防災と歴史から読み解く春日井――地震・洪水・渇水・台風と地域の知恵

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私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。

「防災 歴史」という二つの言葉を春日井の地域から考えると、災害の歴史は、単に地震や台風の被害を並べた年表ではないことが分かる。

防災と歴史から読み解く春日井。南西部の洪水・内水氾濫、北部の渇水とため池、東部の斜面・交通被害、濃尾地震・伊勢湾台風・東海豪雨・台風15号を示す防災史の図解。

春日井では、庄内川に近い南西部の低地、中央部の段丘、北部の丘陵、東部の山地や庄内川の渓谷で、直面してきた災害が異なっていた。

南西部では洪水や内水氾濫が生活を脅かした。一方、北部や東部では、河川の水を利用しにくいため、水不足、溜池や用水の損傷、斜面と交通の問題が大きかった。

目次

春日井の防災の歴史に共通する「災害の連鎖」

1891年の濃尾地震では、家屋が倒壊しただけではない。用水路、圦樋、溜池の堤防、橋、道路が壊れ、その後の農業と生活を長期にわたって圧迫した。

1959年の伊勢湾台風は、果樹園や樹木、祭礼、農村の産業構造にまで影響を与えた。2000年の東海豪雨や2011年の台風第15号では、都市化した春日井で、河川氾濫、内水、交通遮断、停電などが連鎖した。

春日井の防災の歴史をたどると、災害とは「一度起きて終わる出来事」ではないことが見えてくる。地形、水、農業、交通、地域組織、産業の変化が重なって、災害の被害を大きくしたり、逆に被害を軽減したりしてきたのである。

本記事では、春日井市が公開する『郷土誌かすがい』を中心に、松河戸、牛山、神屋、玉野、高蔵寺などの地域史料も参照しながら、春日井の防災史を読み解いていく。

春日井の防災の歴史を年表で見る

まず、春日井で記録されてきた主な災害を、年表で俯瞰してみよう。

庄内川の洪水、干ばつと飢饉、濃尾地震、台風、集中豪雨――。約500年の歴史を並べてみると、春日井の災害は一種類ではなかったことがよく分かる。

とりわけ注目したいのは、同じ「水」が、ある地域では洪水として人々を苦しめ、別の地域では水不足として農業を脅かしてきたことである。また、1891年の濃尾地震では、住宅だけでなく、溜池、用水、堤防、道路まで被害を受けた。

そして戦後になると、伊勢湾台風、東海豪雨、2011年の台風第15号など、都市化した春日井特有の災害も現れてくる。

春日井の防災の歴史をまとめた災害史年表。1494年の庄内川洪水から濃尾地震、伊勢湾台風、東海豪雨、2011年台風15号までの主な自然災害を紹介

この年表を眺めると、春日井の防災の歴史には大きく三つの流れがあることが見えてくる。

第一は、庄内川や地蔵川を中心とした洪水との歴史である。

第二は、段丘・丘陵・山間部で続いてきた水不足と農業用水確保の歴史である。

そして第三は、濃尾地震、伊勢湾台風、東海豪雨などによって、住宅だけでなく、農業、交通、産業、地域社会まで被害が広がっていく複合災害の歴史である。

では、なぜ同じ春日井市の中で、これほど異なる災害が起きてきたのだろうか。

その答えを考えるためには、まず春日井の「地形」を見る必要がある。

春日井の防災の歴史は地形から始まる

春日井の災害を理解するには、最初に市内の地形を見なければならない。

春日井の防災の歴史を地形から解説した図。南西部低地の洪水・内水、北部の段丘・丘陵の水不足、東部の山地・渓谷の交通・斜面リスクを地図で示す

春日井市は、一つの平らな土地ではない。庄内川沿いの沖積低地、中央部の段丘、北部の丘陵、東部の山地という、性格の異なる土地で構成されている。

そのため、同じ大雨や地震が起きても、地域によって現れる被害が違う。

庄内川沿いの南西部は水が集まる土地だった

松河戸、下条、勝川などの南西部は、庄内川や地蔵川に近い低地である。

川が運んだ土砂によってつくられた土地は、稲作に適していた。しかし、水の恵みを受けやすい土地は、水害を受けやすい土地でもあった。

松河戸の地域史を紹介するウェブサイト「松河戸誌」では、この地域が庄内川と地蔵川によって形成された低地であり、古くから水田が広がっていたことが説明されている。

庄内川の水位が上がると、地蔵川の水が流れにくくなる。さらに、庄内川から水が押し戻されると、周辺の田畑が水につかった。

これは、堤防を越えて水が流れ込む洪水だけではない。支流や水路の水が排出できなくなる「内水」や「逆流」による被害でもあった。

現代の春日井でも問題となる内水氾濫は、決して新しい現象ではない。地形が変わらない以上、水が集まる場所も大きくは変わらないのである。

北部の段丘では水不足が生活を脅かした

大手、田楽、牛山、桃山、神屋、坂下などでは、南西部とは別の問題があった。

これらの地域には、低地より一段高い段丘や丘陵が多い。土地が高いため、川の水をそのまま水田に引くことが難しい。

雨が少ない年には、用水の末端まで水が届かない。溜池の水位が下がれば、稲作を続けられなくなる。

北部の農村にとって、水不足は一時的な不便ではなかった。収穫の減少、年貢の負担、家計の悪化に直結する災害だったのである。

ただし、これを直ちに「農業経営の破綻」と表現するのは慎重でなければならない。

史料から確認できるのは、農業経営の危機、作物の転換、用水施設の建設、離村や移住といった対応である。災害が生活を圧迫したことは確かだが、その影響の程度は、地域や家ごとに違っていたと考えるべきだろう。

東部では山地と渓谷が交通を制約した

玉野、高蔵寺、定光寺方面では、庄内川が山地の間を流れている。

現在の愛岐道路や中央本線が通る一帯は、庄内川がつくった深い谷である。平地が少なく、集落や道路、鉄道を設けられる場所が限られていた。

玉野から多治見方面へ向かう交通路は、かつて内津峠などの急な道に依存していた。明治時代に庄内川沿いの道路が整備され、その後、中央線が開通したことで交通は大きく改善した。

一方で、谷に沿って道路や鉄道が集中すれば、斜面の崩壊、倒木、河川の増水によって交通が途絶える危険も集中する。

東部の歴史については、昔から大規模な土砂災害が頻発したと断定できる史料は十分ではない。しかし、山地と渓谷によって交通路が限定され、災害時に迂回しにくいという地形上の弱点は、過去にも現在にも共通している。

江戸時代の春日井の防災史――水を引き、水を逃がす

江戸時代の春日井では、現代のような河川改修や上下水道は存在しなかった。

村々は、水をどこから引くか、どこにためるか、どのように余分な水を逃がすかを自分たちで考えなければならなかった。

春日井の防災の歴史は、巨大な施設の建設だけではない。用水路、溜池、小さな堤防、水門、共同作業など、地域の細かな工夫の積み重ねによってつくられてきた。

江戸時代の春日井の防災の歴史を示す図。入鹿用水、ため池、玉野用水、松河戸の堤防や流し松、地割制度など、水を引き・ため・逃がす地域の知恵を解説

入鹿用水がもたらした開発と新たな水不足

春日井北西部の農業に大きな影響を与えたのが、1633年に完成した入鹿用水である。

入鹿池から水を引くことで、従来は耕作が難しかった土地にも水が届くようになった。新田開発が進み、水田が増加した。

ところが、水田が増えれば、それだけ必要な水も増える。

『郷土誌かすがい』の「春日井のため池」によれば、田楽や大手では、入鹿用水の完成後にも水不足が起きていた。新しく開かれた水田を維持するために、さらに溜池が必要になったのである。

田楽では、1646年から長福寺で雨乞いが行われたとされる。

これは、用水を建設すれば水不足が完全に解決するわけではないことを示している。土地の開発が進むと、水の需要が増え、別の不足が生まれる。

防災施設には、人々の暮らしを安全にする一方で、新しい依存関係を生み出す面もあった。

春日井に溜池が多かった理由

『郷土誌かすがい』によると、春日井の溜池は、江戸時代前期の『寛文覚書』で54か所、江戸時代後期の『尾張徇行記』で78か所確認される。

2012年の調査でも、71か所の池が残っていた。

特に西尾では16か所、細野では10か所、明知では7か所と、東部の山間地に小規模な池が数多くつくられていた。

丘陵や山間地では、大きな河川の水を安定して利用することが難しい。そこで、谷や窪地に堤防を築き、雨水や谷水をためた。

溜池は、単独で機能していたわけではない。

上流の池から水路を通じて下流の池へ水を送り、そこから水田へ分配する。池、用水路、圦樋、堤防が一つのネットワークをつくっていた。

そのため、一か所が壊れるだけでも、下流の農地に水が届かなくなる危険があった。

玉野用水が変えた東部の農業

玉野では、庄内川がすぐ近くを流れている。それでも、農業用水を確保することは簡単ではなかった。

庄内川の川面と耕地との間には高低差があり、川の水をそのまま田へ流し込めなかったからである。

春日井市の資料によれば、玉野用水は1729年に開削された。庄内川から取水し、20町歩を超える田畑を潤したという。

さらに1856年には、高蔵寺村が玉野用水の延長を願い出た。工事は1858年に完成し、40町歩を超える農地に水を供給した。

庄内川が近くにあることと、その水を使えることは同じではない。

取水口を設け、水路の勾配を調整し、堤防や樋門を維持して、初めて水は農地に届く。玉野用水は、地形上の不利を土木技術によって補った地域防災の施設でもあった。

松河戸の「囲い」と水を逃がす知恵

洪水の多い松河戸では、水を完全に防ぐことだけが防災ではなかった。

松河戸には、集落を守る「除けの堤」が築かれていた。水が迫ったとき、集落への直接的な流入を遅らせるための堤防である。

堤防の一部には「喰い違い」と呼ばれる開口部が設けられた。普段は人や荷車が通ることができ、洪水時には水の勢いを弱める働きをしたと考えられる。

また、堤防に植えられた松を切って横倒しにし、水流を受け止める「流し松」という方法も伝えられている。

松の幹や枝によって水の勢いを弱め、堤防が直接削られることを防ごうとしたのである。

現代の強固な堤防とは発想が異なる。自然の力を完全に止めるのではなく、水の勢いを弱め、流れを分散させ、被害を小さくする方法だった。

地割制度は洪水被害を分け合う仕組みだった

松河戸には、土地を一定期間ごとに割り替える地割制度があった。

洪水の多い土地では、田の位置によって収穫量が大きく異なる。低い場所や川に近い場所を所有した農家だけが、毎年大きな損失を受ける可能性がある。

そこで、共同体の土地を定期的に配分し直し、水害の危険を特定の家だけに固定しないようにした。

これは、土木施設ではない。しかし、災害による損失を地域全体で分担する社会的な防災制度と考えることができる。

松河戸では、五月に用水を整備する「水役」「井役」、十月には道路を直す「道役」が行われた。各戸から作業者が参加し、地域の水路や道を共同で維持した。

共同作業は、施設を直すだけではない。水の流れや堤防の異常を知る人を増やし、住民同士が情報を交換する機会でもあった。

水不足と飢饉も春日井の災害だった

災害というと、地震、洪水、台風のような、目に見える破壊を思い浮かべやすい。

しかし、春日井の防災史には、雨が降らず、農作物が徐々に失われていく「ゆっくり進む災害」も含まれる。

春日井の防災の歴史における水不足と飢饉を解説した図。牛山の飢饉記録、玉野の郷倉、田楽の雨乞い、松河戸の日乞いから地域ごとの災害と備えを紹介

牛山に残る飢饉の記録

牛山の地域史をまとめた個人サイトには、1783年の天明の飢饉、1837年の天保の飢饉などが年表に記されている。

1877年には、飢饉によって牛山学校が休校となり、1879年まで授業を再開できなかったという記録も紹介されている。

地域史サイトは、行政の公式資料とは性格が異なるため、個々の記述について原史料を確認する必要がある。

それでも、飢饉が農家の収入だけでなく、子どもの教育や村の制度まで止める災害だったことを考える重要な手掛かりになる。

水不足や凶作は、建物を一瞬で破壊するわけではない。しかし、食料、税、教育、地域組織を少しずつ弱らせる。

防災の歴史を考える際には、このような長期的な影響も見落とせない。

郷倉は食料を備蓄する防災施設だった

玉野には、年貢米や救済用の穀物を保管した郷倉が残されている。

郷倉は、単なる倉庫ではない。凶作や飢饉が起きたとき、地域で穀物を融通するための備蓄施設でもあった。

現代の防災倉庫には、水、食料、毛布、簡易トイレなどが保管されている。江戸時代の郷倉は、その原型の一つといえる。

災害に備えて物資を共同で蓄える考え方は、現代になって突然生まれたものではない。

松河戸の「日乞い」と北部の「雨乞い」

地域による災害の違いを象徴するのが、祈りの内容である。

田楽などの水不足に悩む地域では、雨を願う雨乞いが行われた。

これに対し、低湿地の松河戸では、長雨が続くと晴天を願う「日乞い」が行われたという。

同じ春日井でも、一方では水が足りず、もう一方では水が多すぎた。

この違いは、春日井の防災を市内一律で考えてはいけないことを示している。必要な備えは、地域の標高、川との位置関係、土地利用によって変わるのである。

濃尾地震が示した春日井の複合災害

1891年10月28日に発生した濃尾地震は、マグニチュード8.0相当とされる巨大な内陸地震だった。

春日井でも、家屋、道路、橋、用水路、溜池、田畑が広い範囲で被害を受けた。

郷土誌かすがい』第84号に掲載された近藤雅英氏の「濃尾震災と春日井―新たに発見した古文書を中心に―」は、勝川、東野、春日井村、熊野などに残された文書から被害の実態を明らかにしている。

濃尾地震が春日井にもたらした複合災害を示す図。家屋被害、勝川の農地・公共施設、落合池や新木津用水など水利網の損傷、北海道への団体移住までを解説

市内の約半数の家屋が被害を受けた

『郷土誌かすがい』に紹介された調査によれば、現在の春日井市域では、死者4人、負傷者18人が確認されている。

家屋被害は全壊213戸、半壊553戸、破損1,806戸で、合計2,572戸に達した。これは当時の市域にあった家屋の約半数に相当するとされる。

春日井市域の多くは震度6、勝川村は震度7に相当する揺れだったと推定されている。

ただし、これは現在の計測震度による記録ではなく、残された被害状況から研究者が推定したものである。

濃尾地震は、春日井の防災の歴史において、単独の建物被害だけでは説明できない大災害だった。

勝川では農地が湿地化した

勝川村では、家屋の倒壊だけでなく、田畑の亀裂、堤防の決壊、人や家畜の死傷、家具や穀物の損失が報告されている。

特に注目されるのが、農地の湿地化である。

当時の勝川村238戸のうち、74戸が煙草や綿を栽培していた。地震によって畑に水がたまりやすくなり、収穫量が半分程度に減ったという。

地震で地盤が沈下したり、亀裂から地下水が上がったり、排水路が壊れたりした可能性が考えられる。

家が残った農家でも、翌年以降の収入を失う危険があった。地震は、数分間の揺れの後も、農地と家計を通じて生活を脅かしたのである。

公共施設を直す余裕も失われた

勝川村は、名古屋区裁判所勝川出張所として使用する建物を提供していた。

ところが、濃尾地震で建物が被害を受けた。村は修築する約束をしていたものの、村全体の被害額が約5万円に達し、工事まで手が回らないとして延期を願い出た。

災害では、被災した住宅だけでなく、役場、裁判所、学校などの公共施設も同時に修理しなければならない。

しかし、住民の収入や村の財政が落ち込めば、復旧に使える資金も不足する。

勝川の文書は、大きな災害が自治体財政を圧迫し、公共サービスの復旧を遅らせることを示している。

落合池の被害から分かる水利網の弱点

東野の落合池では、堤防に275.4メートルにわたる亀裂が生じた。

『郷土誌かすがい』で紹介された「明治廿四年十二月震災土木工事願書纏」は、複写で181枚に及ぶ。「震災復旧工事設計帳」も151枚あり、被害と復旧工事の大きさがうかがえる。

記録からは、負傷者1人、建物全壊3棟のほか、池、河川、用水、道路、橋、役場などの被害が確認された。

落合池は単独の池ではなかった

落合池には、大草山、下原山、大泉寺方面から水が流れ込んでいた。

さらに、現在の小牧市にある太良池、下原村の大池、茨沢池、大洞池、籠池などとも水路によって関係していた。

生地川、八田川、その支流、小規模な水路も、落合池への水の供給を支えていた。

このネットワークのどこかが壊れれば、落合池の水位が下がる。上流の池が干上がれば、下流の水田にも水が届かない。

濃尾地震による落合池の被害は、「池の堤防が一か所壊れた」という単純な問題ではなかった。

取水から貯水、送水、配水までを担う水利システム全体が損傷したのである。

地震から十日後に水がなくなった

落合池周辺では、地震直後には異常が見つからなかった場所でも、後になって水漏れが判明した。

十日ほど経過して水がなくなり、初めて損傷に気づいた例もあった。大雨の際に漏水が見つかった場所もある。

地震による堤防や水路の亀裂は、表面から見えないことがある。

小さな亀裂でも、水が流れるたびに土が削られ、空洞が広がる。時間が経ってから陥没や漏水として現れる可能性がある。

これは現代の防災にも通じる教訓である。

地震後の点検は、一度実施すれば終わりではない。数日後、降雨後、水位を回復させた後にも、継続して確認する必要がある。

小さな復旧工事ほど村の負担になった

大規模な土木工事には国の補助金が出る場合があった。しかし、補助対象にならない小規模な工事は、地元が負担しなければならなかった。

落合池周辺では、八幡村役場の修復、民家の修理、里道の復旧、橋の架け直し、用水路の補修を同時に進める必要があった。

一つ一つは小さな工事に見えても、数が多ければ費用と人手は膨大になる。

防災の歴史を大災害の死者数や全壊戸数だけで評価すると、こうした負担は見えにくい。

地域の生活を再建するには、名もない水路、小さな橋、農道、樋門を一つずつ直さなければならなかった。

新木津用水と小さな溜池の一斉被害

濃尾地震では、新木津用水にも広い範囲で被害が出た。

片山村では圦樋の伏せ替え、堤防の陥落、亀裂の修繕が行われた。不二村では連帯用水、田楽村では北条橋付近から村境までの堤防が復旧された。

和爾良村、春日井村でも、圦樋や用水堤防の工事が行われている。

用水路は複数の村を通っていた。一つの村だけが修理しても、上流や下流が壊れたままでは水は流れない。

災害復旧には、村を越えた調整が必要だった。

熊野神社の古文書が記録した23件の被害

熊野神社の宮司を務めた冨田家の古文書には、地震に関連する23件の記録が残されていた。

申新田の新池上池と下池、善師の神田池、坂下の大根、十人上納の複数の池などで、堤防の亀裂、陥落、圦樋の破損が記録されている。

坂下では、内津川の水が上流で地下に浸透し、表面の流れが少なくなる。水の便が悪いため、小規模な溜池を数多く設ける必要があった。

ところが、地震ではそれらの池が一斉に被害を受けた。

小さな池を分散して設ける仕組みには、一つの池が壊れても全ての水を失わない利点がある。一方、大規模地震で多数の池が同時に被災すれば、復旧箇所が増える。

分散した施設は、日常の水利用には柔軟である。しかし、点検や補修に多くの人手が必要になるという弱点もあった。

濃尾地震は人を北海道へ移動させた

濃尾地震の影響は、建物や農業施設の復旧だけにとどまらなかった。

被災後の生活再建が難しくなったため、春日井から北海道への団体移住が計画された。

『郷土誌かすがい』第80号によれば、1894年4月15日、現在の暦で5月29日に、東西春日井郡の16町村から56戸、320人を超える人々が北海道へ出発した。

移住先は、現在の石狩市付近にある生振原野だった。移住者には、一戸当たり1万5,000坪の土地が、開墾を条件として貸し付けられた。

現在の春日井市域からは、春日井村6戸、八幡村6戸、神領村4戸、堀ノ内村4戸、下条村1戸、和爾良村3戸、片山村2戸、田楽新田1戸の計27戸が参加した。

団体全体のほぼ半数が、現在の春日井市域からの移住者だったことになる。

東野八幡神社の鳥居に刻まれた名前のうち、児島勘次郎と児島彦助は、この北海道移住の署名者でもあった。

濃尾地震は、人の住む場所や家族の将来まで変えた。

「元の場所に戻して終わる」ことだけが復興ではない。移住、転職、作物転換もまた、災害後の生活再建だったのである。

養蚕と神屋の地下堰堤――経済危機への備え

春日井北部と東部では、水田だけに依存しない農業として養蚕が広がった。

桑は、水田ほど大量の水を必要としない。浅い土や水の乏しい土地でも栽培しやすく、蚕から得られる繭は現金収入になった。

『郷土誌かすがい』によれば、春日井の養蚕農家は1888年の443戸から、1927年には3,236戸へ増加した。

しかし、養蚕には国際的な生糸価格の影響を受けやすいという弱点があった。

神屋の地下堰堤を解説した縦長インフォグラフィック。タイトルは「養蚕と神屋の地下堰堤――経済危機への備え」。上部では、神屋で養蚕が広がったこと、世界恐慌で生糸価格が下落し地域経済が打撃を受けたことを説明。右上には神屋地下堰堤の位置図と現在の周辺写真を配置。中央には地下堰堤の断面図が大きく描かれ、延長約363.6メートル、最大深さ約9.09メートル、粘土の堰堤幅約1.82メートル、伏流水を地上へ導水した仕組みを示している。下部では、地下堰堤の意味として、水不足対策、養蚕から農業転換を支える役割、失業者に仕事を提供する生活支援の三点を整理し、最後に水・仕事・農業・所得を同時に支えることも防災であるとまとめている。

世界恐慌が神屋の養蚕を直撃した

神屋では、地表を流れる水が少なかった。

内津川の水は砂礫層に浸透しやすく、川底が乾くことから「神屋のカラ川」と呼ばれた。

1822年頃の記録では、神屋村には173戸、720人が暮らしていたが、水田は6反4畝ほどしかなく、畑は16町8反ほどあったとされる。

水を確保しにくいため、近代になると桑畑と養蚕が重要な産業になった。

ところが、1929年に始まった世界恐慌で生糸価格が下落し、養蚕農家の経営が悪化した。

これは地震や洪水ではない。しかし、一つの産業への依存が、世界経済の変化によって地域全体の危機につながったという意味で、防災の歴史に含めて考える必要がある。

地下を流れる水を地下堰堤で止めるーー神屋の地下堰堤

神屋では、桑畑を水田に転換するため、土地改良と地下堰堤の建設が計画された。

工事は1933年2月に始まった。

地面を最大約9.09メートル掘り下げ、地下水の流れを遮る粘土の壁を築いた。堰堤の長さは約363.6メートル、幅は約1.82メートルだった。

地下を流れて庄内川方面へ抜けていた水をせき止め、農業用水として利用しようとしたのである。

工事には地元農家が参加した。不況で仕事を失った人々に雇用を提供する失業対策事業でもあり、昼夜を通した作業が約3年間続いた。

この地下堰堤には、三つの意味があった。

一つ目は、水不足への対策である。二つ目は、生糸価格の暴落に対応する農業転換である。三つ目は、失業者に仕事を提供する生活支援である。

神屋の事例は、防災が堤防や避難所だけではないことを示す。

水、仕事、農業、所得を同時に安定させることも、地域が危機から立ち直るための防災だった。

1959年の伊勢湾台風と春日井

1959年9月26日に東海地方を襲った伊勢湾台風は、全国で5,000人を超える死者・行方不明者を出した。

春日井でも、強風、豪雨、河川の増水、農作物への被害が発生した。

牛山の地域年表には、市内で最大瞬間風速53メートルを記録し、旧町村時代を通じて最大級の台風被害となったことが記されている。

牛山小学校の児童1人が亡くなったという記録もある。

1959年の伊勢湾台風と春日井の被害を解説した縦長インフォグラフィック。強風と豪雨による被害、桃山の果樹園の損傷、被災後のサボテン栽培への転換、水車や勝川の馬之塔行事など地域文化への影響を図解し、防災の歴史としてまとめている。

桃山の果樹園が大きな被害を受けた

桃山周辺では、明治時代末から桃などの果樹栽培が行われていた。

段丘や丘陵は、水田には向かない場所が多い。その代わり、果樹や桑などを栽培することで土地が利用された。

ところが、伊勢湾台風の強風によって、多くの果樹が折れたり倒れたりした。

果樹は、植え直してもすぐには収穫できない。元の収入を得られるまでに何年もかかる。

一年草の被害とは異なり、果樹園の被害は、その後の農業経営に長く残るのである。

サボテンへの転換は災害後の適応だった

桃山の農家は、伊勢湾台風後、比較的被害の小さかったサボテン栽培へ比重を移した。

春日井では、果樹や観葉植物の栽培技術を基礎として、サボテンの実生栽培が発展した。

その後、春日井はサボテンの一大産地として知られるようになる。

これは、被災した農業を元通りに復旧した例ではない。災害を契機に、より地域に適した作物へ転換した例である。

防災の歴史から見れば、サボテンは単なる特産品ではない。伊勢湾台風後の農家が生き残るために選択した、産業上の適応策という側面を持っている。

水車や地域文化も被害を受けた

春日井の水車に関する記録では、上流と下流の水車が1957年8月の豪雨で失われた。

中流の水車も、1959年の伊勢湾台風で被害を受け、復旧には約8か月を要した。

水車は、精米や製粉などを担う生産施設だった。水車が止まれば、地域の農産物加工にも影響が及ぶ。

また、勝川の馬之塔行事は、伊勢湾台風以後、長く途絶えたとされる。1989年になって復活した。

災害は、人命や建物だけでなく、祭礼、技術、地域の記憶にも影響を与える。

被害の数字に表れにくい文化の中断も、災害の長期的な影響として記録する必要がある。

都市化が変えた春日井の水害

戦後、春日井では名古屋市の近郊都市として住宅地や工場が急速に増加した。

田畑や森林が道路、住宅、駐車場に変わると、雨水が地面に浸透しにくくなる。短時間に水路や河川へ流れ込む水の量が増える。

昔から水が集まりやすかった場所では、土地の表面が舗装されたことで、内水氾濫の危険が別の形で現れた。

都市化が変えた春日井の水害を解説した縦長インフォグラフィック。戦後の都市化によって田畑やため池が住宅地・道路・工場へ変化し、雨水が地面に浸透しにくくなって内水氾濫の危険が高まったことを示す。大手の池跡と地下雨水貯留施設、高蔵寺ニュータウンと谷の記憶、新池の農業用水から洪水調整池への役割変化を地図や断面図で説明し、見えなくなった地形と水の通り道を知ることが現代の防災に重要だとまとめている。

大手の池跡と現代の雨水対策

大手や田楽周辺では、かつて農業用の池がつくられていた。

『郷土誌かすがい』では、大手池などの低い土地が市街地に変わり、道路や住宅が浸水するようになったことが紹介されている。

現在では、朝宮公園や大手小学校の地下に雨水を一時的にためる施設が設けられている。

ここには、防災の歴史の連続性がある。

かつての溜池は、農業に必要な水をためた。現代の地下貯留施設は、市街地に降った余分な水をためる。

目的は違うが、土地の低い場所に一時的に水を受け止めるという考え方は共通している。

池を埋め、地表から水面が消えても、水が集まる地形まで消えるわけではない。

高蔵寺ニュータウンと谷の記憶

高蔵寺ニュータウンは、1968年に入居が始まった。

開発前の区域は、約85%が山林や原野で、水田や畑は谷筋を中心に分布していた。

ニュータウンの道路には、かつての谷や尾根に沿って設けられたものがある。昔の池の名称が、現在の地区名や公園名として残る場所もある。

都市開発によって景観が変化すると、以前の川、谷、湿地、池の位置は分かりにくくなる。

しかし、大雨が降れば、水は地形の低い方向へ流れる。

古い地図、字名、溜池の記録を現代のハザードマップと重ねることは、都市化によって見えなくなった水の通り道を理解する方法になる。

新池は農業用から洪水調整へ役割を変えた

高蔵寺の新池は、1893年頃、濃尾地震によって玉野用水が損傷したことを受けてつくられたとされる。

当初は農業用水を確保する池だった。

その後、周辺が市街化し、池は公園や自然環境の一部となった。さらに、豪雨時に雨水を一時的にためる洪水調整機能も持つようになった。

2011年の豪雨で高蔵寺駅周辺が浸水した後、新池の貯留量は約2万トン増やされた。中学校のプール約40杯分に相当すると紹介されている。

農業用水、景観、生態系、洪水調整、非常時の水源。

溜池は、時代によって役割を変えながら、現在も春日井の防災を支えている。

2000年の東海豪雨――都市機能が連鎖して止まる

2000年9月11日から12日にかけて、東海地方は記録的な豪雨に見舞われた。

春日井市役所での総雨量は474.5ミリだった。南部では513.5ミリ、高蔵寺では466ミリを記録している。

一時間当たりの最大雨量は、高蔵寺で88ミリ、南部で80ミリに達した。

河川と排水施設の能力を超える雨が短時間に降り、市内各地で浸水が発生した。

2000年の東海豪雨が春日井にもたらした被害を解説した縦長インフォグラフィック。総雨量や時間雨量、1,300棟を超える浸水被害、避難所開設、ため池や用水路の被害に加え、鉄道の運休、停電、ガス停止、災害ごみ処理など、都市機能が連鎖的に止まったことを図解している。

1,300棟を超える建物が浸水した

春日井市の記録によれば、床上浸水は622棟で、このうち住家が364棟だった。

床下浸水は727棟に達した。

避難勧告は5地区、1,703世帯に出され、19か所の避難所が開設された。避難者は延べ960人、同時刻の最大避難者数は880人だった。

農地にも土砂が流入し、溜池の堤防決壊が2か所、土砂流入が3か所で発生した。用水路でも堤防の決壊や土砂流入が確認されている。

都市化した後も、溜池、用水、農地の被害はなくなっていない。

鉄道、電気、ガス、ごみ処理が連鎖した

東海豪雨では、中央本線と名鉄小牧線が運転を見合わせた。

約1,100戸で停電が発生し、103戸ではガスの供給が停止した。

市は8,494個の土のうを使用した。水害後に発生した災害ごみは約1,080トン、廃棄された畳は6,730枚に及んだ。

水が引けば災害が終わるわけではない。

ぬれた家具や畳を運び出し、住宅を乾燥させ、電気とガスを確認し、道路と鉄道を復旧する必要がある。

現代都市の防災では、住宅、交通、エネルギー、廃棄物処理、福祉を別々に考えることはできない。一つの浸水が、複数の都市機能を連鎖的に停止させるからである。

2011年の台風第15号が示した複合的な危険

2011年9月20日から21日にかけて、台風第15号の影響で春日井は大雨となった。

庄内川、八田川、地蔵川の水位が急速に上昇し、八田川では水があふれた。河川の増水に加え、市街地では内水氾濫が相次いだ。

総雨量は高蔵寺で344ミリに達し、市内の観測地点で最も多かった。

2011年の台風第15号が春日井にもたらした複合的な危険を解説した縦長インフォグラフィック。庄内川・八田川・地蔵川の増水と内水氾濫、高蔵寺の総雨量344ミリ、41町内への避難勧告、住宅浸水、農地被害、ため池や水路の被害を示す。さらに、東部では内津川周辺の堤防斜面崩壊、高座山の斜面崩壊、道路被害、自衛隊の土のう積み活動を紹介し、低地と丘陵地で同じ大雨でも被害の現れ方が異なることをまとめている。

41町内に避難勧告が出された

避難勧告は41町内に出され、619人が避難した。

建物被害は床上浸水214棟、床下浸水183棟だった。

水田では95.7アールに倒伏被害が発生し、180アールの農地に土砂が流入した。溜池の被害が1か所、水路の損傷や土砂流入が20か所確認されている。

現代の春日井でも、住宅地の浸水と農業施設の被害は同時に発生する。

東部では斜面と河川の被害も発生した

内津川では、一色橋や庄司橋付近で堤防の斜面が崩れた。

高座山でも斜面崩壊が発生し、道路や散策路が被害を受けた。市内の複数地点では、自衛隊が土のう積みなどの活動を行った。

2011年の被害は、春日井の地域差をよく表している。

南西部や河川沿いでは、外水と内水による浸水が問題になった。東部や丘陵地では、河川施設に加えて斜面と道路の安全が問題になった。

同じ雨でも、低地と丘陵では被害の現れ方が異なるのである。

水が多すぎる地域と水が足りない地域

春日井の防災史を一言で表すなら、「水の量を調整してきた歴史」といえる。

水が多すぎる地域と水が足りない地域を歴史風に解説した縦長インフォグラフィック。春日井の防災史を「水の量を調整してきた歴史」として示し、南西部の松河戸・庄内川・地蔵川周辺では洪水と内水氾濫、北部の田楽・大手・桃山・神屋・坂下では水不足とため池・用水への依存、東部の玉野・高蔵寺では高低差による取水の難しさを、古地図風の図と地域図で比較している。さらに、ため池や用水は地震時に新たな危険となること、堤防を高くすると内水氾濫の恐れがあること、農地の減少で貯水機能が失われることを歴史画風の小図で説明し、防災施設や土地利用には複数の側面があるとまとめている。

南西部の松河戸では、水が多すぎることが問題だった。北部の田楽、大手、桃山、神屋、坂下では、水が足りないことが問題だった。

東部の玉野や高蔵寺では、庄内川が近くにありながら、高低差のため水を簡単に利用できなかった。

水不足に対応して溜池や用水をつくると、地震時には堤防や圦樋の被害が新たな危険になる。

洪水を防ぐために堤防を高くすると、支流や市街地の水が排出できず、内水氾濫が起きることがある。

農地を住宅地に変えると、水田が持っていた一時的な貯水機能が失われる。

防災施設や土地利用には、必ず複数の側面がある。

重要なのは、施設をつくった時点で安心するのではなく、その施設によって水の流れがどのように変わるかを継続して確認することである。

地名と地域文化に残る災害の記憶

災害の記録は、行政文書や新聞だけに残るわけではない。

地名、寺社、石碑、祭礼、言い伝えの中にも、過去の災害や土地の特徴が刻まれている。

地名と地域文化に残る災害の記憶を解説した歴史風インフォグラフィック。松河戸の古地図と霞堤の図を用い、「流れ」「堤越し」「十人飛び」などの地名、五反田橋付近の霞堤、水屋、秋葉信仰・愛宕信仰・半僧坊信仰などを通して、春日井で災害の記憶が地名や地域文化に残されてきたことを示している。

松河戸の地名が示す水の通り道

松河戸には、「流れ」「堤越し」「十人飛び」など、水害との関係を想像させる地名が残されている。

地名の由来は複数あるため、名称だけで過去の災害を断定することはできない。

しかし、松河戸周辺には、地名だけでなく、かつての治水施設にも洪水と向き合った記憶が残されていた。

その一つが、**内津川が庄内川へ合流する五反田橋付近に設けられていた「霞堤」**である。

松河戸の地域史をまとめた資料によれば、内津川が氾濫すると、濁流が松河戸まで押し寄せることがあった。そのため、内津川左岸の桜佐側には、高さ約1メートル、長さ約30メートル、幅約6メートルの土製の霞堤が設けられていた。

霞堤とは、堤防を完全につなげるのではなく、あえて切れ目を残しておく治水の仕組みである。

洪水時には、その切れ目から水の一部を堤内地へ逃がし、水位が下がれば再び川へ戻す。大量の水を一か所で無理に押さえ込むのではなく、水を一時的に受け入れ、流れを分散させることで、堤防が一気に決壊して大きな被害になるのを防ごうとする考え方だった。松河戸に伝わる「ヨゲ堤防」や「喰違い堤防」も、水の力を完全に遮断するのではなく、受け流しながら被害を小さくするという点で、共通する治水の知恵として紹介されている。

消えた霞堤から「水の通り道」を復元する

この桜佐側の霞堤は、2006年12月の内津川改修工事によって姿を消したという。

つまり、現在の景観だけを見ても、かつて水をどこへ逃がし、どこで受け止めていたのかは分からなくなっている。

だからこそ、「流れ」「堤越し」「十人飛び」といった地名、古い堤防の位置、霞堤の記録、河川の旧流路を重ね合わせることに意味がある。

古地図や土地の高低差、住民の伝承、航空写真、ハザードマップを突き合わせていくと、水がたまりやすかった場所や、かつて水を逃がしていた方向が見えてくることがある。

土地の記憶を調べるとは、地名を見るだけではない。消えてしまった堤防や水路まで含めて、「かつて水がどう動いていたのか」を復元することでもある。

水屋は個人住宅に組み込まれた避難施設だった

洪水の多い地域では、屋敷内の高い場所に「水屋」がつくられた。

水屋には、食料や家財を保管するだけでなく、洪水時に人が避難する役割もあった。

現代の指定避難所とは違い、各家が生活の中に避難場所を持っていたのである。

避難所へ移動する時間がない場合や、道路が水につかった場合でも、屋敷内の高所へ移動できる。

水屋は、地域の地形と過去の経験を住宅構造に反映した防災設備だった。

火災を防ぐ祈りも地域防災の一部だった

『郷土誌かすがい』には、秋葉信仰、愛宕信仰、半僧坊信仰など、火災除けの信仰も紹介されている。

木造家屋が密集し、消防設備が十分でなかった時代には、火災は村全体を失わせる危険があった。

もちろん、祈りだけで火を消すことはできない。

しかし、定期的な祭礼や講の集まりは、火の扱いに注意し、地域の結び付きを確認する機会でもあった。

信仰、共同作業、見回り、助け合いは、明確に分けられていたわけではない。地域社会の行事そのものが、災害への注意を共有する役割を持っていたのである。

春日井の防災史から学べる七つの教訓

春日井の防災の歴史は、現代の防災に何を教えているのだろうか。

過去の出来事を懐かしい地域史として読むだけでは、その価値を十分に生かせない。濃尾地震、伊勢湾台風、東海豪雨などに共通する問題を整理すると、七つの教訓が見えてくる。

春日井の防災の歴史から学ぶ七つの教訓をまとめた都市型インフォグラフィック。地域ごとの防災、見えない水路、水利施設の継続点検、小規模施設の被害、産業再建、共同作業による情報共有、災害記録の保存と検証の重要性を図解している。

第一の教訓――市内一律の防災では足りない

春日井には、洪水に弱い低地、水不足に悩んだ段丘、斜面と交通に課題を持つ山間地がある。

同じ避難情報が出ても、住民が最初に注意すべき場所は異なる。

低地では、河川水位、内水、地下空間、アンダーパスに注意する必要がある。丘陵地では、斜面、擁壁、道路の寸断を考えなければならない。

溜池の下流に住む人は、地震後の堤防損傷や豪雨時の水位にも注意が必要である。

防災は「春日井市」という単位だけでなく、旧村、町内、流域、標高ごとに考える必要がある。

第二の教訓――見えない水路を忘れない

都市化によって、昔の水路や池が道路や住宅地の下に隠れた場所がある。

しかし、地下の地形や水の流れまで消えたわけではない。

昔の池、谷、湿地、旧河道だった場所は、現在も周囲より低かったり、地下水が集まりやすかったりする可能性がある。

大雨時に道路冠水が繰り返される場所では、排水設備だけでなく、その土地が過去に何だったのかを調べることが役立つ。

『郷土誌かすがい』、古い地形図、字名、地域史サイトは、そのための重要な資料になる。

第三の教訓――地震後は水利施設を繰り返し点検する

濃尾地震では、地震直後に異常が分からず、十日後に漏水が判明した場所があった。

溜池や用水路の亀裂は、雨や通水によって拡大する可能性がある。

地震後には、住宅や道路だけでなく、溜池、農業用水、樋門、小河川、擁壁も確認しなければならない。

点検は一回で終わらせず、余震後、降雨後、水位変化後にも繰り返す必要がある。

明治時代の記録は、現代のインフラ点検にも通用する教訓を残している。

第四の教訓――小さな施設の被害を軽視しない

落合池周辺では、小さな橋、村道、水路、池、圦樋が多数壊れた。

一か所の被害額が小さくても、数十か所を直せば大きな負担になる。

小規模施設は、国や県の補助対象になりにくく、地域の負担になりやすい。この問題は、現代の私道、農道、自治会管理の水路、個人所有の擁壁にも通じる。

誰が点検し、誰が修理費を負担するのか。

災害が起きる前に、所有者、管理者、連絡先、補助制度を確認しておくことが必要である。

第五の教訓――産業を立て直すことも防災である

濃尾地震後には、北海道への移住が行われた。

世界恐慌後の神屋では、養蚕から水田農業への転換が図られた。伊勢湾台風後の桃山では、果樹からサボテンへ比重が移った。

これらに共通するのは、元の状態へ戻すだけでは生活を再建できなかったことである。

現代でも、農業、商店、工場が被災すれば、建物を直すだけでなく、売上、雇用、取引先、資金繰りを守らなければならない。

防災計画には、人命救助と避難だけでなく、地域産業をどう継続するかという視点も必要である。

第六の教訓――共同作業は防災情報を共有する場になる

松河戸の水役や道役では、住民が共同で水路や道路を整備した。

このような作業を通じて、どこに水がたまりやすいか、どの堤防が弱いか、誰が作業に詳しいかという情報が共有された。

現代では、専門業者や行政が施設を管理する範囲が広がり、住民が水路や堤防の状態を知る機会は少なくなった。

その一方で、地域住民が日常の変化に最初に気づくことも多い。

防災訓練、まち歩き、用水清掃、地域史の学習を別々の活動にせず、土地の危険を共有する機会として結び付けることが重要である。

第七の教訓――災害の記憶を更新し続ける

濃尾地震の資料には、近年になって発見、整理、翻刻されたものが多い。

東野水利組合の文書、浅井家文書、冨田家文書が読まれたことで、これまで知られていなかった用水や溜池の被害が明らかになった。

地域の防災史は、完成した過去ではない。

蔵や押し入れに残る古文書、寺社の石碑、古写真、住民の記憶を調べることで、新しい事実が見つかる可能性がある。

一方、言い伝えや個人サイトの記述は、そのまま事実と断定せず、行政資料や原史料、現在の地形と照合しなければならない。

郷土史を防災に生かすには、記録を保存することと、記録の確かさを検証することの両方が必要である。

春日井の防災の歴史を現在へつなぐ

春日井の災害史をたどると、地域の人々が、水を「防ぐ」だけでなく、「ためる」「流す」「分ける」「融通する」という方法を組み合わせてきたことが分かる。

松河戸では、除けの堤、喰い違い、流し松、水屋、地割制度によって洪水に備えた。

田楽や大手では、用水と溜池を整備し、雨乞いを行った。

玉野と高蔵寺では、庄内川から水を引く用水がつくられた。

神屋では、地下を流れる水を地下堰堤でせき止め、農業と雇用を立て直そうとした。

濃尾地震では、家屋だけでなく、農地、溜池、用水、道路、橋、村の財政が被害を受けた。復旧の見通しを失った人々の一部は、北海道へ移住した。

伊勢湾台風は、果樹園、水車、樹木、祭礼に被害を与えた。その後、桃山の農業はサボテン栽培へと転換していった。

東海豪雨と2011年の台風第15号は、都市化した春日井で、河川、内水、斜面、鉄道、電気、ガス、ごみ処理が相互につながっていることを示した。

防災の歴史を現在のハザードマップへつなぐ

春日井の防災史を学ぶ意味は、「昔も大変だった」と確認することではない。

なぜその場所に水が集まるのか。そこに池がつくられたのには、どのような理由があったのか。村人たちは、何のために共同で堤防や水路を直してきたのか。そして災害の後、人々はなぜ移住や作物転換という選択をしたのか。

その理由を知ることで、現在のハザードマップや避難情報を、地域の実情と結び付けて理解できるようになる。

まとめ――防災の歴史は地域の未来を考える資料である

春日井の防災の歴史には、二つの異なる水の問題が流れている。

一つは、庄内川や地蔵川周辺で繰り返された洪水と内水である。もう一つは、段丘や丘陵、山間地で農業を脅かした水不足である。

この二つは正反対に見える。しかし、どちらも水を適切な場所へ導き、必要な時間だけとどめ、不要になった水を安全に流すという共通の課題だった。

さらに、地震は水利網を壊し、台風は農業や文化を変え、豪雨は都市機能を連鎖的に停止させた。

春日井の防災は、自然災害だけを対象にした歴史ではない。

農業、食料、雇用、交通、自治体財政、地域文化、移住まで含めて、人々が生活を続ける方法を探してきた歴史である。

災害の記録を保存することは、犠牲や苦労を忘れないために必要だ。

それと同時に、過去の失敗と工夫を、現在の土地利用、施設点検、避難計画、事業継続、地域活動へ生かす必要がある。

地域の記憶を「自分の場所」の防災へ

『郷土誌かすがい』に残された古文書、松河戸や牛山などの地域史、寺社の石碑、地名、古い池や用水路は、過去を語るだけの文化財ではない。

それらは、春日井の土地がどのような危険を抱え、人々がその危険とどう向き合ってきたかを伝える「地域の防災情報」でもある。

春日井の防災の歴史を知ることは、自分の住む場所を知ることにつながる。

自宅や職場が低地にあるのか、昔の池や谷に近いのか、どの川や水路の影響を受けるのか。避難路に橋や斜面があるのか。地震後に確認すべき溜池や擁壁が近くにあるのか。

歴史と現在のハザードマップを重ねたとき、防災は抽象的な知識ではなく、自分たちの暮らしの問題になる。

過去の災害を知ることは、未来の災害を予言することではない。

しかし、被害が起こりやすい条件を知り、異常に早く気づき、地域に合った備えを選ぶことはできる。

春日井の防災史は、そのために読み継ぐべき地域の財産なのである。

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