春日井の古代史――春日部郡・勝川廃寺・安食荘から見る制度と寺院

古代の春日井では、人や土地を管理する制度が整う過程と、寺院が造られる過程が、地域の有力者を介して深く結び付いていました。 勝川廃寺を中心に見ると、行政、徴税、信仰、文字の使用、瓦の生産が、互いに関係していたことが分かります。
ここでは飛鳥・奈良・平安時代を中心に説明します。古代の「春日部郡・春部郡」は現在の春日井市より広いため、現在の市域で確認された遺跡と、郡全体の制度を区別して考える必要があります。
目次
- 1 1 春日部郡の成立――春日井が律令国家に組み込まれる
- 2 2 条里と班田収授――春日井の土地を区画し、管理する仕組み
- 3 3 勝川廃寺の造営――古墳から寺院へと変わる地域の象徴
- 4 4 春日部郡の役所はどこにあったのか――勝川廃寺と郡衙の関係
- 5 5 旧地蔵川の祓い――寺院のそばに重なり合う信仰
- 6 6 高蔵寺瓦窯と白山瓦窯――尾張の寺院造営を支えた生産拠点
- 7 7 勝川廃寺の周囲で暮らした人々――住居跡から見える日常
- 8 8 安食荘と醍醐寺――春日井の土地収益が京都の寺院を支える
- 9 9 麟慶寺と密蔵院の仏像――後世へ受け継がれた古代の仏教文化
- 10 10 まとめ――制度・寺院・人々の暮らしが結び付いた古代の春日井
- 11 はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
1 春日部郡の成立――春日井が律令国家に組み込まれる

「春部評」の木簡が伝える地方行政の始まり
春日井が国家の地方行政に組み込まれていたことを示す、重要な証拠が「春部評」の木簡です。 奈良の藤原宮跡から、「□治国春部評春□」と読まれる木簡が出土しています。「□治国」は尾張国の古い表記である「尾治国」、「春部評」は後の春部郡に相当すると考えられています。これは、7世紀後半には春日部という地域が、都へ物資を送る行政上の単位になっていたことを示す資料です。CiNii Research
「評」は「こおり」と読み、701年の大宝律令の段階で「郡」という表記に変わります。その後、郡の下の「里」は「郷」へと呼称・編成が変化しました。基本的な関係は、次のように整理できます。
| 行政の単位 | 春日井との関係 | 統治を担う人・役割 |
|---|---|---|
| 国 | 尾張国 | 中央から派遣される国司が統括 |
| 郡 | 春部郡・春日部郡 | 地域の有力者から任じられた郡司が実務を担う |
| 郷・里 | 郡を構成する地域単位 | 人々をまとめ、行政上の把握につなげる |

地域の有力者による統治と、戸籍・税・労役
ここで大切なのは、中央集権化が、地元の有力者を地方官として組み込むことによって進んだという点です。尾張でも、国司が郡司を通じて地域を統治しました。古墳時代以来の地域社会の力関係は、律令国家の制度の中へ形を変えて持ち込まれたと考えられます。city.kasugai.lg.jp
10世紀の『和名類聚抄』には、春部郡の郷として、池田・柏井・安食・山村・高苑・餘戸が記されています。ただし、写本による違いがあり、すべてを奈良時代までさかのぼらせたり、現在の町の範囲にそのまま当てはめたりすることはできません。city.kasugai.lg.jp
制度が暮らしに及ぼした変化は、戸籍への登録、口分田の支給、租・庸・調などの負担、労役への動員という形で現れました。人々が耕作する土地や生み出す物資、働く時間が、国家を維持する仕組みに組み込まれたのです。ただし、負担は身分や居住地域などによって異なり、一律ではありませんでした。museum.city.nagoya.jp

2 条里と班田収授――春日井の土地を区画し、管理する仕組み
土地の管理では、春日井に残る条里の痕跡が重要です。 『郷土誌かすがい』第4号は、王子製紙工場付近から勝川にかけて、庄内川北岸の水田地域に、条里に由来する方格状の区画が認められると報告しています。基本となるのは約109メートル四方の区画で、それを縦横6つずつ、計36区画まとめたものが条里の「里」です。city.kasugai.lg.jp
ここでは、班田収授と条里を分けて理解すると分かりやすくなります。班田収授は、誰にどれだけの田を与えるかという制度です。条里は、土地を区画し、位置を表示する仕組みです。両者は土地管理に関係しますが、地割の施工、土地の呼称、集落の形成が、すべて同時に進んだとは限りません。したがって、春日井の整然とした地割を、すべて「大化の改新で一斉につくられたもの」と説明することには慎重さが必要です。jstage.jst.go.jp

3 勝川廃寺の造営――古墳から寺院へと変わる地域の象徴

7世紀後半に始まった大規模な寺院づくり
こうした地方行政の形成と同じ時期に、勝川では大規模な寺院の造営が始まります。 勝川町5丁目一帯の「勝川廃寺」です。発掘成果による基本像は次のとおりです。
| 項目 | 確認・推定されている内容 |
|---|---|
| 造営開始 | 7世紀後半以降、段階的に造営 |
| 存続期間 | 9世紀後半ごろまでと推定 |
| 区画の規模 | 東西約227メートル、南北約148メートル |
| 主な証拠 | 区画溝、掘立柱建物、瓦、「寺」の文字を刻んだ瓦など |
| 未解明の点 | 金堂・塔などの配置、創建者、当時の正式名称 |
この規模は建物一棟の大きさではなく、区画溝から考えられる寺院の範囲です。主要建物の配置が分からないため、具体的な伽藍の姿には、なお不明な部分があります。city.kasugai.lg.jp
古墳の跡に築かれた寺院と、地域の有力者の権威
勝川廃寺で注目されるのは、弥生時代以来の墓域や古墳群があった場所に寺院が造営されたことです。市の解説は、造営に伴って墓が破壊された点を、古墳時代から律令時代への変化を考える手掛かりとしています。city.kasugai.lg.jp
この配置からは、地域の有力者が権威を示す方法に、仏教寺院の建立が加わったと考えられます。寺院は仏を礼拝し、祖先を供養する場所であるとともに、大きな建築を造り、技術者や資材を集められる力を示す場所にもなりました。ただし、勝川廃寺を造営した人物や氏族は確定していません。city.kasugai.lg.jp
国家の仏教政策との位置関係も押さえておきたいところです。聖武天皇が国分寺・国分尼寺の建立を命じたのは741年で、尾張国分寺は現在の稲沢市に置かれました。勝川廃寺の造営開始は、それより早い時期にさかのぼります。したがって、勝川廃寺は、国分寺政策に先立つ地方寺院の展開の中で考える必要があります。city.kasugai.lg.jp

4 春日部郡の役所はどこにあったのか――勝川廃寺と郡衙の関係
勝川廃寺と制度との関係で、最も重要な未解決問題が「春日部郡の役所はどこにあったか」です。 郡の役所を「郡衙(ぐんが)」といいます。勝川は、その有力な候補地とされています。
根拠となるのは、寺院周辺の建物跡に加え、旧地蔵川から出土した木製品や文字資料です。人形には荷札木簡用の板を転用したと考えられるものがあります。荷札は、物資の産地・品目・数量などを記して輸送を管理する道具です。その存在は、付近に徴税や貢納を扱う施設があった可能性を示します。city.kasugai.lg.jp
寺院と役所が近接するなら、郡司などの有力者が、行政と寺院経営の両方に関わっていたという理解につながります。しかし現段階では、郡庁や倉庫群が確定したわけではありません。「勝川周辺に春日部郡衙があった可能性が高い」という仮説と、「役所の位置を発掘で確認した」という事実は区別する必要があります。 city.kasugai.lg.jp

5 旧地蔵川の祓い――寺院のそばに重なり合う信仰
旧地蔵川では、木製の人形・舟形や、文字を墨で書いた土器も出土しています。これらは、人形に穢れを移して川へ流す「祓い」などの儀礼に関係すると考えられています。寺院の近くで仏教以外の祭祀も行われていたことは、当時の信仰の重なりを示します。ただし、儀礼を執行したのが僧侶だったのか、役人だったのかは確定していません。city.kasugai.lg.jp

6 高蔵寺瓦窯と白山瓦窯――尾張の寺院造営を支えた生産拠点
寺院造営を地域全体の仕事として見ると、高蔵寺の重要性が浮かび上がります。 高蔵寺瓦窯では、勝川廃寺などに供給する瓦が焼かれていました。名古屋市博物館は、同じ文様の瓦が岩倉市の川井薬師堂廃寺、豊山町の観音寺廃寺などでも確認されることを紹介しています。高蔵寺は、尾張の複数の寺院を支える生産拠点だったのです。museum.city.nagoya.jp
さらに、高蔵寺瓦窯の瓦には、藤原宮の瓦と同じ型で作られたものがあります。これは、単に似た文様が流行したという以上に、瓦の型や製作技術が都と尾張の間を移動したことを考えさせる証拠です。誰が職人を招き、費用や労働力を用意したのかという問題は、地方有力者と中央との関係に直接つながります。museum.city.nagoya.jp
市内の白山瓦窯も重要です。その瓦と同じ型式のものは一宮市の伝法寺廃寺で確認され、岩倉市の御土井廃寺などとの関係も研究されています。春日井の丘陵部では、地域外の寺院建設にも関わる窯業が営まれていました。寺院の歴史には、粘土の採取、燃料の確保、焼成、運搬を担った人々の歴史も含まれます。city.kasugai.lg.jp

7 勝川廃寺の周囲で暮らした人々――住居跡から見える日常
寺の周囲で暮らした人々も、発掘によって見えてきています。2021年の勝川遺跡の調査では、勝川廃寺の北東約75メートルの場所から、7世紀後半~8世紀後半の竪穴住居が確認されました。煮炊きの甕や食器、カマドで甕を支える石が出土し、市は寺院に関係する居住域の可能性を指摘しています。寺院を維持したのは、こうした日常生活を営む人々でもありました。city.kasugai.lg.jp

8 安食荘と醍醐寺――春日井の土地収益が京都の寺院を支える
平安時代になると、春日井と寺院との関係には「遠方の寺院を土地収益で支える」という形が加わります。 その代表が安食荘です。
『郷土誌かすがい』第5号によれば、安食荘は統正王の所領で、914年に京都の醍醐寺へ修理料として寄進されました。地域の土地から得られる収益が、京都の寺院の建物や宗教活動を支える財源になったということです。その後、国側の支配に戻された時期があり、1143年には醍醐寺領として改めて承認されました。
ここには、土地の収益を誰が取得するのかをめぐる、国司と寺院との関係が表れています。律令国家の行政と寺院領荘園は、時代とともに関係を変え、権利を争うこともありました。なお、安食荘絵図は15世紀前半の作成と推定されるため、そこに描かれた道や建物を、914年当時の姿として読むことはできません。

9 麟慶寺と密蔵院の仏像――後世へ受け継がれた古代の仏教文化
現在の寺院に伝わる仏像からも、古代の仏教文化に触れられます。牛山町の麟慶寺には平安時代後期の大日如来坐像が伝わり、台座には「味岡庄片山郷三台寺」という銘があります。現在の寺の名称や宗派だけでは捉えきれない、信仰の継承を考える資料です。city.kasugai.lg.jp
熊野町の密蔵院にも、平安時代後期の薬師如来立像が伝わっています。一方、密蔵院の開山は1328年です。仏像の制作年代、寺院の創建年代、その像が現在の場所へ伝わった時期は、それぞれ別に調べる必要があります。 古代の仏像が後世の寺院へ受け継がれた過程も、春日井の寺院史を具体的に知るための重要な研究対象です。city.kasugai.lg.jp

10 まとめ――制度・寺院・人々の暮らしが結び付いた古代の春日井
古代の春日井では、律令国家による人と土地の管理、地域の有力者による寺院造営、それらを支える生産と暮らしが結び付いていました。
「春部評」の木簡は都との行政上のつながりを伝え、勝川廃寺は地域の信仰や権威のあり方を考える手掛かりになります。高蔵寺瓦窯や白山瓦窯では、尾張各地の寺院を支える瓦が焼かれ、平安時代には安食荘の土地収益が京都の醍醐寺を支えるようになりました。
春日井の古代史をたどることは、人・土地・技術・信仰が、尾張や都とのつながりの中で、地域社会を形づくっていく過程を知ることです。 同時に、郡衙の所在地や寺院の造営者など、未解明の問題も残されています。出土資料や文献が示す事実と、そこから考えられる解釈を丁寧に分けることで、身近な地域の歴史をより具体的に捉えられます。
尾張という広い視点から春日井の文化と歴史を考える記事として、尾張から見た春日井市―名古屋の「となり町」を越えた、境界と流通の文化都市もあわせてご覧ください。
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