豊田市の由来――江戸の商道からトヨタ自動車、現在の巨大都市まで

「豊田市 由来」と聞けば、多くの人は「トヨタ自動車があるから豊田市になった」と答えるのではないでしょうか。
それは間違いではありません。
現在の豊田市は、もともと「挙母(ころも)」と呼ばれ、1951年に挙母市となりました。そして1959年1月1日、トヨタ自動車工業を中心とする企業都市として発展していくことを背景に、市名を「豊田市」へ変更しています。
しかし、豊田市の由来を本当に理解するには、1959年だけを見ても十分ではありません。
なぜトヨタ自動車は、そもそも挙母に巨大工場を造ったのでしょうか。
なぜ挙母には鉄道があり、工業用水があり、電力があり、多くの人や物が集まる条件が整っていたのでしょうか。
さらにさかのぼれば、江戸時代の現在の豊田市域には、挙母藩だけでなく、伊保藩、岡崎藩、刈谷藩、尾張藩領、旗本領、寺社領などが複雑に入り組んでいました。それにもかかわらず、矢作川、巴川、伊那街道、中馬、問屋、市場を通じて、山間部から三河湾、さらに信州や名古屋までを結ぶ巨大な経済ネットワークが成立していました。
私は、現在の豊田市を理解する鍵はここにあると思います。
豊田という地域は、トヨタ自動車が来て突然「物流とものづくりの町」になったのではありません。
江戸時代から、人・物・情報・信用をつなぎ、その時代に合わせて交通と産業を組み替えてきた地域でした。
本稿では「豊田市 由来」を、単なる市名の由来ではなく、江戸時代から現在まで続く「つながる都市」の歴史として考えてみたいと思います。
目次
- 1 「豊田市 由来」の前史――そもそも「挙母」とは何だったのか
- 2 江戸時代の豊田市は「挙母藩」だけではなかった
- 3 江戸時代の豊田市の由来を考える鍵は「物流」にある
- 4 足助は江戸時代の巨大な物流センターだった
- 5 中馬が信州と三河を結んだ
- 6 江戸時代の豊田市には「物流を守る制度」もあった
- 7 商道を維持したのは藩だけではなかった
- 8 挙母もまた「市場の町」だった
- 9 明治になると「商道」が近代産業へ変わっていく
- 10 「養蚕の町・挙母」が鉄道を呼び込んだ
- 11 養蚕の繁栄が終わったとき、挙母は次の産業を探した
- 12 なぜトヨタは挙母を選んだのか
- 13 江戸時代のネットワークはトヨタ進出に影響したのか
- 14 矢作川は「物流の川」から「工業の川」へ変わった
- 15 1938年、挙母は「クルマの町」へ転換した
- 16 「豊田市 由来」の核心――1959年、なぜ挙母市から豊田市になったのか
- 17 市名変更には激しい反対運動もあった
- 18 会社は「トヨタ」、市は「豊田」――名前の関係は少し複雑
- 19 「豊田市」になってから、市域はさらに巨大化した
- 20 現在の豊田市は「自動車都市」であると同時に「山の都市」である
- 21 世界有数の工業都市となった豊田市
- 22 江戸時代の商道からトヨタのサプライチェーンへ
- 23 豊田市の由来は「トヨタ自動車」だけでは説明できない
- 24 「豊田市 由来」を一つの流れにするとこうなる
- 25 現在の豊田市にも「つながる都市」という歴史は続いている
- 26 まとめ――豊田市の由来とは、「名前が変わった歴史」ではなく「つながり方を変えてきた歴史」である
- 27 主な参考資料
「豊田市 由来」の前史――そもそも「挙母」とは何だったのか

現在の豊田市中心部には、非常に古い「ころも」という地名があります。
古代の史料には「挙母郷」が現れます。
平城宮跡から出土した瓦には「参河国賀茂郡挙母郷」とあり、延暦12年、すなわち793年の紀年を持つものが、現在確認されている「挙母」という漢字表記の早い例です。詳しい地域史については、豊田市文化財デジタルアーカイブ「とよたの事典」でも確認することができます。
代の史料には「挙母郷」が現れます。
平城宮跡から出土した瓦には「参河国賀茂郡挙母郷」とあり、延暦12年、すなわち793年の紀年を持つものが、現在確認されている「挙母」という漢字表記の早い例です。『和名類聚抄』にも「挙母(古呂母)」という読みが確認できます。
豊田市も、現在の市域が古く「衣(ころも)の里」と呼ばれていたことを紹介しています。
つまり、「ころも」という土地の名前は、トヨタ自動車どころか、近代国家成立よりはるか以前から存在していました。
現在の豊田市という名前は新しい。
しかし、その中心部にある「ころも」という地域社会の歴史は千年以上に及びます。
ここを押さえておくと、「豊田市=トヨタ自動車によって生まれた町」ではないことが分かります。
江戸時代の豊田市は「挙母藩」だけではなかった

江戸時代になると、現在の豊田市中心部には衣藩、のちの挙母藩が成立します。
1604年、三宅康貞が1万石でこの地に封じられました。その後、本多家などを経て、1749年に内藤家が挙母藩主となります。内藤家は2万石となり、明治維新まで7代にわたって挙母を治めました。洪水の影響などから城を移し、現在の豊田市美術館付近に七州城が築かれました。
しかし、現在の豊田市全体を考える場合、「江戸時代は挙母藩だった」と説明するのは正確ではありません。
現在の市域には、
- 挙母藩
- 伊保藩
- 岡崎藩
- 刈谷藩
- 尾張藩領
- 幕府領
- 旗本領
- 寺社領
などが入り組んでいました。寺部には尾張藩重臣渡邉半蔵家の領地があり、松平郷周辺には松平太郎左衛門家などの旗本領が存在しました。
つまり、現在一つの「豊田市」になっている場所は、江戸時代には政治的にはかなり分断されていました。
ところが、経済を見るとまったく違う姿が現れます。
江戸時代の豊田市の由来を考える鍵は「物流」にある

政治的には分かれていても、人や物は領地の境界を越えて動いていました。
江戸時代には、海運・川運・陸運がそれぞれ独立していたのではなく、河岸や問屋、市場を介して一つの物流網を形成していました。この仕組みについては、別の記事「江戸時代の食事を《農民・漁民・都市・流通・経済》からつなげる」でも詳しく取り上げています。
そして、現在の豊田市域で、その最大の幹線となったのが矢作川です。
江戸時代から近代にかけて、矢作川には挙母、越戸、鵜首、百々、古鼠などの土場、すなわち川湊が形成されました。
挙母と越戸には川船問屋と倉庫までありました。
巴川にも九久平、平古などの土場があり、九久平では問屋、旅館、料理屋、芝居小屋などが集まり、船乗りや筏乗りによって町が発達しています。
しかも平坂湊などを経由して、東京・大阪方面の商品までこの地域へ入っていました。
したがって現在の豊田市は、決して山間部に孤立した内陸地域ではありませんでした。
矢作川という「川の道」によって、三河湾から全国市場へつながっていたのです。
足助は江戸時代の巨大な物流センターだった

現在の豊田市域の経済を考えるうえで、挙母と同じくらい重要なのが足助です。
足助は伊那街道上に位置し、矢作川・巴川舟運と街道輸送を接続する物流拠点でした。
三河湾方面から運ばれてきた商品は、
三河湾
↓
矢作川・巴川
↓
古鼠・平古など
↓
馬による陸上輸送
↓
足助
↓
伊那街道
↓
稲武・根羽・平谷
↓
飯田・信州
という形で運ばれました。
代表的な商品が塩です。
三河湾沿岸や西国から来た塩は、足助で山道輸送に適した荷姿へ詰め直されました。
これが「足助直し」であり、こうした塩は「足助塩」として信州方面へ流通しました。
つまり足助は単なる通過点ではありません。
集荷し、保管し、加工し、再包装し、別の輸送業者へ引き渡す物流センターでした。
さらに19世紀になると、足助の有力商人は綿、紙、漆、米、大豆、肥料などを扱い、貸金業、地主経営、三河湾沿岸部の新田開発への投資まで行うようになります。
足助は、現代的にいえば物流会社、商社、銀行、倉庫業者の機能が重なる「地域商社都市」だったのです。
中馬が信州と三河を結んだ

山道の輸送を担った重要な存在が「中馬」です。
江戸幕府の宿駅制度では、原則として宿場ごとに馬を替えました。
しかし信州で発達した中馬は、荷物を積んだ馬を何宿も通して運ぶ「付け通し」を行いました。
17世紀後半から商人荷物の輸送へ本格的に進出し、三河・尾張・美濃まで広く活動しました。
その結果、
飯田―平谷―根羽―武節・稲橋―足助―岡崎・名古屋
という広域物流網が発達しました。
現在なら長距離トラック輸送に近い役割です。
そして稲武・武節地域では、物を生産するだけではなく、「運ぶこと」そのものが産業になっていました。
江戸時代の豊田市には「物流を守る制度」もあった

ここが重要です。
これだけ大量の商品が動けば、当然、
「誰が荷物を預かるのか」
「運賃はいくらか」
「荷物がなくなったら誰が責任を取るのか」
「誰でも勝手に問屋を名乗ってよいのか」
という問題が発生します。
そこで物流を支える制度が形成されました。
武節では1828年に「商荷物継問屋株」の規定が作られ、
- 継問屋以外による継荷の取扱いを禁止する
- 継問屋自身による荷物売買を禁止する
- 取り扱う荷物を定める
- 手数料である庭銭を定める
- 継問屋株の維持制度を設ける
といったルールが作られていました。
つまり問屋とは、単なる店ではありません。
荷物の責任主体を明確にする物流機関でもあったのです。
商道を維持したのは藩だけではなかった

さらに中馬には仲間組織が存在しました。
中馬と宿場、三河の馬稼ぎの間ではしばしば営業権をめぐる争いが起きました。
その場合、
業者同士の協議
↓
村同士の交渉
↓
内済
↓
領主や幕府評定所の裁許
という段階的な紛争処理が行われています。
1816年から1820年にかけては信州中馬62か村と三河側の馬稼ぎをめぐる争論が起き、幕府の裁許が出されています。1841年には武節11か村との争いが内済によって調整されました。
つまり江戸時代の豊田経済は、
幕府
+領主
+町村
+問屋
+中馬仲間
+商人
が重なって秩序を維持する「多中心型」の経済システムだったと考えることができます。
政治的には領主が違う。
しかし商業上は共通のルールと信用によってつながる。
私はこれを**「商道共同体」**と捉えると、江戸時代の豊田市域が非常に理解しやすくなると思います。
挙母もまた「市場の町」だった

足助が山間物流の中心なら、挙母は城下町であると同時に市場の町でした。
挙母の城下には商人や職人が集まり、周辺農村から農産物や商品が持ち込まれました。
挙母祭りで現在まで続く8町の山車文化も、かつての城下町共同体の痕跡です。
ここで重要なのは、挙母が単なる「藩の行政都市」ではなかったことです。
周辺農村の商品を集め、売買し、外部へ送り出す地域市場でもありました。
つまり江戸時代の現在の豊田市域には、
山間部=生産
足助=集荷・加工・金融
古鼠・九久平・越戸=積替え
挙母=市場・消費・集荷
矢作川=大量輸送
伊那街道=山岳輸送
という分業が存在していたと考えられます。
明治になると「商道」が近代産業へ変わっていく

明治維新によって藩や旗本領は消えます。
しかし、人や物が動いてきた経済圏まで消えたわけではありません。
むしろ江戸時代の商業ネットワークは、新しい産業へと組み替えられていきます。
豊田市域では明治以降、
養蚕・製糸
ガラ紡
陶土・石粉
製瓦
などの産業が発達しました。
特にガラ紡は興味深い存在です。
1873年に発明されたガラ紡機械が導入され、松平地域などでは巴川支流の水力を利用した水車ガラ紡が発達しました。
江戸時代には川が「商品を運ぶ力」でした。
明治になると、同じ水が機械を動かす動力になります。
ここに近代化の大きな転換があります。
「養蚕の町・挙母」が鉄道を呼び込んだ

明治から大正にかけて挙母の経済を大きく成長させたのが養蚕・製糸です。
挙母町は三河地方有数の繭の集散地となりました。
その結果、大量の繭や商品、人を運ぶ必要が生まれます。
乗合自動車が走り、三河鉄道、現在の名鉄三河線が整備され、大正時代半ばまでに挙母の交通網は急速に近代化しました。豊田市自身も、交通網の近代化の背景として、挙母が「三河地方有数のマユの集散地」であったことを挙げています。
ここは後のトヨタ進出を考えるうえで非常に重要です。
なぜならトヨタが挙母を選んだ理由の一つが、まさに三河鉄道によって設備や資材を運べたことだったからです。
つまり、
江戸時代の商品集散地
↓
明治・大正の繭集散地
↓
鉄道整備
↓
昭和の工業立地
という連続性が見えてきます。
養蚕の繁栄が終わったとき、挙母は次の産業を探した

ところが昭和に入ると、生糸需要が低迷します。
養蚕と製糸に依存していた挙母経済にも深刻な影響が及びました。
そこで挙母町は、新しい産業を必要としました。
この時、刈谷の豊田自動織機製作所が自動車事業へ進出し、大規模な量産工場用地を探していることを知った町長・中村寿一らが誘致に動きます。
この選択が、後の豊田市の由来を決定づけることになります。
なぜトヨタは挙母を選んだのか

1933年、豊田自動織機製作所は本格的な自動車事業進出を決め、刈谷周辺、大高、東浦、挙母などで工場用地を調査しました。
最終的に挙母が選ばれます。
トヨタ自動車の公式社史では、その理由として、
広大で安価な論地ヶ原
三河鉄道による設備・資材輸送
強固な地盤
矢作川伏流水による豊富で良質な地下水
矢作川水系の水力発電による安価な電力
衣ヶ原飛行場
などを挙げています。
1935年、豊田自動織機製作所は約58万坪の土地を取得しました。
そして1938年、挙母工場、現在のトヨタ自動車本社工場が完成します。
この工場は鋳造、鍛造、機械加工、プレス、車体、塗装、総組立までを一つの敷地内に備える巨大な一貫生産工場でした。
江戸時代のネットワークはトヨタ進出に影響したのか

ここは慎重に考える必要があります。
豊田喜一郎たちが、
「ここには江戸時代から中馬と問屋のネットワークがあるから挙母に工場を造ろう」
と考えたことを示す史料は確認できません。
したがって、江戸時代の商業ネットワークがトヨタの立地を直接決めたとは言えません。
しかし、もっと長い時間軸で見れば、無関係とも言えません。
江戸時代には、
矢作川=舟運
でした。
近代になると、
矢作川=水力発電+工業用水
になります。
江戸時代には、
街道・中馬=商品輸送
でした。
近代になると、
鉄道・道路=工業輸送
になります。
江戸時代には、
問屋・市場=物を集める場所
でした。
明治・大正には、
繭・綿・農産物の集散地
となります。
昭和になると、
自動車部品・設備・労働力の集積
へ変わります。
つまり、具体的な制度は消えても、地域が持つ「物と人を集め、それを別の場所へつなぐ機能」は受け継がれたと考えることができます。
経済史でいう「経路依存」として見ると、非常に興味深い事例です。
矢作川は「物流の川」から「工業の川」へ変わった

この変化を象徴するのが矢作川です。
江戸時代には、
船
筏
川湊
川船問屋
を通して商品を運びました。
ところが近代には水力発電が進み、さらに工業用水・地下水という形で工業生産を支えるようになります。
トヨタが挙母を選んだ条件の中にも、
矢作川伏流水
と
矢作川水系の水力発電
が明確に含まれています。
同じ自然資源が、時代によって違うインフラへ転換されたわけです。
江戸時代には船を動かした川が、昭和には工場を動かす川になりました。
これこそ、豊田市の由来を長期的に見る際の重要なポイントだと思います。
1938年、挙母は「クルマの町」へ転換した

1938年11月、挙母工場が完成します。
ここから挙母の都市構造は大きく変わりました。
戦後になると自動車生産が急速に伸び、関連工場も増えます。
1954年には工場誘致奨励条例が制定され、挙母市は自動車産業を中心とする工業都市への転換を明確に進めました。
これは単に一企業が進出したという話ではありません。
工場ができれば、
部品会社
運送会社
道路
住宅
商店
学校
病院
公共施設
が必要になります。
一つの巨大企業を中心として、地域そのものが新しいネットワークへ再編されていきました。
「豊田市 由来」の核心――1959年、なぜ挙母市から豊田市になったのか

1951年3月1日、挙母町は人口約3万2,000人で市制を施行し、挙母市となりました。
ところが、それからわずか8年後、市の名前そのものを変える議論が起こります。
1958年1月29日、挙母商工会議所が、
「挙母市を豊田市へ名称変更してほしい」
という請願を市議会へ提出しました。
理由には、
「挙母」が難読であること
トヨタ自動車工業が名古屋にあると誤解されること
自動車産業を中心とした工業都市として発展していくこと
などがありました。
つまり「豊田市」という名称は、単なる企業名の借用ではありません。
当時の市が、
これからどの産業を中心に都市をつくっていくのか
という将来戦略を、市名そのものに表したものだったのです。
市名変更には激しい反対運動もあった

しかし、「挙母」という千年以上続く地名を捨てることには当然反対もありました。
1958年5月の公聴会では公述人19人中17人が変更に賛成しましたが、市名変更反対運動も急速に拡大します。
反対派は、
一営利企業に由来する名称を自治体名にすること
市民世論を十分に反映していないこと
などを問題にしました。
「挙母愛市同志会」などが反対署名を進め、市長解職や市議会解散を求めるリコール運動にまで発展しました。
豊田市自身も、市名変更について**「市を二分するほどの議論」**だったと記録しています。
それでも条例は成立し、愛知県の許可を受け、
1959年1月1日、「挙母市」は「豊田市」へ改称されました。
条例にも「挙母市」の名称を「豊田市」に変更すると明記されています。
これが現在の豊田市という名前の直接的な由来です。
会社は「トヨタ」、市は「豊田」――名前の関係は少し複雑

ここで一つ整理しておきたいことがあります。
会社名は「トヨタ自動車」。
市名は「豊田市」です。
トヨタというブランドそのものは、創業者一族の姓「豊田(とよだ)」に由来します。
初期には「TOYODA」が使われていましたが、1936年のマーク募集などを経て「TOYOTA」へ変更されました。
トヨタ公式によれば、
濁音がなく響きがよいこと
カタカナの「トヨタ」が8画となること
創業者個人の姓から離れ、社会的企業へ発展する意味
などが理由とされています。
つまり歴史の流れは、
豊田家(とよだ)
↓
トヨタという企業・ブランド
↓
挙母工場
↓
自動車都市化
↓
豊田市(とよたし)
となります。
市名「豊田」は、人名→企業→都市という非常に珍しい歴史をたどった名称でもあるのです。
「豊田市」になってから、市域はさらに巨大化した

現在の豊田市は、1959年当時の豊田市とも大きく違います。
1956年には高橋村を編入。
その後、
1964年 上郷町
1965年 高岡町
1967年 猿投町
1970年 松平町
と合併しました。
そして2005年4月1日、
藤岡町
小原村
足助町
下山村
旭町
稲武町
との合併によって、現在の豊田市域が形成されました。
これによって、かつて別々の藩、旗本領、街道圏、山村社会だった地域が、行政的にも一つの豊田市になりました。
ある意味では、江戸時代には物流によって結ばれていた地域が、約300年後に一つの自治体になったとも見ることができます。
現在の豊田市は「自動車都市」であると同時に「山の都市」である

2026年8月1日現在、豊田市の人口は41万3,489人です。
面積は918.32平方キロメートルに及びます。
しかも市域のおよそ7割が森林です。
つまり現在の豊田市には、
巨大な自動車工場
と、
足助・旭・稲武・小原・下山などの山村
が同居しています。
この姿は、実は江戸時代の経済構造を思い出させます。
江戸時代にも、
平野部
+挙母市場
+矢作川
+足助
+山間部
が一つの経済ネットワークを形成していました。
現在も、
工業都市
+農業地域
+森林地域
+山村
+交通網
が一つの自治体を構成しています。
形は変わりましたが、豊田市は今も「異なる地域をネットワークで結ぶ都市」なのです。
世界有数の工業都市となった豊田市

現在、豊田市は世界でも有数の自動車産業都市です。
2023年の豊田市の製造品出荷額等は16兆8,144億円に達しています。
しかし、この巨大な生産力も、一つの工場だけで成立しているわけではありません。
完成車メーカーを中心として、
一次部品メーカー
二次・三次部品メーカー
物流会社
設備会社
金型会社
素材産業
研究開発
人材
がネットワークを形成しています。
これは江戸時代の、
荷主
↓
川船問屋
↓
船頭
↓
土場
↓
継問屋
↓
中馬
↓
足助商人
↓
信州商人
という分業構造とはもちろん制度も規模もまったく違います。
しかし、
一社・一人ですべてを完結させるのではなく、多数の主体が役割を分担し、物と情報をリレーする
というネットワーク型経済という点では、興味深い共通性があります。
江戸時代の商道からトヨタのサプライチェーンへ

もちろん、
「江戸時代の中馬制度がトヨタ生産方式になった」
と言うことはできません。
そこまでの直接的な歴史的因果関係を示す証拠はありません。
しかし地域史として考えるなら、
舟運
→鉄道
水力
→発電
市場
→工業都市
問屋ネットワーク
→企業ネットワーク
山と平野の商品交換
→都市部と山村部の相互依存
という、地域構造の変換を見ることはできます。
私はここに、豊田市の歴史の大きな特徴があると思います。
豊田市の由来は「トヨタ自動車」だけでは説明できない

「豊田市 由来」という問いに最も短く答えるなら、
1959年、挙母市がトヨタ自動車工業を中心とする企業都市として発展することを背景に、「豊田市」へ市名を変更した。
となります。
しかし、それだけでは豊田という町がなぜ自動車都市になったのかは説明できません。
その背景には、
千年以上続いた「ころも」という地域
があり、
江戸時代の挙母城下町
があり、
矢作川舟運
があり、
足助の商業
があり、
伊那街道と中馬
があり、
問屋と商人の信用ネットワーク
があり、
明治のガラ紡
があり、
大正の養蚕と繭市場
があり、
三河鉄道
があり、
矢作川水系の電力
がありました。
それらの上に1938年のトヨタ挙母工場が置かれたのです。
「豊田市 由来」を一つの流れにするとこうなる

現在の豊田市にも「つながる都市」という歴史は続いている

ここまで調べてきて、非常に興味深いことがあります。
2025年に策定された第9次豊田市総合計画では、将来像として、
「つながる つくる 暮らし楽しむまち・とよた」
を掲げています。
さらに都市部と山村部について、それぞれの「拠点」と道路・公共交通・情報基盤などの「ネットワーク」を結び、相互に地域価値を高める都市構造を目指しています。
もちろん、現代の行政計画と江戸時代の物流制度は直接関係ありません。
しかし私は、ここに奇妙な歴史的連続性を感じます。
江戸時代にも豊田市域は一つではありませんでした。
挙母、足助、松平、藤岡、小原、旭、稲武。
それぞれ違う領主、違う産業、違う地形を持っていました。
それを一つにつないでいたのが、
川と道と商売
でした。
現在もまた、
都市部と山村部
工業と農林業
企業と地域
人と物
をネットワークで結び直すことが課題になっています。
まとめ――豊田市の由来とは、「名前が変わった歴史」ではなく「つながり方を変えてきた歴史」である

「豊田市 由来」を調べると、1959年の市名変更にたどり着きます。
しかし、そこで調査を終えてしまうと、豊田市という地域の本当の面白さを見落としてしまいます。
江戸時代、現在の豊田市域は多数の領主によって分断されていました。
それでも、
矢作川
巴川
伊那街道
足助
挙母
中馬
問屋
市場
によって、一つの経済圏が形成されていました。
政治的には分かれていても、経済はつながっていたのです。
明治になると、そのネットワークは養蚕、製糸、ガラ紡へ変わりました。
大正になると鉄道が加わります。
昭和になると矢作川は舟運の川から、工業用水と水力発電の川へ変わりました。
そして、その鉄道、水、電力、土地、人材を条件としてトヨタ自動車が挙母へ進出します。
1938年に挙母工場が完成。
1951年には挙母市。
そして1959年、激しい議論を経て「豊田市」が誕生しました。
さらに周辺地域との合併を重ね、2005年には江戸時代には別々の政治・経済圏だった足助、旭、稲武、小原、藤岡、下山までを含む巨大な都市になります。
こうして見ると、豊田市の歴史には一つの特徴が浮かび上がります。
豊田は、何度も「つながり方」を変えることで生き残ってきた地域なのではないでしょうか。
川から街道へ。
街道から鉄道へ。
舟運から電力へ。
養蚕から自動車へ。
問屋から企業へ。
地域商業圏から世界的サプライチェーンへ。
そして現在は、巨大な工業都市と広大な山村を、もう一度新しいネットワークで結び直そうとしています。
だから私は、豊田市の由来とは「トヨタ自動車から名前をもらった町」という一言では語れないと思います。
トヨタ自動車がこの土地を変えたことは間違いありません。
しかし同時に、
江戸時代から人、物、情報、信用を結んできたこの地域の構造が、トヨタを受け入れる条件を長い時間をかけて作ってきた。
そう捉えることで、現在の「クルマのまち・豊田」は、突然20世紀に出現した都市ではなくなります。
千年以上続く「ころも」の土地。
江戸時代の川と商道。
近代の養蚕と鉄道。
昭和の自動車産業。
そして現在の世界的ものづくり都市。
そのすべてが積み重なって、現在の豊田市があります。
「豊田市 由来」を知ることは、一つの市名の由来を知ることではありません。
それは、山・川・街道・市場・工場という異なる資源を、その時代ごとにつなぎ直しながら発展してきた、豊田という地域そのものの成り立ちを知ることなのです。
主な参考資料
- 豊田市「とよたの起源」
古代から市制施行までの豊田市の歴史を確認するための基本資料です。
豊田市「とよたの起源」 - 豊田市「とよたの記録」
1951年の挙母市成立、1959年の豊田市への市名変更、その後の市の発展を年代別に確認できます。
豊田市「とよたの記録」 - 豊田市文化財デジタルアーカイブ『とよたの事典』
『新修豊田市史』を基礎に、原始・古代から平成までの約2,500項目を検索できる地域史資料です。
豊田市文化財デジタルアーカイブ『とよたの事典』 - 豊田市文化財デジタルアーカイブ『とよたの事典』「市名変更問題」
1958年の挙母市から豊田市への市名変更をめぐる請願、議論、住民運動などを詳しく確認できます。
『とよたの事典』「市名変更問題」 - トヨタ自動車『トヨタ自動車75年史』「第2項 挙母工場の用地選定と建設計画」
論地ヶ原、三河鉄道、地盤、矢作川伏流水、水力発電、衣ヶ原飛行場など、トヨタが挙母を選んだ理由を確認できる重要資料です。
トヨタ自動車75年史「挙母工場の用地選定と建設計画」 - 豊田市「豊田市の今月の人口」
最新の人口、年齢別人口、人口増減などを確認できます。
豊田市「豊田市の今月の人口」 - 豊田市「第9次豊田市総合計画(ミライ構想・ミライ実現戦略2030)」
現在の豊田市が目指す都市像や、都市部と山村部を結ぶネットワーク型のまちづくりを確認できます。
豊田市「第9次豊田市総合計画」
今回のブログでは、さらに次の資料も加えておくと、「挙母工場がどのような工場だったのか」という部分の根拠が強くなります。
トヨタ自動車『トヨタ自動車75年史』「第4項 挙母工場の概要」
1938年完成の挙母工場が、鋳造・鍛造・機械加工・プレス・車体組付・塗装・総組立までを備えた一貫生産工場だったことを確認できます。
トヨタ自動車75年史「挙母工場の概要」
