平和学から日本国憲法をつなぐ、幸福と安心づくりの政治の在り方

平和学は、戦争を防ぐためだけの学問ではありません。戦争が起きていなくても、貧困、差別、抑圧、ハラスメント、性暴力、過酷な労働、災害時の放置、行政による情報の隠蔽によって、人の生命や尊厳が傷つけられている社会を、本当に平和と呼べるのか。平和学は、その問いを私たちに投げかけます。
私は、政治が目指すべき「一人ひとりの幸福な状態」を、安心を基軸として次の三つに整理したいと思います。
政治が目指すべき安心=「一人ひとりの幸福な状態」
一、心が平安である
二、心が安定している
三、心が満足している
そして、政治の役割とは、市民に「心配しなくてもよい」と言い聞かせることではありません。人が不安を感じる原因を直視し、社会の仕組みの中から原因を探し、安心できる客観的な条件を制度としてつくることです。
この考え方を、平和という側面から理論的に支えるのが、平和学者ヨハン・ガルトゥングの議論です。ガルトゥングは、平和を単に戦争や直接的な暴力がない状態とは考えず、社会の仕組みによって人の生命、健康、自由や可能性が損なわれる「構造的暴力」にも目を向けました。こうした構造的暴力を取り除き、より公正な社会関係をつくることを積極的平和の重要な課題として位置付けています。
そして、法的な土台となるのが、日本国憲法の平和主義と基本的人権です。そして、不安を政策へ変える実践方法が、私の掲げる「安心を創る政治5原則」です。
本稿では、平和学、日本国憲法、幸福、安心、政治を一つの流れとして結び直します。
目次
- 1 平和学とは「戦争がない状態」の先を考える学問である
- 2 平和学が区別する消極的平和と積極的平和
- 3 平和学から考える一人ひとりの幸福な状態
- 4 政治は幸福を強制してはならない
- 5 平和学から日本国憲法を読み直す
- 6 平和学の積極的平和と政府の「積極的平和主義」は異なる
- 7 平和学を政治へ変える「安心を創る政治5原則」
- 8 安心を創る政治とは、安心させる政治ではない
- 9 平和学から導かれる政治の三原則
- 10 平和学を具体的な政策分野へ広げる
- 11 幸福と安心を政策評価の基準にする
- 12 まとめ――私は、平和学を、一人ひとりの安心を制度へと変換する実践的学問であると考えている。
- 13 はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
平和学とは「戦争がない状態」の先を考える学問である

平和学者ヨハン・ガルトゥングは、暴力を、目に見える攻撃だけに限定しませんでした。人を殴る、傷つける、殺すといった直接的暴力に加えて、社会の仕組みによって人の生命、健康、自由、可能性が奪われる構造的暴力、さらに、それらを当然のこととして正当化する文化的暴力を考えました。ガルトゥングが構造的暴力を本格的に提示した論文として、「Violence, Peace, and Peace Research」があります。

直接的暴力
直接的暴力とは、加害行為と被害が比較的見えやすい暴力です。戦争、殺人、暴行、虐待、性暴力、ハラスメント、拷問、脅迫などが該当します。
暴力を行う主体と、傷つけられる人が見えやすいため、社会問題として認識されやすい暴力です。しかし、被害者が沈黙を強いられたり、「指導だった」「家族の問題だ」と扱われたりすれば、直接的暴力であっても見えなくなります。

構造的暴力
構造的暴力とは、特定の誰かが直接攻撃していなくても、制度、資源配分、権力関係によって、人が本来避けられたはずの苦痛や不利益を受ける状態です。
貧困のため医療を受けられない。障害があるため避難情報を得られない。非正規雇用であるため危険な仕事を断れない。行政が水質検査の結果を公表しないため、市民が自分の健康に関する判断をできない。こうした問題は、個人の運や努力だけでは説明できません。
社会の仕組みを変えれば避けられる被害が放置されているなら、そこには構造的暴力が存在します。

文化的暴力
文化的暴力とは、直接的暴力や構造的暴力を正当化し、見えにくくする言葉、価値観、慣習です。
「貧しいのは努力が足りないからだ」「嫌なら辞めればよい」「国のためなら一部の犠牲は仕方がない」「被害を訴える人は和を乱している」といった言葉は、被害を受けた人に責任を押し付けます。
文化的暴力が広がると、被害を受けた人自身が「自分が悪い」と考えるようになります。そうなると、制度を変えるべき問題が、個人の我慢や自己責任へとすり替えられます。

平和学が区別する消極的平和と積極的平和
ガルトゥングは、平和を「消極的平和」と「積極的平和」に分けました。この区別は、平和学から政治の役割を考えるうえで重要です。

消極的平和は「暴力が止まっている状態」
消極的平和とは、戦争、殺傷、暴行などの直接的暴力が存在しない、または低い状態です。
戦闘が止まり、互いに攻撃していないことは重要です。しかし、それだけでは信頼、協力、公正な関係が生まれたとは限りません。休戦していても、憎悪や支配関係、被害の記憶が残っていれば、再び暴力が始まる可能性があります。
消極的平和は軽視されるべきものではありません。人の生命を守るための最低条件です。しかし、それは完成した平和ではなく、平和を構築するための出発点です。

積極的平和は「関係から善いものが生まれる状態」
積極的平和とは、単に悪いものが出てこない状態ではありません。人と人、集団と集団、国家と国家の関係から、協力、共感、公平、喜び、信頼といった善いものが生み出される状態です。
ガルトゥングは、積極的平和の要素として、衡平、調和、有機的組織、融合、死後の生を挙げています。
ただし、この五つは同じ種類の条件ではありません。構造を整理すると、次のようになります。
| 段階 | 内容 | 平和学上の意味 |
|---|---|---|
| 基礎1 | 衡平 | 相互かつ平等な利益のために協力する |
| 基礎2 | 調和 | 喜びと悲しみを共有し、相手に共感する |
| 持続 | 有機的組織 | 衡平と調和を制度や共同体として定着させる |
| 発展 | 融合 | 協力関係から新しい共同主体が生まれる |
| 継承 | 死後の生 | 平和の経験と制度が将来世代に残る |
つまり、衡平と調和が平和を生む基礎です。有機的組織は平和を持続させる仕組みです。融合と死後の生は、積極的平和が空間と時間を越えて発展した状態だと考えられます。

平和の公式が示していること
ガルトゥングは、平和を次のような概念的公式で示しています。
平和 =(衡平 × 調和)÷(トラウマ × コンフリクト)
これは実際に数値を代入するための数式ではありません。平和をつくるために、何を増やし、何に向き合う必要があるかを示したものです。
衡平とは、利益、負担、情報、発言力、決定権が一方に偏らないことです。調和とは、意見を一つに統一することではなく、違いを保ちながら、相手の喜びや苦しみに応答できることです。
一方、過去の被害によるトラウマを放置すれば、不信と恐怖は残ります。利害や目標の対立であるコンフリクトを、一方の服従によって処理すれば、表面的な合意の下に支配が残ります。
必要なのは、トラウマに対する事実確認、被害の承認、謝罪、補償、回復、再発防止です。コンフリクトに対しては、敵と味方への分極化を弱め、一方による支配を取り除き、双方の根本的な必要を両立できる目標へ組み替えることです。

平和学から考える一人ひとりの幸福な状態
平和学を国家間の問題だけでなく、一人ひとりの生活へつなげると、平和とは、人の心が、一・平安、二・安定、三・満足に近づく社会的条件をつくることだと考えられます。

一、心が平安である
心の平安とは、いま、生命、身体、人格が危険にさらされていないと感じられる状態です。
戦争、犯罪、虐待、ハラスメント、性暴力、災害、環境汚染、不当な拘束などにさらされていれば、本人の努力だけで心を平安に保つことはできません。
心の平安は、消極的平和の主観的な現れです。社会には、暴力を防ぎ、危険を知らせ、被害を受けた人を保護する責任があります。

二、心が安定している
心の安定とは、今日だけでなく、明日以降も生活と権利が守られるという見通しを持てる状態です。
いま暴力を受けていなくても、明日の食事、住居、医療、仕事、収入が分からなければ、心は安定しません。行政が何を根拠に判断するのか分からず、突然制度を変更されても異議を申し立てられない状態も、人を不安定にします。
心の安定には、社会保障、医療、教育、労働条件、住宅、情報公開、公正な行政手続、司法救済などが必要です。これは構造的暴力を減らし、平和を制度として持続させることに対応します。

三、心が満足している
心の満足とは、単に欲しいものを手に入れることではありません。自分が一人の人間として尊重され、自分の生き方を選び、他者と協力し、自分の経験や活動が社会に生かされていると感じられる状態です。
生活が安定していても、自分の意思を無視され、発言の機会がなく、誰にも必要とされていないと感じれば、心の満足には至りません。
心の満足には、人格の尊重、自己決定、表現、参加、承認、協力、つながりが必要です。これは平和学における衡平、調和、共生と深く結び付きます。

幸福は三つの掛け合わせである
一人ひとりの幸福な状態は、概念的には次のように表せます。
幸福 = 心の平安 × 心の安定 × 心の満足
心が平安でも、生活の見通しがなければ不安定です。生活が安定していても、尊厳や自己決定を奪われていれば満足できません。満足を感じていても、生命が危険にさらされていれば、その幸福は持続しません。
三つは完全に分離できるものではありません。しかし、政治が何を守り、何を実現すべきかを考える基準として有効です。

政治は幸福を強制してはならない
ここで注意しなければならないのは、国家が人の心を直接「平安」「安定」「満足」にしようとしてはならないことです。
国家が一つの幸福観を定め、「この生き方に満足しなさい」「国民は同じ価値観を持ちなさい」と要求すれば、それは思想や良心に対する文化的暴力になり得ます。
政治が保障すべきなのは、幸福そのものではなく、一人ひとりが自分にとっての幸福を選び、追求できる条件です。政治への不満を言わなくなることが「満足」なのではありません。不満や異議を自由に表明し、それによって社会を変えられることも、満足を支える重要な条件です。
政治は心を操作するのではなく、避けられる暴力、欠乏、支配、不透明さを取り除く。そのうえで、市民の自由、参加、自己決定を保障するべきです。

平和学から日本国憲法を読み直す
平和学と一人ひとりの幸福を日本国憲法へ接続すると、日本国憲法は「二層の平和憲法」として見えてきます。
衆議院が掲載する日本国憲法全文を読むと、前文、第9条、基本的人権、統治機構は、別々の理念ではなく、一人ひとりの平和的な生存を保障する体系として結び付いています。

憲法前文は消極的平和と積極的平和をつなぐ
日本国憲法前文は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」と宣言しています。同時に、「専制と隷従、圧迫と偏狭」を除去し、全世界の人々が「恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」を持つとしています。
戦争の惨禍を防ぐことは、直接的暴力を止める消極的平和です。専制、隷従、圧迫、偏狭をなくすことは、支配、差別、構造的・文化的暴力を取り除く積極的平和です。
恐怖から免れることは、心の平安につながります。欠乏から免れることは、心の安定につながります。諸国民と対等に協和することは、衡平と調和につながります。
前文は、第9条と基本的人権を結び付ける橋なのです。

憲法第9条は国家間の消極的平和を守る
憲法第9条は、戦争、武力による威嚇、武力行使を国際紛争解決の手段として放棄し、戦力と交戦権を否認しています。
平和学から見れば、第9条は、国家による直接的暴力を制限し、国家間の消極的平和を守る憲法上の防波堤です。
消極的平和は平和への第一歩にすぎません。しかし、戦争が続いている状態では、衡平、調和、和解、共生を築くことは困難です。第9条は積極的平和の十分条件ではありませんが、積極的平和へ進むための重要な前提条件です。

憲法第11条から第40条は積極的平和の根本である
第11条から第40条までの基本的人権は、国内社会における積極的平和の根本と考えられます。
第11条から第14条は、基本的人権、個人の尊重、生命、自由、幸福追求、法の下の平等を保障します。これらは積極的平和の土台となる尊厳と衡平です。
第15条から第23条は、選挙、請願、思想、良心、信教、表現、集会、結社、学問の自由を保障します。これらは、社会に存在するコンフリクトを、暴力や服従ではなく、言葉、参加、議論によって扱うための権利です。
第24条から第30条は、家族における尊厳と平等、生存、教育、勤労、労働者の団結、財産と公共の福祉、納税を定めています。貧困、教育格差、過酷労働、家庭内の支配などの構造的暴力を減らすための基礎です。

憲法12条は、積極的平和の構築を、ひとり一人に義務付けている
日本国憲法第12条は、基本的人権について、単に国家から与えられたものを受け身で享受すればよいとは考えていません。
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。
と定めています。
もちろん、第12条が法律上そのまま「積極的平和を構築する義務」という名称の義務を課しているわけではありません。しかし、平和学の視点から読み直すと、この「不断の努力」は非常に重要な意味を持ちます。

人権は、憲法に書くだけでは維持できない
基本的人権が保障された社会は、一度制度をつくれば自動的に続くものではありません。
差別を放置すれば平等は失われます。貧困を放置すれば生存権は形骸化します。情報の隠蔽を許せば、市民は判断するための材料を失います。
ハラスメントや虐待を「仕方がない」と見過ごせば、人間の尊厳は傷つけられます。少数者の声を聞かなくなれば、多数決が単なる支配へ変わる危険もあります。
だからこそ、自由と権利には、それを社会の中で守り続ける「不断の努力」が必要なのです。

「不断の努力」は、市民が社会へ参加することでもある
不断の努力とは、特別な政治活動だけを意味するものではありません。
人権侵害に気づく。差別や暴力を見過ごさない。必要な情報を求める。自分の意見を表明する。異なる立場の人の声を聞く。選挙や請願、住民参加などを通じて政治に関わる。
さらに、権力によって権利が侵害されたときには、異議を申し立て、必要なら司法による救済を求める。
こうした一つ一つの行動によって、憲法上の自由と権利は、条文の中だけでなく現実の社会の中で維持されます。

積極的平和も「誰かにつくってもらうもの」ではない
これは、平和学における積極的平和と深く重なります。
積極的平和とは、単に戦争や暴力が起きていない状態ではありません。差別、支配、貧困、排除などの構造的暴力を減らし、人びとが自由に参加し、協力し、互いの尊厳を認められる社会をつくることです。
政治や行政には、そのための制度を整える責任があります。
同時に、市民にも、その制度を使い、監視し、改善し、次の世代へ引き継いでいく役割があります。
この意味で、第12条は「平和を政府だけに任せない」という原則としても読むことができます。

自由を使うことが、自由を守る
表現の自由があっても、誰も権力を批判できなくなれば、その自由は実質的に弱くなります。
情報公開制度があっても、誰も情報を求めなければ、行政の不透明さは残ります。選挙権があっても、市民が考え、議論し、参加しなければ、民主主義は形だけになってしまいます。
差別を禁止する理念があっても、差別的な言葉や慣行を当然のものとして受け入れれば、文化的暴力は残ります。
権利は「持っている」だけではなく、「使う」ことによって守られるのです。

憲法第12条は衡平と調和にもつながる
第12条は、自由や権利について「濫用してはならない」とし、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任」を負うとも定めています。
これは、自分だけが自由であればよいという意味ではありません。
自分の自由と他者の自由がともに保障され、一方の力によって他方が押しつぶされない関係をつくる必要があります。
利益、負担、情報、発言力、決定権が一方に偏らない関係は、平和学における「衡平」につながります。
異なる意見を排除せず、違いを保ったまま相手に応答することは「調和」につながります。

一人ひとりの不断の努力が、積極的平和を支える
平和学の視点から第12条を読み直すなら、国や政治には、人権と平和を保障する制度をつくる責任があります。
同時に、一人ひとりの市民には、その自由と権利を不断の努力によって守り、使い、社会の中で育てていく責任があると整理できます。
第9条が国家による戦争を抑制し、第11条以降が基本的人権を保障するとすれば、第12条は、それらを生きた制度として維持するために、市民自身も社会へ関わり続けることを求めている条文だと読むことができます。
一人ひとりが自由と権利を使い、他者の尊厳を守り、社会に参加する。その不断の努力によって、積極的平和は構築され、維持されていくのです。

憲法第18条及び第31条から第40条は国内の消極的平和でもある
第11条から第40条までを、すべて積極的平和だけに分類する必要はありません。
第18条は奴隷的拘束と意に反する苦役を禁止します。第31条から第40条は、不当な逮捕、拘禁、捜索、処罰、拷問、自白の強要などから人を守ります。
これは国家と個人の間における直接的暴力を防ぐ、国内の消極的平和です。

したがって、日本国憲法の構造は、より正確には次のように整理できます。
日本国憲法の構造の整理
| 憲法の部分 | 平和学上の役割 | 心の状態との関係 |
|---|---|---|
| 前文 | 消極的平和と積極的平和の統合 | 平安・安定・満足の全体 |
| 第9条 | 国家間の直接的暴力を抑える | 心の平安 |
| 第18条、第31~40条 | 国家による国内の直接的暴力を抑える | 心の平安 |
| 第11~29条(18条含む) | 尊厳、自由、平等、生活、参加を保障する | 心の安定・満足 |
| 統治機構 | 権利と平和を制度化する | 平安・安定・満足の持続 |
| 第97~99条 | 人権の継承、最高法規性、擁護義務 | 将来世代の安心 |

憲法第13条は平安・安定・満足を統合する
憲法第13条は、すべての人が個人として尊重され、生命、自由、幸福追求に対する権利を国政上最大限尊重するよう求めています。
生命の保障は、心の平安につながります。自由の保障は、自分の生活と将来を選べる安定につながります。幸福追求の保障は、一人ひとりが自分にとっての満足を選ぶことにつながります。
憲法が保障するのは、国家が配る幸福ではありません。本人が幸福を追求できる自由と社会的条件です。

憲法第97条は平和を将来世代へ継承する
憲法第97条は、基本的人権を人類の長年にわたる自由獲得の努力の成果とし、現在と将来の国民に対して、侵すことのできない永久の権利として信託されたものとしています。
これは、ガルトゥングのいう「死後の生」に対応します。過去の人々が、犠牲や闘いを通じて獲得した自由と権利が制度として残り、現在の人々を守り、将来世代へ引き継がれるからです。
平和とは、いま暴力がないことだけではありません。過去の被害から学び、同じ被害を繰り返さない制度を将来へ残すことでもあります。

国会・行政・司法・地方自治が平和を制度化する
権利を書くだけでは、積極的平和は実現しません。ガルトゥングのいう「有機的組織」が必要です。
国会は法律と予算を決め、行政を調査します。行政は社会保障、教育、労働、防災、環境、医療などを実施します。司法は権利を侵害された人を救済し、法律や行政処分が憲法に反していないかを審査します。地方自治は、地域の実情に応じて住民が政治に参加する場です。
さらに、憲法第98条は憲法を最高法規とし、第99条は国務大臣、国会議員、裁判官、公務員に憲法尊重擁護義務を課しています。
基本的人権が平和の内容であり、国会、行政、司法、地方自治が平和を持続させる組織だと整理できます。

コラム:ガルトゥングのいう「有機的組織」とは

ここでいう「有機的組織」は、単に国会、役所、裁判所、学校、福祉施設などの組織が存在しているという意味ではありません。
重要なのは、人と人、制度と制度が互いに関係し、それぞれが役割を果たしながら、社会全体として衡平と調和を持続させる仕組みになっているかという点です。
たとえば、困窮した人がいたとします。
行政が生活状況を把握し、必要な社会保障につなぐ。医療が必要なら医療機関につなぐ。行政の判断に問題があれば異議申立てができる。不当な権利侵害があれば司法に救済を求められる。制度そのものに問題があれば、住民が声を上げ、地方議会や国会が法律や条例を改める。
このように、
市民→行政→議会→司法→再び制度の改善へ
と、それぞれの仕組みが孤立せずにつながっていれば、一人の人が権力や制度の谷間に取り残されにくくなります。
これを人体にたとえると分かりやすいでしょう。心臓だけが正常でも、人間は生きられません。肺、血管、脳、神経などがそれぞれ異なる働きをしながら連携することで、身体全体が維持されます。
社会も同じです。
国会だけが機能すればよいのでも、行政だけが善意を持てばよいのでもありません。司法、地方自治、市民社会、報道、教育、福祉、医療などが、それぞれ独自の役割を持ちながら相互に関係し、一つの機関に権力や情報が集中し過ぎないよう支え合う必要があります。
したがって、「有機的」であることは、全員が同じ考えになることを意味しません。
むしろ、異なる役割、異なる立場、異なる意見を持つ主体が存在し、それらが対話し、監視し、補い合い、必要なら互いを修正できることが重要です。
ここに、積極的平和との深い関係があります。
衡平や調和が、その場にいる人の善意だけに依存しているなら、その人がいなくなれば失われるかもしれません。しかし、情報公開、市民参加、社会保障、議会による行政監視、独立した司法、異議申立て、権利救済などとして制度化されれば、衡平と調和は個人の善意を越えて持続できます。
つまり、
衡平と調和が「人と人との善い関係」だとすれば、有機的組織とは、その善い関係を社会の仕組みとして持続させるもの
と整理できます。
日本国憲法の統治機構を「有機的組織」として読み直す
この視点から日本国憲法を見ると、国会、内閣、裁判所、地方自治をそれぞれ別々の統治制度として見るだけでは不十分です。
基本的人権という共通の目的を実現するために、立法、行政、司法、地方自治が互いに役割を分担し、権力を抑制し、市民が参加し、侵害された権利を回復できる一つの仕組みとして見ることができます。
基本的人権が「どのような平和を実現するのか」を示し、国会・行政・司法・地方自治が「その平和をどう持続させるのか」を担う。
この意味で、日本国憲法の統治機構は、積極的平和を一時的な理想ではなく、社会の中で繰り返し実現し続けるための「有機的組織」として読み直すことができるのです。

平和学の積極的平和と政府の「積極的平和主義」は異なる
ここまで述べてきた「積極的平和」は、日本政府が掲げてきた**「国際協調主義に基づく積極的平和主義」**と同じものではありません。
言葉がよく似ているため混同されやすいのですが、出発点となる問題意識も、平和を判断する基準も異なります。

そもそも英語を見ると、その違いが分かりやすくなります。
ガルトゥングの「積極的平和」は、
Positive Peace
です。
一方、日本政府がいう「積極的平和主義」は、公式には、
Proactive Contribution to Peace
と表現されています。
つまり、政府の「積極的」はpositiveではなく、proactive=より主体的・能動的に平和へ貢献するという意味です。
政府の「積極的平和主義」は、日本自身の安全を確保するとともに、国際社会の平和・安定・繁栄へ日本がより積極的に関与するという国家安全保障政策上の原則です。
これに対してガルトゥングの積極的平和は、そもそも**「平和とはどのような状態なのか」**を問う平和学上の概念です。
ガルトゥングは、戦争などの直接的暴力がないだけでは平和として十分ではないと考え、社会構造の中に組み込まれた不平等や抑圧によって、人が本来可能であった生存、健康、自由、能力の発揮を妨げられる状態を「構造的暴力」として捉えました。後には、直接的暴力や構造的暴力を正当化する文化的暴力という概念も提示しています。
したがって、両者の違いは、「平和を積極的につくろうとしているかどうか」ではありません。
何をもって平和と判断するのかが違うのです。
平和学の積極的平和と政府の積極的平和主義の比較

| 比較する視点 | ガルトゥングの「積極的平和」 | 日本政府の「積極的平和主義」 | 違いの核心 |
|---|---|---|---|
| 英語 | Positive Peace | Proactive Contribution to Peace | positiveは「平和の状態」、proactiveは「能動的に関与する姿勢」を表す |
| 理論上の位置付け | 平和とは何かを考える平和学上の概念 | 日本の国家安全保障政策の基本原則 | 一方は平和の定義、他方は国家の政策方針 |
| 出発点 | 暴力はなぜ生まれ、人の可能性を奪うのか | 日本と国際社会の安全をどう確保するか | 人間・社会関係から見るか、国家安全保障から見るか |
| 平和の最低条件 | 戦争・殺傷など直接的暴力がない「消極的平和」 | 日本への脅威を抑止し、安全を確保する | 直接的暴力の不在と国家安全保障は重なるが同一ではない |
| さらに求めるもの | 構造的暴力を減らし、衡平、調和、尊厳、参加、協力を育てる | 国際社会の平和・安定・繁栄、法の支配、国際協力、安全保障環境の改善 | 積極的平和は社会関係の質そのものを問う |
| 暴力を見る単位 | 個人、集団、制度、国家、国際社会まで広く見る | 主として国家安全保障と国際秩序から見る | 国家だけでなく社会内部の不平等も暴力として問うか |
| 構造的暴力 | 中心的な検討対象 | 貧困、人権、開発等は政策対象になるが「構造的暴力」が安全保障政策の基本概念ではない | 同じ社会問題を扱っても分析枠組みが異なる |
| 軍事力 | 軍事力の増減それ自体では積極的平和を判断しない。直接的・構造的暴力をどう変化させるかを問う | 防衛力、抑止力、日米同盟、安全保障協力を平和と安全を確保する手段に含める | 軍事力が「平和を生む手段」として政策体系に位置付くかどうか |
| 抑止 | 抑止によって戦争が止まっていても、恐怖、支配、敵対関係が残れば積極的平和とは限らない | 必要な抑止力を強化し、脅威を防ぐことを安全保障上の重要な手段とする | 戦争を止めることと、善い関係をつくることを区別するか |
| 同盟 | 同盟の存在そのものではなく、そこに生じる権力関係や相互利益を検証する | 日米同盟を安全保障政策の基軸として強化する | 同盟を所与の安全保障手段とするか、関係の衡平性まで問うか |
| 人権 | 平和そのものを構成する中心的条件 | 普遍的価値として安全保障政策でも維持・擁護する | 共通部分は大きいが、積極的平和では人権の実現そのものが平和の尺度になる |
| 対立への対応 | 対話、脱分極化、支配関係の改善、トラウマへの対応、双方の必要を満たす関係への転換を重視 | 外交、国際協力に加え、抑止、防衛、同盟、制裁、安全保障協力など複数の手段を用いる | コンフリクトそのものを変容させるか、脅威を管理・抑止するか |
| 主な主体 | 市民、地域社会、制度、国家、国際社会 | 日本政府、自衛隊、同盟国、友好国、国際機関など | 市民を平和の主体としてどこまで位置付けるか |
| 成功の判断 | 暴力・支配・差別・欠乏が減り、衡平、調和、参加、信頼、協力が増えたか | 日本の安全、抑止力、地域の安定、国際秩序、国際社会への貢献が確保されたか | 「国家が安全か」と「人と社会の関係が平和か」は一致するとは限らない |
| 最終的な問い | 人はより自由に、尊厳をもって、対等な関係の中で生きられるようになったか | 日本と国際社会の安全保障環境は改善したか | 人間中心の平和と国家安全保障中心の政策との違い |
この表から分かるように、両者を単純に、
ガルトゥング=非軍事、日本政府=軍事
と二分するのは正確ではありません。
政府の「積極的平和主義」にも、外交、国際協力、国連PKO、難民支援、復興支援、軍縮・不拡散、法の支配、人権など非軍事的な政策が含まれています。
一方で、政府の国家安全保障戦略は、防衛力の強化、必要な抑止力、日米同盟、安全保障協力なども、平和と安全を確保するための重要な手段として明確に位置付けています。
したがって、より正確な違いは、
政府の積極的平和主義は「国家がどのような手段によって安全と国際的安定へ積極的に貢献するか」を問う。
これに対して、
平和学の積極的平和は「その政策によって、実際にどのような人間関係、社会構造、権力関係が生まれるのか」を問う。
という違いです。
防衛力が強くなれば、積極的平和になるわけではない
この違いは、防衛政策を見ると特に明確になります。
防衛力を強化した結果、他国からの攻撃を抑止できるのであれば、直接的暴力を防ぐという意味では消極的平和に寄与する可能性があります。
しかし、それだけをもって平和学上の積極的平和が実現したとは言えません。
その政策によって、
誰が利益を得るのか。
誰が費用を負担するのか。
誰が危険を引き受けるのか。
を問う必要があります。
さらに、基地の周辺住民にはどのような負担が生じるのか。防衛予算の増大によって、福祉、教育、医療、環境など他の政策にどのような影響が生じるのか。安全保障政策の意思決定に市民はどの程度参加できるのか。
こうした問題まで含めて検証しなければなりません。
平和学が問うのは、兵器の数だけではありません。
安全保障政策によって生まれる社会関係そのものなのです。
「自国民を守る」だけでは積極的平和を判断できない
もう一つ重要なのは、国境の外側にいる人々です。
国家安全保障政策では、第一義的には自国民の生命、安全、領土を守ることが重要になります。
しかし、積極的平和の視点に立てば、それだけでは足りません。
日本側の安全を高める政策によって、相手国の一般市民の生命や生活が危険にさらされるなら、その被害も平和の評価に含める必要があります。
相手国の政府と、そこで暮らしている市民を同一視してはなりません。
国家間に深刻な対立があったとしても、
相手国の市民もまた、恐怖と欠乏から免れ、生命と尊厳を守られるべき人間である
という視点が必要です。
積極的平和とは、「こちら側だけが安全になれば完成する平和」ではないからです。

平和学からは「抑止が成功したか」だけでなく、その関係を問う
抑止によって戦争が起きなかったとしても、それだけで積極的平和とは限りません。
双方が大量の軍事力を向け合い、
「攻撃すれば壊滅させる」
という恐怖によって戦争を思いとどまっている場合、直接的暴力は起きていないため、消極的平和は成立しているかもしれません。
しかし、その関係に、
敵意、恐怖、不信、軍拡競争、経済的負担、情報統制、相互の非人間化
が拡大しているのであれば、積極的平和から見れば問題は残っています。
重要なのは、
戦争を起こさないこと
と同時に、
戦争を必要としない関係へ変えていくこと
です。
ここに消極的平和と積極的平和の違いがあります。

人権を守るための武力だからこそ、人権によって制限されなければならない
そして、最も重要なのが人権との関係です。
「人権を守るため」という言葉は、武力を制限する理由にも、武力を行使する理由にも使われます。
自国民の生命を守るために自衛権が必要だ、という論理は成立します。
しかし、その論理だけで武力行使を正当化すれば、
人権を守るためなら、どこまで武力を拡大してもよい
という逆転が起こる危険があります。
だからこそ、人権は自衛権を認める根拠であるだけではなく、自衛権を制限する基準でもなければなりません。
問うべきなのは、
目的は本当に人命を守るためなのか。
他に非軍事的手段はないのか。
武力行使の範囲は必要最小限なのか。
一般市民への被害はどう防ぐのか。
相手国の市民の人権も考慮されているのか。
武力行使を開始した後、誰が継続の必要性を審査するのか。
状況が変わったとき、誰が停止を命じられるのか。
ということです。

積極的平和から見れば、軍事にも衡平・透明性・市民統制が必要になる
この視点に立つと、安全保障政策にも平和学で考えてきた衡平や調和の基準を適用する必要があります。
たとえば、
利益と負担は一部の地域や人々に集中していないか。
政策判断に必要な情報は公開されているか。
国会の多数派だけでなく、少数派にも検証する権限があるか。
市民が異議を申し立てることができるか。
司法が実質的に審査できるか。
武力行使を開始する制度だけでなく、停止する制度も存在するか。
という問いです。
安全保障だけを、民主主義や人権の外側に置いてはなりません。
むしろ、人命に最も重大な影響を与える政策だからこそ、通常の行政以上に厳しい情報公開、説明責任、議会統制、司法審査、市民による監視が必要です。

二つの「積極的」を区別することが重要である
したがって、政府の「積極的平和主義」と、ガルトゥングの積極的平和を同じ意味で使うべきではありません。
政府の積極的平和主義は、
日本が外交、防衛、同盟、国際協力などを通じて、より能動的に安全保障と国際社会の平和・安定へ関与する政策原則
です。
一方、平和学の積極的平和は、
直接的暴力だけでなく、構造的暴力や文化的暴力を減らし、人と人、集団と集団、国家と国家の間に、より衡平で調和した関係をつくること
を目指します。
前者が主として、
「日本は平和と安全のために何をするのか」
を問う概念だとすれば、後者は、
「その行為によって、どのような関係と社会が生まれるのか」
を問う概念だと言えます。
だからこそ、安全保障政策を平和学から評価するときには、
防衛力が増えたか減ったか
だけを見るのでは不十分です。
その政策によって、
直接的暴力は減ったのか。
構造的暴力は減ったのか。
文化的暴力は弱まったのか。
衡平は高まったのか。
調和や対話の可能性は広がったのか。
市民の人権と民主的統制は強くなったのか。
というところまで問わなければなりません。
この意味で、平和学の積極的平和は、政府の「積極的平和主義」を否定するための単純な反対概念ではありません。
むしろ、
政府が「平和のため」として行う政策を、本当に平和を生み出しているのかという基準から検証するための物差し
として使うことができます。
「人権を守るため」に自衛権を認めるのであれば、人権はその自衛権の方法、範囲、期間、継続を制限し、必要なら停止させる基準にもならなければなりません。
そこまで制度化して初めて、安全保障を積極的平和へ接続することができます。
この点については、別稿「平和主義と憲法を結び直す――戦争を止め、安心をつくる憲法へ」でも詳しく述べています。

平和学を政治へ変える「安心を創る政治5原則」
平和学は、社会のどこに暴力、支配、格差、トラウマ、コンフリクトがあるかを考える理論です。日本国憲法は、政治が守るべき平和と人権の原則です。
しかし、理論と憲法だけでは、目の前の市民の不安を具体的な政策へ変えることはできません。そこで必要になるのが、「安心を創る政治5原則」です。

第1原則 不安を直視する
政治の出発点は、市民が抱えている不安を正面から受け止めることです。
不安は、心の平安、安定、満足のどこかが傷ついていることを知らせる信号です。戦争や災害への恐怖は平安の問題です。物価、病気、失業、子育て、老後の心配は安定の問題です。差別、孤立、発言機会の欠如は満足の問題です。
政治家が不安を「大げさだ」「自己責任だ」「仕方がない」と切り捨てれば、市民は不安に加えて、見捨てられたという苦痛を抱えます。
不安を直視するとは、共感の言葉を述べるだけではありません。誰が、何を恐れ、何を奪われ、何を言えないまま我慢してきたのかを知ることです。これは平和学における調和と、トラウマの承認への出発点です。

第2原則 不安を分析する
不安を受け止めただけでは、政治的な解決になりません。その原因を、本人の性格だけでなく、制度、資源配分、情報、権力関係の中から探します。
直接的暴力があるのか。構造的暴力があるのか。それを正当化する文化的暴力があるのか。過去の被害やトラウマが放置されているのか。利害や目標のコンフリクトがあるのか。誰が決定し、誰が利益を得て、誰が危険を引き受けているのかを明らかにします。
水への不安であれば、検査値だけでなく、検査計画、採水地点、公表基準、記録保存、意思決定、責任、救済まで調べます。生活不安であれば、物価だけでなく、賃金、税、社会保険料、住宅、教育、医療、雇用制度まで分析します。
分析なき政治は、その場しのぎの給付やスローガンになりがちです。原因を取り除かなければ、不安は繰り返されます。

第3原則 不安を言葉にする
市民の不安は、最初から明確な政策要求として現れるとは限りません。「何となく怖い」「行政を信用できない」「このままでは暮らせない」という感覚を、社会が共有し、議論できる言葉へ変える必要があります。
何が起きているのか。どの権利が損なわれているのか。どの制度に原因があるのか。誰にどのような改善を求めるのかを、分かりやすく示します。
不安を言葉にすることは、声を出せなかった人の尊厳と参加を回復することでもあります。憲法第16条の請願権、第21条の表現・集会・結社の自由、第28条の団体交渉権などを、市民が実際に使える力へ変える作業です。
ただし、不安を利用して恐怖や敵意を拡大してはなりません。確認された事実、合理的な推測、まだ分からないこと、今後調査すべきことを区別します。目的は不安の扇動ではなく、市民が理解し、判断し、参加できる言葉をつくることです。

第4原則 不安から安心の条件を提示する
「不安をなくす」というだけでは、目標が曖昧です。どのような状態になれば安心できるのかを、確認可能な条件として示す必要があります。
安心の条件は、心の平安、安定、満足の三つに分けて考えられます。
| 心の状態 | 安心の条件 |
|---|---|
| 心の平安 | 暴力や危険を受けず、危険があれば知らされ、保護される |
| 心の安定 | 生活、医療、仕事、教育、住居、行政手続に見通しがある |
| 心の満足 | 尊厳、自己決定、表現、参加、協力、異議申立てが保障される |
「水を安心して飲める」とは、行政が安全だと言うことではありません。必要な検査が継続して行われ、結果と判断根拠が隠されず、市民が追加調査や対策を求められ、問題が起きたときに保護と救済を受けられることです。
「子育ても老後も破綻しない」とは、励ましや家族の自己責任ではありません。教育、医療、介護、住宅、所得保障の制度があり、将来の負担と利用条件が分かることです。
安心とは、気休めの感情ではなく、信頼できる客観的条件です。

第5原則 安心の条件を政策として実現する
安心の条件を示しても、法律、条例、予算、担当機関、期限、救済、検証方法がなければ、政治的な約束にとどまります。
第5原則は、衡平と調和を制度として定着させる「有機的組織」に対応します。
情報公開、記録保存、理由提示、市民参加、少数派の調査権、独立した監視、異議申立て、司法救済、政策評価、定期的な見直しを組み合わせます。
さらに、実行して終わりではありません。危険は減ったか。生活の見通しは改善したか。当事者は参加できたか。新しい格差や排除を生んでいないか。市民の不安を再び聞き、政策を修正します。
五原則は一方通行ではなく、実行から再び不安の直視へ戻る循環です。

安心を創る政治とは、安心させる政治ではない
「安心を創る政治」と「安心させる政治」は異なります。
安心させる政治は、説明、宣伝、安全宣言によって、不安の感情を抑えようとします。しかし、情報を隠し、異議を抑え、危険を小さく見せれば、一時的に不安が弱まることはあっても、客観的な安全は生まれません。
安心を創る政治は、不安を合理的な警告として受け止めます。そして、原因を調べ、情報を公開し、当事者を意思決定に参加させ、危険を減らし、救済を準備します。
安心させる政治は、不安を感じる人を変えようとする。
安心を創る政治は、不安を生み出した社会の条件を変えようとする。
この違いは、平和学における文化的暴力の有無とも関係します。不安を口にする人を「秩序を乱す人」と扱えば、沈黙を強いる文化的暴力になります。不安を政策改善のための情報として扱えば、市民参加による積極的平和へつながります。

平和学から導かれる政治の三原則
幸福の三つの状態と、安心を創る政治5原則を重ねると、政治の基本姿勢は、さらに三つの言葉に集約できます。

傷つけない政治
戦争、暴力、差別、虐待、ハラスメント、不当な権力行使から人を守ります。危険があるのに知らせず、人に負わせることもしません。
これは、心の平安を守る政治です。憲法第9条、第13条、第18条、第31条から第40条までが基礎になります。
見捨てない政治
貧困、病気、失業、障害、災害、子育て、介護、老後によって、人の生活が崩れることを放置しません。被害を受けた人の訴えを聞き、必要な保護、支援、補償、回復を行います。
これは、心の安定を支える政治です。憲法第14条、第17条、第25条から第29条、第32条などが基礎になります。
従わせない政治
市民を、情報を与えないまま政策へ従わせません。判断前の情報公開、意思決定への参加、表現、異議申立て、少数派の権限、不当な政策を止める手続、独立した司法救済を保障します。
これは、心の満足を可能にする政治です。憲法第13条、第15条、第16条、第19条から第24条、第28条などが基礎になります。
傷つけない。
見捨てない。
従わせない。
その三つによって、一人ひとりの心の平安、安定、満足を支える。
これが、平和学から導かれる幸福と安心づくりの政治です。
平和学を具体的な政策分野へ広げる
平和学は、外交や防衛だけでなく、生活に関わるあらゆる政策を読み直す視点になります。

水・環境政策
汚染の可能性がある水を、情報を知らせずに飲ませることは、健康被害が確認される前であっても、市民の自己決定を損ないます。
必要なのは、検査、全結果の公開、記録保存、判断理由の提示、汚染源調査、代替水源、健康相談、市民参加、独立した審査です。
安全な水だけでなく、「自分が何を飲んでいるか知り、自分で判断できること」が積極的平和の条件です。
労働・ハラスメント政策
暴行や暴言を止めることは消極的平和です。しかし、それだけでは十分ではありません。
相談した人が不利益を受けない。調査が独立している。働く人が業務量や安全について発言できる。生活を失う恐怖のため、危険な命令へ従わなくてもよい。被害後の治療、休業、復職が保障される。そこまで整って、職場の積極的平和が生まれます。
福祉・社会保障政策
困窮した後に申請した人だけを救う制度では、助けを求める力を失った人が取り残されます。
制度を分かりやすく知らせ、必要性を把握した段階で支援につなぎ、申請できない事情のある人を支える必要があります。最低限の生活保障は、単なる給付ではなく、将来への見通しと心の安定を保障する平和政策です。
防災政策
自然災害そのものを完全に止めることはできません。しかし、同じ災害で、貧困、障害、性別、年齢、言語、住環境によって被害が偏る状態は、政策によって改善できます。
避難情報の保障、個別避難計画、住宅の耐震化、避難所の安全とプライバシー、医療継続、性暴力対策、被災後の住居と所得保障が必要です。
防ぐことのできた被害を社会が放置しないことが、平和学に基づく防災です。
戦争とトラウマの政策
戦闘が終わっても、平和が完成するわけではありません。戦争、空襲、原爆、虐殺、引揚げ、性暴力などの記憶とトラウマは、本人だけでなく家族や次世代にも影響を残します。
必要なのは、体験を聞き、事実を記録し、被害を認め、責任を検証し、治療と生活を支え、再発防止へ結び付けることです。
語り継ぎは、過去を蒸し返す行為ではありません。過去の被害を、将来の人を守る制度と文化へ変える「平和の継承」です。
防衛・安全保障政策
平和学から安全保障を考えるなら、戦争を始める手続だけでなく、武力行使を縮小し、停止し、検証し、終結させる制度が必要です。
軍事情報を行政が独占しない。国会の少数派にも調査権を保障する。独立した司法が自衛権行使を審査する。市民が違憲な武力行使の停止を申し立てられる。開始だけでなく、継続、撤退、終結を定期的に審査する。
戦争を始める権限を集中させるのではなく、戦争を止める権限を分散することが、消極的平和を制度として実効化します。
私の「日本国憲法改正案の要旨」では、この考え方を「自衛権の民主化」として具体化しています。
幸福と安心を政策評価の基準にする

政策の成果を、事業を実施したか、予算を使ったかだけで評価してはなりません。一人ひとりの心の平安、安定、満足を支える客観的条件が改善したかを確かめる必要があります。
| 評価する状態 | 政策評価の問い |
|---|---|
| 心の平安 | 暴力、危険、被害は減ったか。危険は適切に知らされたか |
| 心の安定 | 生活と権利に見通しが持てるか。制度を継続して利用できるか |
| 心の満足 | 尊厳、自己決定、発言、参加、異議申立てが保障されたか |
| 衡平 | 利益、負担、情報、権限が一部に偏っていないか |
| 調和 | 被害や異なる立場が無視されず、協力関係が生まれたか |
| 回復 | トラウマや被害に対する真相究明、補償、再発防止が行われたか |
| 持続性 | 制度、予算、記録、監視、救済が将来にも残るか |
市民が「安心した」と回答したかだけでは不十分です。情報を知らされなければ、不安を感じないこともあります。反対に、危険が減っても、過去の隠蔽や被害のため不信が残ることもあります。
主観的な安心と、客観的な安全、生活保障、参加、救済を併せて評価する必要があります。
まとめ――私は、平和学を、一人ひとりの安心を制度へと変換する実践的学問であると考えている。
平和学は、戦争がないことだけを平和とは考えません。

直接的暴力を止める。構造的暴力を取り除く。暴力を正当化する文化を問い直す。過去のトラウマを回復する。コンフリクトを暴力や服従ではなく、対話と制度によって転換する。衡平と調和を、善意だけに任せず、法律、予算、行政、参加、救済の仕組みとして定着させる。
この平和学の考え方を日本国憲法へ接続すると、第9条は国家間の直接的暴力を防ぐ消極的平和の根本となります。第11条から第40条までの基本的人権は、尊厳、自由、平等、生活、参加、救済を保障する積極的平和の根本となります。そして、前文が両者を結び、国会、行政、司法、地方自治が制度化し、第97条が将来世代へ引き継ぎます。
その憲法上の平和を、一人ひとりの幸福として表せば、心の平安、心の安定、心の満足になります。
心の平安とは、いま傷つけられないことです。心の安定とは、明日も生活と権利が守られる見通しがあることです。心の満足とは、自分が尊重され、自分で選び、社会に参加し、他者と価値を分かち合えることです。
そして、「安心を創る政治5原則」は、この理念を現実の政治へ移す方法です。
不安を直視する。
不安を分析する。
不安を言葉にする。
不安から、心の平安・安定・満足を支える安心の条件を示す。
その条件を政策と制度として実現し、検証し、改善する。
政治は、人の心に「安心しなさい」と命じるものではありません。
人を傷つけない。人を見捨てない。人を従わせない。そのための情報、参加、生活保障、停止、救済の制度をつくる。そうして、一人ひとりが自分にとっての幸福を自由に追求できる社会を支える。
それが、平和学から日本国憲法をつなぐ、幸福と安心づくりの政治の在り方であると、私は考えています。
はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
私、原田芳裕は、様々な方と繋がりたいと思っています。もし、私と繋がりたいという方は、是非、下のメールフォームから、ご連絡ください。ご相談事でも構いません。お待ちしております。




