ヨハン・ガルトゥング論文 〈暴力・平和・平和研究〉の構造を分析する。

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今、この本を読んで、ヨハンガルトゥングの平和学の基礎を学んでいます。

ヨハンガルトゥングの平和学の基礎の書籍表紙画像

そして、この中にある論文を、分かりやすく分析して、自分の整理のためにも、皆様の理解も繋がればよいと思っています。

今回は、〈暴力 平和 平和研究〉です。

ヨハン・ガルトゥングの論文「暴力・平和・平和研究」の構造と核心を示したアイキャッチ画像。中央に論文を象徴する開いた書籍と地球、平和を表す白い鳩を配置し、左側には戦争・攻撃・身体的暴力など「直接的暴力=見える暴力」を、右側には貧困、不平等、排除、不公正な制度など「構造的暴力=見えにくい暴力」を対比して描いている。下部では論文の流れを、①導入、②暴力の定義、③暴力の仕組み、④二つの暴力の関係、⑤平和研究、の5段階で整理し、直接的暴力と構造的暴力の双方を克服することが平和研究の課題であると示している。

この本稿で取り上げる原論文は、ヨハン・ガルトゥングが1969年に Journal of Peace Research に発表した “Violence, Peace, and Peace Research” です。同論文は、直接的暴力と構造的暴力、消極的平和と積極的平和という議論を体系的に展開した、ガルトゥングの代表的論文の一つです。

目次

エピローグ この論文〈暴力 平和 平和研究〉の核心

この論文の核心は、人間を傷つける作用を、目に見える加害行為と、社会の仕組みによる被害の双方から捉え直し、その両方を克服することを平和研究の課題に据えることです。

「消極的平和と積極的平和を区別した論文」として読むだけでは、議論の重要な部分を取り逃がします。著者は、その区別に至るまでに、暴力の定義、被害を生む仕組み、二種類の暴力の関係、変革手段の妥当性を順に検討しています。さらに、非暴力を理由に不正義を放置することにも、正義を理由に暴力を正当化することにも批判を向けています。

この論文で示された直接的暴力、構造的暴力、消極的平和、積極的平和という考え方を、日本国憲法や現代の政治へどのようにつなげることができるのかについては、別稿「平和学から日本国憲法をつなぐ、幸福と安心づくりの政治の在り方」で詳しく検討しています。

人間を傷つける作用を「目に見える加害行為=直接的暴力」と「社会の仕組みによる被害=構造的暴力」の両面から捉え、平和研究がその双方の克服を課題とすることを示した図解。暴力の定義、被害を生む仕組み、二種類の暴力の関係、変革手段の妥当性、消極的平和と積極的平和の区別へと議論が進む構造を整理している。下部では、非暴力を理由に不正義を放置することと、正義を理由に暴力を正当化することの双方を批判し、直接的暴力と構造的暴力をともに克服することが平和研究の核心であると示している。

以下、添付文書の本文・図表・注記に基づき、原論文の第1~第5節に沿って分析します。原文の主張と、そこから導く私の解釈・批判は区別して述べます。

1.論文全体は、どのように組み立てられているか

全体は、五つの段階で構成されています。

原論文の節中心的な問い論証上の役割次節に渡すもの
第1節「導入」平和を研究するには、何を明確にすべきか平和概念の構築方針を示す暴力を定義する必要
第2節「『暴力』の定義および諸次元について」何を暴力と呼ぶのか共通の定義と六つの区別を提示する個人的暴力/構造的暴力という基本区分
第3節「個人的暴力および構造的暴力の手段」暴力は、どんな仕組みで人を傷つけるか抽象的な概念を具体的な作用機序に下ろす身体への作用と、権力・資源配分の構造
第4節「個人的暴力と構造的暴力との関係」二種類の暴力は、互いに必要なのか還元論・不可避論・一方優先論を検討する両方を独立した課題として扱う根拠
第5節「『平和』および『平和研究』の定義について」どのような平和を、どう研究するか消極的平和と積極的平和を定式化する両者をともに実現する研究・行動の方針

この順序には意味があります。

著者は最初から「積極的平和が大切だ」と主張するのではなく、まず、従来の暴力概念では、避けられるはずの人間の被害が見落とされることを示します。その見落としを修正した結果として、平和概念も拡張される、という構成です。

論文全体の構成を5段階で整理した図解。上部に「1.論文全体は、どのように組み立てられているか」という見出しがあり、全体は五つの段階で構成されると示している。中央には5つの縦長パネルが左から右へ矢印でつながり、①導入、②暴力の定義、③暴力の仕組み、④二つの暴力の関係、⑤平和の定義と研究、という流れを可視化している。各パネルには、それぞれ原論文の節、中心的な問い、論証上の役割、次節に渡すものが整理されている。下部左では「この順序には意味があります」として、著者は最初から積極的平和を主張するのではなく、従来の暴力概念では避けられるはずの人間の被害が見落とされることを示し、その修正の結果として平和概念が拡張されると説明している。下部右では「論証の要点」として、論証の土台は第2節、両方の平和を追求する根拠を固める部分は第4節、結論は第5節にあるとまとめている。全体として、論文の構造と論証の流れを一目で理解できるインフォグラフィック。

したがって、論証の土台は第2節、両方の平和を追求する根拠を固める部分は第4節、結論は第5節にあります。

2.第1節の構造――「平和」という言葉を、研究に使える概念へ変える

第1節は、単なる前置きではありません。どのような定義なら研究に役立つのか、という方法論を示しています。

論文第1節の構造を、「平和」という言葉を研究に使える概念へ組み替える過程として整理した図解。①「平和」という言葉が技術協力、貿易、観光、教育、工業化など多様な政策の正当化に使われうることを示し、「人を結びつける言葉として有効であること」と「現実を分析する概念として有効であること」は別だと整理する。②平和概念の条件として、多くの人が社会的目標として理解できること、困難でも不可能ではないこと、「平和は暴力の不在である」という関係を保つことの三原則を示し、暴力を定義する必要から第2節へ接続する。③平和的な社会秩序を一つの理想社会という「点」ではなく、多様な文化・生活様式・制度を含む「領域」として捉える。④暴力をどう定義するかによって、戦争や犯罪だけでなく、資源配分や意思決定まで研究対象が変わることを示し、定義そのものが何を問題として発見し、何を変革の対象とするかを決める研究上の選択であるとまとめている。

① 出発点は、「平和」という言葉の使われ方への疑問

著者は、技術協力、貿易、観光、教育、工業化など、さまざまな政策が「平和に役立つ」と説明されることを指摘します。

問題は、政策と平和の関係が実証されていなくても、その言葉が政策の正当化に使えることです。

ここには、二つの異なる作用があります。

「平和」という言葉の作用著者の評価
共通の目標や連帯感を生み出すそれ自体に有益な面がある
政策の実態を検証せず、賛同を得る研究上は不十分である

著者は、曖昧な言葉を全面的に否定してはいません。ただし、人を結びつける言葉として有効であることと、現実を分析する概念として有効であることは別問題だと考えています。

「平和」という言葉の使われ方を研究上の問題として整理した図解。上部では、技術協力、貿易、観光、教育、工業化・経済開発など、さまざまな政策が「平和に役立つ」と説明される例を示している。中央左では、政策と平和の関係が実証されていなくても、「平和」という言葉によって政策が正当化される可能性を問題点として提示する。中央右では、「平和」という言葉には、共通の目標や連帯感を生み出す有益な作用と、政策の実態を十分に検証しないまま賛同を得る作用の二つがあることを対比している。下部では、著者が曖昧な言葉そのものを否定しているのではなく、「人を結びつける言葉として有効であること」と「現実を分析する概念として有効であること」は別問題だと整理し、平和を研究に使える概念として捉え直す必要があることを示している。

② 平和概念に三つの条件を設ける

本文の三原則は、次のように整理できます。

  • 多くの人が社会的目標として了解できること。
  • 実現が困難でも、不可能な目標ではないこと。
  • 「平和は暴力の不在である」という関係を保持すること。

三番目について、著者自身が、これだけでは定義にならないと明言しています。暴力が何なのかを決めなければ、平和の内容も決まらないからです。

これが第2節への接続になります。

「平和概念に三つの条件を設ける」という内容を図解したインフォグラフィック。中央に三つの大きな項目が並び、①多くの人が社会的目標として了解できること、②実現が困難でも不可能な目標ではないこと、③「平和は暴力の不在である」という関係を保持すること、の三条件を示している。1つ目は多様な人々が「みんなでつくる平和な社会」と書かれた看板を持つ場面、2つ目は山頂を目指して歩く人の絵で、困難だが到達可能な目標を表現している。3つ目は武器に禁止マークと鳩の絵で、平和を暴力の不在として捉える関係を示す。下部では、著者自身が「これだけでは定義にならない」と指摘し、暴力が何かを決めなければ平和の内容も決まらないと説明している。最後に、第2節「暴力の定義および諸次元について」へ接続する流れが示され、平和概念を具体化するには暴力の定義が必要だとまとめている。

③ 平和を、唯一の理想社会と同一視しない

第1節の重要な表現は、平和的な社会秩序を「点ではなく領域」として考えることです。

これは、平和を実現する社会の形が一種類に限られない、という意味です。暴力がないという条件のもとでも、文化、生活様式、制度には多様なあり方が残ります。

この考え方は、論文末尾の注38にある、研究や実践の多元性を認める姿勢につながっています。

「平和を、唯一の理想社会と同一視しない」という考え方を図解したインフォグラフィック。左側では、同じ価値観・同じ仕組み・同じ人々によって構成される「唯一の理想社会=点」としての平和像を示し、中央から右側では、平和を「点ではなく領域」として捉え、多様な家族の形、教育、働き方、地域文化・伝統、住まい・暮らし方、価値観・生き方、学問・芸術・表現、地域のつながりや自治など、異なる社会のあり方が共存できることを示している。下部では、A「多様なあり方が残る」、B「平和=単一の完成形ではない」、C「研究と実践の多元性へ」という三つの視点を整理し、論文末尾の注38にある多様な研究や実践を認める姿勢へつながることを説明している。全体として、平和とは一つの理想社会を完成させることではなく、暴力の不在という条件を共有しながら、多様な文化・制度・生活様式が成り立つ社会の「領域」であることを表現している。

コラム:注38の述べていること

注38でガルトゥングは、暴力を減らし、社会的正義を実現するための研究や実践が、すべて「平和研究」の旗のもとで行われる必要はないと述べています。

注38

もちろん、このすべてまたは大部分または多くが、そのことのために、「平和研究」の旗の下あるいは他のどんな旗のもとにも航海する必要はない。少しばかり全体主義的観念の持ち主が、そう感じる傾向があるということだけである。重要なことは、そのことが行われ、異なるアプローチ間でコンタクトがあり、それらや他のアプローチがイデオロギー的・制度的多元主義から利益を得ることである。

たとえば、労働相談、貧困対策、差別の是正、教育、権力の監視などは、それぞれの立場から、人間の生存や可能性を守る仕事になり得ます。「平和研究」と名乗ることが、その価値の条件になるわけではありません。

著者が重視するのは、仕事が実際に行われ、異なるアプローチが交流し、思想や制度の多様性から互いに学ぶことです。関連する活動を一つの旗のもとに集めようとする発想には、「全体主義的」という強い言葉で警戒を示しています。

ただし、これは、どのような思想や行動も無条件に肯定するという意味ではありません。個人的暴力と構造的暴力の双方を克服するという目標を、一つの学派や組織が独占しないということです。

平和な社会の形が一つに限られないように、その実現を探究する方法や担い手も一つに限られない。 注38は、第1節の「点ではなく領域」という考え方に通じる姿勢を、研究と実践のあり方にも示しています。

「コラム:注38の述べていること」という題のインフォグラフィック。全体は、平和研究の目的は一つの旗の下にすべてを集めることではなく、暴力の克服に向かう多様な実践と交流を生かすことだ、という注38の趣旨を整理している。左上の「1 注38の核心」では、暴力を減らし社会的正義を実現する研究や実践は、必ずしも「平和研究」という名前の下で行われる必要はなく、大切なのは実際に仕事が行われること、異なるアプローチのあいだに交流があること、思想や制度の多元性から互いに学べることだと説明している。そこでは「名前より実質」と「一つの旗より多様な連携」という二つのポイントが示されている。右上の「2 ガルトゥングが警戒すること」では、環境運動、人権活動、開発支援、ジェンダー平等、地域活動など多様な取り組みを、何でも一つの旗の下に集めようとする発想に対し、ガルトゥングが「少しばかり全体主義的」と警戒していることを説明し、重要なのは独占ではなく、連絡・接続・相互学習であると強調している。左下の「4 著者が重視する三つのこと」では、第一に実際に行動や研究が行われること、第二に異なるアプローチが交流すること、第三にイデオロギー的・制度的多元主義から利益を得ること、の三点を整理している。中央の「3 多様な実践は、それぞれ平和に貢献しうる」では、労働相談、貧困対策、差別の是正、教育、権力の監視、地域支援・福祉などの活動が、中央の「人間の生存・尊厳・可能性を守る」という円に矢印でつながり、それぞれの分野が独自の形で平和に貢献しうることを示している。下部には「『平和研究』と名乗るかどうかは価値の条件ではない」と書かれている。右下の「5 ただし、何でも無条件に肯定するわけではない」では、多元性を尊重することは、どんな思想や行動でも無条件に正しいと認める意味ではないと注意を促し、基準は個人的暴力と構造的暴力の双方を克服する方向にあるかどうかであり、その目標を特定の学派や組織が独占しないということだと整理している。最下部の青い帯では、「平和な社会の形が一つに限られないように、その実現を探究する方法や担い手も一つに限られない」と大きくまとめられ、その下に、注38は第1節の「点ではなく領域」という考え方を、研究と実践のあり方にも広げていると補足されている。

④ 定義そのものが、研究と行動の方向を決める

暴力を殺傷だけと定義すれば、研究は戦争や犯罪に集中します。暴力に資源配分や意思決定の問題まで含めれば、研究対象も変わります。

したがって、この論文の定義は辞書的な意味の確定ではありません。

何を問題として発見し、何を変革の対象とするかを決める、研究上の選択です。

ただし、この選択には規範的な判断が含まれます。ここは後の批判的検討で重要になります。

「定義そのものが、研究と行動の方向を決める」という主題を図解したインフォグラフィック。左側では、暴力を「殺傷・暴行など」とする狭い定義を示し、研究対象が戦争、犯罪、武力衝突など目に見える加害行為に集中することを表している。右側では、暴力を「人間の可能性を阻害する作用」とする広い定義を示し、貧困、資源の不平等な配分、差別、教育からの排除、医療への不平等なアクセス、意思決定権力の集中など、社会の仕組みによる問題まで研究対象が広がることを示している。中央には「定義が変われば、見える問題も、必要な行動も変わる」とあり、暴力をどう定義するかによって、何を問題として発見し、何を変革の対象とするかが変わることを強調している。下部では、この論文の定義は辞書的な意味の確定ではなく、研究上の選択であると整理し、同時に、その選択には規範的な判断が含まれるため、後の批判的検討が重要になると注意を促している。

3.第2節前半――暴力を「潜在的な実現可能性を妨げる作用」として定義する

この論文で最も基礎的な箇所です。

著者は、人間の現実の身体的・精神的な達成が、その人の潜在的な実現可能性を下回るような影響を受けるとき、暴力が存在すると述べます。

さらに、その意味を、潜在的なものと現実との距離を拡大すること、またはその距離の縮小を阻害することとして説明します。

論文第2節前半の内容を図解したインフォグラフィック。見出しは「3.第2節前半――暴力を『潜在的な実現可能性を妨げる作用』として定義する」。最上段では、暴力とは、人間の現実の達成が潜在的な実現可能性を下回るような、回避可能な隔たりを生み、広げ、維持する作用だと説明している。第1ブロックでは、「差があること」と「差を生む作用」を区別し、左に潜在的な実現可能性、右に現実の達成、その間に暴力が位置づけられ、暴力とは回避可能な隔たりを生み、広げ、維持する作用であると示している。第2ブロックでは、結核の例を用い、18世紀には救命がほとんど不可能だったのに対し、医学的資源が存在する時代には治療を受けられない仕組みが死をもたらす可能性があると示し、同じ死亡でも歴史的条件によって評価が変わることを説明している。第3ブロックでは、自然災害の例として、堅固な住宅と崩れやすい住宅を対比し、自然現象の不可避性と人間被害の不可避性は同じではないこと、社会的条件によって被害格差が生じうることを示している。第4ブロックでは、戦争には二つの被害があるとして、直接的な破壊と資源の転用を並べ、前者は人を殺傷し能力を直接破壊する作用、後者は生活改善に使えた知識や資源を奪い、能力を実現する手段を不足させる作用だと説明している。第5ブロックでは、この定義の難点として、「誰が人間の実現すべき可能性を決めるのか」という問題を示し、識字の機会を広げることは比較的合意しやすい一方、特定宗教への帰属を一般化することは難しいと整理している。最下部では、この定義の核心として、暴力とは回避可能な条件のもとで、人間の可能性と現実のあいだの隔たりを生み出し、広げ、維持する作用であるとまとめている。

① 「差があること」と「差を生む作用」を区別する

ここは丁寧に読む必要があります。

理解のために整理すると、

  • 潜在的な実現可能性:利用できる知識や資源によって、達成できる水準。
  • 現実の達成:実際に生存し、健康であり、学び、行動できている水準。
  • 暴力:その間の回避可能な隔たりを生み、広げ、維持する作用。

となります。

したがって、「理想に届かないことはすべて暴力だ」という意味ではありません。何が実現可能だったのか、なぜ実現できなかったのか、その阻害は回避可能だったのかを問う定義です。

「差があること」と「差を生む作用」を区別するという論点を図解したインフォグラフィック。上部の見出しは「1 『差があること』と『差を生む作用』を区別する」。第1ブロック「まず三つを区別する」では、左に「潜在的な実現可能性」、中央に「現実の達成」、右に「暴力」が並び、潜在的な実現可能性は利用できる知識や資源によって達成できる水準、現実の達成は実際に生存し、健康であり、学び、行動できている水準、暴力はその間の回避可能な隔たりを生み、広げ、維持する作用だと説明している。第2ブロック「図でみる関係」では、左に達成できるはずの水準、右に現実の水準、その間に「回避可能な隔たり」が描かれ、暴力はこの隔たりを生み、広げ、縮小を妨げる作用だと示している。第3ブロック「ここで大事な点」では、「理想に届かないこと」がすべてそのまま暴力なのではないと強調し、何が実現可能だったのか、なぜ実現できなかったのか、その阻害は回避可能だったのか、という三つの問いが必要だと整理している。第4ブロック「誤解しやすい読み方」では、「差がある=すべて暴力」という誤解と対比し、この論文の考え方は、差そのものではなく、回避可能な隔たりを生む作用を暴力として捉えるのだと説明している。最下部「この定義の核心」では、暴力とは人間の可能性と現実のあいだにある回避可能な隔たりを生み、広げ、維持する作用であり、問われるのは結果の差だけでなく、その差を生んだ条件と作用であるとまとめている。

② 結核死の例は、「同じ結果でも評価は歴史的条件によって変わる」ことを示す

著者は、18世紀の結核死と、医学的資源が存在する時代の結核死を対比します。

前者では救命がほとんど不可能だったとしても、後者では治療を受けられない仕組みが死をもたらしている可能性があります。

ここで注目しているのは、死亡という結果だけではなく、救える条件が存在したにもかかわらず、その条件が当人に届かなかったことです。

ただし、この例は一般的な考え方を示すものです。個々の死亡を暴力と判定するには、実際の治療可能性などの検討が必要です。

結核死の例を通して、「同じ死亡という結果でも、歴史的・社会的条件によって評価が変わる」ことを説明した図解。左上では18世紀と医学的資源が存在する時代を比較し、18世紀には有効な治療手段がほとんどなく救命がきわめて困難だった一方、現代的な医療資源がある時代では、診断・治療・薬・医療知識が存在し、本来なら助かる可能性があることを示している。右上では、結果はいずれも「死亡」でも、救命を可能にする知識・薬・医療体制が存在したか、その条件が当人に届いたかが評価の分かれ目になると整理している。中央下では、論文が注目するのは死亡そのものではなく、「救える条件が存在したのに届かなかったこと」だと強調し、医療へのアクセス、治療費、制度、地域差、知識の普及などが、その届かなさを生む社会的条件の例として示されている。さらに、医学的資源が存在していても治療を受けられない場合には、回避可能だった被害の可能性が生じ、構造や仕組みを問う必要があると説明している。右下の注意点では、この例は一般的な考え方を示すものであり、個々の死亡をただちに「暴力」と断定することはできず、実際の治療可能性、利用できた医療、患者の状況などを具体的に検討する必要があると示している。最下部では、「同じ死でも、救える条件の有無と、その条件が届く仕組みの有無によって意味は変わる」とまとめている。

③ 自然災害については、本文だけでなく注3を読む必要がある

本文では、地震による死亡が例に出されます。しかし注3は、その理解を大きく補います。

同じ地震でも、ある人は堅固な住宅に住み、別の人は崩れやすい住宅に住んでいる。地震そのものが避けられなくても、社会的条件による被害の格差は避けられたかもしれない、と述べています。

つまり、

自然現象の不可避性と、人間の被害の不可避性は同じではない。

この区別が、災害を社会構造の問題として分析する入口になります。災害の社会的被害への着目は、後から付け加えた応用ではなく、この論文の注記にすでに存在しています。

自然災害の被害を、地震そのものと社会的条件による被害格差に分けて考える図解。上部では、同じ地震でも、耐震性が高く避難しやすい住宅では被害が比較的小さい一方、耐震性が低く避難が難しい住宅では死亡・負傷の危険が高まることを対比している。中央では、「自然現象の不可避性」と「人間被害の不可避性」は同じではないと示し、地震の発生自体は避けられなくても、住宅の質、所得格差、地域インフラ、防災情報へのアクセス、避難体制、救助・医療体制などによって被害の大きさには差が生じると説明している。下部では、論文の注3が補う視点として、問うべきなのは地震が起きたことだけではなく、なぜ被害の差が生まれたのか、誰が安全な住宅に住めたのか、誰が避難情報や救助・医療にアクセスできたのか、どの被害が回避可能だったのか、という社会構造上の条件であると整理している。最後に、災害を「自然」だけの問題として扱わず、住宅、所得、地域格差、制度、救助体制など社会の仕組みから分析する必要があり、この視点は後付けの応用ではなく、論文の注記にすでに含まれているとまとめている。

④ 戦争にも、直接的な破壊と資源の転用という二つの被害がある

第2節は、戦争が人を殺傷することに加えて、人間の生活を改善するために使えた知識や資源を奪うことにも言及します。

前者は、人間の能力を直接破壊する作用です。後者は、その能力を実現する手段を不足させる作用です。

ただし、ここから個別の軍事支出の評価を直ちに導くことはできません。具体的な分析には、代替的な資源配分と、それぞれの結果を検討する必要があります。

「戦争には二つの被害がある」という論点を図解したインフォグラフィック。左上では「戦争の直接的な被害」として、人の殺傷、身体や心の能力の直接的な破壊、住宅・学校・病院など生活基盤の破壊を示し、「能力そのものを直接こわす作用」と整理している。右上では「資源の転用による被害」として、知識、資金、物資、人員が軍事へ回ることで、病院、学校、住宅、インフラ、食料、福祉など、本来は生活改善に使えた手段が不足する可能性を示し、「能力を実現する手段を不足させる作用」と説明している。中央下では、直接的な破壊は武力行使が直接作用して殺傷や破壊を生むのに対し、資源の転用は配分の変更を通じて生活向上の手段を不足させるという、被害に至る経路の違いを比較している。さらに、戦争や軍事を分析する際には、何が直接破壊されたのか、どの資源が軍事へ回ったのか、その資源は代わりに何へ使えたのか、その配分によってどのような結果の差が生じたのかを問う必要があると示している。右下の注意点では、個別の軍事支出を直ちに善悪判断できるわけではなく、代替的な資源配分と、それぞれの結果を具体的に比較検討する必要があると強調している。最下部では、戦争は人を直接傷つけるだけでなく、人がよりよく生きるための手段を奪うことによっても被害を生むとまとめている。

⑤ 著者は、この定義の難点も認めている

身体的な生存や健康に比べ、精神的な実現可能性の内容については、合意が難しくなります。

本文では識字とキリスト教信仰を対比します。識字の機会を広げることには比較的広い合意が得られるとしても、特定の宗教への帰属を「実現すべき可能性」として一般化することはできません。

ここで著者が残している問題は、

誰が、人間の実現すべき可能性を決めるのか。

という点です。本人の自由を守ろうとする理論が、本人に代わって望ましい生き方を決めてしまう危険を、この定義は抱えています。

「著者は、この定義の難点も認めている」という論点を整理した図解。上部では、暴力を「人間の潜在的な実現可能性を妨げる作用」と定義することには大きな意義がある一方、「誰が、人間の実現すべき可能性を決めるのか」という難問が残ることを示している。第1ブロックでは、生存、健康、食事、住居、医療など身体的・基本的な可能性は比較的合意しやすい一方、どのように生きるか、どの価値観を持つか、どの文化や宗教に親しむかといった精神的・文化的な可能性は、人によって考え方が大きく異なると整理している。第2ブロックでは、本文の例として識字の機会とキリスト教信仰を対比し、読み書きを学ぶ機会は比較的広い合意を得やすいが、特定の宗教への帰属をすべての人が実現すべき可能性として一般化することは難しいと示している。第3ブロックでは、「何を実現すべき可能性とみなすのか」「その基準を誰が決めるのか」「文化や価値観の違いをどう扱うのか」という問題を提示している。第4ブロックでは、本人の自由を守るための理論であっても、本人に代わって望ましい生き方を決めてしまえば、特定の価値観を押しつけるパターナリズムに陥る危険があると警告している。第5ブロックでは、公開された議論の中で基準を検討すること、多様な価値観を尊重すること、一つの価値観に偏らないこと、最終的には本人の選択を尊重することが必要だと整理している。最下部では、暴力概念は社会の不正や不平等を捉える強力な道具である一方、「何を人間の実現すべき可能性とみなすのか」という難しい規範的問題を抱えており、この問いを自覚し続けることが理論をよりよいものにするために不可欠だとまとめている。

4.第2節中盤――暴力を分解する六つの軸

六つの区別は、六種類の暴力を並べたものではありません。同じ事象を複数の角度から捉えるための分析軸です。

分析軸区別見えるようになる問題
作用する側面身体的/精神的殺傷以外の威嚇、教化、心理的拘束
影響の与え方否定的/肯定的罰による統制と、報酬による誘導
客体の有無客体がある/ない直接の被害が生じる前の誇示や脅威
主体のあり方個人的・直接的/構造的・間接的特定の加害行為と、関係の仕組みを通じる被害
意図意図的/非意図的悪意がなくても生じる被害
現れ方顕在的/潜伏的現在の被害と、容易に被害が発生する状態
ヨハン・ガルトゥング「暴力・平和・平和研究」の第2節で示される「暴力を分解する六つの分析軸」を図解したインフォグラフィック。六つは別々の暴力の種類ではなく、同じ出来事を複数の角度から分析するための区別である。①「身体的/精神的」では、殴打や拘束など身体への作用と、脅し・洗脳・教化など精神的な可能性を狭める作用を対比。②「否定的/肯定的」では、罰や不利益による統制と、報酬や快楽によって望ましい行動へ誘導する作用を示し、「肯定的」は望ましいという意味ではないことを強調する。③「客体がある/ない」では、実際に人が傷つけられる暴力と、武器の誇示や予告など直接の打撃がなくても人の行動を制約する脅威を比較。④「個人的・直接的/構造的・間接的」は論文全体の主軸として強調され、具体的な加害行為による被害と、権力・資源・教育・医療などの不平等な配分や、その配分を決定する権限の偏りを通じて生じる被害を示す。⑤「意図的/非意図的」では、悪意をもって苦しめる行為と、制度や慣行、無関心などを通じて、明確な加害意思がなくても人間の可能性が阻害される場合を対比。⑥「顕在的/潜伏的」では、現在実際に起きている暴力と、対立・不平等・資源枯渇などの条件が残り、わずかなきっかけで暴力が表面化し得る不安定な状態を示す。下部には、「同じ出来事は六つの軸を重ねて読む」「誰が悪いかだけでなく、どの経路で被害が生じるかを見る」「現在の被害だけでなく、暴力が起こりやすい条件まで分析する」という読み方のポイントがまとめられている。

① 身体的/精神的――暴力の対象は身体だけではない

身体を傷つけることに加え、脅しや教化などによって精神的な可能性を狭めることも分析対象になります。

また、身体と精神の区分は完全ではありません。身体的拘束は精神に作用し、心理的な操作は身体的な行動を制限するからです。

ガルトゥング論文における「身体的暴力」と「精神的暴力」の違いと重なりを示した図解。左側の「身体的暴力」では、殴る・傷つける・殺すなど身体そのものを直接破壊する作用、拘束や監禁によって身体の自由を奪う作用、食料・水・医療を奪って身体が機能する条件を失わせる作用、過酷な労働や移動制限によって活動可能性を狭める作用を示している。中央の「精神的暴力」では、脅しや恐怖によって自由な思考や選択を妨げること、教化や洗脳によって特定の価値観を押しつけること、情報を制限して多様な考えに触れる機会を奪うこと、心理的に傷つけて自己肯定感や希望を損なうことを例示している。右側では、身体的暴力と精神的暴力は完全に分離できず、身体的拘束が恐怖・不安・無力感を生んで精神的可能性を狭める一方、脅しや継続的な心理的圧力が外出・発言・行動など身体的な活動を制限することを示している。下部では、両者はいずれも人間の潜在的な実現可能性を狭める作用であり、実際の暴力は身体的・精神的な側面が重なって現れることが多いため、暴力を分析する際には両方に注目する必要があると整理している。最後に、「人を傷つけることだけでなく、人が考え、選び、行動する可能性を狭めることも暴力である」とまとめている。

② 否定的/肯定的――「肯定的」は、望ましいという意味ではない

この区別は誤解されやすい部分です。

否定的とは、罰や不利益によって行動を制限すること。肯定的とは、報酬や快楽によって行動を一定方向に誘導することです。

著者は消費社会を例に、報酬を与えられる行動へ人間が誘導されることで、別の可能性が狭められる場合を考えています。

したがって、人が苦痛を訴えていないことだけでは、その人の可能性が妨げられていないとは言えないという論点です。

もっとも、報酬があるという理由だけで暴力になるわけではありません。可能性をどのように、どの程度阻害しているかの説明が必要です。

ガルトゥング論文における「否定的暴力」と「肯定的暴力」の違いを整理した図解。左上では、否定的暴力を「罰・不利益・苦痛によって行動を制限すること」、肯定的暴力を「報酬・快楽・利益によって行動を一定方向へ誘導すること」と対比している。否定的暴力の例として、叱責、脅し、罰、排除、減点、監禁、仕事上の不利益などを示し、嫌な結果を避けるために行動が縛られる仕組みを表している。肯定的暴力の例として、ポイント付与、承認、褒賞、娯楽、広告、消費への誘導、SNSの反応などを示し、望ましい結果を得ようとすることで特定の行動へ導かれる仕組みを表している。中央では、方法は異なっていても、罰による「避けたい」という動機と、報酬による「得たい」という動機の双方が、人の選択や行動を一定方向へ狭める可能性があると説明している。下部左では、消費社会の例として、広告、買い物、娯楽、SNSの反応、報酬ポイントなどによって、気づかないうちに人の行動が消費へ偏り、別の生き方や選択肢を考える機会が狭まる場合があることを示している。中央下では、「苦痛がない=暴力がない、ではない」と強調し、本人が苦痛を訴えていなくても、報酬や快楽による誘導によって考える・選ぶ・別の生き方を試す可能性が狭められているかを検討する必要があると示している。右下では、「報酬があるなら良いこと」「本人が苦痛を訴えないなら問題はない」という読み方を誤解として示し、報酬があることだけで直ちに暴力と評価するのではなく、どの可能性が、どの程度、どのように狭められているのかを分析する必要があると整理している。最下部では、「問うべきなのは、罰か報酬かではなく、それが人間の可能性をどう狭めているかである」とまとめている。

③ 客体の有無――実際の打撃がない場合も検討する

武器の誇示や暴力の予告は、まだ人を傷つけていなくても行動を制約します。

ここでの「客体がない」は、影響を受ける人間が一切いないという意味で読むと混乱します。直接の打撃の対象がなくても、威嚇を受ける人は存在し得るからです。

この部分は、完結した加害行為に至る前の作用を、どう暴力概念に位置づけるかを試みている箇所と読むのが適切です。

「客体の有無――実際の打撃がない場合も検討する」という論点を整理した図解。上部では、ガルトゥングが暴力を「人間の潜在的な実現可能性を妨げる作用」と捉え、完結した加害行為の前段階にある威嚇や予告も暴力概念の中で検討していることを示す。左の赤い欄では、兵士が銃を人に向けている場面を用い、殴る・撃つ・殺す・拘束するなど、身体に直接損傷を与える従来型の暴力を示している。中央の青い欄では、武器の誇示、暴力の予告、「従わなければ攻撃する」といった警告によって、まだ打撃は加えられていなくても、人に恐怖や不安を与え、行動の選択肢を狭める場合を説明している。右の緑の欄では、テレビ画面の演説を通じて「逆らう者は厳しく対処する」といった一般的な威嚇が発せられ、特定の個人を直接狙っていなくても、多くの人が萎縮し、発言や抗議を控える様子を示している。左下の紫の欄では、「客体がない」とは影響を受ける人が全くいないことではなく、直接の打撃対象が特定されていなくても、威嚇を受けて行動を制約される人は存在すると整理している。中央下の橙色の欄では、武器の誇示や暴力の予告が、恐怖や不安を通じて行動の制約につながる流れを矢印で示している。右下の水色の欄では、暴力は実際の打撃がある場合だけでなく、威嚇や予告の段階も含めて考えること、「客体がない」は誰にも影響がないことを意味しないこと、重要なのは行為が完結したかどうかではなく、人の可能性をどのように制約しているかだとまとめている。最下部では、『人を傷つける行為だけでなく、傷つけると予告し、恐怖を与え、行動を縛ることも暴力である』と強調している。

④ 個人的/構造的――論文全体の主軸

「個人的」は、私的な暴力や一人による暴力だけを意味しません。軍隊や集団による殺傷も、具体的な行為を通じて人を傷つけるなら、この区分に含まれます。注13も、この点を補足しています。

構造的暴力では、被害が権力、資源、教育、医療などの配分や関係の組み方を通じて生じます。

特に重要なのが、

資源がどう分配されているかだけでなく、その分配を決める権限が誰にあるか。

という問いです。

なお、「構造的暴力にはアクターが存在しない」という表現を、「誰にも責任がない」と読むべきではありません。第4節では、構造が人々の行動によって維持されることを明示しています。

区別されているのは、人間の関与の有無というより、被害が生じる経路です。

ガルトゥング論文の中心的な区別である「個人的暴力」と「構造的暴力」を、被害が生じる経路の違いとして整理した図解。左側の赤い「個人的暴力」では、個人的という言葉は一人による私的な暴力だけを意味せず、殴る、撃つ、拘束するなど具体的な行為によって人を直接傷つける場合を指すと説明している。軍隊や群衆など集団による殺傷も、具体的な行為者と加害行為を通じて被害が生じるなら個人的・直接的暴力に含まれることを、論文の注13とともに示している。右側の緑の「構造的暴力」では、特定の人物が直接殴ったり殺傷したりしなくても、権力や資源の不平等な配分、教育・医療へのアクセス格差、制度や慣行の積み重ねなど、社会関係の組み方を通じて人間の可能性が損なわれる状態を示している。中央では、構造的暴力を分析する際に最も重要な問いとして、「何が配られているか」だけでなく、「誰が配り方を決めているか」を配置し、食料、資金、教育、医療などの資源配分と、意思決定、権限・権力、ルール・制度、参加の制限といった決定権の配分を対比している。下部左では、「個人的=一人の乱暴」「構造的=誰にも責任がない」という二つの誤解を否定し、軍隊・警察・集団による直接的な加害も個人的暴力に含まれ、構造も人々の行為や制度運用によって維持されることを示している。下部中央では、「アクターが存在しない」という表現は、社会に誰も関与していないという意味ではなく、特定の一人の加害行為へ被害原因を直接追跡できないことを意味すると整理している。政治家、行政職員、企業、教員、市民など多数の人々の判断や行動が社会の仕組みを形成・維持するイメージも描かれている。最下部では、個人的暴力は「具体的な行為を通じて人を傷つける」、構造的暴力は「配分や関係の仕組みを通じて人の可能性を奪う」と対比し、両者を分ける核心は「人間が関与しているかどうか」ではなく、「被害がどのような経路で生じるか」であるとまとめている。

⑤ 意図的/非意図的――悪意の有無から、被害の作用へ

意図に注目するだけでは、誰も積極的に害そうとしていないのに生じる被害を見落とします。

この論文の関心は、悪意のある人物の発見だけではなく、実際に人間の可能性を阻害している作用の把握にあります。

ただし、これは、意図が責任判断に不要だと論証したものではありません。被害を分析する問いと、個人の責任を判断する問いを分けていると理解する必要があります。

ガルトゥング論文の「意図的/非意図的な暴力」の区別を、「悪意の有無」と「実際に生じる被害」を分けて考える視点から整理した図解。上部では、暴力を分析するとき、誰かが害そうとしたかという意図だけでなく、現実に人間の可能性が阻害されているかを見る必要があると示している。左上の「まず区別する」では、意図的な暴力を、脅し、殴打、差別的発言、故意の排除など、害を与える意思が明確な行為として説明する。一方、非意図的な暴力は、古い制度、不公平なルール、無自覚な慣行、情報格差など、誰かが積極的に害そうとしていなくても、仕組みや慣行の結果として被害が生じる場合として示している。右上の「なぜ意図だけでは足りないのか」では、「悪意がない」から「制度・慣行・判断が続く」、その結果「教育・医療・機会・参加への不利益」が生じ、「人間の可能性が妨げられる」という流れを矢印で示し、「わざとではない」ことと「被害がない」ことは同じではないと強調している。具体例として、担当者に差別の意図がなくても申請制度が複雑で必要な支援に届かない場合や、誰も飢えさせようとしていなくても配分の偏りによって生活条件が悪化する場合を描いている。左下の「論文が見ようとしているもの」では、平和研究が探す対象は単に悪人ではなく、どんな被害が生じているか、その被害は回避可能だったか、どの制度・慣行・行為が原因になっているか、その結果として生存、健康、学習、行動の可能性がどのように狭められているかという「被害を生む作用」だと整理している。右下では、「被害を分析する問い」と「個人の責任を判断する問い」を分け、前者では何が起きたか、誰がどんな不利益を受けたか、回避可能だったか、どんな構造や行為が作用したかを問い、後者では故意の有無、予見可能性、過失、責任の範囲などを検討すると示している。両者は関連するが同じ問いではない。最下部では、「被害分析では意図の有無だけでなく、現実に人間の可能性を妨げている作用を見る」とまとめ、悪意がなくても被害は生じ得るため、平和研究は『誰が悪いか』だけではなく『何が人を傷つけているか』を問うという論点を強調している。

⑥ 顕在的/潜伏的――一時的な静けさと、持続可能な平和を区別する

わずかなきっかけで虐殺が起こる社会には、実際の殺傷が始まる前から、潜伏的な個人的暴力があります。

同様に、平等を掲げる革命の後でも、組織が高度な命令服従関係を備えていれば、権力が再び集中する条件が残り得ます。

これは、現在の状態だけでなく、その状態を崩す仕組みが残っていないかを見る分析です。

なお、「潜在的な実現可能性」と「潜伏的な暴力」は別概念です。前者は達成できる水準、後者は暴力が容易に現れる状態を指します。

ガルトゥング論文の「顕在的/潜伏的な暴力」の区別を、一時的な静けさと持続可能な平和の違いとして整理した図解。上部タイトルは「顕在的/潜伏的――一時的な静けさと、持続可能な平和を区別する」。左上では「顕在的な個人的暴力」として、兵士や炎上する市街地、逃げ惑う人々の絵を用い、殺傷、拘束、殴打、強制移動など、実際に人を傷つける行為がすでに起きている状態を示している。中央上では「潜伏的な個人的暴力」として、まだ実際の殺傷は起きていないが、憎悪の言説、差別的な法律、特定集団の非人間化、武装の拡大、分断された社会など、暴力が噴き出す条件が蓄積している状態を示している。右上の「例1:わずかなきっかけで虐殺が起こる社会」では、「あの人たちは敵だ」と書かれたプラカードを掲げる群衆から、兵士が市民に銃を向ける場面へ矢印がつながれ、早晩、虐殺などの顕在的暴力に転化する危険を説明している。右中段の「例2:革命後の権力の再集中」では、「平等な社会へ!」と掲げる群衆と、その後に中央集権的な組織図へ移る図を対比し、理想は平等でも、高度な命令服従関係を持つ組織では権力再集中の条件が残ることを示している。左下では、「『現在の状態』だけでなく、『それを崩す仕組み』が残っていないかを見る」として、今は平穏に見える社会について、差別はないか、権力は一部に集中していないか、武装や動員の仕組みはないか、対立を煽る言説はないか、組織の命令服従関係はどうか、外部からの刺激で崩れやすくないか、という点を点検する必要を示している。中央下では「表面上の平和≠持続可能な平和」と強調し、一時的に暴力が見えない状態と、暴力を生み出す条件そのものが解消された状態は異なると説明している。右下では「潜在的な実現可能性」と「潜伏的な暴力」は別概念だとして、前者は教育・医療・資源などがあれば達成できる人間の可能性の水準、後者は差別や憎悪、中央集権など暴力を生み出す条件が残る状態を指すと整理している。最下部では、「平和を考えるには、今、暴力が起きているかだけでなく、暴力が再び現れる仕組みが残っていないかを見る必要がある」とまとめ、一時的な静けさにとどまらず、持続可能な平和をめざす分析の重要性を示している。

5.第2節後半――なぜ構造的暴力は見えにくいのか

分類のあとに、著者は認識の問題を扱います。

個人的暴力は事件として現れ、誰が何をしたかを描写しやすい。一方、構造的暴力は、日常の制度や慣行として持続するため、自然な状態として受け入れられやすいと説明します。

添付の図2は、この違いを、突発的な変動と、持続する曲線によって示しています。

ガルトゥングの論文に実際に載っている図2の画像

これは実測データのグラフではなく、両者の時間的な現れ方を示す概念図です。

ここから導ける重要な解釈は、

事件の少なさと、被害の少なさは一致しない。

ということです。

また、著者は構造的暴力が常に見えないとも言っていません。変化の大きい社会では、変化を妨げる構造の方が目立つこともあると述べています。可視性は、その社会の状態にも左右されます。

ガルトゥング論文第2節後半の「なぜ構造的暴力は見えにくいのか」を整理した図解。上部では、個人的暴力と構造的暴力の「見え方の違い」を対比している。左の赤い欄「個人的暴力は見えやすい」では、殴打、拘束、銃撃、暴行などを例に、個人的暴力は特定の行為者による出来事として現れ、「誰が何をしたか」を特定しやすく、ニュースや記録にも残りやすいと説明する。右の緑の欄「構造的暴力は見えにくい」では、教育格差、医療アクセス格差、意思決定からの排除、所得格差、情報格差などを例に、被害が日常の制度や慣行に埋め込まれ、長期間ゆっくり続くため、特定の加害者が見えにくく、「普通のこと」として受け入れられやすいと示している。中央の「図2の考え方――時間的な現れ方の違い」では、横軸を時間、縦軸を暴力の現れ方とした概念図を描き、個人的暴力を事件のたびに急激に上昇する赤い線、構造的暴力を比較的安定して長く続く緑の曲線として表している。この図は実測データではなく、二つの暴力の時間的な現れ方を示す概念図であると注記されている。右側では、個人的暴力は「起きた事件」として見えやすいのに対し、構造的暴力は「続いている状態」として背景化しやすいと説明する。左下の「重要な解釈」では、「事件の少なさと、被害の少なさは一致しない」と強調し、ニュースになる事件が少なくても、教育・医療・所得・社会参加などの格差による被害が継続している可能性を示している。右下の「可視性は社会によって変わる」では、安定した社会では制度や慣行が日常に溶け込み構造的暴力が背景化しやすい一方、急速に変化する社会では既得権構造、差別的制度、不平等な慣行などが変化を妨げる障害としてかえって目立つ場合があると説明している。最下部では、平和研究では目立つ「事件」だけを追うのではなく、日常の中で被害を生み続ける制度・慣行・不平等の仕組みを見る必要があるとまとめている。

6.第3節前半――直接的暴力を、手段と組織の問題として捉える

第3節は、定義から因果的な仕組みの説明へ移ります。

著者は、個人的暴力を、武器という道具と、軍隊などの組織を備えた「生産関係」に類比します。

ここでの狙いは、暴力を個人の感情や性格だけで説明せず、人を傷つける能力が技術と組織によって増幅されることを見る点にあります。

表1は、身体に対する作用を、大きく二つに分けています。

作用の型内容分析上の意味
身体そのものを破壊する身体に直接損傷を与える生存・活動の基盤を壊す
身体が機能する条件を奪う空気、水、食料、運動などを制限する身体を直接破壊せずに能力を奪う
ガルトゥングの論文に載っている表1の画像

この分類の意味は、手段が異なっても、人間の生存や活動可能性が失われるという共通性を示すことです。

そして、この考え方が後半につながります。構造的暴力も、別の経路を通じて、人が生き、活動する条件を奪うからです。

ガルトゥング論文第3節前半を、「直接的暴力を手段と組織の問題として捉える」という観点から図解したインフォグラフィック。上部タイトルは「第3節前半 直接的暴力を、手段と組織の問題として捉える」。その下に、「個人の感情論ではなく、『技術』と『組織』が人を傷つける能力をどう増幅するかを見る」という副題がある。左上の「この節の視点」では、第3節が定義から因果的な仕組みの説明へ移ること、個人的暴力を武器という道具と軍隊などの組織を備えた『生産関係』に類比していること、暴力を個人の感情や性格だけで説明せず、技術と組織による能力の増幅を見ることを説明している。右上には模式図があり、「個人の意思(加害する意図)」から「道具・技術(武器・兵器)」、「組織化(軍隊・制度)」へと矢印でつながり、最終的に「加害能力の増幅(より大きく、広く)」に至る流れを示している。中央の大きな欄は「表1の整理――身体に対する二つの作用」。左の赤い欄「1 身体そのものを破壊する」では、身体に直接損傷を与える作用として、圧縮、引き裂き、穿孔、焼殺、毒殺、蒸発の6類型を示し、それぞれ第一撃・石弓、絞殺・延伸・切断、ナイフ・槍・銃弾、放火・火炎・火炎放射、水や食物への毒物混入・毒ガス、原爆でのように、といった例を添えている。右の緑の欄「2 身体が機能する条件を奪う」では、空気・水・食料・運動などを制限する作用として、空気を与えない、水を与えない、食物を与えない、運動を禁じる、の4類型を示し、窒息・絞死、脱水、包囲による飢餓・禁輸などの例が書かれている。運動を禁じるにはさらに、a 体を制約する(鎖、ガス)、b 空間を制約する(牢獄、拘禁、追放)、c 脳を制御する(神経ガス、『洗脳』)という下位項目がある。下段左の「なぜこの分類が重要か」では、手段が違っても人間の生存や活動可能性が失われる点は共通すること、暴力は『殴る・撃つ』だけでなく身体が機能する条件を奪う形でも現れること、両者を並べて捉えることで被害の仕組みを広く把握できることを述べている。下段中央の「技術と組織が能力を増幅する」では、『身体そのもの』→『素手・武器・兵器』、『個人』→『集団』→『軍隊・制度化された組織』という図で、手段の高度化と組織の大規模化により加害能力が増大することを示している。下段右の「この考え方が後半につながる」では、構造的暴力も別の経路を通じて人が生き、活動する条件を奪うこと、この節で示された『身体への直接的破壊』と『条件の剥奪』の考え方が後半の構造的暴力の分析につながることをまとめている。最下部では、『直接的暴力とは、身体を壊すことだけでなく、身体が機能する条件を奪うことでもある。そして、その能力は技術と組織によって増幅される』と大きく強調している。

7.第3節後半――構造的暴力を維持する六つの仕組み

ここは、この論文を制度分析に使ううえで特に重要な部分です。

著者の問いは、

直接殴ったり脅したりしなくても、なぜ不平等な関係は持続するのか。

です。

まず、五つの概念を導入します。

概念この論文での役割
アクター目標を追求する主体。個人、組織、国家など
システムアクターが相互作用する関係
構造複数のシステムを含む関係の全体
ランク各システムにおける高位・低位
レベル個人、地域、国家など、入れ子になった分析段階

特に、ランクとレベルは異なります。ランクは関係内部の上下、レベルは分析対象の入れ子の段階です。図3は、一つのアクターの内部にも、さらに構造があることを示しています。

そのうえで、不平等を維持する六つの要因を挙げます。

要因意味不平等を維持する作用
① 線型のランク付け秩序誰が誰より上かが、一つの序列に定まる別の評価や対等な関係の余地が狭まる
② 非環の相互作用パターン関係を結ぶ経路が限られ、迂回する結びつきが乏しい下位者が上位者を介さずにつながりにくい
③ ランクと中心性の相関高位者ほどネットワークの中心にいる情報や交流の仲介が権力を強める
④ システム間の相同異なる領域でも似た関係構造が繰り返される同じ服従様式が生活の各領域に及ぶ
⑤ ランク間の一致ある領域の高位者が、別の領域でも高位になる優位と不利が重なり、相互に補強される
⑥ レベル間における高ランクの連結下位レベルのトップが、上位レベルへの代表・窓口になる内部の支配と外部へのアクセスが結びつく
ガルトゥング論文第3節後半を図解したインフォグラフィック。タイトルは「7.第3節後半――構造的暴力を維持する六つの仕組み」。副題として「直接殴ったり脅したりしなくても、なぜ不平等な関係は持続するのか」とある。左上の第1ブロック「この節の問い」では、直接的な暴力がなくても不平等な関係が続く理由を明らかにすることが、この節を制度分析に使ううえで重要だと説明している。中央上の第2ブロック「まず押さえる五つの概念」では、アクター、システム、構造、ランク、レベルの五つを整理している。アクターは目標を追求する主体、システムはアクター同士の相互作用、構造は複数システムを含む関係の全体、ランクは各システム内の高位・低位、レベルは個人・地域・国家など入れ子になった分析段階として説明されている。右上には「ランクとレベルの違い(イメージ)」があり、ランクは一つの関係内部の上下関係、レベルは個人から地域、国家へと入れ子になった分析階層だと示されている。中央には「図3が示すのは、一つのアクターの内部にもさらに構造があること」と書かれている。中段の第3ブロック「不平等を維持する六つの要因」では、六つの仕組みがそれぞれ独立したパネルで示されている。①「線型のランク付け秩序」は、誰が誰より上かが一つの序列に定まり、別の評価や対等な関係の余地が狭まること。②「非環の相互作用パターン」は、関係を結ぶ経路が限られ、下位者が上位者を介さずにつながりにくいこと。③「ランクと中心性の相関」は、高位者ほどネットワークの中心に位置し、情報や交流の仲介が権力を強めること。④「システム間の相同」は、経済・政治・教育など異なる領域でも似た関係構造が繰り返され、同じ服従様式が生活の各領域に及ぶこと。⑤「ランク間の一致」は、ある領域で高位の人が別の領域でも高位になり、優位と不利が重なって相互に補強されること。⑥「レベル間における高ランクの連結」は、下位レベルのトップが上位レベルへの代表・窓口となり、内部の支配と外部へのアクセスが結びつくことを示している。下段上部の第4ブロック「六つの要因は組み合わさると強くなる」では、経済的優位→政治的発言力→情報へのアクセス強化→経済的優位の維持という循環図が描かれ、不平等は一つの領域にとどまらず、別の領域を通じて再生産されると説明している。右側には「問題は、ある領域の権力が他の領域の権力まで独占する構造である」と強調されている。最下段の第5ブロック「さらに考えるべきポイント」では、A「弱い立場の人の『対抗する力』も奪われる」として、下位の人々が孤立し、組織化・交渉・意思表示の機会を奪われやすく、資源配分の偏りがその偏りを正す力をさらに弱めると整理している。B「改善の方向」では、下位者同士の直接的交流、領域ごとの序列の不一致、関係構造の多様性によって、権力が集中する関係を変えることが支配の固定を弱めると示している。C「この節を読むときの注意」では、これらは完成した制度設計ではなく、どの条件で有効になるかを研究するための仮説であり、社会システムが六つの仕組みを強めるという一般化も本文で十分に実証されているわけではないと注意している。最下部では、「構造的暴力とは、資源配分の偏りだけでなく、その偏りを持続させる関係の仕組みである。だから問うべきなのは、『何が配られているか』だけでなく、『誰が配り方を決めているか』である」と大きくまとめている。

① 六つの要因は、単独よりも組み合わさることで強く作用する

たとえば、経済的な優位が政治的な発言力につながり、その発言力が情報へのアクセスを強め、さらに経済的優位を守る場合です。

このとき、不平等は一つの領域だけにとどまらず、別の領域を通じて再生産されます。

著者は、資本制社会へのマルクス主義的批判と、社会主義社会への自由主義的批判を並べています。したがって、対象は特定の体制だけではありません。ある領域の権力が、他の領域の権力まで独占する構造が問題です。

「六つの要因は、単独よりも組み合わさることで強く作用する」という論点を図解したインフォグラフィック。上部タイトルは「① 六つの要因は、単独よりも組み合わさることで強く作用する」。副題として「不平等は一つの領域だけでなく、複数の領域をまたいで再生産される」とある。左上の第1ブロック「この論点の核心」では、六つの要因はそれぞれ単独でも不平等を生むが、組み合わさることで相乗的に強く作用すること、ある領域での優位が他の領域にも波及し、複数の不平等が連結すること、その結果として不平等が社会全体で再生産されること、したがって個別対策だけでなく領域をまたいだ構造を見る必要があることを整理している。中央上の第2ブロック「具体例:不平等の連鎖」では、経済的優位から政治的発言力、さらに情報・決定へのアクセス強化へと優位が連鎖し、最後に再び経済的優位の維持へ戻る循環を矢印で示している。経済的優位は資金や資産によって人・組織・活動に投資できること、政治的発言力は選挙・ロビー活動・人脈によって政治に大きな影響力を持つこと、情報・決定へのアクセス強化は有利な情報を早く得て政策決定の場に参加しやすくなること、経済的優位の維持は自分たちに有利な制度やルールが作られてさらに強化されることとして説明されている。中央の第3ブロック「一つの領域にとどまらない」では、教育、経済、政治、社会的地位、メディア・情報の五つの領域が矢印で相互に結ばれ、ある領域での優位が他の領域にも広がり、複数の不平等が結びついて再生産されることを示している。右側の補足では、経済的に豊かだと教育へ投資しやすい、政治的発言力があると自分たちに有利な教育・メディア政策を実現しやすい、情報へのアクセスが有利な就職や投資機会につながる、高い教育が社会的地位や収入を高める、高い社会的地位が政治やメディアへの影響力を強める、という連鎖例が列挙されている。左下の第4ブロック「体制を問わず起こりうる」では、資本制社会へのマルクス主義的批判と、社会主義社会への自由主義的批判を並べ、問題は特定の体制そのものよりも、ある領域の権力が他の領域の権力まで独占する構造にあるとまとめている。中央下の第5ブロック「なぜ強くなるのか」では、優位が別領域へ波及すること、不利が複数領域で重なって抜け出しにくくなること、是正に必要な情報・交渉力・発言力まで偏ることの三点を挙げている。右下の第6ブロック「ここでの要点」では、不平等の本質は単独の領域の問題ではなく、複数の領域にまたがって優位が連結し再生産される構造にあると強調している。最下部では、「構造的暴力は、単独の不平等ではなく、複数の領域をまたいで優位が連結し、再生産されるときに強くなる」と大きくまとめている。

② 構造的暴力は、弱い立場の人の「対抗する力」も奪う

著者は、下位の人々が孤立し、組織化や交渉の機会を奪われる点を強調します。

生活条件が悪いだけでなく、その条件を改善するための結集、交渉、意思表示も難しくなる。

したがって、この節の因果関係は、

権力の偏りが資源配分を偏らせ、その結果が、偏りを是正する力をさらに弱める。

という循環として読めます。

「構造的暴力は、弱い立場の人の『対抗する力』も奪う」という論点を図解したインフォグラフィック。上部タイトルは「② 構造的暴力は、弱い立場の人の『対抗する力』も奪う」。副題として「生活条件の悪化だけでなく、改善のために声を上げ、つながり、交渉する力まで弱められる」とある。左上の第1ブロック「この論点の核心」では、著者が、下位の人々が孤立し、組織化や交渉の機会を奪われる点を重視していること、問題は単に貧しい・不利という状態だけではなく、その不利を変えるための『対抗する力』まで弱められることにあると説明している。中央上の第2ブロック「まず、何が奪われるのか」では、奪われる力として四つを整理し、①結集する力=仲間とつながり集まる力、②組織化する力=団体・組合・運動をつくる力、③交渉する力=改善を求めて話し合う力、④意思表示する力=意見を表明し社会に伝える力、を示している。その下には「生活条件が悪いだけでなく、条件を変えるための手段も失われる」とまとめている。右上の第3ブロック「どうして弱まるのか」では、対抗する力を弱める条件として、時間がない、金がない、情報が届かない、孤立している、不利益が怖い、の五つを挙げている。時間がないは長時間労働やケア負担で集まる時間がとれないこと、お金がないは移動費・会費・学習機会などの経済的余裕がないこと、情報が届かないは制度や権利に関する情報を知る機会が少ないこと、孤立しているは地域や職場での横のつながりが弱いこと、不利益が怖いは声を上げると報復・評価低下・排除を受ける不安があることとして説明され、「これらが組み合わさり、対抗しにくくなる」とまとめている。左下の第4ブロック「具体例でみる」では、低賃金・不安定労働の人々を例に、低賃金・長時間労働→集まる時間がない→労組や地域活動に参加しにくい→要求を出しにくい→賃金や条件が改善しにくい、という流れを縦に示し、「生活の厳しさが、声を上げる力をさらに奪っていく」と整理している。中央の第5ブロック「悪循環の図――不平等が再生産されるメカニズム」では、円環図として、権力の偏り→資源配分の偏り→生活条件の悪化・格差→組織化・交渉・意思表示が難しくなる→偏りを是正する力が弱まる→再び権力の偏りへ戻る、という循環が描かれている。中央には「権力の偏りが資源配分を偏らせ、その結果が、偏りを是正する力をさらに弱める」と赤字で強調されている。右中央の第6ブロック「ここで重要な読み方」では、構造的暴力は弱い立場の人の生活を苦しくするだけではなく、その苦しさを変えるための社会的能力まで削ってしまうこと、だから不平等は単なる結果ではなく自己再生産する関係として持続することを示している。右下の第7ブロック「改善の方向」では、対抗する力を回復する方策として、横のつながりを増やす、情報アクセスを保障する、参加・交渉の機会を保障する、報復を恐れず声を上げられる制度をつくる、の四点を挙げている。最下部では、「構造的暴力とは、資源を偏らせるだけでなく、その偏りを変える力まで弱める仕組みである。だから問うべきなのは、誰が苦しんでいるかだけでなく、誰がつながれず、交渉できず、声を上げにくくされているかである」と大きくまとめている。

③ 改善の方向は、権力が集中する関係を変えることにある

本文は六つの要因を逆から検討し、下位者同士の直接的な交流、領域ごとの序列の不一致、関係構造の多様性などが、支配の固定を弱め得ると述べています。

ただし、これらは完成した制度設計ではありません。どの条件で有効になるかを研究するための仮説です。

また、著者は、特別な予防がなければ社会システムは六つの仕組みを強める傾向があると述べますが、この一般化は本文中で十分に実証されてはいません。

「改善の方向は、権力が集中する関係を変えることにある」というガルトゥング論文第3節後半の論点を図解したインフォグラフィック。上部タイトルは「③ 改善の方向は、権力が集中する関係を変えることにある」。副題として「支配の固定を弱める鍵は、下位者の横のつながり、多元的な関係、序列の固定化を崩すことにある」と示している。左上の「この論点の核心」では、本文が不平等を維持する六つの要因を逆から考えること、改善とは資源を少し多く配るだけではなく、権力が集中し固定する関係そのものを変えること、特に下位者同士の直接的交流、領域ごとの序列の不一致、関係構造の多様性が重要だと整理している。中央の「六つの要因を逆からみる」では、①線型のランク付け秩序に対して複数の評価軸をつくる、②非環の相互作用パターンに対して上位者を介さない横のつながりを増やす、③ランクと中心性の相関に対して情報と仲介の中心を分散させる、④システム間の相同に対して家庭・学校・職場・政治などで同じ支配構造が繰り返されないよう関係を多様化する、⑤ランク間の一致に対して経済・政治・教育など各領域の序列をずらし、一つの領域での優位が他領域まで自動的に支配しないようにする、⑥レベル間の高ランクの連結に対して代表や窓口の独占を防ぎ、下位レベルの多様な声が上位レベルへ届く仕組みをつくる、という六つの方向を対応させている。右上の「具体的に何が変わるか」では、横のつながりが増える→孤立が弱まる→組織化・交渉・意思表示がしやすくなる→資源配分や意思決定へ介入できるようになる→支配の固定が弱まる、という流れを矢印で示している。左下の「三つのキーワード」では、直接的な交流、序列の不一致、関係構造の多様性を大きく示し、下位者同士が上位者を介さずにつながること、一つの領域での優位が他領域までそのまま支配に結びつかないこと、単一の命令系統ではなく複数の回路や組織が存在することを説明している。中央下の「ここでの注意」では、これらは完成した制度設計ではなく、どの条件で有効になるかを研究するための仮説であること、さらに「社会システムは放っておけば六つの仕組みを強める」という一般化も本文中で十分に実証されているわけではないと明記している。右下の「読み方のポイント」では、論文は万能の処方箋を示しているのではなく、結果の平等だけでなく関係の組み方を問うこと、改善を単なる支援の追加よりも権力関係をほぐす方向として読むことが重要だとまとめている。最下部では、「構造的暴力を弱めるとは、資源の偏りを直すだけでなく、偏りを再生産する関係を変えることである」と強調している。

8.第4節――二種類の暴力の関係を、六つの問いで検証する

この節が、論文の論証の要です。

ガルトゥング論文第4節「二種類の暴力の関係を、六つの問いで検証する」を整理した図解。上部では、この節が論文の論証の要であり、個人的・直接的暴力と構造的・間接的暴力の関係を六つの問いから検討していることを示す。第1の問い「本当に区別できるか」では、個人も社会構造の影響を受け、構造も個人の行為によって支えられているが、それでも直接的な行為から被害が生じる場合と、多数の行為が組み合わさった関係構造から被害が生じる場合では経路が異なるため、区別できると整理している。第2の問い「一方には他方の顕在的存在が必要か」では、両者が必ず同時に存在しなければならないわけではないと示す。第3の問い「一方には他方の前史が必要か」では、侵略が差別的秩序を生む、抑圧的秩序が反乱を生むといった相互生成はあり得るが、すべての暴力を必ず別の暴力の過去にさかのぼって説明する普遍理論にはできないとする。第4の問い「他方が潜伏していることは必要か」では、静かな支配の背後に直接的暴力が待機する場合はあるものの、必ずそうなるという一般法則ではないと整理する。第5の問い「一方は他方をなくす代価か」では、構造的暴力によって秩序を保てる、あるいは個人的暴力によって不正義をなくせるという主張について、必要性・十分性を一般化できないと結論づける。第6の問い「一方が常に重要か」では、死亡や罹患など被害の規模を比較する研究は可能でも、時間や場所から独立して一方を常に優先する固定順位は置けないと示している。中央左の「区別は、行為者と構造を完全に切り離すことではない」では、直接的な行為から被害が生じる場合と、多数の行為が組み合わさった構造から被害が生じる場合を比較し、重要なのは責任逃れではなく、人物への対応だけで解決する問題と関係構造を変える必要がある問題を見分けることだと説明する。中央右の「相互に生み出すことと、必ず一方から生まれることは違う」では、侵略・征服から差別的秩序が生じる流れ、抑圧的秩序から反乱・直接的暴力が生じる流れを示し、相互関係はあっても必然的な起源説明にはならないとする。左下の「『暴力の総量は変わらない』という見方を退ける」では、不平等な構造が挑戦を受けたとき、受益者が警察や軍隊などを前面に出して直接的暴力を動員する場合を描き、一方の暴力を減らせば必ず他方が増えるという法則にはできないと説明している。右中央の「必要条件と十分条件を分ける」では、構造的暴力があれば個人的暴力をなくせる、個人的暴力をなくすには構造的暴力が必要、個人的暴力があれば構造的暴力をなくせる、構造的暴力をなくすには個人的暴力が必要、という四命題を検討し、いずれも一般的な必要条件・十分条件として成立しないと整理する。特に「支配者を取り除くことと、支配構造を取り除くことは別である」と強調し、新しい権力者が同じ位置を占めれば構造が再生産され得ると示している。左下段の「被害の比較は必要だが、それだけで政治的行動を決めない」では、直接的暴力と構造的暴力の損失を死亡や罹患などで比較する研究の意義を認めつつ、「こちらの被害が増えても総量が減ればよい」という単純な費用便益計算には慎重であるべきだと説明し、将来の暴力の再生産や、両方をさらに減らす方法の探究を止める危険を示している。最下部では、第4節の結論として、二種類の暴力を単純に同一視せず、どちらか一方を他方の前提・代価・唯一の優先課題とも一般化しないこと、そのことによって両方の暴力を減らす方法を探究する余地が開かれるとまとめている。

分類だけなら、「両者は結局同じだ」「一方をなくせば他方もなくなる」「一方を使わなければ他方をなくせない」といった反論が残るからです。

問い著者の検討結論の方向
① 個人的暴力と構造的暴力は、本当に区別できるか個人も構造の影響を受け、構造も個人の行為で支えられるそれでも被害に至る経路は区別できる
② 一方には他方の顕在的存在が必要か同時に存在しなければならないか必須とは言えない
③ 一方には他方の前史が必要か過去の暴力から必ず生まれるか普遍的な起源説明にはできない
④ 他方が潜伏していることは必要か静かな支配の背後に、必ず暴力が待機するか有力な場合はあるが、一般法則ではない
⑤ 一方は他方をなくす代価か抑圧で秩序を保つ、暴力で不正義をなくすという主張必要性・十分性を一般化できない
⑥ 一方が常に重要か被害の規模を比較すれば優先順位を固定できるか時間・場所から独立した固定順位は置けない

① 区別は、行為者と構造を完全に切り離すことではない

著者は、直接的暴力にも社会的な期待や役割が影響すると認めています。また、構造的暴力も、具体的な人々の行為なしに存在するわけではありません。

それでも区別できる理由は、直接的な行為が被害をもたらす場合と、多数の行為が組み合わさった関係構造が被害をもたらす場合では、介入すべき仕組みが異なるからです。

これは、責任の所在を曖昧にするための区別ではなく、人物への対応だけで解決する問題と、関係の変更を必要とする問題を見分けるための区別です。

ガルトゥング論文第4節の「区別は、行為者と構造を完全に切り離すことではない」という論点を図解したインフォグラフィック。上部タイトルは「① 区別は、行為者と構造を完全に切り離すことではない」。副題として「責任を曖昧にするためではなく、被害が生じる経路の違いを見分けるための区別」と示されている。左上の「この論点の核心」では、直接的暴力にも社会的な期待、役割、命令、文化が影響すること、構造的暴力も具体的な人々の行為や制度運用なしに存在するわけではないこと、それでも両者は区別できること、その理由は被害に至る経路と介入すべき仕組みが異なるからだと整理している。左側の赤い「直接的暴力とは」では、加害行為から被害へ直接つながる構図を示し、殴る、撃つ、拘束する、脅すなどを例示している。兵士、警官、加害者の絵には、命令、役割、期待、敵視など社会的条件からの影響が矢印で示され、直接的暴力も個人の性格だけで説明できないことを表している。右側の緑の「構造的暴力とは」では、教育格差、医療アクセス格差、意思決定からの排除、資源配分の偏りなどが、制度・配分・関係の構造を通じて被害を生むことを示している。学校、行政、病院、企業と社会の人々がネットワークで結ばれ、多数の人の行為が積み重なって構造が維持される様子が描かれている。中央の「それでも区別できる理由」では、区別のポイントは「人が関与しているか」ではなく「被害の経路」にあるとし、直接的暴力は具体的行為から被害が生じるため、加害の停止、保護、制裁、武器の制限などが主な介入となる一方、構造的暴力は制度・配分・関係の仕組みから被害が生じるため、制度改革、配分変更、参加拡大、関係の再編などが主な介入になると比較している。中段の「この区別は責任逃れではない」では、「構造的暴力=誰にも責任がない」「直接的暴力=個人だけの問題」という二つの誤解を否定し、直接的暴力にも社会的条件が作用し、構造的暴力も具体的人間の行為で支えられるため、責任の所在を見失わずに介入点を見極める必要があると説明している。下部の「なぜこの区別が重要か」では、人物への対応で解決する問題として暴行の停止、加害者への制止・処遇、被害者保護などを挙げる一方、関係の変更を必要とする問題として配分の偏りの是正、制度変更、参加と決定権の再配分などを示している。最下部では、「直接的暴力と構造的暴力は切り離せないほど関係している。だが、被害の経路と介入の仕方が異なるからこそ、区別する意味がある」とまとめている。

② 相互に生み出すことと、必ず一方から生まれることは違う

侵略や征服が、その後の差別的な秩序を生むことはあり得ます。抑圧的な秩序が、反乱や暴力を生むこともあり得ます。

著者はこれらを否定していません。

否定しているのは、すべての暴力を、必ず以前の別の暴力にさかのぼって説明する普遍的な理論です。そうした説明では、そもそもの発生や、新しい発生の可能性を十分に説明できないと考えます。

したがって、「独立」という結論は、相互関係や相関がないという意味ではありません。

ガルトゥング論文第4節の「相互に生み出すことと、必ず一方から生まれることは違う」という論点を整理したインフォグラフィック。上部タイトルは「② 相互に生み出すことと、必ず一方から生まれることは違う」。副題には「相互関係はあり得る。しかし、すべてを一つの起源へ還元する普遍理論にはできない」とある。左上の「この論点の核心」では、侵略・征服がその後の差別的秩序を生むことはあり得ること、抑圧的秩序が反乱や直接的暴力を生むこともあり得ること、著者はそうした相互作用自体を否定していないこと、否定しているのは『すべての暴力は必ず別の暴力から生まれる』という普遍理論であることを箇条書きで示している。左中央の「起こり得る二つの流れ」では、Aとして『侵略・征服から、構造的暴力が生じる流れ』を示し、軍事力による占領・征服・支配の開始から、統治制度・法・行政の確立を経て、不平等な制度・配分・機会の制限という差別的秩序、すなわち構造的暴力へ至る流れを矢印で示している。Bとして『抑圧的秩序から、直接的暴力が生じる流れ』を示し、差別・排除・貧困・機会の不平等からなる抑圧的秩序、すなわち構造的暴力から、不満の蓄積・組織化・抵抗運動を経て、暴動・反乱・武装闘争などの直接的暴力が生じる流れを矢印で描いている。二つの流れの下には『相互に生み出すことはある』と赤い帯で強調されている。右上の緑色の欄『しかし、ここから直ちに言えないこと』では、次のことを一般的法則として主張することはできないとし、①すべての構造的暴力が必ず以前の直接的暴力から生じるとは言えない、②すべての直接的暴力が必ず以前の構造的暴力から生じるとも言えない、③ある事例で見られる関係を人間社会の不変の法則に一般化してはいけない、の三点を示している。考え込む人物の吹き出しには『この事例ではそうだったから、すべての場合もそうだとは言えない』と書かれている。中央右の『なぜ普遍理論にできないのか』では三つの理由を説明している。第一の「起源の多様性」では、暴力は経済・政治・文化・歴史・心理など複数の条件から生じ、状況によって主要因が異なることを示す。第二の「新しい発生」では、以前の暴力に還元できない新たな発生もありうること、社会の変化や新しい状況から新種の暴力が生まれることを示している。第三の「説明の限界」では、すべてを『前の暴力』に還元するとその都度の発生や変化を説明しにくくなり、複雑な現実を単純化して重要な要因を見落とす危険があると説明している。左下の『「独立」の意味』では、誤解として『独立=無関係』を否定し、二種類の暴力はまったく関係しないという意味ではないこと、相互作用や影響の可能性は否定されていないことを示す。正しい理解としては、『独立』とは“一方を他方の必然的起源として一般化しない”という意味であり、二種類の暴力は関係しうるが、論理的にも経験的にも常に一方が他方に還元されるわけではないと説明している。右下の『この節での意義』では、現実の複雑さを見失わずに、どちらか一方を前提にすると誤った分析や対策につながること、それぞれの暴力を減らす方法を考えられること、具体的な発生経路を丁寧に見る必要があることを整理している。最下部の青い帯では、『相互関係はあり得る。だが、「必ず他方から生まれる」とまでは言えない。だからこそ、二種類の暴力を単純に還元せず、それぞれの発生経路を検討する必要がある。』と大きくまとめている。

③ 「暴力の総量は変わらない」という見方を退ける

不平等な構造が挑戦を受けたとき、受益者が直接的暴力を動員することはあります。

著者は、前面に出る警察や軍隊と、背後で利益を得る人々が異なり得ることにも注意を向けます。観察される衝突だけを見ていては、維持されている構造を見落とすからです。

しかし、そこから「一方の暴力をなくせば、必ず他方が現れる」と結論することは拒否します。

論点は、暴力の代替関係が見られることを、人間社会の不変の法則にしてよいかです。著者は、その一般化が、両方を減らす方法の探究を閉ざすと考えています。

ガルトゥング論文第4節の「『暴力の総量は変わらない』という見方を退ける」という論点を図解したインフォグラフィック。上部タイトルは「③ 『暴力の総量は変わらない』という見方を退ける」。副題には「代替関係が見られても、それを人間社会の不変の法則にしてはならない」とある。左上の「この論点の核心」では、不平等な構造が挑戦を受けたとき、受益者が直接的暴力を動員することはあり得るが、その関係を一般法則にはできないこと、重要なのは『一方の暴力を減らすと、必ず他方が増えるのか』を本当に問うこと、著者はその一般化が両方を減らす方法の探究を閉ざすと考えていることを箇条書きで示している。左中央の「起こりうる場面」では、不平等な構造として受益者・支配層がいる社会で、人々の抗議や挑戦が起こり、その後に警察や軍隊などによる直接的暴力の動員が起こる流れを矢印で示している。下には『ここで見える衝突だけでは、背後の構造を見落とす』と強調されている。右上の「前面に出る人と、利益を得る人は同じとは限らない」では、背後の構造的レベルに企業・政治エリート・既得権層など構造の受益者・支配層を置き、前面の直接的レベルに警察・軍隊を配置して、直接的暴力の担い手と、構造的利益を受ける人々が必ずしも同一ではないことを示している。右中央の「著者が退ける考え方」では、誤った一般化として、①一方の暴力をなくせば必ず他方が現れる、②暴力の総量は結局変わらない、③だから両方を減らそうとしても無駄だ、の三つを赤い欄にまとめ、横の人物イラストの吹き出しで『ある事例で代替関係が見えても、それを不変の法則にはできない』と説明している。下段左の「なぜ一般化してはいけないのか」では三つの理由を挙げている。第一に「事例関係と法則は違う」として、一部の事例で直接的暴力と構造的暴力の代替関係が見えても、すべての社会で必ずそうなるとは言えないことを示す。第二に「新しい可能性を閉ざす」として、『結局同じだ』と考えると両方を同時に減らす制度や行動を探る意欲が弱まり、まだ見ぬよりよい社会の可能性を閉ざしてしまうと説明する。第三に「分析が浅くなる」として、表面の衝突だけでなく、背後の制度、資源配分、権力関係なども見なければ、何を変えるべきか分からないと述べている。右下には、より深く、より広く見て社会を理解すること、暴力の少ない公正な社会に向けて考える姿勢が図示されている。最下部の「この節の結論」では、大きな赤字で『暴力の代替関係が見られることを、人間社会の不変の法則にしてはならない』とまとめ、その下で、だからこそ直接的暴力と構造的暴力の両方を減らす方法を探究する余地が開かれること、平和研究は『どうせ総量は変わらない』と諦めるのではなく、具体的な構造と行為の両方を変える道を探るのだと説明している。

④ 必要条件と十分条件を分ける

第4節は、政治的に重要な四つの命題を検討します。

命題著者の判断
構造的暴力があれば、個人的暴力をなくせる特定の集団間で短期的に抑制できても、全面的・持続的には保証されない
個人的暴力をなくすには、構造的暴力が必要である必要性を一般化する根拠がない
個人的暴力があれば、構造的暴力をなくせる支配者を除去しても、構造が残る、または再生され得る
構造的暴力をなくすには、個人的暴力が必要である非暴力的な構造変革の可能性を排除できない

特に重要なのは、支配者を取り除くことと、支配構造を取り除くことは別であるという指摘です。

新しい権力者が同じ地位を占めれば、構造は存続します。さらに、変革運動自身の内部に命令服従関係が強く刻まれていれば、新しい秩序にもその関係が持ち込まれ得ます。

ここでは、目標だけでなく、変革に用いる組織と手段が問われています。

ガルトゥング論文第4節の「必要条件と十分条件を分ける」という論点を整理したインフォグラフィック。上部タイトルは「④ 必要条件と十分条件を分ける」。副題には「『一方の暴力で他方をなくせるのか』を、四つの命題から検証する」とある。左上の「この論点の核心」では、著者が二種類の暴力の関係を“必要条件”と“十分条件”に分けて検討していること、『ある場合にそう見える』ことと『常にそうだ』とは違うこと、重要なのは支配者の除去と支配構造の除去を区別すること、目標だけでなく変革に使う手段や組織のあり方も問われることを整理している。左下には「必要条件」はそれがなければ成り立たない条件、「十分条件」はそれがあれば成り立つと言える条件と図入りで説明されている。中央上の「四つの命題と著者の判断」では、四つの命題を表で整理している。第一は『構造的暴力があれば、個人的暴力をなくせる』で、著者の判断は『特定の集団間で短期的に抑制できても、全面的・持続的には保証されない』。第二は『個人的暴力をなくすには、構造的暴力が必要である』で、『必要性を一般化する根拠がない』。第三は『個人的暴力があれば、構造的暴力をなくせる』で、『支配者を除去しても、構造が残る、または再生され得る』。第四は『構造的暴力をなくすには、個人的暴力が必要である』で、『非暴力的な構造変革の可能性を排除できない』と示している。左中央の「著者が特に重視する点」では、『支配者を取り除くことと、支配構造を取り除くことは別である』と大きく強調し、人物を排除しても制度・命令系統・配分の仕組みまで変えなければ構造は残りうることを、支配者の除去と支配構造の除去を対比して示している。下には『人物交代≠構造変革』とある。中央右の「なぜ構造は再生されるのか」では、旧支配者の除去の後にも、同じ地位・権限の枠組みが残り、新しい権力者がその位置を占めることで、支配構造が再生される流れを矢印で説明している。まとめとして『人が替わっても、関係の型が同じなら不平等は続きうる』と記されている。左下の「変革運動の内部も問われる」では、変革運動の内部に強い命令服従関係が刻まれている場合、上からの指示に従う構造や批判が許されにくい雰囲気が、そのまま新しい秩序に持ち込まれる可能性を示している。ここでは『手段と組織の形は、到達する社会の形に影響する』とまとめられている。右下の「この節から見えること」では、第一に『一時的な効果があること』と『常に有効な条件であること』は違うこと、第二に直接的暴力と構造的暴力の関係を単純な必要条件・十分条件として一般化してはならないこと、第三に平和研究は目標だけでなく変革の組織・手段・関係のあり方まで検討する必要があること、の三点を示している。最下部の帯では、『暴力の二類型をめぐる核心は、“どちらがどちらを必要とするか”を単純化しないことにある。だからこそ、個人的暴力も構造的暴力も、ともに減らす変革の条件を探る余地が開かれる。』と大きくまとめている。

⑤ 被害の比較は必要だが、それだけで政治的行動を決めない

著者は、死亡や罹患などを指標に、二種類の暴力の損失を比較する研究を認めます。

しかし、「こちらの被害を増やしても、あちらの被害がもっと減ればよい」という計算だけで行動を決めることには慎重です。

その理由は、将来の暴力の再生産を見落とす可能性と、少しでも総量が減れば満足し、両方をさらに減らす方法の探究を止めてしまう可能性です。

なお、キューバ革命に関する評価は、本文自身が実証的な裏づけを必要とする見通しとして述べています。この論文が比較計算を完了しているわけではありません。

ガルトゥング論文第4節の「被害の比較は必要だが、それだけで政治的行動を決めない」という論点を整理したインフォグラフィック。上部タイトルは「⑤ 被害の比較は必要だが、それだけで政治的行動を決めない」。副題として「二種類の暴力の損失比較は重要だが、比較計算だけでは行動の正しさは決められない」と示している。左上の「この論点の核心」では、著者が死亡や罹患などを指標に、直接的暴力と構造的暴力の損失を比較する研究の意義を認めている一方、「こちらの被害を増やしても、あちらの被害がもっと減ればよい」という単純な比較だけで政治的行動を決めることには慎重であることを説明している。中央上の「まず、何を比較しようとしているのか」では、直接的暴力の例として死傷、拘束、拷問、破壊など、構造的暴力の例として飢餓、疾病、教育格差、医療アクセス格差、排除などを挙げ、両者を死亡、罹患、健康被害、生活可能性の低下などの指標で比較する研究が考えられると示している。右上の「著者が慎重になる理由」では三つの問題を整理している。第一は「将来の暴力の再生産を見落とすおそれ」で、現在の被害が減っても、新しい抑圧や報復、支配構造の再生産が起こる可能性を示す。第二は「少し減ればよい、で思考停止しやすい」で、暴力の総量がわずかに減っただけで満足すると、両方の暴力をさらに減らす方法の探究を止めてしまう危険があることを示す。第三は「比較できても、それだけで正当化はできない」で、被害の数字だけでは、その行動に用いる手段や組織のあり方まで自動的に正しいとは言えないと説明する。左下の「単純計算の落とし穴」では、直接的暴力が増えても構造的暴力がより大きく減れば『正しい』とする発想を天秤の図で示し、著者が退ける短絡として「被害総量の比較だけで手段の正しさが決まる」「いったん総量が減ればそれで十分」「未来の再暴力化を考えなくてよい」と整理している。中央下の「この節で重視される視点」では、比較に加えて問うべきこととして、将来別の暴力が再生産されないか、支配構造が残ったり再編されたりしないか、変革の手段や組織が新しい抑圧を生まないか、直接的暴力と構造的暴力の両方をさらに減らす別の道はないか、の四点を示している。右下の「この論文がしていること/していないこと」では、キューバ革命に関する評価は本文自身が実証的裏づけを必要とする見通しとして述べていること、この論文自体が二種類の暴力の損失比較を実証的に完了しているわけではないこと、この節は比較研究の必要性を認めつつ、比較だけでは不十分だという理論的警告を与えていることを整理している。最下部の結論欄では、「被害の比較は必要である。だが、政治的行動は被害の数だけでなく、将来の暴力の再生産、支配構造の存続、手段と組織のあり方、そして両方の暴力をさらに減らす可能性まで見て決めるべきである」とまとめている。

9.第5節――平和の二つの側面を、対等な目標として定義する

ここで、前節までの議論が結論になります。

この「消極的平和」と「積極的平和」の二つを、日本国憲法の平和主義と基本的人権の関係から考え直したものが、別稿「平和主義と憲法を結び直す――戦争を止め、安心をつくる憲法へ」です。

暴力の側対応する平和本文での内容
個人的・直接的暴力消極的平和個人的暴力の不在
構造的・間接的暴力積極的平和構造的暴力の不在、社会的正義

この論文では、社会的正義は、権力と資源の平等な分配という内容を伴っています。

ガルトゥング論文第5節「平和の二つの側面を、対等な目標として定義する」を解説した図解。上部タイトルは「9.第5節――平和の二つの側面を、対等な目標として定義する」で、副題として「消極的平和と積極的平和は、上下関係ではなく、ともに追求すべき目標である」と示している。左上の第1ブロックでは、前節までの議論の結論として、個人的・直接的暴力に対応する平和は「消極的平和」、構造的・間接的暴力に対応する平和は「積極的平和」であり、前者は個人的暴力の不在、後者は構造的暴力の不在と社会的正義を意味すると表で整理している。また、この論文における社会的正義は、権力と資源の平等な分配を含むと説明している。上段中央の第2ブロックでは、「消極的平和は、戦争がないことだけには限定されない」として、戦争・武力衝突、暴行・殺傷・拘束、脅し・精神的暴力など、個人的暴力には多様な形があることを示し、「戦争がない状態」は代表例ではあっても定義全体ではないと述べている。上段右の第3ブロックでは、「積極的平和は、『熱心に平和活動をする』という意味ではない」として、教育、医療、資源配分、参加、意思決定などの図を用いながら、積極的平和とは行動の熱量ではなく、権力や資源の配分が公正で、構造的暴力が除去された社会状態を指すと説明している。左下の第4ブロックでは、天秤の左右に「消極的平和」と「積極的平和」を載せ、両者に固定された優先順位を置かないことを示している。ここでは、「まず戦争を止め、その後で余裕があれば正義を考える」という段階論も、「正義のためなら直接的暴力は付随的問題でよい」という考え方も採らないと説明しつつ、時間と場所によって重点が変わることまでは否定していないと補足している。中央下の第5ブロックでは、「一面化には、それぞれ固有の危険がある」として、直接的暴力の抑制だけを求めると抑圧的な『法と秩序』を平和として受け入れる危険があること、社会的正義だけを求めると正義の実現手段としての暴力を受け入れる危険があること、両者の衝突を理由に行動を控えると既存の不正義を事実上支える危険があることを示している。とくに三つ目の危険が重要であり、両方を避けたいという立場が何もしない態度に転化してはならないと強調している。右下の第6ブロックでは、「結論は、両方を追求できる手段の開発にある」として、非暴力行動、参加、非集権化、共同決定、対等な組織などを輪のように配置し、両方の平和を結びつける社会的行動を研究し、開発する方向が示されている。最下部の結論欄では、「平和とは、直接的暴力の不在だけでも、社会的正義だけでも足りない。消極的平和と積極的平和を対等な目標として捉え、その両方を結びつける手段と制度を探究することが、第5節の核心である」とまとめている。

① 消極的平和は、戦争がないことだけには限定されない

個人的暴力には、戦争以外の殺傷や精神的な暴力も含まれます。

したがって、「戦争がない状態」という説明は代表例としては有効でも、この論文の定義全体を尽くしてはいません。

「消極的平和は、戦争がないことだけには限定されない」という論点を図解したインフォグラフィック。上部タイトルは「1 消極的平和は、戦争がないことだけには限定されない」。副題として「個人的暴力の不在=戦争の不在だけではない。殺傷・拘束・脅し・精神的暴力まで含めて考える」と示されている。左上の第1ブロック「この論点の核心」では、消極的平和とは個人的・直接的暴力がない状態を指すこと、しかし個人的暴力は戦争だけではないこと、したがって『戦争がないこと』は代表例ではあっても定義の全体ではないこと、大事なのは人が具体的な加害によって傷つけられていないこと全般であることを、番号付きで整理している。下には赤い注意欄で、「消極的平和は、戦争の不在にとどまらず、あらゆる個人的な暴力の不在を含む」と強調されている。中央上の第2ブロック「戦争がない=消極的平和、では不十分」では、戦車や兵士、爆撃された都市の絵で『戦争・武力衝突』を示し、その右に大きな青い矢印で『消極的平和はここで終わらない』と書かれている。下の赤い吹き出しには、『戦争がないことは重要な要素だが、それだけでは十分ではない』と記されている。右上の第3ブロック「個人的暴力には何が含まれるか」では、四つの類型が整理されている。1つ目は『戦争・武力攻撃』で、爆撃、銃撃、戦闘、武力侵攻など。2つ目は『殺傷・暴行・拷問』で、殴打、殺害、身体への直接的な攻撃、拷問、虐待など。3つ目は『拘束・監禁・強制』で、逮捕、拘束、監禁、移動の自由の剥奪、強制的な連行など。4つ目は『脅し・精神的暴力』で、威嚇、脅迫、恐怖を与える発言、いじめ、威圧、心理的攻撃などが例示されている。左下の第4ブロック「なぜ定義を広げて読む必要があるのか」では、『戦争がない』だけに限定すると、日常の暴力や精神的暴力を見落としてしまうこと、国家間の平和があっても家庭、学校、職場、地域で人が傷つけられているかもしれないこと、そのため個人的暴力の不在を広く捉える必要があることを三点で示している。隣には『国際社会は平和でも…』という小枠があり、地球儀と国連本部のような建物で国家間の平和を示し、その右に『しかし、社会の中では…』として、家庭での暴力、学校での暴力、職場での暴力、地域での暴力の四つの小さな場面が描かれている。家庭では家庭内暴力や児童虐待、学校ではいじめや差別的な言動、職場ではパワハラや嫌がらせ、不当な扱い、地域では暴力団、ヘイト、脅し、排除などが例として書かれている。右下の第5ブロック「この節のポイント」では、左側に誤解として『戦争がない=消極的平和』と赤いバツ印つきで示し、右側に『この論文の考え方』として、消極的平和=戦争を含む、あらゆる個人的・直接的暴力の不在、と緑のチェック印つきで整理している。その下に、1 戦争がないことは重要、2 しかしそれだけでは足りない、3 殺傷、拘束、脅し、精神的暴力も視野に入れる、という三つのポイントが並ぶ。最下部の結論欄では、『消極的平和とは、単に戦争がないことではなく、人が具体的な行為によって傷つけられない状態全体を指す。だからこそ、平和は国際政治だけでなく、日常の暴力をどうなくすかという問題でもある。』と大きくまとめている。

② 積極的平和は、「熱心に平和活動をする」という意味ではない

著者が「積極的」と呼ぶ理由は、構造的暴力の除去が、権力や資源の配分という、具体的に記述できる社会状態を意味するからです。

行動の勢いや熱意ではなく、社会的正義という状態の内容に関わる区別です。

「積極的平和は、『熱心に平和活動をする』という意味ではない」という論点を説明したインフォグラフィック。上部タイトルは「② 積極的平和は、『熱心に平和活動をする』という意味ではない」。副題として、「“積極的”とは、行動の熱意ではなく、構造的暴力が除去され、社会的正義が実現している状態を指す」と示されている。左上の「この論点の核心」では、積極的平和とは構造的暴力がない状態を指すこと、ここでの「積極的」は、がんばって活動する姿勢のことではないこと、重要なのは、権力や資源の配分が公正であるという社会の状態そのものであること、したがってこの区別は「気持ち」ではなく「社会のあり方」に関する区別であることを箇条書きで説明している。中央上の「誤解しやすい意味」では、左側に誤解として「積極的平和=熱心に運動すること、一生懸命に平和を訴えること」と書かれ、拡声器を持って平和を訴える人々の絵が添えられている。そこから右向き矢印で、「“活動の熱量”ではなく、“社会の状態”を見る」と示され、右側には正しい理解として「積極的平和=権力・資源配分が公正で、構造的暴力が除去された社会状態」と書かれている。そこには学校(教育)、病院(医療)、住宅(住居)、投票(参加)、食料、公共サービスのアイコンが並んでいる。右上の「なぜ『積極的』と呼ぶのか」では、構造的暴力は教育、医療、所得、参加、意思決定などの不平等として現れること、それをなくすことは単に“暴力が見えない”状態ではなく、人が生きる条件が公正に整えられているという、具体的に記述できる状態をつくること、だから積極的平和は社会的正義という“内容をもつ平和”であることを説明している。下には、消極的平和は「直接的暴力がない(戦争や暴力の停止)」、積極的平和は「構造的暴力がなく、社会的正義がある(公正な社会の実現)」と対比されている。中央の緑色の帯「社会的正義とは、どんな状態か」では、積極的平和とは、社会の仕組みが人の可能性を広げる方向に整えられている状態であるとし、教育、医療、生活資源、参加、権力配分の五つの側面を示している。教育では学ぶ機会が偏らず保障されること、医療では必要な治療に公平にアクセスできること、生活資源では食料・住居・仕事など生きる条件が確保されること、参加では政治や職場や地域で意思表示できること、権力配分では一部の人だけが決めるのではなく、決定に公正な参加があることを説明している。左下の「なぜ誤解が起こるのか」では、「積極的」という日常語から“熱心”“前向き”“行動的”という意味を連想しやすいこと、しかし論文では個人の性格や熱意ではなく、社会の構造を問題にしていること、したがってこの語は“運動のスタイル”ではなく“平和の内容”を示す専門的な用語として読む必要があると述べている。中央下の「この節のポイント」では、誤りとして「積極的平和=平和運動をがんばること」とバツ印で示し、正しい理解として「積極的平和=構造的暴力の不在+社会的正義の実現」とチェック印つきで示している。あわせて、構造的暴力の除去が中心であること、問題は行動の熱意ではなく社会の状態であること、権力と資源の配分が公正であることが重要であることを三点で整理している。右下には、子どもや大人が並ぶ絵と地球の絵があり、「公正な社会が一人ひとりの可能性をひらく」と書かれている。最下部の青い帯では、「積極的平和とは、“熱心さ”ではない。人が健康に生き、学び、参加し、尊厳をもって暮らせるように、社会の仕組みが公正に整えられている状態である」と大きくまとめ、その下に「だから積極的平和は、感情やスローガンではなく、社会的正義という内容をもつ平和である」と結論づけている。

③ 両者に固定された優先順位を置かない

著者は、一方が他方の「装飾品」ではないと述べています。

これは、「まず戦争がなくなり、その後で余裕があれば正義を考える」という固定的な段階論を採用しないということです。同時に、正義の実現を理由として、直接的暴力の回避を付随的な問題にすることも認めません。

ただし、具体的な状況に応じた研究上・実践上の重点配分まで否定しているわけではありません。第4節末尾では、時間と場所によって重点が変わることを認めています。

「③ 両者に固定された優先順位を置かない」という論点を図解したインフォグラフィック。上部タイトルは「3 両者に固定された優先順位を置かない」で、副題に「消極的平和と積極的平和は、上下関係ではなく、ともに追求すべき目標」とある。左上の第1ブロック「この論点の核心」では、著者は一方が他方の『装飾品』ではないと述べていること、消極的平和と積極的平和はどちらが先でどちらが後という固定関係ではないこと、直接的暴力の回避も社会的正義の実現もどちらも平和の中核であること、重要なのは両方をどう結びつけて追求するかだと整理している。下には二本の柱が描かれ、左の青い柱が「消極的平和(個人的・直接的暴力の不在)」、右の緑の柱が「積極的平和(構造的暴力の不在・社会的正義)」で、土台には「どちらも平和を支える大切な柱」と書かれている。右上の第2ブロック「退けられる二つの読み方」では、二つの誤った理解を示している。一つ目は「固定的な段階論」で、『まず戦争をなくし、その後で余裕があれば正義を考える』という考え方であり、階段を上る人物と旗の絵で表され、この読み方では構造的不正義が後回しにされやすいと説明している。二つ目は「正義の名による後景化」で、『社会的正義のためなら、直接的暴力の回避は付随的でよい』という考え方であり、プラカードを掲げる人々と禁止マーク付きの武器の図で表され、この読み方では正義の実現手段として暴力を容認しやすいと示している。中央の黄色い帯には「どちらも、平和の一面だけを優先しすぎる」とある。中段の第3ブロック「著者の考え方」では、左に「消極的平和」として、戦争の停止、殺傷の停止、脅し・抑圧の停止の三つの禁止マーク付きアイコンが並ぶ。右に「積極的平和」として、公平な教育、公平な医療、公正な資源配分、社会への参加の四つの項目がアイコンとともに示されている。中央には大きくイコール記号とともに「どちらか一方が他方の『装飾品』ではない」と書かれ、両者が対等であることを強調している。下部中央には「平和は、直接的暴力の停止と、構造的不正義の是正の両方を必要とする」とある。左下の第4ブロック「ただし、重点が変わることはある」では、著者は現実的な状況に応じて重点が変わることを否定していないと説明している。箇条書きで、時間と場所によって研究や実践の重点は変わりうること、戦争が切迫している局面では直接的暴力の停止が急務になることがあること、深い不平等が続く局面では構造的暴力の是正が前面に出ることがあると示す。下には二つの小さな場面図があり、左は「戦争が切迫している局面」で兵士が『まずは停戦を!』と話し、右は「深い不平等が続く局面」で母子の前に『長期的に社会の不正義をなくそう』と吹き出しがある。黄色い帯には「重点の違いはあっても、どちらかを不要とはしない」とある。右下の第5ブロック「この節の意味」では、1 平和を段階論で単純化しない、2 正義を理由に暴力を軽視しない、3 暴力停止を理由に不正義を放置しない、4 両方を結びつける研究と実践を考える、の四点をまとめている。その下の赤い結論枠には「固定順位ではなく、両立の条件を探る」とあり、第4節末尾が示すように状況によって重点は変わるが、消極的平和と積極的平和は常にともに視野に入れられるべきだと説明している。最下部には、家族や市民のイラストとともに「二つの平和をともに追求し、すべての人にとってより公正で平和な社会をつくろう」と大きくまとめられている。

④ 一面化には、それぞれ固有の危険がある

一面的な目標生じる危険
直接的暴力の抑制だけを求める抑圧的な「法と秩序」を平和として受け入れる
社会的正義だけを求める正義の実現手段としての暴力を受け入れる
両者の衝突を理由に行動を控える既存の不正義を事実上支える

三番目が重要です。著者は、両方の暴力を避けたいという立場が、何もしない態度に転化する危険を自ら指摘しています。

そのため、この結論を単なる穏健論や、対立する立場の中間を取る議論として読むのは不十分です。

「一面化には、それぞれ固有の危険がある」というガルトゥング論文第5節の論点を整理したインフォグラフィック。上部では「平和は一つの側面だけでは実現できない――一面化は、別の形の暴力や不正義を生み出す危険をもつ」と示している。左の「この論点の核心」では、消極的平和、つまり直接的暴力の不在だけを求めても社会的正義が欠ければ、抑圧的な『法と秩序』を平和として受け入れる危険があること、積極的平和、つまり社会的正義だけを求めても、その実現のための暴力を容認してしまう危険があること、さらに両者の衝突を恐れて行動を控えると、既存の不正義を事実上支える結果になり得ることを説明している。中央上の「一面化がもたらす三つの危険」では、第一に「直接的暴力の抑制だけを求める場合の危険」として、警察による厳しい監視や統制の場面を描き、表面的には暴力事件が少なくても、言論・集会の自由が制限され、社会的不平等や差別が放置され、人々が恐怖のもとで従わされる場合には、抑圧的な『法と秩序』そのものを平和と誤認する危険があると示している。第二に「社会的正義だけを求める場合の危険」として、『正義のためならやむをえない』と主張する運動と武器を持つ人物を描き、社会変革の名のもとに暴力が正当化され、反対者への弾圧や排除が行われ、目的のために手段を選ばなくなることで、新たな暴力や抑圧の連鎖を生む危険を示している。第三に「両者の衝突を理由に行動を控える場合の危険」として、『暴力は避けたい』『正義は大切だが混乱も避けたい』『だから何もしない方がいいのでは』と考える人物を描き、暴力と不正義の双方を避けようとするあまり行動を控えると、既存の不正義や支配構造が維持され、被害を受けている人々の状況が変わらず、『中立』や『静観』が現状の不正義を事実上支えることになり得ると説明している。下段左の「3つ目の危険が特に重要な理由」では、ガルトゥング自身が、両方の暴力を避けたいという立場が『何もしない』態度へ転化する危険を問題にしていること、現実の不正義を前にして『どちらも選ばない』ことが結果的に不正義を放置する場合があることから、この結論を単なる穏健論や対立する立場の中間を取る議論として読むのは不十分だと説明している。下段中央の「よくある誤解との違い」では、誤解として『これは中間論・穏健論であり、どちらの立場にも少しずつ譲って中立を取ればよい』という理解をバツ印で示す一方、正しい理解として『重要なのはどちらかを選ぶことではなく、直接的暴力の回避と社会的正義の実現をともに追求する方法を考えること』だとチェック印で示している。最下部のまとめでは、「平和は一つの側面だけでは実現できない。直接的暴力の抑制だけでも、社会的正義だけでも不十分であり、何もしないことも現状の不正義を支える場合がある。だからこそ、両方を視野に入れ、具体的な状況に応じて行動を考える必要がある」と整理し、最後に「平和は、どちらか一つではなく、両方をともに」と強調している。

⑤ 結論は、両方を追求できる手段の開発にある

著者が挙げる方向は、非暴力行動、対等な組織、参加、非集権化、共同決定などです。

ただし、論文は完成した実行手順を提示していません。両方の目標を掲げることで、それらを結びつける社会的行動を研究し、開発することを提案しています。

また、両方を実現する困難を認め、一方しか達成できなかった人々に対して性急に道徳的判断を下さないよう求めています。厳格な目標設定と、現実の制約への慎重さが併存しています。

「⑤ 結論は、両方を追求できる手段の開発にある」という論点を整理したインフォグラフィック。上部タイトルは「5 結論は、両方を追求できる手段の開発にある」。右上には「消極的平和と積極的平和を結びつける社会的行動を研究し、開発していくことが重要である」と書かれている。左上の大きなブロック「二つの平和をともに追求する」では、青い円に「消極的平和(直接的暴力の不在)」、緑の円に「積極的平和(構造的暴力の不在)」が描かれ、前者には「戦争がない、殺傷がない、脅しや暴力がない」、後者には「社会的正義がある、権力・資源の配分が公正、すべての人の可能性が尊重される」と示されている。二つの円の間には大きなプラス記号があり、下に「どちらか一方ではなく、両方を追求する」と書かれている。中央上の大きなブロック「両方を結びつける手段の方向性」では、中央に地球を囲んで人々が輪になっているイラストがあり、地球には「暴力のない公正な社会」と書かれている。その周囲に五つの方向が円形に配置されており、「非暴力行動」は暴力に頼らない抵抗・変革の方法、「参加」は市民が意思決定に参加する仕組み、「対等な組織」は上下関係の少ないフラットな組織、「非集権化」は権力の集中を避け地域や現場に権限を分散すること、「共同決定」は対話による合意形成とみんなで決める仕組み、と説明されている。下には「これらの手段によって、直接的暴力の回避と社会的正義の実現をつなげていく」とある。右上のピンクのブロック「重要なポイント」では、五つの要点が番号付きで並ぶ。1は「完成した実行手順は示していない」で、論文は具体的なマニュアルではないと説明。2は「研究と開発の課題を提起している」で、両方の目標を掲げることで、それらを結びつける社会的行動を研究し、開発していくことを提案している。3は「実現の困難さを認めている」で、現実には両方を同時に達成することが難しい状況もあると率直に認めている。4は「性急な道徳的判断を避ける」で、一方しか達成できなかった人々に対して、簡単に非難や道徳的評価を下さないよう求めている。5は「厳格な目標設定と現実への慎重さの併存」で、高い目標を掲げつつ、現実の制約に配慮するバランスが重要だとしている。左下の青いブロック「なぜ手段の開発が必要なのか」では、三つの理由が示されている。第一は「戦争や暴力を止めるだけでは不十分」で、暴力がなくても貧困や差別などの構造的不正義が続くと書かれている。第二は「正義を実現しようとしても暴力に頼ってしまう危険がある」で、正義のための暴力が新たな暴力や抑圧を生む可能性を示している。第三は「両方を実現するには具体的な方法が必要」で、だからこそ社会的行動の研究と開発が求められるとまとめている。中央下の緑のブロック「すでに存在する実践の例(参考)」では、非暴力の市民運動、住民参加型のまちづくり、地域での協同組合や自治組織、紛争解決のための対話の場(トゥルース・コミッションなど)、権力の分散を進める地方分権の取り組み、職場や学校での民主的な意思決定の仕組み、などが列挙されている。欄外には、これらは一例であり、論文が示す「研究・開発の方向」に沿った実践の可能性を示すものだと注記されている。右下のオレンジ色のブロック「一方しか達成できなかった人々への配慮」では、人物の吹き出しに「戦争を止めることに全力を尽くしたけれど、社会的正義までは達成できなかった…」とあり、それに対して「そのような人々に対して、性急に『不十分』と道徳的に判断すべきではない。現実の制約の中での努力も適切に評価されるべきである」と説明している。最下部の濃い青のまとめ欄では、「まとめ 消極的平和と積極的平和を結びつける手段を研究し、開発していくことが、これからの課題である」と大きく示し、その下に、平和の実現には厳格な目標設定が必要であると同時に、現実の困難さに対する慎重さも欠かせないこと、一方だけの達成に終わった人々を安易に非難せず、両方を追求するための社会的行動をともに考え、実践していくことが重要であるとまとめている。右下には、街並みと白い鳩のイラストとともに、「ともに考え、より公正で平和な社会をつくっていこう」と書かれている。

10.注記にある、論文を深く読むための重要論点

この論文の注記には、本文を補足する以上の役割があります。

「10.注記にある、論文を深く読むための重要論点」という題のインフォグラフィック。ガルトゥング論文の注18、注31、注35、注33・34・38を整理し、注記が本文の補足にとどまらず、平和研究の射程、限界、研究姿勢を深く示していることを図解している。第1の「注18――分配されるものだけでなく、分配を決める権力を問う」では、「分配結果の平等」と「決定権の平等」を対比する。分配結果の平等は、食料、住居、教育、医療などが何をどれだけ人々に届くかという問題であり、決定権の平等は、その配分を誰が、どのような合意で決定するかという問題だと説明している。単に福祉や資源を平等に配るだけでは不十分であり、積極的平和は、配分を決める権力関係そのものを問う必要があると示している。また、これは人権を否定する議論ではなく、決定権も人権として発展し得るという視点を示す。第2の「注31――積極的平和の概念は、著者自身の中でも変化している」では、以前の「統合・協力」を重視した考えから、それだけでは融和的すぎるとして修正し、現在は「社会的正義」を中心に据えるという概念の変化を矢印で示している。協力が存在しても、その内部に不正義や権力の不平等があれば積極的平和とは言えないこと、今回の定式化も最終形ではなく、基本概念を問い続けることが学問の健全さにつながると説明している。第3の「注35――非暴力は、結びつけることだけを意味しない」では、二つの非暴力の方向を対比する。左の「分離的な非暴力」は、不平等な関係から距離を取り、弱い側が自主性・主体性を獲得することを示し、距離を取る、自主性を得る、境界をつくるという図で表現している。右の「結合的な非暴力」は、平等で非搾取的な条件のもとで協力関係を築くことを示し、握手、対等なパートナー、共同で取り組む姿を描いている。対等でない者同士をそのまま結びつけても依存や支配が深まる場合があり、分離も結合も具体的な関係に応じて評価する必要があると整理している。第4の「注35後半――紛争は、当事者が自覚していなくても存在し得る」では、紛争を「諸目的の両立不可能性」と定義し、怒っているか、争っていると自覚しているか、自分の利益を言語化できているかだけでは紛争の有無は決まらないと示している。そのため、不満が表明されていないことを対立や不正義が存在しない証拠にはできない一方、本人が自覚していない利益を誰が判定するのかという難問が残ることも示している。第5の「注33・34・38――平和研究そのものの権力関係も問われる」では、注33として「誰が研究資金を出すのか」「誰が提言を実行できるのか」を問いながら研究の自律性を守る必要を示す。注34では、平和研究は価値の実現を促進する努力であり、特定グループのイデオロギーと同一視されるべきではないと整理する。注38では、すべての活動を「平和研究」という一つの旗の下に集める必要はなく、重要なのは実践が行われ、異なるアプローチが交流し、イデオロギー的・制度的多元主義から学ぶことだと示している。「平和研究」と名乗ること自体が価値の条件ではなく、多様な立場が出会い対話することが、よりよい平和研究につながるとまとめている。最下部の「全体のまとめ」では、注記は①平和研究の概念を広げる、②結果の平等だけでなく決定権を問う、③平和の実践と研究は多元的でよい、④研究そのものの権力関係も検討対象になる、という四点を提示し、「注記は、論文の理論を補うだけでなく、研究の方法・権力・多元性まで視野に入れるための重要な入口である」と結論づけている。

① 注18――分配されるものだけでなく、分配を決める権力を問う

著者は、人権について、個人が何をでき、何を所有できるかを保障しても、それを誰が決定するのかが十分に問われなければ、権力保持者による庇護と両立すると批判します。

注18

18) 社会的正義で意味するものの1つの表現は人権諸宣言において見られる。そこでは平等に関して多くの規範が述べられている。しかしながら、それらの規範は非常にはっきり構造的であるよりも個人的であるという欠陥をもつ。それらは個々人が、何ができ何を所有できるのかに言及するものの、個々人が、何ができ何を所有できるのかを誰がまたは何が決定するのかには言及しない。それらは資源の分配について言及するものの、資源の分配をめぐる権力には言及しない。言い換えれば、通常了解されている意味での人権は、パターナリズムときわめてよく両立し、権力保持者は分配をめぐる究極の権力を除いて、分配を高のままに行うから、それによって彼らは、権力構造におけるいかなる変化をともなうことなく、平等化を手に入れるのである。現在の反体制・反権威の反抗の多くはこのことに関わっているのを、ほとんど誰も見ようとしないのは苦痛でさえある。譲歩は十分ではなく、平等でさえ十分ではない。分配に関する決定がどのように合意され実行されているか、それが基本的なのである。しかし、こうしたことはすべてある種の人権に結晶し、哲学的・政治的な戦場のリストに間違いなく付加されることであろう。

ここでは、二つの平等が区別されています。

平等の側面問い
分配結果の平等何が、どれだけ人々に届くか
決定権の平等その配分を誰が、どのような合意で決めるか

この注によって、積極的平和が福祉的な配分の改善だけではないことが明確になります。

もっとも、これは人権の無価値を主張する議論ではありません。決定権に関する要求も人権として発展する可能性を、著者自身が述べています。

「注18――分配されるものだけでなく、分配を決める権力を問う」というテーマを図解したインフォグラフィック。上部タイトルは「① 注18――分配されるものだけでなく、分配を決める権力を問う」、副題は「何が配られるかだけでなく、誰が、どのように配分を決めるのかを見る」。左上の「この注の核心」では、ガルトゥングは人権や平等を考えるとき、個人が何を持てるか、何ができるかだけでは不十分であり、その配分を誰が決めるのか、どのような合意で決めるのかという権力の問題が重要だと説明している。右上の「著者の批判」では、従来の人権理解は個人が『何を所有できるか』『何ができるか』には言及するが、『それを誰が決めるのか』『資源の分配をめぐる権力はどうなっているのか』を十分に問わないため、平等があっても権力構造が変わらないまま残りうると示している。中央の「ここで区別される二つの平等」では、左に『分配結果の平等』として、所得、教育、医療、住居、食料など、何がどれだけ人々に届くかを問う枠があり、右に『決定権の平等』として、その配分を誰が、どのような合意で決めるのか、予算決定、制度設計、会議参加、発言権などを問う枠がある。両者の間には『どちらも必要』『しかし決定権の平等は見落とされがち』と書かれている。左下の「なぜ問題なのか――パターナリズム」では、権力保持者が『配ってあげよう』と一方的に資源を配る図を用い、生活条件の改善は起こりうるが、分配を決める究極の権力が上に残るなら、それは庇護や温情と両立し、権力構造そのものは変わらないと説明している。赤い帯で『結果の平等だけでは足りない』と強調している。右下の「この注が明らかにすること」では、①積極的平和は福祉的な配分の改善だけではない、②権力と資源の『配られ方』だけでなく『決められ方』も問う必要がある、③平等とは受け取る量だけでなく、決定に関われるかどうかにも関わる、の三点を整理している。最下部のまとめでは、『積極的平和とは、資源の分配結果を整えることだけではなく、その分配を誰が、どのように決定するのかという権力関係まで問い直すことである』と大きく示し、注として『これは人権を否定する議論ではなく、決定権に関する要求もまた人権として発展しうるという含意をもつ』と補足している。

② 注31――積極的平和の概念は、著者自身の中でも変化している

著者は、以前は統合や協力との関連で積極的平和を考えていたが、それでは融和的すぎるという批判を認め、ここでは社会的正義を中心に据えると述べています。

注31

31) もちろん私は、これらの諸概念を提出するのに、変更を加えてきたことをはっきりと自覚している。そして、ここに提出した定式化にならって、新しい定式がこれに引き続くだろうことを確信している。「消極的平和」の概念は、かなり不変のままとどまるに違いない。それは「暴力の不在」を意味し、あの文脈において「暴力」概念に与えられた精密さ――すなわち「個人的暴力」の概念――によるものと私は考える。しかし「積極的平和」の概念は常に変化するであろう(医学における「積極的健康」の概念のように)。私はこの概念を「統合」および「協力」という関連において考えて来た(“Editorial,” JPR, 1964, pp.1-4)。しかし今は、これは紛争グループがもつあまりにも融和的な見方であることをHerman Schmid氏とともに全面的に認める。そうした見方は、おそらく、東西間の紛争があるための紛争に関連するある特定のイデオロギーを反映している。私は今、「積極的平和」を主として「社会的正義」と同一視したいと考えている。後者は本稿において二重の意味で捉えられている。しかし、社会的不正義に対するのに、他の候補者にも門戸を開いておくことが必要であろう。というのも、社会的正義の定義は、他の方面をも指し示すほど十分に広いものではなければならないと考えるからである。これは「平和の理論」の1.3節である程度試みられた。さらに、Schmid氏の次の指摘(前掲)は基本的に正しいと私は考えている。「消極的平和」に焦点が当てられる傾向にあるのはコンセンサスが得られやすいからである、と。彼はいっそうこうした傾向を補強する彼の考えを私も共有する。構造的暴力の微妙なメカニズムの仮面をはぎ、それを除去あるいは中立化する条件を探究することは少なくとも同様に重要である。しかし、優先度の観点から暴力の2つのタイプを比較することは、少しばかり医学の探究がガンまたは心臓のどちらに集中すべきかという議論のように思える。その上、加えるに断固として強調すべきは、それ自身の基礎と定義とに完全に満足している学問は、死んだ学問であることである。基本的な討論または基本に関わる討論は、病気ではなく、健康のしるしなのである。こうした争点は困難なものである。そして、それらを分析するいっそうの実践、それらと取り組むいっそうの修練を通じてこそわれわれは進歩するのである。

したがって、

協力があるだけでは、積極的平和があるとは言えない。協力関係の内部が不平等である可能性がある。

という修正が読み取れます。

さらに、今回の定式化も最終的なものではないと認めています。この論文は、概念を確定して議論を終えるためのものではありません。

「② 注31――積極的平和の概念は、著者自身の中でも変化している」という論点を整理したインフォグラフィック。上部タイトルは「注31――積極的平和の概念は、著者自身の中でも変化している」で、副題として「『積極的平和』は固定された概念ではない。協力や統合から、社会的正義へと重心が移る」と示している。左上の「この注の核心」では、ガルトゥング自身が平和概念に変更を加えてきたことを自覚していること、「消極的平和」は比較的安定した概念である一方、「積極的平和」は今後も変化し続けると述べていること、以前は「統合」「協力」と関連づけていたが、それだけでは融和的すぎるとして修正し、現在は主として「社会的正義」と結びつけていること、今回の定式化も最終形ではないことを説明している。中央上の「積極的平和の概念の変化」では、左の「以前の重心」として「統合・協力」を配置し、対立する集団が協力すること、関係の統合、融和や協調を重視する考え方を示している。そこから「修正・再定式化」という矢印を経て、右の「現在の重心」である「社会的正義」へ移り、構造的暴力の除去、権力と資源の配分、不平等な仕組みを変えることへ重点が移ったことを示している。下には「協力があるだけでは、積極的平和があるとは言えない」と強調されている。右上の「なぜ修正したのか」では、「統合」や「協力」だけでは紛争を融和的に見すぎる危険があり、協力関係の内部に支配、搾取、不平等が残る可能性があることを説明している。握手する二人の横に、資源を多く持つ支配する側と、資源の少ない従属する側の図を置き、「一見、協力していても内部には不平等が隠れているかもしれない」と示している。左下の「ここで重要になる読み方」では、誤解として「協力していれば積極的平和である」「積極的平和の意味は一度決まれば変わらない」「基本概念の争いは理論の弱さを示す」という三つを挙げ、それぞれに対し、協力の内部に不平等があれば積極的平和とは言えないこと、積極的平和は変化し得る概念であること、基本概念を問い直すことは理論の発展であると整理している。中央下の「注31から読み取れる三つのポイント」では、第一に「消極的平和」は個人的暴力の不在という意味で比較的安定した概念であること、第二に「積極的平和」は社会的不正義をどう捉えるかに応じて内容が発展しうる開かれた概念であること、第三に基本概念について議論を続けること自体が学問の前進であることを示している。右下の「この注が論文全体に与える意味」では、この論文は概念を固定して議論を終えるためのものではなく、構造的暴力の仕組みをより深く明らかにし、その除去条件を探る途上にあること、積極的平和を社会的正義と結びつけることで第5節の結論にも制度的・構造的な意味が加わること、平和研究はコンセンサスの得やすい問題だけでなく、見えにくい不正義の構造も問う必要があることを説明している。最下部では、「注31の要点は、『積極的平和』を固定概念として扱わず、協力や統合の有無ではなく、社会的正義と構造的暴力の除去という観点から、つねに再検討し続けることにある」とまとめ、「平和研究は、完成した答えを守る学問ではなく、概念を練り直しながら前進する学問である」と結論づけている。

③ 注35――非暴力は、結びつけることだけを意味しない

注35

35) このいくらかは「非暴力の意味について」で探究されている。そしてこの方向で無限に多くのなすべきことが残っている。しかし重要なことは、なぜ、平和研究が対称的な紛争にのみ結び付けられるべきなのか、そして統合的あるいはわれわれの好む言い方では「結合的」――統合的はあまりにも強い語である――なアプローチに限られるべきなのか、その理由は何もないということであろう。構造的暴力を探究するいかなる努力も、能力においてきわめて不平等な当事者間の非対称的な紛争の認識に至るであろう。そして、オスロの国際平和研究所で行われているタイプの平和研究ではこれが無視されている、との声明は公平ではない。「トップドッグ-アンダードッグ」という語はなじみが薄く、マルクス主義の伝統とジャーゴンのもとで研究する者は憤慨さえするだろう。しかし、にもかかわらず、それは1つの探究である。より正確には、その努力は構造的暴力の「構造」をより良く理解しようとするものであった。その一端は本稿の3節に示されている。そして、治療がなぜ結合的な政策に限られねばならないかの内在的な理由はない。それとは正反対に、一般に、結合的な政策は平等な当事者同士、すなわち対称的紛争のためのものであり、一方、分極化そして分離の政策は被搾取グループのためのずっと良い戦略だと私は感じている。これは非暴力の戦略の一面性にも反映している。すべてのテーマのより完全な展開は『紛争の理論』(Theories of Conflict, forthcoming)を見られたい。Schmid氏が、平和研究は「潜在的な紛争がいかに顕在化するのかを――そして現在の国際的なシステムがいかに深刻な挑戦を受け、崩壊さえしているのかを……説明しなければならない」(前掲)というとき、彼自身が論難する平和研究の同じタイプの一面性を示しているように思える。ここで一面性とは、顕在的な紛争のみを制御し、結合をもたらし、国際的および超国家的制度に関わって意味のある問題群を形成することに関心をもつことである。しかし、もし平和研究が、価値の促進ではなく、特定グループ――高低に関わりなく――の利益に奉仕することにのみ向けられるのであれば、この一面性は不可避的に結果する。脱統合・分極化・分離がつねに最良の戦略であると信じるのは、その逆を信じるのが難しいのと同じくらい難しい。

しかしこのことは、Schmid氏の紛争学と密接に関連していよう(前掲、pp.224-228)。そこで彼は私が紛争の主観的な観念を持っているかに信じている。もし紛争の三角形が主張する何かがあるとすれば、それとはまさに正反対のものである。紛争の定義は、態度と行動とから、また紛争当事者による状況の認識からも独立している(彼らの相互の態度とも異なる)。私にとって紛争とは諸目的間の両立不可能性である。しかし、これらの目的がどのように形成されるのかは全く別の問題である。当事者に、彼らが追求している概念は何か、何が障害になっているのか――もし障害があるとすれば――を問うことは、1つのしかも唯一1つのアプローチである。利益に関連させた定義に私は反対する何ものももたない。「目的」はそれをも包む十分に広い概念である。Schmid氏が率直かつ正面に認めているように(前掲、p.227)、困難は、「何が利益であるかを決定する」ことである。そして「これは利益の観点からの紛争概念を放棄する理由ではなく、むしろ挑戦なのである」という考えを私も共有する。しかし、利益の概念は公平化されなければならないのではないか。マルクスはかなりの程度までそれを行った。その含意は探究されなければならない。また、利益は価値の実現でもあると私は考える。しかし、そうした価値は必ずしもアクターによって保持されているのではなく、探究者によって保持されているのでもない。ただ公準として立てられた価値である。ゆえに子供――自立的な人間として――の利益が、彼らの生物学的な両親の子供として、絆を受け入れることと相容れないと考えるのであれば、現在の家族システムには1つの不可両立性が確かに存在することになる。両親には所有者としての利益があり、それは自分自身の所有者としての子供の利益とは両立し得ない。この例と、Schmid氏の主人-奴隷の例との唯一の違いは、彼は過去の紛争のパラダイムを与えているのに対して、社会秩序の脱封建化への一般的な潮流の線にそって、私は未来の紛争――さらにいえば、もう間もなく顕現するだろう紛争――のパラダイムを考えていることだ。そして私は、分極化はそうした解決の1つの部分であることに関してSchmid氏と確かに同意見である。

著者は、二種類の非暴力的な方向を区別します。

方向役割
分離的な非暴力不平等な関係から距離を取り、弱い側が自主性・主体性を獲得する
結合的な非暴力平等で非搾取的な条件のもと、協力関係を築く

この点は、平和を「仲良くすること」と理解する読み方を修正します。

対等でない者同士を、そのまま結びつけても、依存や支配が深まる場合があります。先に自立の条件を整えることが必要になり得るのです。

ただし、著者は分離が常に最善だとも言っていません。結合も分離も、具体的な関係に応じて評価されます。

「注35――非暴力は、結びつけることだけを意味しない」というテーマを解説したインフォグラフィック。上部タイトルは「注35――非暴力は、結びつけることだけを意味しない」で、副題として「非暴力には、対等な協力を築く方向だけでなく、不平等な関係から距離を取り、自主性を回復する方向もある」と示されている。左上の第1ブロック「この注の核心」では、平和研究は対称的な紛争だけを前提にする必要はないこと、構造的暴力を考えると能力や地位が大きく不平等な『非対称的な紛争』が見えてくること、したがって非暴力の方法も『仲良く結びつける』一方向だけでは足りないこと、大切なのは関係の対等性と支配の有無を見て適切な方向を考えること、という四点を番号付きで整理している。中央上の第2ブロック「二種類の非暴力的な方向」では、左に青色の「分離的な非暴力(距離を取って自立する方向)」、右に緑色の「結合的な非暴力(協力して関係を築く方向)」を対比している。分離的な非暴力では、切れた鎖と離れていく人物の図とともに、不平等な関係から距離を取ること、弱い側が自主性・主体性を回復すること、依存や支配を弱めることが示され、具体例として搾取的な関係からの離脱、被抑圧集団の自立、距離化・分極化が挙げられている。結合的な非暴力では、握手する二人と天秤の図とともに、平等で非搾取的な条件のもとで協力すること、対話・協働・共同決定を進めること、対称的な関係で連帯を築くことが示され、具体例として対等な交渉、協同、相互承認が挙げられている。中央には両者を結ぶ双方向矢印があり、「どちらも非暴力だが、向いている関係が違う」と説明されている。右上の第3ブロック「なぜ『仲良くすること』だけでは不十分か」では、『対等でない者同士を、そのまま結びつけると…』という見出しの下、左に上位者、右に下位者を置き、その間に権力、資源、情報、決定権のピラミッドを描き、上位者からの支配、下位者の依存という矢印で、不平等なままの結合関係を示している。右側の下位者は「結びついても、このままでは不平等なまま…」と考えており、下には『従属・依存・搾取が温存されることがある』『そのため、先に自立の条件を整える必要がある場合がある』と書かれている。赤い帯では「平和=いつでも仲良くすること、ではない」と強調している。左下の第4ブロック「どんな場面でどちらが重くなるか」では、A「対称的な紛争」とB「非対称的な紛争」を対比している。Aでは、力関係が比較的対等で、双方に交渉余地がある場面では、結合的な非暴力が有効になりやすいとし、例として国家間の交渉、地域の対立などが挙げられている。Bでは、一方が強く他方が抑圧されている、弱い側に発言力が乏しい場面では、分離的な非暴力が有効になりうるとし、例として植民地支配、経済的搾取、社会的差別などが挙げられている。その下の黄色い注意欄では、『ただし、これは固定的な処方箋ではない。現実の関係は複雑で、状況によって両方の要素が関わることもある』と説明している。中央下の第5ブロック「著者が言いたいこと」では、平和研究は『結合』だけを唯一の治療法とみなすべきではないこと、非暴力は支配関係を見抜く必要があること、被搾取グループにとっては分極化や分離が解放の一部になりうること、しかし分離が常に最善だとも言っていないこと、の四点を番号付きで示し、最後に『重要なのは、具体的な関係のなかで、どの方向が適切かを見極めることです』とまとめている。右下の第6ブロック「読み方のポイント」では、左の赤い欄に「よくある誤解」として、『非暴力=仲良くすることだけ』『協力していれば平和的である』『距離を取ることは非暴力ではない』の三つをバツ印付きで示し、右の緑の欄に「この注の考え方」として、『非暴力には複数の方向がある』『協力の内部が不平等なら問題が残る』『距離化や自立も非暴力の戦略になりうる』の三つをチェック印付きで示している。最下部の大きなまとめ欄では、『注35の要点は、非暴力を“結合”の一語に縮めないことにある。平等な関係では協力が重要だが、不平等な関係では、まず弱い側が自立し、支配から距離を取ることが必要な場合がある。結合も分離も、具体的な関係に応じて評価される。』と大きくまとめている。

注35後半――紛争は、当事者が自覚していなくても存在し得る

著者は紛争を、諸目的の両立不可能性として捉えます。

つまり、当事者が怒っているか、争っているか、自分の利益を言語化できているかだけで、紛争の有無が決まるわけではありません。

ここから導かれる解釈は、不満が表明されていないことを、対立や不正義がない証拠にできないということです。

「注35後半――紛争は、当事者が自覚していなくても存在し得る」という論点を整理したインフォグラフィック。上部タイトルは「注35後半――紛争は、当事者が自覚していなくても存在し得る」で、副題として「紛争とは、怒りや争いの表面だけでなく、『諸目的の両立不可能性』として捉えられる」と示されている。左上の「この論点の核心」では、著者が紛争を『諸目的の両立不可能性』として考えていること、そのため当事者が怒っているか、争っているか、自分の利益を言語化できているかだけでは紛争の有無は決まらないこと、表面が静かでも目的が衝突していれば紛争は存在し得ることを説明している。下には、穏やかに見える人物と、内部では目的が衝突している山の図を並べ、『表面の静けさ≠紛争がないこと』と示している。中央上の「よくある誤解」では、『怒っていない=紛争はない』『不満を口にしていない=問題はない』『当事者が自覚していない=対立は存在しない』という三つの誤解をバツ印付きで示す一方、この注の考え方として、感情の有無だけでは決まらないこと、表明されない不満や利益もあり得ること、目的の両立不可能性があれば紛争は存在し得ることを示している。右上の「図でみる『自覚がなくても存在する紛争』」では、家庭、職場、社会制度の三つの例を示している。家庭では、一方が『自分で決めたい・自立したい』と考え、他方が『子どもは自分のもの・しっかり管理したい』と考えることで、表面は穏やかでも自立と支配・所有の目的が衝突する例を描いている。職場では、一方が『公正に扱われたい・尊厳を持ちたい』と考え、他方が『効率・低コスト・従順に働いてほしい』と考えることで、尊厳・公正と一方的管理・従属の目的が衝突する例を示している。社会制度では、一方が『平等に参加したい・社会の一員として扱われたい』と考え、他方が『現在の序列を維持したい・今の仕組みを変えたくない』と考えることで、平等な参加と序列の維持が両立しない例を示している。それぞれに『一見すると穏やか…しかし、背後に紛争がある』と記されている。左下の「ここから導かれる解釈」では、第一に、不満が表明されていないことを対立や不正義がない証拠にはできないこと、第二に、沈黙は満足ではなく、恐れ、無力感、言語化の困難、情報不足などの結果かもしれないこと、第三に、見える争いだけでなく、見えにくい目的の衝突を分析する必要があることを説明している。右下の「残る難問」では、当事者が自覚していない利益を誰がどのように判断するのかという問題を提示し、研究者や支援者が一方的に『あなたの本当の利益はこれだ』と決めつける危険もあることを天秤の図で示している。そのため、見えない不正義を見抜く必要と、外部から利益を決めつける危険の両方に注意し、対話、検証、当事者参加による慎重で開かれたアプローチが重要だとまとめている。最下部では、『紛争とは、表面の怒りや争いだけではなく、諸目的が両立しない関係そのものを指す。したがって、静かであることや不満が語られていないことだけでは、公正さや平和の証拠にはならない』と大きく結論づけている。

同時に、本人が自覚していない利益を誰が判定するのか、という難問も残ります。

④ 注33・34・38――平和研究そのものの権力関係も問われる

誰が研究資金を出し、誰が提言を実行できるのかという問いを、著者は基本的な問題として認めます。

そのうえで、研究を特定の体制や勢力の利益への奉仕に閉じ込めず、人間の実現可能性を妨げる仕組みの探究として開いておこうとします。

研究の自律性や多元性も、この論文の構造の一部です。

注33

33) それが着手されてから10年間の一般的な平和研究において、他地域からよりも北西地域の体制からより多くの同意を得てきたことはほとんど疑いない。ガンの研究もそうであった。この事実から平和研究は第三世界そして革命勢力に対して無意味であるということにはならない。同じように歪んだ分布が、世界の資源の歪んだ分布および一般的な世界の封建的な構造に起因して、ほとんどどこにでも見られるからだ。だからSchmid氏が、平和研究を社会的な背景のもとに置いたことは正しい。「誰がそれを支払うのか」「平和研究者からの提言を誰が実行することができるのか」は基本的な問題である。私が唯一理解できないのは次の点である。なぜ、平和研究は、体制の手中にのみ落ちて、他の者の手中に落ちてはいないのか、いわんやその探究においてそれ自身の自律性を保持できないのか、それには何か内在的な理由があるのかという点である。このようにいう前提として、アカデミックな構造は、左であれ右であれ、権力保持者の手中にすべての研究を方向付けるのではなく、人間の自己実現を妨げるいかなる種類の暴力の背後にあるメカニズムに対する洞察の探究に開かれた道を残しておく、ということである。

注34

34) 平和研究は価値の実現を促進するための努力であると、ここでは考えられている。こうした価値がある特定のグループの利益とどの程度合致するかしないかは別の事柄である。ゆえに平和研究は、そのグループが同じ価値を明言しない限り、1つのグループのイデオロギーと同一視することは決してできないのである。

注38

38) もちろん、このすべてまたは大部分または多くが、その事のために、「平和研究」の旗のもとあるいは他のどんな旗のもとにも航海する必要はない。少しばかり全体主義的観念の持ち主が、そう感じる傾向があるというだけである。重要なことは、そのことが行われ、異なるアプローチ間でコンタクトがあり、それらや他のアプローチがイデオロギー的・制度的多元主義から利益を得ることである。

「④ 注33・34・38――平和研究そのものの権力関係も問われる」というテーマを図解したインフォグラフィック。上部タイトルは「④ 注33・34・38――平和研究そのものの権力関係も問われる」。その下に、黄色い帯で「研究は中立を装うだけでは足りない。誰が資金を出し、誰が実行し、どの価値に奉仕するのかまで問う」と示している。左上の青い欄「この論点の核心」では、平和研究も社会の権力関係から自由ではないこと、誰が研究資金を出すのか、誰が提言を実行できるのかは基本問題であること、それでも研究は特定の体制や勢力の利益だけに閉じ込められるべきではないこと、研究の自律性と多様な立場の対話が重要であることを、緑のチェック付きで4点に整理している。欄の下には、本を前に考える人物のイラストと「問い続けることがよりよい平和への一歩となる」というメッセージがある。中央上の大きな欄「注33 資金・実行主体・研究の自律性」では、まず「誰が研究資金を出すのか?」「誰が提言を実行できるのか?」「研究は権力からどこまで自律できるのか?」という三つの問いが吹き出しで示されている。その下の図では、左に資金提供者として政府、財団、大学、国際機関など、中央に研究機関として大学・研究所など、右に政策提言として報告書・提言・知見の発信、さらにその先に実行主体として政府、国際機関、市民組織などが並び、矢印でつながれている。研究機関の下には赤い帯で「権力や資源の偏りの影響」と書かれ、研究がさまざまな力関係の中にあることを示している。右側の緑の欄「著者の姿勢」では、研究資源の偏りがあること自体は認めること、しかしそれだけで平和研究が支配体制の道具に必ずなるとは言えないこと、学問には人間の自己実現を妨げる暴力のメカニズムを探究する自律的な道が残されていること、の三点を整理している。その下に、知る・考える・対話するという文字が積まれた本のイラストがある。中央に赤い強調帯で「研究の社会的条件を問うことと、研究の自律性を否定することは別である」と大きく書かれている。左下のオレンジ色の欄「注34 平和研究は特定グループのイデオロギーではない」では、左側の赤い「誤解」として、『平和研究=ある陣営の主張そのもの』『特定のグループの利益にそのまま奉仕するもの』という二つの見方を示し、抗議する群衆のシルエットと「特定のイデオロギーとして固定」というラベルを添えている。中央には「価値の探究 ≠ 特定勢力への従属」と書かれ、その下に握手のイラストが置かれている。右側の緑の欄「この注の考え方」では、平和研究は価値の実現を促進する努力であること、その価値があるグループの利益と一致することはあっても、それだけで一つのイデオロギーと同一視はできないことを示している。最下部には「人間の可能性を広げる、公正、非暴力、尊厳などの価値は、特定グループの所有物ではない」とある。右下の緑色の欄「注38 一つの旗に集めなくてよい――多元主義の重視」では、中央の地球に「人間の可能性を守る実践」と書かれ、その周囲に市民運動、労働相談、貧困対策、差別是正、医療支援、教育、地域活動、権力監視など、さまざまな実践の丸いラベルが放射状に配置されている。右側には、①重要なのは実際に行動が行われること、②異なるアプローチ同士がコンタクトし学び合うこと、③イデオロギー的・制度的多元主義から利益を得ること、の三点が番号付きで示されている。赤い注意欄では「すべてを『平和研究』という一つの旗の下にまとめる必要はない」と強調し、その下に「“名乗ること”より、“実際に人間の可能性を守ること”が重要」と書かれている。下段の青い帯「3つの注記をつなぐと何が見えるか」では、①注33=研究の社会的条件を問う、②注34=研究の価値と特定勢力の利益を区別する、③注38=多様な実践と多元主義を認める、という三つの視点が矢印でつながれ、その先に赤いまとめ欄で「平和研究は、権力を問いつつ、自律性と多元性を守る実践的な知の営みである」と示されている。最下部の濃い青のまとめ欄では、「注33・34・38が示すのは、平和研究それ自体も権力関係の外にあるわけではない、ということです。しかし同時に、研究を特定の体制や一つの旗に従属させず、人間の実現可能性を妨げる仕組みを、多様な立場から探究し続ける道も開かれているのです」と大きくまとめられている。右下には地球儀とともに「知の力でよりよい平和な未来へ」とあり、全体として、平和研究の資金、実行主体、価値、多元性、自律性を一枚で整理した教育的ポスターになっている。

11.四つの図と一つの表は、それぞれ何をしているか

図表論文中の機能読む際の注意
図1「暴力の類型化」暴力を複数の軸から捉える排他的な種類の一覧ではない。肯定的/否定的の軸は省略されている
図2「時間と2つのタイプの暴力」事件としての変動と、構造としての持続を示す実測値ではなく概念的な図
表1「個人的・身体的暴力の類型」身体を破壊する作用と、機能条件を奪う作用を整理する暴力全体の網羅的分類ではない
図3「社会秩序のイメージ」アクターの内部にも構造がある入れ子関係を示すランクとレベルを混同しない
図4「暴力と平和の拡張された概念」二種類の暴力と二種類の平和を対応させる二つの平和の順序や優劣を表すものではない

図表は、分類、時間、作用、社会構造、結論という別々の仕事を担っています。

12.この論文は、何を論証し、何を未解決のまま残しているか

なお、ガルトゥングの理論を現在の平和研究から再評価する研究も続いています。2026年には、PRIOの研究者らを含む研究者によって、構造的不平等、文化、暴力に関するガルトゥングの理論を、現代の実証研究と照らして検討する研究も公表されています。

本論文は、統計的な検証を中心に据えた実証論文ではありません。定義、概念の区別、例示、思考実験、反論の検討を通じて、研究課題を組み替える理論論文です。

主張の種類を分けると、評価しやすくなります。

主張の種類例評価のポイント
定義上の提案暴力を実現可能性の阻害として捉える概念として明確か、見落としを減らせるか
分析上の区別個人的/構造的暴力現実の異なる作用経路を説明できるか
経験的な仮説権力集中の仕組みが不平等を維持する比較調査や事例研究による検証が必要
規範的な主張二種類の暴力をともに減らすべきである価値判断と実行可能性を検討する
研究上の提案両方を減らす手段を開発する具体的な方法と成果に展開できるか

この区別を踏まえると、主に五つの課題が残ります。

「12.この論文は、何を論証し、何を未解決のまま残しているか」という題のインフォグラフィック。上部では、この論文は統計的検証を中心とした実証論文ではなく、定義、概念の区別、例示、思考実験、反論の検討を通じて、平和研究の問いを組み替える理論論文であると説明している。左上の「この論文の性格」では、ガルトゥングが何が問題なのかを考え直し、新しい問いを開くことを目的としていることを示し、定義、概念の区別、例示、思考実験、反論の検討という方法が積み重ねられている。中央上の「主張の種類と評価のポイント」では、五つの主張を整理している。第一は「定義上の提案」で、暴力を人間の実現可能性を妨げる作用として捉えること。第二は「分析上の区別」で、個人的暴力と構造的暴力を分けること。第三は「経験的な仮説」で、権力集中の仕組みが不平等を維持するという見通し。第四は「規範的な主張」で、二種類の暴力をともに減らすべきだという価値判断。第五は「研究上の提案」で、両方の暴力を減らす手段を開発すること。それぞれについて、概念として明確か、現実の作用経路を説明できるか、比較調査や事例研究で検証できるか、価値判断と実行可能性をどう考えるか、具体的方法へ展開できるかという評価の観点を示している。右上の「現在も続く再評価」では、PRIOなどでガルトゥング理論を現在の平和研究から再評価する研究が続いていること、2026年にも構造的不平等、文化、暴力に関する理論を現代の実証研究と照らして検討する研究が公表されていることを示している。中央の大きな欄「この論文が残した五つの課題」では、未解決の論点を五つに整理している。第一は「実現可能性の基準を、どう決めるのか」で、どの資源が利用可能なのか、どの時間範囲で実現可能と考えるのか、異なる目標の間で資源をどう配分するのかという問いが残り、問題は認識されているが一般的な測定法までは示されていないとする。第二は「不平等から被害に至る因果関係を、どう立証するのか」で、差が観察されるだけでは不十分であり、どの制度や関係がどの被害をどの程度生み、それがどのように回避可能だったかを比較調査や事例研究で検証する必要があると示している。第三は「広い暴力概念の説明力と、境界の曖昧さをどう扱うか」で、殺傷から報酬による誘導まで扱えるため見落としを減らせる一方、性質や深刻さの異なる問題をすべて『暴力』と呼ぶ危険があることを示し、身体的被害、心理的被害、自由の制約、資源へのアクセス、被害の継続性などを区別して用いる必要があると説明している。第四は「論理的な可能性と、実証的な証明には距離がある」で、第4節が『必ずそうなる』という命題への反論として別の状態を想像できることや一般化の根拠不足を示している一方、それだけで二種類の暴力の経験的関係が十分に確定したわけではなく、『経験的にも独立』という結論にはさらに検証が必要だと示している。第五は「両方の平和を求める方針から、具体的な選択基準への橋が残る」で、非暴力的変革を求める方針は明確でも、差し迫った被害、厳しい抑圧、限られた選択肢の中で何を選ぶかという完成した判断手順は提示されておらず、両立の実現条件を探る課題として残されていると説明している。下部の「本論文の射程と限界」では、論証していることとして、暴力を実現可能性の阻害として捉える理論枠組み、個人的暴力と構造的暴力の区別、二種類の暴力をともに減らすべきだという規範的主張、非暴力的変革の可能性の探究、平和研究の課題を広げる理論的枠組みを挙げる。一方、未解決のまま残ることとして、実現可能性の測定方法、不平等から被害に至る因果関係の立証、広い暴力概念の境界設定、経験的関係のさらなる検証、具体的な政策選択の基準や手順を挙げている。最下部では、道標の立つ道を歩く人物とともに「問いは終わっていない。だからこそ、研究は続いていく」と示し、この論文は結論で終わるのではなく、よりよい平和をつくるための思考と研究の出発点を示しているとまとめている。

① 実現可能性の基準を、どう決めるのか

どの資源が利用可能なのか。どの時間範囲で実現可能と考えるのか。異なる目標の間で資源をどう配分するのか。

著者は問題を認識していますが、一般的な測定法までは提示していません。

「① 実現可能性の基準を、どう決めるのか」という未解決課題を整理したインフォグラフィック。上部タイトルは「実現可能性の基準を、どう決めるのか」で、副題に「『実現可能だったのに実現されなかった』と言うためには、何を基準に“実現可能”と判断するのかを考える必要がある」と示されている。左端の「この論点の核心」では、暴力を“実現可能性の阻害”として定義するなら、まず何が実現可能だったのかを決める必要があり、その判断には資源、時間、技術、制度、社会条件の検討が欠かせないこと、しかし著者は一般的な測定法までは提示していないことを説明している。下には「潜在的な可能性」と「現実の達成」の間の差を、どのように評価するのかという図がある。中央左の「実現可能性を決める三つの問い」では、第一に「どの資源が利用可能なのか」として、知識、技術、財源、医療、教育、人手、制度などを挙げ、利用できる資源が異なれば達成可能な水準も変わると示す。第二に「どの時間範囲で考えるのか」として、今日できること、数年で可能なこと、長期的に可能なことを区別し、短期には不可能でも制度改革によって中長期には可能になる場合があると説明する。第三に「複数の目標の間で資源をどう配分するのか」として、医療、教育、福祉、住宅、安全など複数の分野を示し、一つの分野に資源を多く回せば別の分野の可能性にも影響すると説明している。中央の「図でみる“実現可能性”の判断」では、利用可能な資源・技術・制度・社会条件から「達成できたはずの水準(潜在的な実現可能性)」を考え、それを「現実の達成」と比較し、その差が回避可能だったのかを問う流れを縦の矢印で示している。赤い注意欄では、「差があるだけでは暴力とは言えない。重要なのは、その差が社会的・政治的に避けることのできたものだったかどうか」と強調している。右中央の「なぜ難しいのか」では、資源は誰にとって利用可能だったのか、地域や時代によって条件が違うこと、何を“達成すべき水準”とみなすかには価値判断が含まれること、複数要因が絡むため一つの数値で測りにくいことを整理している。医療資源の乏しい社会と医療資源の充実した社会の比較図もあり、同じ課題でも利用可能な条件によって評価が変わることを示している。右端の「この論文が残した課題」では、実現可能性を測る一般的方法は未整備であること、具体的な地域・時代・分野ごとに比較調査や事例研究が必要であること、実現可能性の判断には規範的判断も混ざるため純粋な技術測定だけでは決められないこと、だから理論だけでなく実証研究との接続が必要だと説明している。最下部のまとめでは、「この論文は“実現可能性”という重要な問いを開いたが、『何がどこまで可能だったのか』を判断する一般的な基準までは示していない。問われるのは結果の差だけでなく、その差が回避可能だったのかを見極める基準である」と大きく結論づけている。

② 不平等から被害に至る因果関係を、どう立証するのか

本論文は、権力の不平等が生存や健康の格差を生む経路を示します。

しかし実際の調査では、差が観察されるだけでは不十分です。どの制度や関係が、どの被害を、どの程度生み、その被害がどのように回避可能だったかを調べる必要があります。

② 不平等から被害に至る因果関係を、どう立証するのか」という論点を整理したインフォグラフィック。上部タイトルは「不平等から被害に至る因果関係を、どう立証するのか」で、副題として「差があると分かっただけでは足りない。制度・関係・被害・回避可能性をつないで検証する必要がある」と示されている。左上の「この論点の核心」では、本論文が権力の不平等から生存や健康の格差が生まれる経路を示している一方、実際の調査では単に『格差がある』という観察だけでは因果関係の立証にはならず、どの制度や関係が、どの被害を、どの程度生み、その被害が回避可能だったかまで検討する必要があると説明している。中央上の「ありがちな誤り」では、『低所得層の健康状態が悪い→だから不平等が健康被害を生んだに違いない』という短絡的な推論を示し、大きく「差の観察≠因果関係の立証」と強調している。右側の「必要な検証」では、どの制度・環境・労働条件・居住条件が作用したのか、他の要因は何か、影響の大きさはどの程度か、改善可能だったか、という四点をチェック項目として示している。中央の「因果関係を立証するための流れ」では、不平等から被害に至るまでを五段階で整理している。第1段階「不平等の構造を確認」では、権力の偏り、所得格差、教育機会の違い、医療アクセスの差、住環境の偏りなどを確認する。第2段階「作用する制度・関係を特定」では、雇用制度、住宅政策、医療制度、差別慣行、情報格差など、格差を被害へつなぐ仕組みを特定する。第3段階「生じた被害を確認」では、疾病・健康悪化、早死、学習機会の欠如、安全の喪失、生活不安など、具体的な結果を調べる。第4段階「因果の強さを検討」では、地域や階層の比較、時系列分析、制度変更前後の比較、事例研究、統計分析、聞き取りなどを用いて、制度や関係と被害とのつながりを検証する。第5段階「回避可能性を検討」では、別の制度設計、資源配分の見直し、支援策の有無、実現可能性などを検討し、その被害を減らすことが可能だったかを問う。左下の「何を調べるべきか」では、どの制度や関係が関わっているか、どの被害が生じているか、その影響はどの程度か、その被害は回避可能だったか、の四点を示し、「観察された差を、そのまま『暴力』と断定するのではなく、仕組みと結果を丁寧につなぐ必要がある」と説明している。中央下の「立証のための主な視点」では、比較、時系列、事例研究、聞き取り、政策評価の五つを挙げ、地域差・階層差・制度差を見ること、制度変更の前後を比べること、具体的な被害経路を追うこと、当事者経験から見えにくい仕組みを明らかにすること、別の選択肢があったかを検討することを整理している。右下では、「多角的な視点で、因果関係を丁寧に検証しよう」と示し、より公正な社会へ向かう道と都市のイラストが描かれている。最下部のまとめでは、「不平等から被害に至る因果関係を立証するには、格差の存在を見るだけでは足りない。制度・関係・被害・回避可能性を結びつけて検証することが必要である」と大きく強調し、平和研究は見える差を数えるだけでなく、その差を生む仕組みと、被害を減らし得た可能性を問うとまとめている。

③ 広い暴力概念の説明力と、境界の曖昧さをどう扱うか

殺傷から報酬による誘導までを一つの概念に含めることで、見落とされてきた問題を扱えます。

一方、性質や深刻さが大きく異なる問題を、すべて「暴力」と呼ぶ危険もあります。

そのため、実際に使うときには、身体的被害、心理的被害、自由の制約、資源へのアクセス、被害の継続性などを区別する必要があります。

「③ 広い暴力概念の説明力と、境界の曖昧さをどう扱うか」を解説するインフォグラフィック。上部タイトルは「3 広い暴力概念の説明力と、境界の曖昧さをどう扱うか」、副題は「見落としを減らす力と、何でも『暴力』と呼んでしまう危険の両方を考える」。左上の青い欄「この論点の核心」では、①暴力概念を広げると見えにくい被害も捉えられる、②ただし性質の異なる問題を全部ひとまとめにする危険がある、③説明力を保つには被害の種類と深刻さを区別する必要がある、④大切なのは「広く捉えること」と「丁寧に区別すること」の両立である、という4点を示している。中央上の緑の欄「広い暴力概念が見えるようにするもの」では、左から右へ「より直接的・可視的」から「より構造的・間接的・見えにくい」へ向かう矢印の上に、暴力概念が捉える対象が並ぶ。具体的には、身体への直接的加害(殺傷・暴行)、脅し・威嚇、拘束・自由の制約、資源や機会へのアクセス遮断、報酬による誘導・別の可能性の縮小、の5種類が図とともに示されている。右上の赤い欄「境界が曖昧になる危険」では、①性質の大きく違う問題が同じ重さに見えてしまう、②深刻さの違いがぼやける、③何でも「暴力」と呼んで説明力が弱くなる、の3点を挙げ、最後に「広げすぎると、概念がぼやける」と強調している。左下の青い欄「広い概念の説明力」では、①殺傷だけでは見えない被害を捉えられる、②構造や制度による不利益も可視化できる、③「苦痛が少ないから問題がない」とは言えないことを示せる、と整理し、下部に「見えにくい支配・誘導・排除を分析できる」とまとめている。中央下から右下にかけての大きな欄「実際に使うときに区別すべき視点」では、同じ「暴力」でもどのような被害か、どの程度深刻かを区別して分析すべきだとして、5つの視点を示している。1つ目は「身体的被害」で、けが、死、身体機能の破壊など生命や身体への直接的ダメージ。2つ目は「心理的被害」で、恐怖、威圧、精神的圧迫など心の健康や精神的安定を損なう被害。3つ目は「自由の制約」で、拘束、監視、選択肢の縮小など行動や選択の自由を制限するもの。4つ目は「資源へのアクセス」で、教育、医療、食料、住居、所得など生きるために必要な資源や機会に近づけない状態。5つ目は「被害の継続性」で、一時的か、長期的か、再生産されるか、どのくらいの期間続くか、世代を超えて繰り返されるかを見る視点である。下部中央には、赤い欄「誤った使い方」として「すべてを同じ『暴力』と呼ぶ」「違いが見えなくなる」と示され、緑の欄「望ましい使い方」として「広く捉えつつ、被害の種類・深刻さ・経路を区別する」「見落としを防ぎつつ、分析の精度を保つ」と示されている。最下部の濃い青の帯では、「広い暴力概念の価値は、見えない被害を見つけることにある。だが、その力を保つには、身体的被害、心理的被害、自由の制約、資源アクセス、被害の継続性を区別して用いる必要がある。つまり、何でも暴力と言うためではなく、見落としを減らし、分析を深めるために概念を使う」と大きくまとめている。

④ 論理的な可能性と、実証的な証明には距離がある

第4節では、「必ずそうなる」という命題に対し、別の状態を想像できることや、一般化の根拠が不足していることを示します。

これは必然性への反論として有効です。

しかし、それだけで、二種類の暴力の経験的な関係が十分に確定するわけではありません。著者の「経験的にも独立」という結論は、提示された証拠に比べて強く述べられている部分があります。

「④ 論理的な可能性と、実証的な証明には距離がある」という論点を整理したインフォグラフィック。上部タイトルは「論理的な可能性と、実証的な証明には距離がある」で、副題として「『必ずそうなる』への反論はできても、それだけで現実の関係が十分に証明されたわけではない」と示している。左上の「この論点の核心」では、第4節が『一方が他方を必ず生む』という命題を検討し、別の状態を想像できることや一般化の根拠不足を示していること、これは必然性への反論として有効である一方、それだけで現実の因果関係が実証されたことにはならないと説明している。中央上の「第4節が実際にしていること」では、「必ずそうなる」と言い切れないこと、例外や別の可能性があること、一般法則とする根拠が弱いことを示す「論理的な反論」と、そこから得られる効果として「必然性の主張を崩す」「単純な一般化を止める」ことを矢印で示している。右上の「しかし、ここに限界がある」では、「論理的可能性」と「実証的証明」の間に赤い点線で距離を示し、論理的可能性は別の状態を考えられることや反例の可能性を示せることを意味するのに対し、実証的証明には、現実にどの関係が多いのか、どの条件で起きるのか、どの程度の頻度や規模か、どんな因果経路があるかを調べる必要があると整理している。下には「想像できること≠現実に十分確かめられたこと」と強調されている。左下の「なぜ実証には追加の作業が必要か」では、二種類の暴力の関係を経験的に語るためには、観察、比較、事例研究、データ検証、条件の特定が必要だと示し、「どの社会で?」「どの時代に?」「どんな条件で?」「どの程度そう言えるか?」という問いを挙げている。中央下の「著者の結論はどこが強いのか」では、「経験的にも独立」という結論について、本文で十分に示されている点として、普遍的必然性への反論、一方から他方を常に説明する理論への疑問、両方を独立した課題として扱う必要性を挙げる一方、なお追加検証が必要な点として、実際にどこまで経験的に独立と言えるのか、どの場面で相互連関が強いのか、どの関係が例外でどれが傾向なのかを挙げている。その下に「提示された証拠に比べると、結論の言い方はやや強い可能性がある」と注意を示している。右下の「この節をどう読むべきか」では、第4節は必然性を崩す論理として重要だが、それだけで現実の関係が確定したわけではないこと、論理的可能性と実証的証明を区別して読む必要があること、二種類の暴力の関係はさらに比較研究で確かめる課題が残ること、この節は「決着」ではなく研究を先へ進める足場であることを整理している。最下部のまとめでは、「第4節の価値は、『必ずそうなる』という思考をほどくことにある。だが、現実にどう関係しているかを確かめるには、なお実証研究が必要である」と大きく結論づけている。

⑤ 両方の平和を求める方針から、具体的な選択基準への橋が残る

非暴力的な変革を求めることは明確です。しかし、差し迫った被害、厳しい抑圧、限られた選択肢のもとで何を選ぶかについて、完成した判断手順はありません。

この論文は、その困難を消してはいません。両立を不可能と決めつけず、実現条件を探究する課題として残しています。

また、添付本文では「文化的暴力」は独立した第三の基本区分として定式化されていません。教化、内面化、イデオロギーへの言及はありますが、本文の分類は個人的暴力と構造的暴力が主軸です。トラウマの回復や調和も、この論文で体系的に展開された中心概念として扱うべきではありません。

「④ 論理的な可能性と、実証的な証明には距離がある」という論点を整理したインフォグラフィック。上部タイトルは「論理的な可能性と、実証的な証明には距離がある」で、副題として「『必ずそうなる』への反論はできても、それだけで現実の関係が十分に証明されたわけではない」と示している。左上の「この論点の核心」では、第4節が『一方が他方を必ず生む』という命題を検討し、別の状態を想像できることや一般化の根拠不足を示していること、これは必然性への反論として有効である一方、それだけで現実の因果関係が実証されたことにはならないと説明している。中央上の「第4節が実際にしていること」では、「必ずそうなる」と言い切れないこと、例外や別の可能性があること、一般法則とする根拠が弱いことを示す「論理的な反論」と、そこから得られる効果として「必然性の主張を崩す」「単純な一般化を止める」ことを矢印で示している。右上の「しかし、ここに限界がある」では、「論理的可能性」と「実証的証明」の間に赤い点線で距離を示し、論理的可能性は別の状態を考えられることや反例の可能性を示せることを意味するのに対し、実証的証明には、現実にどの関係が多いのか、どの条件で起きるのか、どの程度の頻度や規模か、どんな因果経路があるかを調べる必要があると整理している。下には「想像できること≠現実に十分確かめられたこと」と強調されている。左下の「なぜ実証には追加の作業が必要か」では、二種類の暴力の関係を経験的に語るためには、観察、比較、事例研究、データ検証、条件の特定が必要だと示し、「どの社会で?」「どの時代に?」「どんな条件で?」「どの程度そう言えるか?」という問いを挙げている。中央下の「著者の結論はどこが強いのか」では、「経験的にも独立」という結論について、本文で十分に示されている点として、普遍的必然性への反論、一方から他方を常に説明する理論への疑問、両方を独立した課題として扱う必要性を挙げる一方、なお追加検証が必要な点として、実際にどこまで経験的に独立と言えるのか、どの場面で相互連関が強いのか、どの関係が例外でどれが傾向なのかを挙げている。その下に「提示された証拠に比べると、結論の言い方はやや強い可能性がある」と注意を示している。右下の「この節をどう読むべきか」では、第4節は必然性を崩す論理として重要だが、それだけで現実の関係が確定したわけではないこと、論理的可能性と実証的証明を区別して読む必要があること、二種類の暴力の関係はさらに比較研究で確かめる課題が残ること、この節は「決着」ではなく研究を先へ進める足場であることを整理している。最下部のまとめでは、「第4節の価値は、『必ずそうなる』という思考をほどくことにある。だが、現実にどう関係しているかを確かめるには、なお実証研究が必要である」と大きく結論づけている。

13.この論文を使って現実を分析する際の、具体的な問い

以上の構造を、調査のための問いへ置き換えると、次のようになります。これは本文を踏まえた私の整理です。

分析段階問うこと
被害の確認誰の生存、健康、学習、自由、活動可能性が損なわれているか
回避可能性どの知識・資源・制度変更によって、その被害を減らせたか
作用経路具体的な加害行為か、配分や関係の構造か、両方か
権力の確認資源を配る人だけでなく、配り方を決める人は誰か
再生産の確認情報独占、孤立、序列の重なりなどが是正を妨げていないか
潜伏性の確認今は被害が小さくても、急激な悪化や支配の再形成が起きないか
手段の評価改善のための行動が、別の暴力や新しい支配を生んでいないか
当事者の権限当事者が、自ら判断し、結集し、決定に関われるか

この論文の結論を最もよく表すのは、末尾の一文です。

「両者ともを目標にすることによってこそ、平和研究は真の貢献を行うことができるのである。」

その「両者」とは、個人的暴力の不在と、社会的不正義の克服です。人を傷つける行為を止めること、そして人が傷つき続ける関係の仕組みを変えること。この二つを結びつける条件を探すために、論文全体が組み立てられています。

13.この論文を使って現実を分析する際の、具体的な問い」という題のインフォグラフィック。青と緑を基調に、ガルトゥングの議論を現実の調査と分析に使うための8つの問いとして整理している。上部タイトル下には「ガルトゥングの議論を、現実の調査と分析のための8つの問いに整理する」とある。左上の第1欄「この図のねらい」では、この論文は個人的暴力と構造的暴力の両方を視野に入れ、人が傷つく仕組みを分析し、変える条件を探るための理論であり、ここではその構造を現実調査で使える8つの問いに置き換えると説明している。下には「論文の理論 → 調査の問い → 現実分析」という流れが、本、チェックリスト、虫眼鏡のアイコン付きで示されている。

中央上の大きな欄「現実を分析する8つの問い」では、8つの色分けされたパネルが並ぶ。①「被害の確認」は赤色で、誰の生存、健康、学習、自由、活動可能性が損なわれているかを問う。家族のイラストと、心臓、書籍、車いすマークなどのアイコンが描かれている。②「回避可能性」はオレンジ色で、どの知識・資源・制度変更によって、その被害を減らせたかを問う。電球、本、制度を表す建物と文書の図がある。③「作用経路」は青色で、具体的な加害行為か、配分や関係の構造か、それとも両方かを問う。加害者のシルエットと、人のネットワーク図が矢印で結ばれている。④「権力の確認」は緑色で、資源を配る人だけでなく、配り方を決める人は誰かを問う。壇上で説明する人物と、「資源」「ルール」「制度」「意思決定」と書かれた札が描かれている。⑤「再生産の確認」は紫色で、情報独占、孤立、序列の重なりなどが是正を妨げていないかを問う。壁の前に座り込む人物と、「情報の独占」「孤立」「序列・差別」「是正の妨げ」と書かれた表示がある。⑥「潜伏性の確認」は水色で、今は被害が小さくても、急激な悪化や支配の再形成が起きないかを問う。芽が枯れかける植物と暗雲の絵で表現されている。⑦「手段の評価」は黄色で、改善のための行動が、別の暴力や新しい支配を生んでいないかを問う。天秤の片側に「改善のための行動」、もう片側に「別の暴力・新しい支配」が置かれている。⑧「当事者の権限」は桃色で、当事者が自ら判断し、結集し、決定に関われるかを問う。複数の人が話し合い、「私たちが決める」と吹き出しに書かれている。

左下の第3欄「8つの問いをどう使うか」では、1 被害を見つける、2 それが避けられたかを考える、3 原因が行為か構造かを見分ける、4 権力の偏りと再生産の仕組みを探る、5 改善の手段と当事者の参加を点検する、という5段階の使い方を整理している。横には虫眼鏡を持つ人物のイラストと、「事件だけを見るのではなく、その背後にある制度・配分・関係までたどることが重要です」「表面だけでなくその奥にある構造を見る」といった説明が添えられている。

右下の第4欄「この図が示す核心」では、青い枠に「人を傷つける行為を止める」、オレンジ色の枠に「人が傷つき続ける仕組みを変える」とあり、両者が双方向の矢印で結ばれている。前者は個人的暴力の不在、後者は社会的不正義の克服に対応し、論文全体はこの二つを結びつける条件を探るように組み立てられていると説明している。前者の枠には停止の手のマークと怯える人物、後者の枠には人々の集まりと公共建築・街並みが描かれている。

最下部の第5欄「引用とまとめ」では、開いた本のアイコンの横に、黄色い帯で「『両者ともを目標にすることによってこそ、平和研究は真の貢献を行うことができるのである。』」という論文末尾の引用が大きく示されている。その右には、この「両者」とは個人的暴力の不在と社会的不正義の克服であり、平和研究の課題は、暴力を止めることと、不正義を支える構造を変えることを切り離さずに考えることだと説明している。さらに下の青い帯では、「8つの問いで現実を見つめ、人を傷つける行為の停止と、傷つき続ける仕組みの変革の両方をめざそう」とまとめられている。全体として、ガルトゥング論文を実際の調査・分析のチェックリストへ置き換えた教育的な図解ポスターである。**