面

父が私たちに語った満州での戦争体験には、いくつかの場面があります。
一つ目は、飛行機から攻撃されたことです。
二つ目は、銃弾が耳元をかすめたことです。父は、弾がすぐそばを通ったと話しました。ほんの数センチ、ほんの一瞬の違いで、父はそこで命を失っていたかもしれません。
三つ目は、死体を盾にして身を守ったことです。
四つ目は、戦車やソ連兵に遭遇したことです。
五つ目は、昼間は山の中で眠り、夜に移動したことです。見つからないため、生き延びるために、生活の昼夜を逆転させて進みました。
六つ目は、食料が尽き、草を食べ、最後には朝鮮人の民家で食べ物を分けてもらったことです。
これらは、父が実際に語った出来事です。
父が語らなかった「身体の記憶」
しかし、父は、その時の臭いや触感まで話しませんでした。
死体を盾にした時、その身体はどれほど重かったのか。血は乾いていたのか、まだ濡れていたのか。腐敗の臭いがしていたのか。衣服や手や顔に何が触れたのか。銃弾の音はどれほど近かったのか。
でも、私は、父が語らなかったこの部分が大事なのだと思います。
「死体を盾にした」という一言の背後に、身体でしか知り得ない凄惨な現実があったことまで、見ないふりをしてよいわけではありません。
父は満州で、死体を見ただけではありません。死体を、自分が生きるための盾にしなければなりませんでした。
自分も次の瞬間には同じ姿になるかもしれない。その恐怖さえ感じ続けていたら、足が止まってしまったかもしれません。父は、恐怖を消したのではなく、感じることを一時的に止め、ただ生きる意思を持って逃げたのではないでしょうか。
私が今、最も重く感じているのは、このことです。
父は、死んだ人の血に触れながら、生きて帰ってきた。
それなのに私は、その血を長い間、父の昔話の一場面としてしか受け止めていませんでした。
5 800キロという距離を、十歳の身体で考える
牡丹江から奉天まで、およそ800キロ。
数字だけを見ると、長い距離だと分かります。しかし、800キロという数字から、父が実際に歩いた一日一日を感じ取ることは簡単ではありません。
現代の私たちは、地図アプリで出発地と目的地を入力すれば、距離も所要時間もすぐに確認できます。列車や自動車を使えば、移動は予定の中に収まります。
けれども父には、正確な地図も、安全な道も、今日眠る場所の保証もありませんでした。
どこにソ連軍がいるのか。
どこに戦闘があるのか。
誰に見つかれば危険なのか。
次に食べ物を得られるのはいつなのか。
そのすべてが分からないまま、十歳の子どもが、自分で方向を決めて進みました。
足に傷ができても、休めば追いつかれるかもしれない。空腹でも、食べられるものがあるとは限らない。山の中で眠っても、本当に安全かは分からない。
父は、毎日「日本へ帰る」という遠い目標だけで歩いたのではなく、その瞬間ごとに、「次の数時間を生きる」判断を積み重ねたのだと思います。
800キロは、父の強さを称えるためだけの数字ではありません。
本来なら大人に守られるべき十歳の子どもが、それほどの距離を一人で進まなければならなかったという、戦争の異常さを示す数字です。
父を「勇敢な少年」として美化するだけでは、戦争が子どもに負わせたものを見失います。父は勇敢であった以前に、勇敢でなければ死んでしまう状況へ追い込まれた子どもでした。
6 朝鮮人の家で命をつないでもらった
父は、食べ物がなくなり、草まで食べた末に、朝鮮人の家で食事を分けてもらったと話しました。
この出来事を、「朝鮮人にも親切な人がいた」という教訓話にしてしまうことはできません。
十歳の父は、その時、国家にも軍にも守られていませんでした。国民学校では命を差し出すよう教えられ、ソ連が進行してくると、子ども一人で生きる意志をもって、戦場の中で生き延びることを強いられた。日本人だから救われたのではありません。
その父に、食べ物を与え、命をつないだのが朝鮮人でした。
父にとって「朝鮮人」は、抽象的な民族名ではなく、自分が死にかけた時に食べ物を与えてくれた人として、身体の記憶に残ったのではないでしょうか。
そのことが、後に父が朝鮮人である母と結婚したことに繋がっていくのだとおもうのです。
でも父が愛したのは、ほかの誰でもない母という一人の人間でした。
満州で朝鮮人に命をつないでもらった経験が、父の中で、民族の境界よりも目の前の人間の行為を信じる土台になった可能性はあると思います。
そして、さらに大切なのは、父が母から一方的に癒されたのではないということです。
父は母との生活の中で支えられた。だからこそ今度は、自分が母の傷に向き合い、母のためにできることをしたいと思ったのではないか。
その思いが、後に父を済州島へ向かわせたのだと、私は考えています。
7 奉天で「最終列車」に乗せてもらう

父は南へ歩き、奉天までたどり着きました。
父の記憶では、1945年9月下旬頃、大連方面へ向かう最後の列車が出ようとしていたそうです。
しかし、子ども一人で、切符も十分な身元証明も持たない父が、簡単に客車へ乗れるはずはありません。
父は、機関車の運転士に頼み込みました。
「乗せてください」
願いは届き、父は運転台に乗せてもらいました。
私はこの場面を想像する時、暗い逃避行の中に、わずかな光を感じます。
戦争は、人間を敵と味方に分け、命を数として扱います。しかし、その中でも、目の前の子どもを見て、「乗せてやろう」と判断した大人がいた。
父は、自分の力だけで帰ってきたのではありません。
朝鮮人の家で食べ物をもらい、列車の運転士に乗せてもらい、そして旅順では彦坂のおじさんに助けられました。
父の「生き残る」という強い意思と、名も十分には残らない人たちの行為が重なって、父の命はつながりました。
8 旅順で彦坂のおじさんに会う

父は旅順に着き、「彦坂のおじさん」こと彦坂忠義氏に会うことができました。
父の話では、彦坂のおじさんが日本へ帰る船に乗れるよう手配してくれ、そのおかげで「すぐ」日本行きの船に乗ることができたそうです。
彦坂のおじさんに会えた。
彦坂のおじさんが手配してくれた。
だから日本へ帰ることができた。
父にとっては、このつながりがはっきりしていました。
十歳で、保護者もおらず、満州の奥地から逃げてきた父を、彦坂氏は「日本に帰すべき子ども」として引き受けたのではないでしょうか。
彦坂氏は、父一人の帰国を助けただけではありません。
父が日本で生き、母と出会い、私たち子どもが生まれる未来まで、つないでくれたことになります。
私がいま生きていることも、父が満州で出会った多くの人の行為の上にあります。
9 1994年3月18日、それは、父が初めて戦争体験を家族に語った日だった。

父は、満州での体験を、子どもたちが幼い頃から何度も話していたわけではありません。
1994年3月18日、私が高校を卒業する時期に、父は家族全員を集めました。
父は以前から、末の子である私が高校を卒業したら、家族の歴史を伝えると決めていたようです。
これは、突然話したくなったから開かれた場ではありません。
日を決め、家族を集め、話す内容を心に置き、父は「伝える」と決めていました。
私はこの日を、父が長年の沈黙を破った日というより、沈黙を終える時を自分で選んだ日だったと考えています。
子どもたちが幼い間は守る。
しかし、これから大人として社会を生きるなら、自分たちの家族がどこから来たのかを知らなければならない。
そう父は考えたのではないでしょうか。
父はこの日、自らの満州での戦争体験を語りました。
そして同じ場で、母が在日朝鮮人として生まれ、その後帰化していたことも伝えました。これは父が母の出自を一方的に明かしたのではありません。父と母は事前に相談し、母の了承を得ていました。
つまりこの日は、父一人の告白の日ではありません。
父と母が、子どもたちに家族の本当の歴史を引き渡すと、二人で決めた日だったのだと思います。
10 父はなぜ、満州と母の出自を同じ日に語ったのか
父の満州での戦争体験と、母の済州島に連なる出自は、一見すると別の話です。
しかし父は、同じ日に、同じ家族の前で語りました。
そこには、父がどこから帰ってきたのか、母がどこから来たのか、その二人から自分たちの子どもが生まれたことを、一つの家族史として伝えようとする意思があったのではないでしょうか。
父は、満州で朝鮮人に助けられました。そして戦後、朝鮮人である母と出会い、結婚し、家庭を築きました。
父と母の体験は同じではありません。
父は北海道から満州へ養子に出され、戦争の中を一人で日本へ戻りました。母は済州島をルーツに持ち、日本社会の中で在日朝鮮人として生き、出自を容易には語れない時代を生きました。
二人とも、形は違っても、生まれた土地や家族の歴史と、現在の生活の間に断絶を抱えていたのだと思います。
父は母の中に、自分をただ癒してくれる人ではなく、傷を抱えたまま共に生活をつくり直せる伴侶を見いだしたのではないでしょうか。
父にとって母との家庭は、逃げる、隠れる、生き延びることだけがすべてだった満州とは反対の場所でした。
食事を一緒にする。
働き、子どもを育てる。
相談し、支え合い、明日の生活をつくる。
父は母との関係の中で、「満州から生き残った少年」だけではなく、夫になり、父親になり、一人の生活者になることができたのだと思います。
11 父はなぜ母を愛したのか
父が母を愛した理由を、歴史だけから説明することはできません。
恋愛や結婚には、外から分析できない、二人だけの相性があります。母の表情、声、性格、一緒にいる時の安心感。父が愛したのは、「朝鮮人女性」という属性ではなく、母という、ほかの誰でもない一人の人間でした。
そのことを前提にしたうえで、私は、二人の歴史が深いところで響き合っていたのではないかと思います。
父は七歳で実父母から離れ、満州へ渡りました。十歳で戦争の中を一人で逃げ、日本へ戻りました。
母もまた、済州島にルーツを持ちながら、日本と朝鮮の間で、自分の出自を容易には語れない人生を生きました。
二人の体験は同じではありません。しかし二人とも、故郷や家族の歴史と、いま生きている場所との間に、言葉にしにくい断絶を抱えていたのではないでしょうか。
父は母の中に、「自分の過去を全部説明できなくても、この人となら生活をつくれる」という安心を感じたのかもしれません。
満州での父は、常に生存者でした。逃げる、隠れる、食べ物を探す、次の危険を避ける。人を信じる前に、自分が生き残る判断をしなければなりませんでした。
しかし母といる時、父は、生存者であるだけでなく、一人の生活者になることができました。
一緒に食べる。
家計を支える。
子どもの成長を見守る。
ときに意見を違えながら、同じ家で暮らす。
その日常は、父に満州を忘れさせたのではなく、満州の記憶を抱えたままでも、人を信じ、家庭をつくり、生き直せる場所になったのだと思います。
母に支えられた父は、今度は母の人生に向き合った
そして父は、母に支えられるだけの関係にとどまろうとはしなかった。
母の意思を尊重し、子どもたちに出自を伝える時にも事前に了承を得た。母の故郷へ自分から行き、母方の親族に会い、墓に手を合わせた。
そこには、相手の人生を自分の都合で扱わないという、父なりの愛が表れているように思います。
12 父はなぜ、母のルーツである済州島へ行こうとしたのか

1994年3月18日、父は、母のルーツである済州島へ行こうと思っていることも、私たちに伝えました。
なぜ父は、済州島へ行こうとしたのでしょうか。
本当の動機は父本人にしか分かりません。父は、それを理論的に説明してはいません。
ここから先は、父が語った満州での戦争体験、母との結婚、その後の行動をつないだ、現在の私の解釈です。
父は満州で、死体の血に触れ、人間が国家や民族によって分断され、殺される現実を経験しました。その一方で、朝鮮人に食べ物を分けてもらい、命をつないでもらいました。
戦後、父は朝鮮人である母と夫婦になりました。母との関係の中で、父は支えられ、癒されてもいたのでしょう。
しかし、愛とは、癒されるだけで終わるものではありません。
父は、母に支えられたからこそ、今度は自分が母の傷に向き合い、母のためにできることをしたいと思ったのではないでしょうか。
済州島へ行くことは、妻の故郷を観光することではありません。
母がどこから来たのか。
どのような家族の中で生まれたのか。
なぜ日本で生きることになったのか。
母の家族が、どのような歴史を経験したのか。
父は、自分の方から母の人生へ入っていこうとしたのだと思います。
母を「自分を救ってくれる人」として受け取るだけではなく、母自身の故郷と傷と歴史を持つ一人の人間として理解しようとした。
私は、父の済州島行きに、そのような愛の形を感じています。
13 2000年、父母と初めて済州島へ
父の思いを出発点として、私たち家族は、京都に住む母方の親族とのつながりを再び持つようになりました。
そして2000年10月、私は二十四歳で、父と母とともに初めて済州島へ向かいました。大伯父の祭祀(チェサ・小祥)が済州島で行われるので、それに合わせて行こうとしたのです。
この旅は、出発から簡単ではありませんでした。
名古屋から済州島へ向かう予定の飛行機が、大韓航空のストライキの影響で欠航したのです。母は、「これで二度と済州島へ帰れない」と泣きました。
私たちは、母方の親族の祭祀(チェサ)に遅れるわけにはいきませんでした。急きょ博多へ向かい、船で釜山へ渡り、釜山から飛行機で済州島へ向かいました。
母を済州島へ帰らせる――私の中にもあった思い
これは単なる旅行のトラブルではありませんでした。
母にとって、済州島へ帰ることは、航空券を取り直せば済むような移動ではなかったのだと思います。長い年月、距離、国籍、差別、家族の事情によって隔てられてきた故郷へ、ようやく戻ろうとしていた。その道が目の前で閉ざされたように感じたのでしょう。
済州島では、曾祖父や祖父などの一族の墓を訪ね、母方の親族と会いました。
それは、父が自分の意思で始めた済州島への回帰が、目の前の家、墓、親族の顔として現実になった瞬間でした。母の喜びや安心感もひとしおだったと思います。
私は済州島から日本へ戻り、家に着くと同時に、感極まって号泣しました。
今振り返ると、私の中にも、母を済州島に帰らせてあげたいという意思があり続けたのだと思います。それが実現できた喜びが、それまでの苦しみが氷解するように、一気に涙として流れたのだと思います。
14 墓の裏に、父と母と私の名前が刻まれた

父と母は翌年、再び済州島を訪れました。
親族との関係を深め、宋家の新しく再編された墓にも参拝しました。
その墓の裏には、父・裕、母・吉子、そして私・原田芳裕の名前が刻まれました。
私は、そのことに驚くと同時に、深い安心を感じました。
日本で生まれ、日本で暮らしてきた私は、済州島とのつながりを、自分の感情だけで確かめようとしていました。けれども、墓に名前が刻まれたことで、「自分はここに根がある」と思うことができました。
父の名前まで刻まれたことにも、大きな意味があります。
父は、母のルーツに付き添った外部の人ではありませんでした。母とともに済州島へ行き、母方の家族に迎えられ、父自身も家族の歴史の中に位置づけられたのです。
満州で故郷と家族から切り離された父が、母の故郷へ行き、新たな親族関係の中に自分の名前を刻まれた。
それは、父にとっても、失われたつながりを結び直す出来事だったのかもしれません。
今思えば、父は満州で経験したことへの癒しとして、母の済州島回帰を主導したところがあったと思います。
しかし、その歩みはやがて、済州島4・3事件と私たち家族が、現実につながっていることを明らかにしていきました。
15 母の尊厳に向き合うことは、父自身の尊厳を取り戻すことでもあった
父が済州島へ行き、母方の墓や親族に触れたことには、もう一つの意味があったように思います。
日本社会の中で、母の朝鮮人としての出自は、長い間、堂々と語ればよいものとして扱われてきませんでした。
差別を避けるために隠す。
子どもにいつ伝えるか迷う。
本名や国籍、家族の来歴について、周囲の反応を考えなければならない。
母個人の尊厳とは関係なく、社会の側が、母のルーツを「隠した方が安全なもの」にしていました。
父にとって、それは、自分が愛し、妻として選んだ人の人生を否定されることでもあったのではないでしょうか。
済州島へ行き、親族と会い、墓に手を合わせることによって、父は、母の出自を秘密や弱点ではなく、深い歴史と故郷を持つものとして見つめ直したのだと思います。
母には、帰るべき土地があった。
名前を呼び合う親族がいた。
墓に刻まれた祖先の歴史があった。
その母を愛し、家族をつくった自分の人生も、恥じる必要はない。
父は、母の尊厳に向き合うことを通して、自分自身の人生の尊厳も取り戻していたのかもしれません。
満州で壊された「生きること」を、戦後の人生で取り戻す
満州で父は、子どもとして守られる権利を奪われました。国家から死ぬことを求められ、ソ連侵攻後には一人で生き延びるしかありませんでした。
戦後、父が母と築いた家庭は、その暴力に対する父自身の答えだったのではないでしょうか。
民族を理由に人を上下に分けるのではなく、朝鮮人である母と夫婦として生きる。
母の過去を勝手に扱わず、伝える時には意思を確かめる。
母の故郷へ行き、その家族の中へ自分も入っていく。
父は、大きな政治的言葉で反戦を語ったわけではありません。
しかし、自分の戦後の人生を通して、満州で壊された人間関係とは異なる関係を、つくり直そうとしていたのだと思います。
16 済州島4・3事件とは何か

1948年4月3日を契機に、済州島では、国家権力による大規模な住民犠牲が広がっていきました。
解放後の政治的混乱、南北分断へ向かう情勢、武装蜂起とその鎮圧の過程で、軍、警察、右翼武装団体などによって、無抵抗の島民が殺され、村が焼かれ、多くの命と生活が奪われました。
事件は一日だけの出来事ではありません。長い期間にわたり、島の各地で住民が犠牲になりました。
さらに、暴力が終わった後も、遺族は自由に語ることができませんでした。
誰が殺されたのか。
なぜ殺されたのか。
どこに遺体があるのか。
家族が被害者であることさえ、公にすれば新たな不利益を受けるかもしれない。事件は、殺害の瞬間だけでなく、その後の沈黙としても人々の人生を縛りました。
私にとって済州島4・3事件は、歴史書で初めて知った事件ではありません。
母方の叔父から、家族が殺された時のことを直接聞きました。
そこから、事件は「韓国現代史の一項目」ではなく、私の家族の歴史になりました。そしてそれは、後に父の戦争体験を受け取り直すことにもつながっていきました。
17 1948年12月14日、兎山里で起きたこと

母の故郷は、済州島南東部の兎山里です。
1948年12月14日、兎山里の住民が集められました。
18歳から40歳ほどの男性たちが選別され、連行されました。女性たちは「月を見ろ」と命じられ、月明かりの下で若い女性が選び出されたと伝えられています。
選ばれた人々は、表善海岸などで殺されました。
母方の大叔父も、この時に殺されました。母の父のすぐの弟にあたる方です。。
その妻は、夫を失い、幼い子どもたちを育てなければなりませんでした。
兎山里に建てられた母子像の碑文には、夫を失った母親たちが、乳飲み子や何も分からない幼い子どもを胸に抱き、夜空の星と月を見上げながら、何年、何十年と声もなく泣いてきたことが記されています。
ここでの「月」は、ただ美しい夜空の月ではありません。
女性たちが「月を見ろ」と命じられ、選別された時の月と重なります。
生き残った母親たちが後年見上げた月は、夫や家族が連れ去られた夜を照らした月でもあったのではないでしょうか。
月は、慰めであると同時に、虐殺の記憶を呼び戻す光でもありました。
18 殺された人だけでなく、生き残った母たちの人生
済州島4・3事件を考える時、私たちは、どうしても殺された人の数や処刑の場面に目を向けます。
もちろん、誰がどのように命を奪われたのかを明らかにすることは欠かせません。
しかし、事件の被害は、銃声が止んだ時に終わったわけではありません。
兎山里では、家庭や地域を支える年齢の男性が多数奪われました。残されたのは、若い妻、乳飲み子、幼い子ども、高齢の父母たちでした。
夫を殺された女性たちは、悲しむ時間さえ十分には与えられなかったでしょう。
子どもに食べさせなければならない。
畑を耕さなければならない。
家を守らなければならない。
死者を弔いたくても、事件について語れば、自分や子どもが危険にさらされるかもしれない。
母子像の碑文は、こうした母親たちを「この世で最も偉大な母」とたたえています。その感謝は、残された子どもたちの真実の思いだと思います。
「偉大な母」という言葉の陰にあった、一人の女性としての痛み
同時に、私は、「偉大な母」という言葉だけで女性たちを覆ってしまわないことも必要だと感じます。
彼女たちは、最初から強い母になりたかったわけではありません。
夫を奪われ、家族を守る責任を一人で負わされ、強くならなければ生きられなかったのです。
泣きたかった。
逃げたかった。
怒りを叫びたかった。
誰かに支えてほしかった。
そうした一人の女性としての感情が、「立派に子どもを育てた母」という物語の陰に隠れてしまうことがあります。
母たちを顕彰することと、母たちに強さを強制した国家暴力を問うことは、両方とも必要です。
大叔父の妻も、夫の身体が戻らない中で、子どもたちを育てました。叔父が語った「血に染まった服」は、父を失った子どもの記憶であると同時に、その子どもを抱えて生きた母の人生にもつながっています。
19 遺体ではなく、「血に染まった服だけ」が戻った
大叔父が殺された時、家族のもとに遺体は戻らなかったと聞いています。
叔父は、大叔父の息子です。
後年、私は叔父から、父が殺された時のことを直接聞きました。
叔父の語りで、最も強く残っている言葉があります。
「血に染まった服だけを渡されたんだ!」
骨も、身体も、表情も戻らない。
家族に残されたのは、殺されたことを示す、血の染み込んだ服だけだった。
死者を抱きしめることも、顔を見て別れを告げることもできません。何が起きたのかを確かめる手掛かりが、衣服に残った血だけだったのです。
これは、殺害に続く第二の暴力です。
人を殺すだけでなく、家族が死者を確認し、連れ帰り、弔い、別れを告げることまで奪う。
遺族にとって、死は終わりません。
身体が戻らなければ、「本当に死んだのか」「どこにいるのか」という問いが残り続けます。血染めの服は、死を示す証拠であると同時に、身体がないために完結しない喪失の象徴でもあります。
20 三日間の結婚式の後、叔父が、実の父が殺されたことを語った
2004年頃、私は叔父の長男の結婚式に参加するため、兎山里へ行きました。
結婚の宴は三日間続きました。村の人々が集まり、食事をし、伝統的な遊びをし、家族の新しい門出を祝いました。
私はその時、客人たちが行っていた、ユンノリに似たすごろく遊びのやり方を教えてもらった記憶があります。祝いの場には、笑い声があり、人が集まり、家族がつながっていく力がありました。
結婚式が終わった翌日、叔父は、私を伴って母の従兄弟にあたる叔母のところへ行きました。
そこには叔母とその母親がいました。
初め、話は結婚式のことから始まりました。
しかし、そのうち叔父の語りは、次第に熱を帯びていきました。
おそらく叔父の中で、新しい家族が生まれる祝いの時間と、自分が幼い時に奪われた父の記憶が重なったのでしょう。
結婚式の時から、父のことを思い出していたのかもしれません。
「血に染まった服だけを渡された」――叔父の中からほとばしった記憶
そして叔父は、自分の父が殺された時のことを語り出しました。
「血に染まった服だけを渡されたんだ!」
叔父は、抑えに抑えてきた感情を、その一言に凝縮してほとばしらせました。
声を荒らげて暴れるのではありません。
長い間、胸の奥に押し込めてきたものが、抑制を失わないまま、一気に外へ出た。そのような語りでした。
その直後、叔母が、「そんなことがあったんですね」とつぶやきました。
そして、五秒ほどの沈黙がありました。
私は、その沈黙を今も覚えています。
言葉が足りなかったのではありません。
言葉では受け止めきれないものが、その場に満ちていたのだと思います。
21 「ことばが躰から離れない」

済州島4・3事件を描いた金石範さんの小説『満月』には、「ことばが躰から離れない」という趣旨の表現があります。具体的に言うと以下の通りです。
「ことばが躰から離れない、ことばが痛み苦しむ躰といっしょで躰から取れない、やつらにされたことを口で話そうとしても躰が打ち震えて、死ぬように痛んで、ことばが離れない」
私はこの言葉を、叔父の語り、そして父の戦争体験に重ねています。
普通、体験を語るとは、身体の中にある記憶を言葉に変え、自分の外へ出し、相手に渡すことです。
しかし、あまりに凄惨な体験では、言葉が身体から離れない。
語ろうとすると、痛みや恐怖や屈辱が、過去の出来事としてではなく、身体の中で再び起きてしまう。
語ることが、思い出すことではなく、もう一度その暴力を受けることになってしまう。
語られた言葉と、語られなかったもの
父は、出来事の骨格を語りました。
飛行機から攻撃された。
銃弾が耳元をかすめた。
死体を盾にした。
草を食べた。
朝鮮人に食べ物をもらった。
しかし、臭い、重さ、触感、身体の震えは語りませんでした。
父の中に言葉がなかったのではない。
言葉はあったのかもしれない。
しかし、その言葉が傷ついた身体と一体になっていて、口から外へ出せなかったのではないか。
叔父の「血に染まった服だけ」という一言も、同じです。
叔父は長い説明をしませんでした。しかし、その一言には、連れ去られた父、戻らなかった身体、残された母、幼い自分、その後の人生が凝縮されていました。
22 『満月』という題が照らすもの
金石範さんの小説の題は、『満月』です。
満月は、本来なら美しい自然の象徴です。故郷を照らし、季節を知らせ、人が遠く離れた家族を思う時にも見上げるものです。
しかし兎山里の記憶の中で、月は別の意味を持っています。
若い女性たちは「月を見ろ」と命じられ、月明かりの下で顔を見られ、選び出されたと伝えられています。
自然の光が、人を選別し、連れ去るための光に変えられました。
加害者が事件を隠し、被害者が語ることを禁じられても、月はその夜を照らしていた。
何十年後も、同じように月は昇る。
生き残った人にとって、月は慰めであると同時に、忘れようとしても戻ってくる記憶だったのではないでしょうか。
私は、『満月』という題に、虐殺の夜を照らした残酷な光、すべてを見ていた証人としての光、そして長い沈黙の後に死者の記憶をもう一度照らし返す光が重なっているように感じます。
これは作者が明言した説明としてではなく、兎山里の家族史を知った私自身の読みです。
文学は、資料に記録された年月日や人数だけでは届かない、当事者の身体と沈黙の近くへ、読む者を連れていくことがあります。
私にとって『満月』は、済州島4・3事件を知る本であるだけでなく、父や叔父がなぜ語れなかったのかを考えるための言葉を与えてくれた作品でした。
23 父と済州島の叔父をつなぐ「血」
父と叔父の体験は、同じではありません。
父は満州で、戦闘と逃避行の中、死体の血に直接触れ、死者を見ながら生き延びました。
叔父は、実の父を連れ去られ、その父の身体ではなく、血に染まった服を受け取りました。
一人は、死体のそばで「自分も死ぬかもしれない」と感じながら逃げた。
もう一人は、父を奪われ、戻ってきた血の痕跡を見て、その喪失を抱えた。
二人はそれぞれ、死者の血とともに生きました。
そして二人とも、その後の人生を生き、家族をつくり、次の世代へ命をつなぎました。
父は母と出会い、家庭を築き、子どもを育てました。
叔父もまた、子どもを育て、その長男の結婚式を迎えました。
血は、人を殺した暴力の痕跡である一方で、家族の命が続いてきたことを示す言葉でもあります。
だからこそ私は、「血」を単なる比喩として使わないのです。
父が浴びたのは、生きている人の温かな血ではなく、死体から流れた「死んだ人の血」でした。
叔父に残されたのは、父の身体ではなく、服に染み込んだ血でした。
その血を感じないまま、出来事だけを知ったつもりになっていたことを、私は今、とても残酷なことだったと感じています。
24 私は、父の話を聞いていた。しかし、受け取ってはいなかった
1994年、父は家族の歴史を私たちに伝えました。
私は聞きました。
父が満州を一人で逃げたことも、死体を盾にしたことも、朝鮮人に助けられたことも知っていました。
しかし、「知っていること」と「受け取ること」は同じではありません。
私は、父が語った事実を記憶していましたが、父が身体の中に抱えてきた恐怖や血の感覚を理解しようとしてきたでしょうか。
父の話を「すごい体験」として聞き、「よく生きて帰ってきた」と思いながら、父がその後何十年も、どのような感覚を抱えて暮らしたのかを、感じようとしていませんでした。
父は、語れなかったのです。
けれども、語られなかったから存在しなかったわけではありません。
沈黙は空白ではありません。
そこには、言葉にすれば身体ごと崩れてしまうような記憶が置かれていた可能性があります。
私は、その沈黙を「何もないところ」として通り過ぎてきました。
いま父はもういません。
父に、「あの時、どんな臭いがしたのか」「怖かったのか」「夜、夢に出てきたことはあったのか」と聞くことはできません。
だから私は、分からないことを想像で埋めるのではなく、父が語った言葉と、語らなかった沈黙の両方を受け継がなければならないと思っています。
25 済州島4・3事件に向き合うことで、父の苦しみが迫ってきた
不思議なことに、私が父の満州での戦争体験を身体に近い感覚で受け止め始めたきっかけは、父方の資料を調べたことだけではありませんでした。
母方の済州島4・3事件に向き合い、被害者たちの身体、血、遺体、残された家族の沈黙を考え続けたことが、父の体験を現実のものとして迫らせました。
兎山里で、斗燦大叔父の身体は戻らず、血染めの服だけが残された。
満州で、父は死体を盾にし、その血に触れながら逃げた。
母方の家族の血を考えることが、父が満州で触れた血へとつながったのです。
私は、父と母から別々の歴史を受け継いだと思っていました。
しかし、満州と済州島4・3は、私の身体の中で交差していました。
父から受け継いだもの。
母から受け継いだもの。
語られた記憶。
語られなかった沈黙。
それらが重なった時、私は初めて、父が一人で抱えてきたものの一端に触れたように感じました。
文学作品を読むことも、その契機になりました。済州島4・3事件を扱う作品の中で描かれる、血、雪、遺体、語れない記憶に触れるうちに、父が語らなかった身体感覚が、自分の中へ押し寄せてきたのです。
それは、歴史を理解したというより、亡くなった父との関係を、死後にもう一度結び直すような体験でした。
26 『別れを告げない』を読み、父と母の記憶が交差した
さらに私を大きく揺さぶったのが、ハン・ガンさんの小説『別れを告げない』でした。

私はその作品を読みながら、済州島4・3事件の死者と遺族の痛みに触れているはずでした。
ところが、読んでいるうちに迫ってきたのは、母方の歴史だけではありませんでした。
満州で死体を盾にした父の姿が、突然、これまでとは違う現実感を持って私の中に現れました。
父が浴びた血。
父の手や衣服に残ったかもしれない感触。
一人で歩き続けた時の身体。
私は初めて、父から聞いた出来事を、知識ではなく、自分の身体に近いところで感じたように思いました。
その時、私は強い自責を感じました。
父は、あれほどのことを語ってくれていた。
それなのに私は、父の言葉を、事実の一覧として受け取るだけで、父が抱えた血の感覚に近づこうとしてこなかった。
母方の済州島4・3事件に向き合うことが、父の満州の苦しみを感じる入口になったのです。
斎藤真理子さんとのやり取り――父と母の記憶を受け取り直す
後に、この体験を『別れを告げない』の翻訳者である斎藤真理子さんへ伝えました。
斎藤さんは、父と母の記憶が私という一人の人間の上で交錯したのだろう、原爆と満州と済州島4・3を重ねて語る講演は必然なのかもしれない、という趣旨の言葉を返してくださいました。
その言葉は、私の体験を何かの理論で説明し切るものではありません。
むしろ、分からなさを残しながら、「世の中には、死者との関係が後から結び直されるようなことがある」と受け止めてくださった言葉でした。
私は、父の生前には聞けなかったことを、文学を通して受け取り直したのかもしれません。
父と母の記憶は、別々の家系図の線ではなく、私の中で交差し、私に「今度はあなたが語りなさい」と迫ってきました。
27 私たちは、当事者が感じてきた血から逃げてきた
私がいま感じていることを、一文にするなら、こうなります。
「私たちは、当事者が感じてきた血から逃げてきた」
戦争や虐殺を語る時、私たちは、犠牲者数、年月日、作戦名、政治的背景を学びます。それらは不可欠です。歴史的事実を正確に残さなければ、否定や歪曲を許すことになります。
しかし、数字と制度だけでは、暴力のすべてを受け止めることはできません。
一人の人間が、死体のそばで何を見たのか。
家族が、血染めの服を受け取った時、何を感じたのか。
乳飲み子を抱えた母親が、夜空の月を見上げながら、なぜ声を上げて泣くことさえできなかったのか。
その身体感覚や感情に近づこうとすると、私たち自身も傷つきます。
だから、見ないまま、感じないままにしてきたのではないでしょうか。
「昔は大変だった」とまとめれば、現在の自分の生活は揺さぶられずに済みます。
しかし、当事者が感じた血を見ない平和は、表面的な平和にとどまります。
戦争を二度と起こさないということは、抽象的に「戦争反対」と言うだけではありません。
一人ひとりの身体が、戦争によってどのように壊されるのか。
生き残った人が、その後何十年、何を抱えて暮らすのか。
その痛みに近づこうとすることが、反戦と平和の根に必要だと思います。
28 受け継ぐとは、同じ傷を背負うことではない
ここで、私は一つのことを大切にしたいと思います。
親の戦争体験を受け継ぐことは、親と同じ苦しみをそのまま背負い、子や孫まで傷つき続けることではありません。
父はおそらく、自分の恐怖を私たちにそのまま負わせたくなかったからこそ、出来事の骨格を淡々と語ったのでしょう。
父の沈黙を暴き、語らなかった部分をすべて言葉にすることが、継承ではありません。
受け継ぐとは、語られたことを正確に残すこと。
分からないことを、分からないまま示すこと。
なぜ語れなかったのかを考え、沈黙にも意味があると知ること。
そして、その戦争体験を今の社会の問題とつなげることです。
国家が子どもの命を戦争に差し出すこと。
民族や出自によって人を分け、排除すること。
国家暴力の被害者や遺族に沈黙を強いること。
被害の数字は記録しても、当事者の感情や身体の痛みを切り捨てること。
これらは、過去だけの問題ではありません。
父と母の歴史を受け継ぐことは、今を生きる私が、目の前の人の尊厳をどう守るかという問いにつながっています。
29 父が家族に渡した歴史を、今度は社会へ渡す
1994年3月18日、父は私たちに家族の歴史を渡しました。
父は、私がすぐにすべてを理解することを求めてはいなかったと思います。
ただ、自分が生きているうちに、子どもたちに本当のことを伝えておかなければならないと考えた。
父が語った時、私は十八歳でした。
それから三十年以上がたち、ようやく私は、父が渡そうとしたものの重さに近づき始めています。
受け取るまでに、これほど時間がかかりました。
しかし、遅すぎるからといって、受け取らないままでよいとは思いません。
父から聞いた者が語らなければ、父の戦争体験は、家族の中でも薄れていきます。
叔父から聞いた者が語らなければ、「血に染まった服だけを渡された」という言葉も、叔父の身体とともに失われるかもしれません。
聞いた者として、語れることと語れないこと
私は、父や叔父の代わりに語ることはできません。
当事者ではない私が、「父はこう感じた」「叔父はこう思った」と断定することもできません。
だから私は、父が直接語ったことは父の証言として、親族から聞いたことは家族から受け継いだ証言として、資料から考えたことは推定として、そして父の思いや沈黙について考えたことは、現在の私自身の解釈として語ろうと思います。
分からないことを、分からないまま残すことも、受け継ぐ者の責任だと思うからです。
それでも、確かに聞いたことまで語らなければ、その言葉は失われてしまいます。
確かなことを語り、分からないことは分からないと伝え、自分の解釈には自分で責任を持つ。
その姿勢で、父と叔父から受け取った歴史を、今度は社会へ渡していきたいと思います。
この「戦争体験を語り継ぐ」という試みを、2026年8月15日の終戦の日に、被爆体験者の黒田レオンさん、参加者の皆さんとともに考える対話型講演会として行います。
→ 8月15日の講演会について詳しくはこちら
30 戦争、虐殺、満州、済州島4・3を、一人ひとりの人生から考える
父が十歳で経験した満州。母方の家族が経験した済州島4・3事件。場所も時期も、歴史的な背景も異なり、安易に一つの出来事として括ることはできません。
それでも、戦争や虐殺は、歴史年表の中だけで起きるものではありません。国家の暴力は、一人の人間の身体を傷つけ、家族を引き裂き、その後の人生にも長く影を落とします。そして、その記憶や沈黙は、本人が亡くなった後も、家族や次の世代に残ります。
私は、父から満州での戦争体験を直接聞き、母方の親族から済州島4・3事件の記憶を聞いてきました。そこで感じたのは、歴史を本当に理解するには、出来事の名称や犠牲者数だけでなく、その中を生きた一人ひとりの人生に近づく必要があるということです。
戦争に直接関わった家族はいないと思っていても、疎開、空襲、引き揚げ、植民地、差別、貧困、家族の沈黙など、歴史はさまざまな形で今の生活につながっています。
知らないことがある。聞きたかったのに聞けなかった。聞いたけれど、十分に受け止められなかった。そうした未完成な思いからでもいい。自分の家族と歴史のつながりをたどることから、戦争や虐殺を自分自身の問題として考えることが始まるのだと思います。
おわりに――当事者が感じた血と向き合うこと
父は満州の地で、死体の血に触れ、死者を見ました。
自分も次の瞬間には同じ姿になるかもしれないという感覚さえ失い、ただ生きる意思を持って逃げました。
叔父は、実の父を目の前から連れ去られ、父の身体ではなく、血に染まった服を受け取りました。
二人は、それぞれ異なる場所で、死者の血とともに生きることになりました。
しかし二人は、生きました。
父は母を愛し、家族をつくりました。
母に癒されたからこそ、今度は母の傷に向き合い、母の故郷・済州島へ行こうとしました。
叔父は、父を奪われた記憶を抱えながら子どもを育て、長男の結婚式を迎えました。そしてその祝いの後、長く胸の中に置いてきた言葉を、私に渡しました。
私は、その二人から言葉を受け取りました。
それにもかかわらず、当事者が感じてきた血を、本当に感じようとしてこなかった。
そのことを、いま私は痛切に感じています。
だから私は語ります。
父や叔父の苦しみを、自分が理解し尽くしたからではありません。
むしろ、理解できていなかったことを認め、その距離を抱えたまま、近づこうとするために語ります。
当事者の血と向き合うことを、命をつなぐ平和の礎に
当事者が感じた血と向き合うことは、過去の悲惨さに自分を閉じ込めることではありません。
死者を数字にしないこと。
生き残った人の沈黙を、無関心と決めつけないこと。
家族の中で途切れかけた言葉を、次の人へ手渡すこと。
そして、誰かの命や尊厳が、国家、民族、組織、集団の都合によって奪われることを許さないこと。
その積み重ねこそが、命をつなぐ平和の礎になるのだと思います。
戦争は、昔の出来事ではありません。
父が生き延びたから、私は生まれました。
母の家族が沈黙の中でも命をつないだから、私は済州島へ行くことができました。
父と母の記憶は、私の中で交差し、いま私に語ることを求めています。
私は、聞いた者として、語り継いでいきます。
はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
私、原田芳裕は、様々な方と繋がりたいと思っています。もし、私と繋がりたいという方は、是非、下のメールフォームから、ご連絡ください。ご相談事でも構いません。お待ちしております。




