ヨハン・ガルトゥング論文 〈暴力・平和・平和研究〉の構造を分析する。
今、この本を読んで、ヨハンガルトゥングの平和学の基礎を学んでいます。

そして、この中にある論文を、分かりやすく分析して、自分の整理のためにも、皆様の理解も繋がればよいと思っています。
今回は、〈暴力 平和 平和研究〉です。

この本稿で取り上げる原論文は、ヨハン・ガルトゥングが1969年に Journal of Peace Research に発表した “Violence, Peace, and Peace Research” です。同論文は、直接的暴力と構造的暴力、消極的平和と積極的平和という議論を体系的に展開した、ガルトゥングの代表的論文の一つです。
目次
- 1 エピローグ この論文〈暴力 平和 平和研究〉の核心
- 2 1.論文全体は、どのように組み立てられているか
- 3 2.第1節の構造――「平和」という言葉を、研究に使える概念へ変える
- 4 3.第2節前半――暴力を「潜在的な実現可能性を妨げる作用」として定義する
- 5 4.第2節中盤――暴力を分解する六つの軸
- 6 5.第2節後半――なぜ構造的暴力は見えにくいのか
- 7 6.第3節前半――直接的暴力を、手段と組織の問題として捉える
- 8 7.第3節後半――構造的暴力を維持する六つの仕組み
- 9 8.第4節――二種類の暴力の関係を、六つの問いで検証する
- 10 9.第5節――平和の二つの側面を、対等な目標として定義する
- 11 10.注記にある、論文を深く読むための重要論点
- 12 11.四つの図と一つの表は、それぞれ何をしているか
- 13 12.この論文は、何を論証し、何を未解決のまま残しているか
- 14 13.この論文を使って現実を分析する際の、具体的な問い
エピローグ この論文〈暴力 平和 平和研究〉の核心
この論文の核心は、人間を傷つける作用を、目に見える加害行為と、社会の仕組みによる被害の双方から捉え直し、その両方を克服することを平和研究の課題に据えることです。
「消極的平和と積極的平和を区別した論文」として読むだけでは、議論の重要な部分を取り逃がします。著者は、その区別に至るまでに、暴力の定義、被害を生む仕組み、二種類の暴力の関係、変革手段の妥当性を順に検討しています。さらに、非暴力を理由に不正義を放置することにも、正義を理由に暴力を正当化することにも批判を向けています。
この論文で示された直接的暴力、構造的暴力、消極的平和、積極的平和という考え方を、日本国憲法や現代の政治へどのようにつなげることができるのかについては、別稿「平和学から日本国憲法をつなぐ、幸福と安心づくりの政治の在り方」で詳しく検討しています。

以下、添付文書の本文・図表・注記に基づき、原論文の第1~第5節に沿って分析します。原文の主張と、そこから導く私の解釈・批判は区別して述べます。
1.論文全体は、どのように組み立てられているか
全体は、五つの段階で構成されています。
| 原論文の節 | 中心的な問い | 論証上の役割 | 次節に渡すもの |
|---|---|---|---|
| 第1節「導入」 | 平和を研究するには、何を明確にすべきか | 平和概念の構築方針を示す | 暴力を定義する必要 |
| 第2節「『暴力』の定義および諸次元について」 | 何を暴力と呼ぶのか | 共通の定義と六つの区別を提示する | 個人的暴力/構造的暴力という基本区分 |
| 第3節「個人的暴力および構造的暴力の手段」 | 暴力は、どんな仕組みで人を傷つけるか | 抽象的な概念を具体的な作用機序に下ろす | 身体への作用と、権力・資源配分の構造 |
| 第4節「個人的暴力と構造的暴力との関係」 | 二種類の暴力は、互いに必要なのか | 還元論・不可避論・一方優先論を検討する | 両方を独立した課題として扱う根拠 |
| 第5節「『平和』および『平和研究』の定義について」 | どのような平和を、どう研究するか | 消極的平和と積極的平和を定式化する | 両者をともに実現する研究・行動の方針 |
この順序には意味があります。
著者は最初から「積極的平和が大切だ」と主張するのではなく、まず、従来の暴力概念では、避けられるはずの人間の被害が見落とされることを示します。その見落としを修正した結果として、平和概念も拡張される、という構成です。

したがって、論証の土台は第2節、両方の平和を追求する根拠を固める部分は第4節、結論は第5節にあります。
2.第1節の構造――「平和」という言葉を、研究に使える概念へ変える
第1節は、単なる前置きではありません。どのような定義なら研究に役立つのか、という方法論を示しています。

① 出発点は、「平和」という言葉の使われ方への疑問
著者は、技術協力、貿易、観光、教育、工業化など、さまざまな政策が「平和に役立つ」と説明されることを指摘します。
問題は、政策と平和の関係が実証されていなくても、その言葉が政策の正当化に使えることです。
ここには、二つの異なる作用があります。
| 「平和」という言葉の作用 | 著者の評価 |
|---|---|
| 共通の目標や連帯感を生み出す | それ自体に有益な面がある |
| 政策の実態を検証せず、賛同を得る | 研究上は不十分である |
著者は、曖昧な言葉を全面的に否定してはいません。ただし、人を結びつける言葉として有効であることと、現実を分析する概念として有効であることは別問題だと考えています。

② 平和概念に三つの条件を設ける
本文の三原則は、次のように整理できます。
- 多くの人が社会的目標として了解できること。
- 実現が困難でも、不可能な目標ではないこと。
- 「平和は暴力の不在である」という関係を保持すること。
三番目について、著者自身が、これだけでは定義にならないと明言しています。暴力が何なのかを決めなければ、平和の内容も決まらないからです。
これが第2節への接続になります。

③ 平和を、唯一の理想社会と同一視しない
第1節の重要な表現は、平和的な社会秩序を「点ではなく領域」として考えることです。
これは、平和を実現する社会の形が一種類に限られない、という意味です。暴力がないという条件のもとでも、文化、生活様式、制度には多様なあり方が残ります。
この考え方は、論文末尾の注38にある、研究や実践の多元性を認める姿勢につながっています。

コラム:注38の述べていること
注38でガルトゥングは、暴力を減らし、社会的正義を実現するための研究や実践が、すべて「平和研究」の旗のもとで行われる必要はないと述べています。
注38
もちろん、このすべてまたは大部分または多くが、そのことのために、「平和研究」の旗の下あるいは他のどんな旗のもとにも航海する必要はない。少しばかり全体主義的観念の持ち主が、そう感じる傾向があるということだけである。重要なことは、そのことが行われ、異なるアプローチ間でコンタクトがあり、それらや他のアプローチがイデオロギー的・制度的多元主義から利益を得ることである。
たとえば、労働相談、貧困対策、差別の是正、教育、権力の監視などは、それぞれの立場から、人間の生存や可能性を守る仕事になり得ます。「平和研究」と名乗ることが、その価値の条件になるわけではありません。
著者が重視するのは、仕事が実際に行われ、異なるアプローチが交流し、思想や制度の多様性から互いに学ぶことです。関連する活動を一つの旗のもとに集めようとする発想には、「全体主義的」という強い言葉で警戒を示しています。
ただし、これは、どのような思想や行動も無条件に肯定するという意味ではありません。個人的暴力と構造的暴力の双方を克服するという目標を、一つの学派や組織が独占しないということです。
平和な社会の形が一つに限られないように、その実現を探究する方法や担い手も一つに限られない。 注38は、第1節の「点ではなく領域」という考え方に通じる姿勢を、研究と実践のあり方にも示しています。

④ 定義そのものが、研究と行動の方向を決める
暴力を殺傷だけと定義すれば、研究は戦争や犯罪に集中します。暴力に資源配分や意思決定の問題まで含めれば、研究対象も変わります。
したがって、この論文の定義は辞書的な意味の確定ではありません。
何を問題として発見し、何を変革の対象とするかを決める、研究上の選択です。
ただし、この選択には規範的な判断が含まれます。ここは後の批判的検討で重要になります。

3.第2節前半――暴力を「潜在的な実現可能性を妨げる作用」として定義する
この論文で最も基礎的な箇所です。
著者は、人間の現実の身体的・精神的な達成が、その人の潜在的な実現可能性を下回るような影響を受けるとき、暴力が存在すると述べます。
さらに、その意味を、潜在的なものと現実との距離を拡大すること、またはその距離の縮小を阻害することとして説明します。

① 「差があること」と「差を生む作用」を区別する
ここは丁寧に読む必要があります。
理解のために整理すると、
- 潜在的な実現可能性:利用できる知識や資源によって、達成できる水準。
- 現実の達成:実際に生存し、健康であり、学び、行動できている水準。
- 暴力:その間の回避可能な隔たりを生み、広げ、維持する作用。
となります。
したがって、「理想に届かないことはすべて暴力だ」という意味ではありません。何が実現可能だったのか、なぜ実現できなかったのか、その阻害は回避可能だったのかを問う定義です。

② 結核死の例は、「同じ結果でも評価は歴史的条件によって変わる」ことを示す
著者は、18世紀の結核死と、医学的資源が存在する時代の結核死を対比します。
前者では救命がほとんど不可能だったとしても、後者では治療を受けられない仕組みが死をもたらしている可能性があります。
ここで注目しているのは、死亡という結果だけではなく、救える条件が存在したにもかかわらず、その条件が当人に届かなかったことです。
ただし、この例は一般的な考え方を示すものです。個々の死亡を暴力と判定するには、実際の治療可能性などの検討が必要です。

③ 自然災害については、本文だけでなく注3を読む必要がある
本文では、地震による死亡が例に出されます。しかし注3は、その理解を大きく補います。
同じ地震でも、ある人は堅固な住宅に住み、別の人は崩れやすい住宅に住んでいる。地震そのものが避けられなくても、社会的条件による被害の格差は避けられたかもしれない、と述べています。
つまり、
自然現象の不可避性と、人間の被害の不可避性は同じではない。
この区別が、災害を社会構造の問題として分析する入口になります。災害の社会的被害への着目は、後から付け加えた応用ではなく、この論文の注記にすでに存在しています。

④ 戦争にも、直接的な破壊と資源の転用という二つの被害がある
第2節は、戦争が人を殺傷することに加えて、人間の生活を改善するために使えた知識や資源を奪うことにも言及します。
前者は、人間の能力を直接破壊する作用です。後者は、その能力を実現する手段を不足させる作用です。
ただし、ここから個別の軍事支出の評価を直ちに導くことはできません。具体的な分析には、代替的な資源配分と、それぞれの結果を検討する必要があります。

⑤ 著者は、この定義の難点も認めている
身体的な生存や健康に比べ、精神的な実現可能性の内容については、合意が難しくなります。
本文では識字とキリスト教信仰を対比します。識字の機会を広げることには比較的広い合意が得られるとしても、特定の宗教への帰属を「実現すべき可能性」として一般化することはできません。
ここで著者が残している問題は、
誰が、人間の実現すべき可能性を決めるのか。
という点です。本人の自由を守ろうとする理論が、本人に代わって望ましい生き方を決めてしまう危険を、この定義は抱えています。

4.第2節中盤――暴力を分解する六つの軸
六つの区別は、六種類の暴力を並べたものではありません。同じ事象を複数の角度から捉えるための分析軸です。
| 分析軸 | 区別 | 見えるようになる問題 |
|---|---|---|
| 作用する側面 | 身体的/精神的 | 殺傷以外の威嚇、教化、心理的拘束 |
| 影響の与え方 | 否定的/肯定的 | 罰による統制と、報酬による誘導 |
| 客体の有無 | 客体がある/ない | 直接の被害が生じる前の誇示や脅威 |
| 主体のあり方 | 個人的・直接的/構造的・間接的 | 特定の加害行為と、関係の仕組みを通じる被害 |
| 意図 | 意図的/非意図的 | 悪意がなくても生じる被害 |
| 現れ方 | 顕在的/潜伏的 | 現在の被害と、容易に被害が発生する状態 |

① 身体的/精神的――暴力の対象は身体だけではない
身体を傷つけることに加え、脅しや教化などによって精神的な可能性を狭めることも分析対象になります。
また、身体と精神の区分は完全ではありません。身体的拘束は精神に作用し、心理的な操作は身体的な行動を制限するからです。

② 否定的/肯定的――「肯定的」は、望ましいという意味ではない
この区別は誤解されやすい部分です。
否定的とは、罰や不利益によって行動を制限すること。肯定的とは、報酬や快楽によって行動を一定方向に誘導することです。
著者は消費社会を例に、報酬を与えられる行動へ人間が誘導されることで、別の可能性が狭められる場合を考えています。
したがって、人が苦痛を訴えていないことだけでは、その人の可能性が妨げられていないとは言えないという論点です。
もっとも、報酬があるという理由だけで暴力になるわけではありません。可能性をどのように、どの程度阻害しているかの説明が必要です。

③ 客体の有無――実際の打撃がない場合も検討する
武器の誇示や暴力の予告は、まだ人を傷つけていなくても行動を制約します。
ここでの「客体がない」は、影響を受ける人間が一切いないという意味で読むと混乱します。直接の打撃の対象がなくても、威嚇を受ける人は存在し得るからです。
この部分は、完結した加害行為に至る前の作用を、どう暴力概念に位置づけるかを試みている箇所と読むのが適切です。

④ 個人的/構造的――論文全体の主軸
「個人的」は、私的な暴力や一人による暴力だけを意味しません。軍隊や集団による殺傷も、具体的な行為を通じて人を傷つけるなら、この区分に含まれます。注13も、この点を補足しています。
構造的暴力では、被害が権力、資源、教育、医療などの配分や関係の組み方を通じて生じます。
特に重要なのが、
資源がどう分配されているかだけでなく、その分配を決める権限が誰にあるか。
という問いです。
なお、「構造的暴力にはアクターが存在しない」という表現を、「誰にも責任がない」と読むべきではありません。第4節では、構造が人々の行動によって維持されることを明示しています。
区別されているのは、人間の関与の有無というより、被害が生じる経路です。

⑤ 意図的/非意図的――悪意の有無から、被害の作用へ
意図に注目するだけでは、誰も積極的に害そうとしていないのに生じる被害を見落とします。
この論文の関心は、悪意のある人物の発見だけではなく、実際に人間の可能性を阻害している作用の把握にあります。
ただし、これは、意図が責任判断に不要だと論証したものではありません。被害を分析する問いと、個人の責任を判断する問いを分けていると理解する必要があります。

⑥ 顕在的/潜伏的――一時的な静けさと、持続可能な平和を区別する
わずかなきっかけで虐殺が起こる社会には、実際の殺傷が始まる前から、潜伏的な個人的暴力があります。
同様に、平等を掲げる革命の後でも、組織が高度な命令服従関係を備えていれば、権力が再び集中する条件が残り得ます。
これは、現在の状態だけでなく、その状態を崩す仕組みが残っていないかを見る分析です。
なお、「潜在的な実現可能性」と「潜伏的な暴力」は別概念です。前者は達成できる水準、後者は暴力が容易に現れる状態を指します。

5.第2節後半――なぜ構造的暴力は見えにくいのか
分類のあとに、著者は認識の問題を扱います。
個人的暴力は事件として現れ、誰が何をしたかを描写しやすい。一方、構造的暴力は、日常の制度や慣行として持続するため、自然な状態として受け入れられやすいと説明します。
添付の図2は、この違いを、突発的な変動と、持続する曲線によって示しています。

これは実測データのグラフではなく、両者の時間的な現れ方を示す概念図です。
ここから導ける重要な解釈は、
事件の少なさと、被害の少なさは一致しない。
ということです。
また、著者は構造的暴力が常に見えないとも言っていません。変化の大きい社会では、変化を妨げる構造の方が目立つこともあると述べています。可視性は、その社会の状態にも左右されます。

6.第3節前半――直接的暴力を、手段と組織の問題として捉える
第3節は、定義から因果的な仕組みの説明へ移ります。
著者は、個人的暴力を、武器という道具と、軍隊などの組織を備えた「生産関係」に類比します。
ここでの狙いは、暴力を個人の感情や性格だけで説明せず、人を傷つける能力が技術と組織によって増幅されることを見る点にあります。
表1は、身体に対する作用を、大きく二つに分けています。
| 作用の型 | 内容 | 分析上の意味 |
|---|---|---|
| 身体そのものを破壊する | 身体に直接損傷を与える | 生存・活動の基盤を壊す |
| 身体が機能する条件を奪う | 空気、水、食料、運動などを制限する | 身体を直接破壊せずに能力を奪う |

この分類の意味は、手段が異なっても、人間の生存や活動可能性が失われるという共通性を示すことです。
そして、この考え方が後半につながります。構造的暴力も、別の経路を通じて、人が生き、活動する条件を奪うからです。

7.第3節後半――構造的暴力を維持する六つの仕組み
ここは、この論文を制度分析に使ううえで特に重要な部分です。
著者の問いは、
直接殴ったり脅したりしなくても、なぜ不平等な関係は持続するのか。
です。
まず、五つの概念を導入します。
| 概念 | この論文での役割 |
|---|---|
| アクター | 目標を追求する主体。個人、組織、国家など |
| システム | アクターが相互作用する関係 |
| 構造 | 複数のシステムを含む関係の全体 |
| ランク | 各システムにおける高位・低位 |
| レベル | 個人、地域、国家など、入れ子になった分析段階 |
特に、ランクとレベルは異なります。ランクは関係内部の上下、レベルは分析対象の入れ子の段階です。図3は、一つのアクターの内部にも、さらに構造があることを示しています。
そのうえで、不平等を維持する六つの要因を挙げます。
| 要因 | 意味 | 不平等を維持する作用 |
|---|---|---|
| ① 線型のランク付け秩序 | 誰が誰より上かが、一つの序列に定まる | 別の評価や対等な関係の余地が狭まる |
| ② 非環の相互作用パターン | 関係を結ぶ経路が限られ、迂回する結びつきが乏しい | 下位者が上位者を介さずにつながりにくい |
| ③ ランクと中心性の相関 | 高位者ほどネットワークの中心にいる | 情報や交流の仲介が権力を強める |
| ④ システム間の相同 | 異なる領域でも似た関係構造が繰り返される | 同じ服従様式が生活の各領域に及ぶ |
| ⑤ ランク間の一致 | ある領域の高位者が、別の領域でも高位になる | 優位と不利が重なり、相互に補強される |
| ⑥ レベル間における高ランクの連結 | 下位レベルのトップが、上位レベルへの代表・窓口になる | 内部の支配と外部へのアクセスが結びつく |

① 六つの要因は、単独よりも組み合わさることで強く作用する
たとえば、経済的な優位が政治的な発言力につながり、その発言力が情報へのアクセスを強め、さらに経済的優位を守る場合です。
このとき、不平等は一つの領域だけにとどまらず、別の領域を通じて再生産されます。
著者は、資本制社会へのマルクス主義的批判と、社会主義社会への自由主義的批判を並べています。したがって、対象は特定の体制だけではありません。ある領域の権力が、他の領域の権力まで独占する構造が問題です。

② 構造的暴力は、弱い立場の人の「対抗する力」も奪う
著者は、下位の人々が孤立し、組織化や交渉の機会を奪われる点を強調します。
生活条件が悪いだけでなく、その条件を改善するための結集、交渉、意思表示も難しくなる。
したがって、この節の因果関係は、
権力の偏りが資源配分を偏らせ、その結果が、偏りを是正する力をさらに弱める。
という循環として読めます。

③ 改善の方向は、権力が集中する関係を変えることにある
本文は六つの要因を逆から検討し、下位者同士の直接的な交流、領域ごとの序列の不一致、関係構造の多様性などが、支配の固定を弱め得ると述べています。
ただし、これらは完成した制度設計ではありません。どの条件で有効になるかを研究するための仮説です。
また、著者は、特別な予防がなければ社会システムは六つの仕組みを強める傾向があると述べますが、この一般化は本文中で十分に実証されてはいません。

8.第4節――二種類の暴力の関係を、六つの問いで検証する
この節が、論文の論証の要です。

分類だけなら、「両者は結局同じだ」「一方をなくせば他方もなくなる」「一方を使わなければ他方をなくせない」といった反論が残るからです。
| 問い | 著者の検討 | 結論の方向 |
|---|---|---|
| ① 個人的暴力と構造的暴力は、本当に区別できるか | 個人も構造の影響を受け、構造も個人の行為で支えられる | それでも被害に至る経路は区別できる |
| ② 一方には他方の顕在的存在が必要か | 同時に存在しなければならないか | 必須とは言えない |
| ③ 一方には他方の前史が必要か | 過去の暴力から必ず生まれるか | 普遍的な起源説明にはできない |
| ④ 他方が潜伏していることは必要か | 静かな支配の背後に、必ず暴力が待機するか | 有力な場合はあるが、一般法則ではない |
| ⑤ 一方は他方をなくす代価か | 抑圧で秩序を保つ、暴力で不正義をなくすという主張 | 必要性・十分性を一般化できない |
| ⑥ 一方が常に重要か | 被害の規模を比較すれば優先順位を固定できるか | 時間・場所から独立した固定順位は置けない |
① 区別は、行為者と構造を完全に切り離すことではない
著者は、直接的暴力にも社会的な期待や役割が影響すると認めています。また、構造的暴力も、具体的な人々の行為なしに存在するわけではありません。
それでも区別できる理由は、直接的な行為が被害をもたらす場合と、多数の行為が組み合わさった関係構造が被害をもたらす場合では、介入すべき仕組みが異なるからです。
これは、責任の所在を曖昧にするための区別ではなく、人物への対応だけで解決する問題と、関係の変更を必要とする問題を見分けるための区別です。

② 相互に生み出すことと、必ず一方から生まれることは違う
侵略や征服が、その後の差別的な秩序を生むことはあり得ます。抑圧的な秩序が、反乱や暴力を生むこともあり得ます。
著者はこれらを否定していません。
否定しているのは、すべての暴力を、必ず以前の別の暴力にさかのぼって説明する普遍的な理論です。そうした説明では、そもそもの発生や、新しい発生の可能性を十分に説明できないと考えます。
したがって、「独立」という結論は、相互関係や相関がないという意味ではありません。

③ 「暴力の総量は変わらない」という見方を退ける
不平等な構造が挑戦を受けたとき、受益者が直接的暴力を動員することはあります。
著者は、前面に出る警察や軍隊と、背後で利益を得る人々が異なり得ることにも注意を向けます。観察される衝突だけを見ていては、維持されている構造を見落とすからです。
しかし、そこから「一方の暴力をなくせば、必ず他方が現れる」と結論することは拒否します。
論点は、暴力の代替関係が見られることを、人間社会の不変の法則にしてよいかです。著者は、その一般化が、両方を減らす方法の探究を閉ざすと考えています。

④ 必要条件と十分条件を分ける
第4節は、政治的に重要な四つの命題を検討します。
| 命題 | 著者の判断 |
|---|---|
| 構造的暴力があれば、個人的暴力をなくせる | 特定の集団間で短期的に抑制できても、全面的・持続的には保証されない |
| 個人的暴力をなくすには、構造的暴力が必要である | 必要性を一般化する根拠がない |
| 個人的暴力があれば、構造的暴力をなくせる | 支配者を除去しても、構造が残る、または再生され得る |
| 構造的暴力をなくすには、個人的暴力が必要である | 非暴力的な構造変革の可能性を排除できない |
特に重要なのは、支配者を取り除くことと、支配構造を取り除くことは別であるという指摘です。
新しい権力者が同じ地位を占めれば、構造は存続します。さらに、変革運動自身の内部に命令服従関係が強く刻まれていれば、新しい秩序にもその関係が持ち込まれ得ます。
ここでは、目標だけでなく、変革に用いる組織と手段が問われています。

⑤ 被害の比較は必要だが、それだけで政治的行動を決めない
著者は、死亡や罹患などを指標に、二種類の暴力の損失を比較する研究を認めます。
しかし、「こちらの被害を増やしても、あちらの被害がもっと減ればよい」という計算だけで行動を決めることには慎重です。
その理由は、将来の暴力の再生産を見落とす可能性と、少しでも総量が減れば満足し、両方をさらに減らす方法の探究を止めてしまう可能性です。
なお、キューバ革命に関する評価は、本文自身が実証的な裏づけを必要とする見通しとして述べています。この論文が比較計算を完了しているわけではありません。

9.第5節――平和の二つの側面を、対等な目標として定義する
ここで、前節までの議論が結論になります。
この「消極的平和」と「積極的平和」の二つを、日本国憲法の平和主義と基本的人権の関係から考え直したものが、別稿「平和主義と憲法を結び直す――戦争を止め、安心をつくる憲法へ」です。
| 暴力の側 | 対応する平和 | 本文での内容 |
|---|---|---|
| 個人的・直接的暴力 | 消極的平和 | 個人的暴力の不在 |
| 構造的・間接的暴力 | 積極的平和 | 構造的暴力の不在、社会的正義 |
この論文では、社会的正義は、権力と資源の平等な分配という内容を伴っています。

① 消極的平和は、戦争がないことだけには限定されない
個人的暴力には、戦争以外の殺傷や精神的な暴力も含まれます。
したがって、「戦争がない状態」という説明は代表例としては有効でも、この論文の定義全体を尽くしてはいません。

② 積極的平和は、「熱心に平和活動をする」という意味ではない
著者が「積極的」と呼ぶ理由は、構造的暴力の除去が、権力や資源の配分という、具体的に記述できる社会状態を意味するからです。
行動の勢いや熱意ではなく、社会的正義という状態の内容に関わる区別です。

③ 両者に固定された優先順位を置かない
著者は、一方が他方の「装飾品」ではないと述べています。
これは、「まず戦争がなくなり、その後で余裕があれば正義を考える」という固定的な段階論を採用しないということです。同時に、正義の実現を理由として、直接的暴力の回避を付随的な問題にすることも認めません。
ただし、具体的な状況に応じた研究上・実践上の重点配分まで否定しているわけではありません。第4節末尾では、時間と場所によって重点が変わることを認めています。

④ 一面化には、それぞれ固有の危険がある
| 一面的な目標 | 生じる危険 |
|---|---|
| 直接的暴力の抑制だけを求める | 抑圧的な「法と秩序」を平和として受け入れる |
| 社会的正義だけを求める | 正義の実現手段としての暴力を受け入れる |
| 両者の衝突を理由に行動を控える | 既存の不正義を事実上支える |
三番目が重要です。著者は、両方の暴力を避けたいという立場が、何もしない態度に転化する危険を自ら指摘しています。
そのため、この結論を単なる穏健論や、対立する立場の中間を取る議論として読むのは不十分です。

⑤ 結論は、両方を追求できる手段の開発にある
著者が挙げる方向は、非暴力行動、対等な組織、参加、非集権化、共同決定などです。
ただし、論文は完成した実行手順を提示していません。両方の目標を掲げることで、それらを結びつける社会的行動を研究し、開発することを提案しています。
また、両方を実現する困難を認め、一方しか達成できなかった人々に対して性急に道徳的判断を下さないよう求めています。厳格な目標設定と、現実の制約への慎重さが併存しています。

10.注記にある、論文を深く読むための重要論点
この論文の注記には、本文を補足する以上の役割があります。

① 注18――分配されるものだけでなく、分配を決める権力を問う
著者は、人権について、個人が何をでき、何を所有できるかを保障しても、それを誰が決定するのかが十分に問われなければ、権力保持者による庇護と両立すると批判します。
注18
18) 社会的正義で意味するものの1つの表現は人権諸宣言において見られる。そこでは平等に関して多くの規範が述べられている。しかしながら、それらの規範は非常にはっきり構造的であるよりも個人的であるという欠陥をもつ。それらは個々人が、何ができ何を所有できるのかに言及するものの、個々人が、何ができ何を所有できるのかを誰がまたは何が決定するのかには言及しない。それらは資源の分配について言及するものの、資源の分配をめぐる権力には言及しない。言い換えれば、通常了解されている意味での人権は、パターナリズムときわめてよく両立し、権力保持者は分配をめぐる究極の権力を除いて、分配を高のままに行うから、それによって彼らは、権力構造におけるいかなる変化をともなうことなく、平等化を手に入れるのである。現在の反体制・反権威の反抗の多くはこのことに関わっているのを、ほとんど誰も見ようとしないのは苦痛でさえある。譲歩は十分ではなく、平等でさえ十分ではない。分配に関する決定がどのように合意され実行されているか、それが基本的なのである。しかし、こうしたことはすべてある種の人権に結晶し、哲学的・政治的な戦場のリストに間違いなく付加されることであろう。
ここでは、二つの平等が区別されています。
| 平等の側面 | 問い |
|---|---|
| 分配結果の平等 | 何が、どれだけ人々に届くか |
| 決定権の平等 | その配分を誰が、どのような合意で決めるか |
この注によって、積極的平和が福祉的な配分の改善だけではないことが明確になります。
もっとも、これは人権の無価値を主張する議論ではありません。決定権に関する要求も人権として発展する可能性を、著者自身が述べています。

② 注31――積極的平和の概念は、著者自身の中でも変化している
著者は、以前は統合や協力との関連で積極的平和を考えていたが、それでは融和的すぎるという批判を認め、ここでは社会的正義を中心に据えると述べています。
注31
31) もちろん私は、これらの諸概念を提出するのに、変更を加えてきたことをはっきりと自覚している。そして、ここに提出した定式化にならって、新しい定式がこれに引き続くだろうことを確信している。「消極的平和」の概念は、かなり不変のままとどまるに違いない。それは「暴力の不在」を意味し、あの文脈において「暴力」概念に与えられた精密さ――すなわち「個人的暴力」の概念――によるものと私は考える。しかし「積極的平和」の概念は常に変化するであろう(医学における「積極的健康」の概念のように)。私はこの概念を「統合」および「協力」という関連において考えて来た(“Editorial,” JPR, 1964, pp.1-4)。しかし今は、これは紛争グループがもつあまりにも融和的な見方であることをHerman Schmid氏とともに全面的に認める。そうした見方は、おそらく、東西間の紛争があるための紛争に関連するある特定のイデオロギーを反映している。私は今、「積極的平和」を主として「社会的正義」と同一視したいと考えている。後者は本稿において二重の意味で捉えられている。しかし、社会的不正義に対するのに、他の候補者にも門戸を開いておくことが必要であろう。というのも、社会的正義の定義は、他の方面をも指し示すほど十分に広いものではなければならないと考えるからである。これは「平和の理論」の1.3節である程度試みられた。さらに、Schmid氏の次の指摘(前掲)は基本的に正しいと私は考えている。「消極的平和」に焦点が当てられる傾向にあるのはコンセンサスが得られやすいからである、と。彼はいっそうこうした傾向を補強する彼の考えを私も共有する。構造的暴力の微妙なメカニズムの仮面をはぎ、それを除去あるいは中立化する条件を探究することは少なくとも同様に重要である。しかし、優先度の観点から暴力の2つのタイプを比較することは、少しばかり医学の探究がガンまたは心臓のどちらに集中すべきかという議論のように思える。その上、加えるに断固として強調すべきは、それ自身の基礎と定義とに完全に満足している学問は、死んだ学問であることである。基本的な討論または基本に関わる討論は、病気ではなく、健康のしるしなのである。こうした争点は困難なものである。そして、それらを分析するいっそうの実践、それらと取り組むいっそうの修練を通じてこそわれわれは進歩するのである。
したがって、
協力があるだけでは、積極的平和があるとは言えない。協力関係の内部が不平等である可能性がある。
という修正が読み取れます。
さらに、今回の定式化も最終的なものではないと認めています。この論文は、概念を確定して議論を終えるためのものではありません。

③ 注35――非暴力は、結びつけることだけを意味しない
注35
35) このいくらかは「非暴力の意味について」で探究されている。そしてこの方向で無限に多くのなすべきことが残っている。しかし重要なことは、なぜ、平和研究が対称的な紛争にのみ結び付けられるべきなのか、そして統合的あるいはわれわれの好む言い方では「結合的」――統合的はあまりにも強い語である――なアプローチに限られるべきなのか、その理由は何もないということであろう。構造的暴力を探究するいかなる努力も、能力においてきわめて不平等な当事者間の非対称的な紛争の認識に至るであろう。そして、オスロの国際平和研究所で行われているタイプの平和研究ではこれが無視されている、との声明は公平ではない。「トップドッグ-アンダードッグ」という語はなじみが薄く、マルクス主義の伝統とジャーゴンのもとで研究する者は憤慨さえするだろう。しかし、にもかかわらず、それは1つの探究である。より正確には、その努力は構造的暴力の「構造」をより良く理解しようとするものであった。その一端は本稿の3節に示されている。そして、治療がなぜ結合的な政策に限られねばならないかの内在的な理由はない。それとは正反対に、一般に、結合的な政策は平等な当事者同士、すなわち対称的紛争のためのものであり、一方、分極化そして分離の政策は被搾取グループのためのずっと良い戦略だと私は感じている。これは非暴力の戦略の一面性にも反映している。すべてのテーマのより完全な展開は『紛争の理論』(Theories of Conflict, forthcoming)を見られたい。Schmid氏が、平和研究は「潜在的な紛争がいかに顕在化するのかを――そして現在の国際的なシステムがいかに深刻な挑戦を受け、崩壊さえしているのかを……説明しなければならない」(前掲)というとき、彼自身が論難する平和研究の同じタイプの一面性を示しているように思える。ここで一面性とは、顕在的な紛争のみを制御し、結合をもたらし、国際的および超国家的制度に関わって意味のある問題群を形成することに関心をもつことである。しかし、もし平和研究が、価値の促進ではなく、特定グループ――高低に関わりなく――の利益に奉仕することにのみ向けられるのであれば、この一面性は不可避的に結果する。脱統合・分極化・分離がつねに最良の戦略であると信じるのは、その逆を信じるのが難しいのと同じくらい難しい。しかしこのことは、Schmid氏の紛争学と密接に関連していよう(前掲、pp.224-228)。そこで彼は私が紛争の主観的な観念を持っているかに信じている。もし紛争の三角形が主張する何かがあるとすれば、それとはまさに正反対のものである。紛争の定義は、態度と行動とから、また紛争当事者による状況の認識からも独立している(彼らの相互の態度とも異なる)。私にとって紛争とは諸目的間の両立不可能性である。しかし、これらの目的がどのように形成されるのかは全く別の問題である。当事者に、彼らが追求している概念は何か、何が障害になっているのか――もし障害があるとすれば――を問うことは、1つのしかも唯一1つのアプローチである。利益に関連させた定義に私は反対する何ものももたない。「目的」はそれをも包む十分に広い概念である。Schmid氏が率直かつ正面に認めているように(前掲、p.227)、困難は、「何が利益であるかを決定する」ことである。そして「これは利益の観点からの紛争概念を放棄する理由ではなく、むしろ挑戦なのである」という考えを私も共有する。しかし、利益の概念は公平化されなければならないのではないか。マルクスはかなりの程度までそれを行った。その含意は探究されなければならない。また、利益は価値の実現でもあると私は考える。しかし、そうした価値は必ずしもアクターによって保持されているのではなく、探究者によって保持されているのでもない。ただ公準として立てられた価値である。ゆえに子供――自立的な人間として――の利益が、彼らの生物学的な両親の子供として、絆を受け入れることと相容れないと考えるのであれば、現在の家族システムには1つの不可両立性が確かに存在することになる。両親には所有者としての利益があり、それは自分自身の所有者としての子供の利益とは両立し得ない。この例と、Schmid氏の主人-奴隷の例との唯一の違いは、彼は過去の紛争のパラダイムを与えているのに対して、社会秩序の脱封建化への一般的な潮流の線にそって、私は未来の紛争――さらにいえば、もう間もなく顕現するだろう紛争――のパラダイムを考えていることだ。そして私は、分極化はそうした解決の1つの部分であることに関してSchmid氏と確かに同意見である。
著者は、二種類の非暴力的な方向を区別します。
| 方向 | 役割 |
|---|---|
| 分離的な非暴力 | 不平等な関係から距離を取り、弱い側が自主性・主体性を獲得する |
| 結合的な非暴力 | 平等で非搾取的な条件のもと、協力関係を築く |
この点は、平和を「仲良くすること」と理解する読み方を修正します。
対等でない者同士を、そのまま結びつけても、依存や支配が深まる場合があります。先に自立の条件を整えることが必要になり得るのです。
ただし、著者は分離が常に最善だとも言っていません。結合も分離も、具体的な関係に応じて評価されます。

注35後半――紛争は、当事者が自覚していなくても存在し得る
著者は紛争を、諸目的の両立不可能性として捉えます。
つまり、当事者が怒っているか、争っているか、自分の利益を言語化できているかだけで、紛争の有無が決まるわけではありません。
ここから導かれる解釈は、不満が表明されていないことを、対立や不正義がない証拠にできないということです。

同時に、本人が自覚していない利益を誰が判定するのか、という難問も残ります。
④ 注33・34・38――平和研究そのものの権力関係も問われる
誰が研究資金を出し、誰が提言を実行できるのかという問いを、著者は基本的な問題として認めます。
そのうえで、研究を特定の体制や勢力の利益への奉仕に閉じ込めず、人間の実現可能性を妨げる仕組みの探究として開いておこうとします。
研究の自律性や多元性も、この論文の構造の一部です。
注33
33) それが着手されてから10年間の一般的な平和研究において、他地域からよりも北西地域の体制からより多くの同意を得てきたことはほとんど疑いない。ガンの研究もそうであった。この事実から平和研究は第三世界そして革命勢力に対して無意味であるということにはならない。同じように歪んだ分布が、世界の資源の歪んだ分布および一般的な世界の封建的な構造に起因して、ほとんどどこにでも見られるからだ。だからSchmid氏が、平和研究を社会的な背景のもとに置いたことは正しい。「誰がそれを支払うのか」「平和研究者からの提言を誰が実行することができるのか」は基本的な問題である。私が唯一理解できないのは次の点である。なぜ、平和研究は、体制の手中にのみ落ちて、他の者の手中に落ちてはいないのか、いわんやその探究においてそれ自身の自律性を保持できないのか、それには何か内在的な理由があるのかという点である。このようにいう前提として、アカデミックな構造は、左であれ右であれ、権力保持者の手中にすべての研究を方向付けるのではなく、人間の自己実現を妨げるいかなる種類の暴力の背後にあるメカニズムに対する洞察の探究に開かれた道を残しておく、ということである。
注34
34) 平和研究は価値の実現を促進するための努力であると、ここでは考えられている。こうした価値がある特定のグループの利益とどの程度合致するかしないかは別の事柄である。ゆえに平和研究は、そのグループが同じ価値を明言しない限り、1つのグループのイデオロギーと同一視することは決してできないのである。
注38
38) もちろん、このすべてまたは大部分または多くが、その事のために、「平和研究」の旗のもとあるいは他のどんな旗のもとにも航海する必要はない。少しばかり全体主義的観念の持ち主が、そう感じる傾向があるというだけである。重要なことは、そのことが行われ、異なるアプローチ間でコンタクトがあり、それらや他のアプローチがイデオロギー的・制度的多元主義から利益を得ることである。

11.四つの図と一つの表は、それぞれ何をしているか
| 図表 | 論文中の機能 | 読む際の注意 |
|---|---|---|
| 図1「暴力の類型化」 | 暴力を複数の軸から捉える | 排他的な種類の一覧ではない。肯定的/否定的の軸は省略されている |
| 図2「時間と2つのタイプの暴力」 | 事件としての変動と、構造としての持続を示す | 実測値ではなく概念的な図 |
| 表1「個人的・身体的暴力の類型」 | 身体を破壊する作用と、機能条件を奪う作用を整理する | 暴力全体の網羅的分類ではない |
| 図3「社会秩序のイメージ」 | アクターの内部にも構造がある入れ子関係を示す | ランクとレベルを混同しない |
| 図4「暴力と平和の拡張された概念」 | 二種類の暴力と二種類の平和を対応させる | 二つの平和の順序や優劣を表すものではない |
図表は、分類、時間、作用、社会構造、結論という別々の仕事を担っています。
12.この論文は、何を論証し、何を未解決のまま残しているか
なお、ガルトゥングの理論を現在の平和研究から再評価する研究も続いています。2026年には、PRIOの研究者らを含む研究者によって、構造的不平等、文化、暴力に関するガルトゥングの理論を、現代の実証研究と照らして検討する研究も公表されています。
本論文は、統計的な検証を中心に据えた実証論文ではありません。定義、概念の区別、例示、思考実験、反論の検討を通じて、研究課題を組み替える理論論文です。
主張の種類を分けると、評価しやすくなります。
| 主張の種類 | 例 | 評価のポイント |
|---|---|---|
| 定義上の提案 | 暴力を実現可能性の阻害として捉える | 概念として明確か、見落としを減らせるか |
| 分析上の区別 | 個人的/構造的暴力 | 現実の異なる作用経路を説明できるか |
| 経験的な仮説 | 権力集中の仕組みが不平等を維持する | 比較調査や事例研究による検証が必要 |
| 規範的な主張 | 二種類の暴力をともに減らすべきである | 価値判断と実行可能性を検討する |
| 研究上の提案 | 両方を減らす手段を開発する | 具体的な方法と成果に展開できるか |
この区別を踏まえると、主に五つの課題が残ります。

① 実現可能性の基準を、どう決めるのか
どの資源が利用可能なのか。どの時間範囲で実現可能と考えるのか。異なる目標の間で資源をどう配分するのか。
著者は問題を認識していますが、一般的な測定法までは提示していません。

② 不平等から被害に至る因果関係を、どう立証するのか
本論文は、権力の不平等が生存や健康の格差を生む経路を示します。
しかし実際の調査では、差が観察されるだけでは不十分です。どの制度や関係が、どの被害を、どの程度生み、その被害がどのように回避可能だったかを調べる必要があります。

③ 広い暴力概念の説明力と、境界の曖昧さをどう扱うか
殺傷から報酬による誘導までを一つの概念に含めることで、見落とされてきた問題を扱えます。
一方、性質や深刻さが大きく異なる問題を、すべて「暴力」と呼ぶ危険もあります。
そのため、実際に使うときには、身体的被害、心理的被害、自由の制約、資源へのアクセス、被害の継続性などを区別する必要があります。

④ 論理的な可能性と、実証的な証明には距離がある
第4節では、「必ずそうなる」という命題に対し、別の状態を想像できることや、一般化の根拠が不足していることを示します。
これは必然性への反論として有効です。
しかし、それだけで、二種類の暴力の経験的な関係が十分に確定するわけではありません。著者の「経験的にも独立」という結論は、提示された証拠に比べて強く述べられている部分があります。

⑤ 両方の平和を求める方針から、具体的な選択基準への橋が残る
非暴力的な変革を求めることは明確です。しかし、差し迫った被害、厳しい抑圧、限られた選択肢のもとで何を選ぶかについて、完成した判断手順はありません。
この論文は、その困難を消してはいません。両立を不可能と決めつけず、実現条件を探究する課題として残しています。
また、添付本文では「文化的暴力」は独立した第三の基本区分として定式化されていません。教化、内面化、イデオロギーへの言及はありますが、本文の分類は個人的暴力と構造的暴力が主軸です。トラウマの回復や調和も、この論文で体系的に展開された中心概念として扱うべきではありません。

13.この論文を使って現実を分析する際の、具体的な問い
以上の構造を、調査のための問いへ置き換えると、次のようになります。これは本文を踏まえた私の整理です。
| 分析段階 | 問うこと |
|---|---|
| 被害の確認 | 誰の生存、健康、学習、自由、活動可能性が損なわれているか |
| 回避可能性 | どの知識・資源・制度変更によって、その被害を減らせたか |
| 作用経路 | 具体的な加害行為か、配分や関係の構造か、両方か |
| 権力の確認 | 資源を配る人だけでなく、配り方を決める人は誰か |
| 再生産の確認 | 情報独占、孤立、序列の重なりなどが是正を妨げていないか |
| 潜伏性の確認 | 今は被害が小さくても、急激な悪化や支配の再形成が起きないか |
| 手段の評価 | 改善のための行動が、別の暴力や新しい支配を生んでいないか |
| 当事者の権限 | 当事者が、自ら判断し、結集し、決定に関われるか |
この論文の結論を最もよく表すのは、末尾の一文です。
「両者ともを目標にすることによってこそ、平和研究は真の貢献を行うことができるのである。」
その「両者」とは、個人的暴力の不在と、社会的不正義の克服です。人を傷つける行為を止めること、そして人が傷つき続ける関係の仕組みを変えること。この二つを結びつける条件を探すために、論文全体が組み立てられています。







