犬山~可児の東海自然歩道ルートは、歴史オタクにはあまりにも魅力的すぎた

今日、2026年9月22日、犬山遊園駅から御嵩駅まで、東海自然歩道を歩いて踏破しようとしました。

朝、6時半に犬山遊園駅に到着。予定では9時間ぐらいで御嵩駅に到着予定でしたが、あまりに歴史オタク垂涎の史跡が多すぎたので、いろいろ寄っていたら、日没が迫りすぎ、久々利城で断念。低山遭難を避けるため、そこから、新可児駅まで歩いていきました。
しかし、魅力的な歴史の跡が多いので、紹介します。
目次
犬山側からの木曽川の景勝
犬山遊園駅を降りて、まず最初に出会うのが、木曽川の景勝です。

実は、この場所は、尾張地方の水道水の取水口にもなっています。
そして、この辺りは、名古屋を始めとした尾張地方の水道水の取水口にもなっております。


画面として撮ったのは、名古屋市水道局ですが、その他にも犬山市、愛知県の水道事業の取水口になっていることも確認しています。
継鹿尾山 寂光院
そして、しばらく歩くと、寂光院というお寺があります。

このお寺の由緒は、寺伝によれば白雉5年(654)、孝徳天皇の勅願によって、奈良・元興寺の道昭和尚が七堂伽藍を建立したことに始まるとされています。正式名称は「継鹿尾山八葉蓮台寺寂光院」で、本尊は秘仏の千手観世音菩薩です。古くから「継鹿尾の観音さま」として信仰を集めてきました。戦国時代の永禄8年(1565)には、織田信長が柴田勝家らを伴って参詣し、清洲から見て鬼門にあたる寂光院を鎮護の寺として、黒印50石と山林50町歩を寄進したと伝えられています。このため信長は寂光院の「中興」と位置付けられています。現在も継鹿尾山中腹に境内が広がり、千年以上にわたる信仰の歴史を伝える犬山有数の古刹です。

本殿では、朝7:30分という時刻柄か、住職さまがマンダラをお唱えしておりました。

織田信長は、永禄8年9月18日(1565年9月18日)、柴田勝家らを伴って継鹿尾山の寂光院に登り、参詣したと伝えられています。寂光院は古くから「継鹿尾の観音さま」として信仰を集めた古刹で、信長は清洲から見て鬼門にあたるこの地を重視し、のちに黒印50石と山林50町歩を寄進したとされています。当時の信長は、尾張をほぼ掌握し、美濃へ勢力を伸ばそうとしていた時期でした。寂光院のある継鹿尾山からは、木曽川の流れと犬山、その先の美濃方面まで見渡すことができます。参詣は信仰上の行為であると同時に、尾張と美濃を結ぶ地形を自ら確かめる機会にもなったのかもしれません。現在、境内や展望地から見える木曽川と山並みを眺めていると、450年以上前、信長も勝家もこの景色を眺めていたかもしれません
恵那コースへの分岐
寂光院から、東海自然歩道を春日井方面へ歩いていくと、恵那コースとの分岐に行きつきます。

今回は目的地が御嵩なので、恵那コースへと歩いていきます。
そして、実は、ここから土田城までは、旧東山道(一説によると)・旧中仙道・旧上街道 という江戸時代以前の道を歩くことになります。
恵那ルート分岐から土田切通の馬頭観音までの、古代からの街道史
実は、この恵那ルート分岐から、後で紹介する土田切通の馬頭観音までの道は、古代からの歴史があると言われているので、紹介する。
現在は東海自然歩道の一部として歩くこの道ですが、歴史をさかのぼると、単なるハイキングコースではありません。古代の東山道の推定路、中世の地域間交通路、江戸時代の木曽街道・上街道、さらに明治時代の生活道路へと、時代ごとに役割を変えながら使われてきた可能性があります。
東海自然歩道の恵那コースは、現在、岐阜県側から可児市南部を通り、犬山市善師野で愛知県側の本線へ合流します。私が歩いた恵那ルート分岐から石原へ下っていく道も、その長い交通史の上にある道なのです。
古代には東山道が通った可能性がある
まず注目したいのが、律令国家の官道である東山道です。
古代の東山道は、美濃国を東西に横断して信濃・東国へ向かう国家的な道路でした。可児地域には「可児駅」が置かれていたと考えられており、『可児市史』も「東山道と木曽川」「東山道のルートと郡家・駅家」を独立した項目として検討しています。
問題は、美濃西部の各務方面から、どの道を通って可児へ入ったのかです。
その推定路の一つとして、各務・鵜沼方面から木曽川を渡り、犬山を経て善師野から可児へ向かうルートが考えられてきました。1960年の『可児町郷土史』にも「土田の交通(東山道)」という項目があり、土田と古代交通との関係が古くから研究対象になっています。
ただし、現在の東海自然歩道や石拾峠の道筋が、そのまま奈良・平安時代の東山道だったと証明されたわけではありません。ここは「古代東山道の推定ルートの一つ」として考えるのが適切でしょう。
善師野から可児へ抜ける「地形の回廊」
それでも、このルートが長く使われた理由は地形を見ると分かりやすくなります。
犬山側から可児盆地へ入ろうとすると、周囲には山地があります。その中で善師野から石原へ抜ける谷筋は、人や荷物が移動しやすい通路でした。
現在の恵那ルート分岐付近から岐阜県側へ下ると、旧木曽街道を示す石柱があり、現地の踏査記録でも、この付近が石拾峠と呼ばれていたことが確認できます。そこから道は石原方面へ下っていきます。
つまり、古代東山道であったかどうかを別にしても、
善師野
↓
峠越え
↓
石原
↓
土田
という線そのものは、山を越えて尾張と美濃をつなぐ、非常に自然な交通ルートだったのです。
中世から近世へ――古い道が上街道へ引き継がれる
この善師野―土田間の道は、江戸時代になるとはっきり史料に現れます。
春日井市の『郷土誌かすがい』が紹介する『濃州徇行記』には、かつての中山道が御嵩から土田、善師野を経て犬山内田渡へ向かっていたと記されています。後に太田宿を通る中山道が成立すると、このルートは脇道になりました。
そして1623年、尾張藩初代藩主・徳川義直が名古屋と中山道を結ぶ**上街道(木曽街道)**を整備します。
街道は、
名古屋
→小牧
→楽田
→善師野
→土田
→伏見方面
へ延びました。つまり善師野―土田間については、新しい道を一から造ったというより、それ以前から存在していた交通路を、尾張藩の公道として再編した部分が大きかったと考えられます。
春日井を含めた尾張側から上街道・下街道の役割を見てみると、この道が名古屋と美濃・中山道方面を結ぶ重要な交通網だったことが、さらによく分かります。詳しくは、「尾張から見た春日井市―名古屋の『となり町』を越えた、境界と流通の文化都市―」でも紹介しています。
石原は旅人が行き交う場所になった
恵那ルート分岐から美濃側へ下ると、やがて石原へ入ります。
江戸時代の上街道では、善師野宿と土田宿の間に位置する地域でした。
可児市の資料によると、この道は中山道の脇道として使われ、伊勢参りや善光寺参りの旅人も通りました。その途中にある真禅寺は、門前がにぎわったと伝えられています。
石原は、真禅寺のすぐ近くですので、石原も賑わいました。
ここがこの道の面白いところです。
街道を歩いたのは、藩主や役人だけではありません。
旅人、商人、農民、巡礼者、荷物を運ぶ馬、人足など、さまざまな人々が同じ道を利用しました。
古代に国家の駅路だった可能性のある道が、近世には庶民の参詣路や生活道路として使われるようになったとすれば、道の役割そのものが大きく変化したことになります。
切通しは、人が山を削ってつくった道
石原から土田へ向かう途中には、截り通し岩の伝承があります。
可児市の伝承では、この道はもともと非常に狭く、木こりが通る程度の山道だったとされています。そこへ修験者が現れ、大岩を焼いて割り、人が通れる道を開いたという話が残っています。
もちろん、修験者が本当に岩を焼いて街道を開いたことを史実として確認できるわけではありません。
しかし、この伝承が伝えていることは重要です。
自然のままでは人馬が通れない場所を、
岩を削る
道幅を広げる
坂を緩くする
橋を架ける
といった作業によって、街道へ変えていったという地域の記憶です。
街道は地図の上に線を引けばできるものではありません。人が長い時間をかけて地形を改変し、維持し続けて初めて「道」になったのです。
1813年の馬頭観音が、街道の交通量を物語る
そして、この区間の終わりに現れるのが土田切通の馬頭観音です。
可児市によると、この馬頭観音は文化10年(1813年)、行き交う人馬の安全と供養のために建立されました。
これは非常に象徴的な遺構です。
馬頭観音が必要だったということは、この道を多くの馬や旅人が通っていたということでもあります。
江戸時代の街道交通では、馬は人を乗せるだけでなく、米、薪、商品、旅人の荷物などを運びました。急な峠道や切通しでは事故も起こったでしょう。
だからこそ、人々は道端に馬頭観音を建て、安全を祈り、亡くなった馬や人を供養しました。
この石仏は、単なる信仰の対象ではなく、街道を実際に人馬が往来していたことを現在に伝える交通史の証拠でもあるのです。
一本の道に、古代から近代までの歴史が重なっている
恵那ルート分岐から土田切通の馬頭観音まで歩くと、現在は静かな山道や集落の道に見えます。
しかし、その下には、
古代東山道の推定路
↓
中世の地域交通路
↓
近世の上街道・木曽街道
↓
伊勢・善光寺参りの道
↓
明治時代の尾張街道
↓
現在の東海自然歩道
という、長い歴史が重なっています。
実際、明治時代になっても、可児市石原から善師野へ向かう道は「尾張街道」「飛騨街道」「木曽街道」などと呼ばれ、生活道路として使われていました。
現在、私たちが東海自然歩道として歩く道は、昭和になって突然生まれたものではありません。
そこには、何百年、あるいは千年以上にわたり、人々が尾張と美濃を行き来してきた「地形の通路」が残っているのです。
道しるべ (実はここ旧上街道でもある)
分岐から、土田の馬頭観音の間に、このような「道しるべ」を発見しました。

少し新しい感じはしますが、作り直したと言っても、もともとここに道標があったのでしょう。
そして、ここは旧上街道でもありました。尾張徳川家は、度々この道を使って参勤交代を行っていました。
尾張徳川家のお殿様がお通りになる姿を、この道標は見ていたのかもしれません。
土田切通の馬頭観音
そして、土田に差し掛かるころに、
この馬頭観音に出会いました。

これもまた、由来が江戸時代と古く、歴史オタクにはたまらないものなので、帰ってから調べました。
土田切通の馬頭観音とは
土田切通の馬頭観音は、岐阜県可児市土田に残る、江戸時代後期の街道交通を伝える石仏です。可児市の資料によれば、**文化10年(1813)**に建立され、「行き交う人馬の安全と供養」のために建てられたとされています。
この場所を通っていたのは、土田から石原、善師野へ向かう古い街道です。江戸時代には木曽街道・上街道として使われ、善師野宿と土田宿を結んでいました。尾張と美濃を行き来する旅人だけでなく、荷物を運ぶ馬、人足、商人、伊勢参りや善光寺参りの人々など、多くの人馬が往来した道でした。
「右ハかち道 左ハ馬道」と刻まれている
この馬頭観音が特に興味深いのは、信仰の対象であるだけでなく、道標としての役割も持っていたことです。
現地の石仏には、
「右ハかち道 左ハ馬道」
と刻まれていると紹介されています。
「かち」とは「徒」、つまり歩いて通る人のことです。したがって、この場所では、
右=徒歩の人が通る道
左=馬が通る道
というように、通行手段によって道が分けられていたことになります。
人なら通れる急坂や狭い道でも、荷物を背負った馬には危険です。そのため馬は、多少遠回りになっても勾配が緩く、足場の安定した道を通ったのでしょう。馬頭観音は、旅人が安全な道を選ぶための「交通標識」でもあったと考えられます。
なぜ「切通」に馬頭観音が置かれたのか
「切通」とは、丘や尾根を人為的に削り、道を通した場所です。
石原から土田へ向かう一帯は、鳩吹山系の山地と可児川の低地との境にあります。自然の地形のままでは、人や馬が簡単に通れる場所ではありませんでした。
そこで人々は、
岩や土を削る
→道幅を確保する
→人馬が通れる街道にする
という整備を行いました。
しかし、こうした場所は坂もあり、雨が降れば足元も悪くなります。荷物を背負った馬にとっては、とくに危険な場所だったでしょう。
だからこそ切通に、馬の安全を祈り、死んだ馬を供養する馬頭観音が置かれたと考えると、非常に納得できます。
馬頭観音は、江戸時代の「交通インフラ」でもあった
馬頭観音というと、私たちは宗教的な石仏として見てしまいがちです。
しかし土田切通の馬頭観音を見ると、それだけではありません。
安全祈願
+馬の供養
+道案内
+人道と馬道の区別
という複数の役割を果たしていました。
馬は江戸時代の物流を支える重要な存在です。米、薪、生活用品、旅人の荷物など、多くの物資が馬によって運ばれました。その馬を安全に次の宿まで移動させることは、街道の機能を維持するうえで欠かせませんでした。
つまり馬頭観音は、信仰の対象であると同時に、江戸時代の交通システムの一部だったのです。
小さな石仏から、昔の街道が見えてくる
現在、土田切通の馬頭観音を見ても、ただ一体の古い石仏にしか見えないかもしれません。
しかし刻まれた文字を読むと、そこには約200年前の交通風景が浮かび上がります。
善師野から峠を越え、石原を通り、土田へ向かう旅人。荷物を背負った馬。切通で人道と馬道に分かれる街道。そして、その安全を見守る馬頭観音。
この石仏は、単なる信仰の遺物ではありません。
「この場所を本当に人と馬が通っていた」ということを、現在まで伝えている街道史の証人なのです。
恵那ルート分岐から石原、土田へと東海自然歩道を歩いてくると、この馬頭観音は、現在の登山道の下に江戸時代の街道が重なっていることを実感させてくれる場所でもあります。
土田城 信長の母土田御前の誕生地!?
そして、馬頭観音を過ぎてすぐに、土田城が現れました。一説によると、織田信長の生母の誕生地とのことです。



これも、気になったので、調べてみました。
土田城とは
土田城は、現在の岐阜県可児市土田にあった中世の山城です。可児川が木曽川へ合流する地点から約1km上流、可児川左岸の丘陵上に築かれていました。標高は約180mで、東側の平地との比高は約100mあります。
城の東側には可児川、西から北側には山座川とその支流があり、三方を急斜面と川に囲まれています。南側だけが山地へ続くため、自然地形そのものを防御施設として利用できる「天然の要害」でした。
ただし、土田城の重要性は、単に攻めにくい場所だったことだけではありません。周囲を見ると、尾張と美濃を結ぶ街道、可児川、木曽川という、陸上交通と水上交通の結節点に位置していたことが分かります。
土田氏が築いたと伝えられる城
土田城は、文明年間(1469~1487)頃、当地を支配していた土田氏によって築かれたと伝えられています。
ただし、「文明○年に誰が築いた」と記す同時代史料が確認されているわけではありません。そのため、「15世紀後半頃、土田氏の居城として成立したと考えられている」とするのが適切です。
また、城主が普段から山頂で生活していたわけではなく、土田城は有事の際に籠る「詰城」の性格が強かったとされています。平時の居館は北側の大脇付近にあったと伝えられています。
つまり、
山上の土田城
と
麓の居館・集落
を一体として見る必要があります。
美濃と尾張を結ぶ街道を押さえる位置
土田城の西側には鳩吹山があり、その山麓には善師野方面から石原、土田へ抜ける古い交通路がありました。
このルートは、古代東山道の推定路の一つとも考えられ、後世には木曽街道・上街道として尾張と美濃を結びました。
善師野から峠を越え、
石原
→土田切通
→土田城付近
→可児川
へ進む道筋です。
したがって土田城は、美濃から尾張へ向かう人々、逆に尾張から可児盆地へ入ってくる人々を把握しやすい場所にありました。
「街道を監視するために築城した」と直接証明する史料はありませんが、立地上、交通路を意識した城だった可能性は高いと考えられます。
生駒氏との関係と土田城の終わり
16世紀になると、土田氏と尾張の生駒氏との関係が深まります。
弘治2年(1556)には、城主とされる土田源太夫が明智城で討死したと伝えられ、その後、生駒氏の養子となっていた親重や、その子・生駒親正が土田城に関係したとされています。
生駒親正は後に織田信長、豊臣秀吉に仕え、最終的には讃岐国の大名となる人物です。
親正は天正2年(1574)頃に土田城を離れたとされ、この頃には城としての役割を終えたと考えられています。
そのため土田城は、森氏によって戦国末期まで大規模改修された今城などとは異なり、在地領主の山城としての姿を比較的強く残す城と見ることができます。
城だけでなく、川と街道を一緒に見ると面白い
土田城を理解するには、城山だけを見るのでは不十分です。
北側には、後に木曽川舟運の拠点となった大脇湊があり、東側には可児川の渓谷と刎橋があります。さらに西から南西には、善師野・石原方面へ向かう街道が続きます。
つまり、
街道
+
山城
+
居館
+
可児川
+
木曽川
+
湊
が、一つの地域支配の空間をつくっていました。
土田城は巨大な城ではありません。
しかし、美濃と尾張を結ぶ陸路と、可児川・木曽川の水路が交わる場所に築かれたからこそ重要だった城なのです。
可児川の渓谷と鬼ヶ島
歩いている途中で、何回も可児川に遭遇しますが、この川も本当におもしろい様相をみせます。名も無い「渓谷」や鬼ヶ島という景勝地に出会うことができました。
非常に興味深くもあったので、それらについて、帰ってから調べました。
可児川の刎橋あたりの渓谷について

可児川を東から西へたどっていくと、可児市の市街地付近では比較的広い平地を流れていた川が、土田へ入ったあたりから突然その姿を変えます。両岸には岩盤が迫り、川は深い谷底を流れ、刎橋周辺では橋の上から水面を見下ろすような景観になります。
岐阜県の資料では、木曽川との合流点から戸走橋まで約2.2kmについて、河床や河岸に岩盤が露出する急流部であり、そのほとんどが天然河岸を形成する「渓谷状態」であると説明されています。
可児盆地から木曽川へ向かうところで、川が急になる
可児川は全体が渓谷を流れる川ではありません。上流から中流では、可児盆地の比較的平坦な土地を流れています。
ところが下流部では状況が変わります。岐阜県の河川資料によれば、可児川最下流部の河床勾配は約1/100で、それより上流の約1/150~1/250より急になります。
つまり可児川は、可児盆地から木曽川へ流れ込む最後の区間で、一気に高度を下げなければなりません。川の流れが速くなり、河床を削る力も大きくなるため、土田周辺では深い谷が形成されやすくなったと考えられます。
鬼ヶ島付近から、川底の岩石そのものが変わる
この渓谷を考えるうえで重要なのが、刎橋より少し上流にある「鬼ヶ島」です。
この付近には、約2200万年前の火山活動によって形成された「蜂屋累層」が分布しています。蜂屋累層には、火山活動によって生じた安山岩質の火山角礫岩などが含まれます。
岐阜県地学教育委員会の解説によれば、蜂屋累層は中新世前期の火山活動によって形成された地層です。
つまり可児川は、盆地の比較的削られやすい堆積物の地域から、鬼ヶ島付近で硬い火山岩の地域へ入っていくことになります。
さらに下流には、非常に硬いチャートが現れる
鬼ヶ島より下流へ進むと、可児川はさらに古い「美濃帯」の岩石が分布する地域へ入ります。
その代表がチャートです。チャートは主に二酸化ケイ素からなる非常に硬い岩石で、もともとは深い海底に堆積した放散虫などの殻が固まってできたものです。
産業技術総合研究所・地質調査総合センターは、可児川下流について、侵食に強い蜂屋累層の火山角礫岩や美濃帯のチャートが分布し、さらに木曽川までの標高差が大きいため、河川勾配が急になって「狭く切れ込んだ谷」が形成されたと説明しています。
産業技術総合研究所 地質調査総合センター「岐阜県の地質と災害」
硬い岩だからこそ、横ではなく下へ削られた
「硬い岩なら、川に削られにくいのではないか」と思うかもしれません。
ここが渓谷形成の面白いところです。
軟らかい地層では、川は河岸を横方向にも削るため、谷底が広がり、氾濫原や平地が形成されやすくなります。一方、硬い岩盤では両岸全体を簡単には崩せません。
しかし水は岩の割れ目を流れ、洪水時には砂礫や巨石を運びながら河床を少しずつ削ります。それが長期間続けば、谷は横に広がるより、下方向へ深く刻まれていきます。
可児川下流で岩盤が露出し、狭い谷の中を急流が流れるのは、この「下刻」が進んだ結果と考えることができます。
刎橋の特殊な構造も、この渓谷が生んだ
そして、この地形は人間の交通にも直接影響しました。
刎橋付近では谷が深く、河床に橋脚を立てることが難しかったため、かつては両岸から材木を張り出し、その上に橋を架ける「刎橋」という特殊な構造が採用されました。
江戸時代後期の地誌『新撰美濃志』にも、土田の可児川について、水流が深く激しいうえ、両岸に岩石が重なり、橋杭を設けることができないため、大木を両岸から刎ね出して橋を架けたという趣旨の記録があります。
つまり「刎橋」という名前と構造そのものが、可児川下流の渓谷地形から生まれたのです。
可児川の渓谷は、何千万年もの地質と新しい河川地形が重なった場所
刎橋周辺の景観は、一つの時代にできたものではありません。
中生代には美濃帯のチャートが形成され、その後、約2200万年前の火山活動によって蜂屋累層が形成されました。そして、はるか後になって可児川が木曽川へ向かって流れ、その硬い岩盤を少しずつ掘り下げました。
そのため現在の土田では、
可児盆地の平地 → 鬼ヶ島の火山岩 → 刎橋周辺の岩盤渓谷 → 木曽川
という劇的な地形の変化を見ることができます。
刎橋周辺の渓谷は、単なる「景色のよい場所」ではありません。何千万年という地質の歴史と、その後の可児川の侵食、そして人間の交通の歴史が、一つの場所に重なって見える場所なのです。
可児川の鬼ヶ島について

可児川の戸走橋を渡るところで、「鬼ヶ島」という景勝地に出会いました。なぜ、中州にこのような名前があるのか、気になったので、しらべてみました。
鬼ヶ島があるのは、可児川が土田へ入り、木曽川へ向かって次第に渓谷の姿を強めていく場所です。普通の砂州とは違い、岩盤が露出した中州の周囲を可児川が二つに分かれて流れています。
そして調べてみると、この「鬼ヶ島」という名前には、可児川の独特な地形と、木曽川流域に伝わる桃太郎伝説の両方が関係しているようです。
「鬼ヶ島」は少なくとも昭和30年代には伝説として記録されていた
「鬼ヶ島」という名称が最近の観光用につくられたものではないことは確認できます。
1960年に刊行された『可児町郷土史』の目次には、春里地区の伝説として、独立して**「鬼ヶ島」**という項目が設けられています。
つまり、少なくとも昭和30年代以前には、「鬼ヶ島」は地域で知られた地名・伝承だったと考えられます。
ただし、いつからこの中州を鬼ヶ島と呼ぶようになったのか、誰が最初にそう名付けたのかについては、現在確認できる資料からは分かりません。
木曽川流域の「桃太郎伝説」とつながる鬼ヶ島
この鬼ヶ島は、犬山から可児にかけて残る桃太郎伝説とも結び付けられています。
木曽川沿いには、犬山市栗栖の桃太郎神社をはじめ、「猿洞」「雉ヶ棚」など、桃太郎の物語に関連付けられた地名や伝承があります。
その物語の一つでは、桃太郎が木曽川沿いを進み、最終的に可児川にある鬼ヶ島へ向かい、鬼を退治したとされています。
もちろん、これを実際の歴史的事件として扱うことはできません。しかし、「鬼ヶ島」という場所が木曽川・可児川流域の民間伝承の中に組み込まれてきたことは興味深いところです。
普通の中州ではなく「岩の島」だった
では、なぜこの場所が「鬼」の住む島としてイメージされたのでしょうか。
その手掛かりになるのが地形です。
国土交通省系の災害調査資料では、鬼ヶ島は戸走橋と名鉄鉄橋の間に存在する、岩質で植生を伴い、周囲より高さのある中州として記録されています。
国土技術政策総合研究所「平成22年7月豪雨による可児川の被害調査」
しかも鬼ヶ島周辺には、安山岩質の火山角礫岩が露出しています。約2200万年前の火山活動によって形成された蜂屋累層に属する岩石です。
地質学的にも、普通の砂や礫が積もった中州とは性格が違います。
奇岩と急流が「鬼ヶ島らしい風景」をつくった
現地の地質調査でも、鬼ヶ島周辺には火山角礫岩や奇岩が見られることが報告されています。
可児川はここから下流へ向かうにつれ、硬い岩盤を深く削り、刎橋付近では本格的な渓谷を形成します。
つまり昔の人から見れば、鬼ヶ島は、
急な流れの真ん中に岩の島があり、その周囲に奇岩が並び、さらに下流には深い渓谷が続く場所
だったことになります。
こうした少し異様で、人を寄せ付けにくい景観が、「鬼が住む場所」という伝承と結び付いたとしても不思議ではありません。
「盗賊がいた」という伝承も残っている
桃太郎伝説を紹介する資料の中には、鬼ヶ島周辺について、昔この地域に盗賊が出没し、人々に恐れられていたという話もあります。
もしこうした伝承が古くから存在したのであれば、「鬼」とは文字通りの怪物だけではなく、地域の人々を脅かす者を象徴していた可能性も考えられます。
ただし、「盗賊がいたから鬼ヶ島という名前になった」とまで裏付ける史料は、現時点では確認できません。
伝説と史実は分けて考える必要があります。
鬼ヶ島は「地形」と「物語」が重なった場所
可児川の鬼ヶ島について調べてみると、面白いのは、単に桃太郎伝説だけで説明できないところです。
そこにはまず、火山活動によって形成された硬い岩盤があります。
その岩盤を可児川が流れ、急流の中に特徴的な岩の中州が残りました。
そして人々がその風景を見ながら、鬼や盗賊、桃太郎の物語を重ねていった。
そう考えると鬼ヶ島は、
地質が地形をつくり、地形が人間の想像力を刺激し、その想像力が伝説と地名を生み出した場所
なのかもしれません。
刎橋周辺の渓谷とあわせて歩いてみると、「なぜここが鬼ヶ島と呼ばれたのか」を、風景そのものから少し感じ取ることができます。
今城
今回、一番気になったのがこの城でした。小規模とは言え、戦国時代の遺構が分かりやすく残っていたからです。
グーグルでルートを確認していたら、偶然見つけて、立ち寄りました。
実際に私が今城で撮った写真




もっと撮った写真があったのですが、一つ言えるのは、城としての遺構が原型を感じさせるほど残っていたということです。そして、この土地が、今でも小池さんの所有であり、この周りには、かなり「小池さん」が住んでいるということも分かりました。小池家の墓と言われる石積みの塔も残っているからね。
集落の、いつの日か城として機能することも踏まえて、大切にされてきたのだろうと感じます。
帰ってから、私が調べた今城をまとめました
今城を歩いたあと、現地で見た土塁や堀、案内板の縄張り図が気になり、帰ってから改めて調べてみました。
今城は、現在の岐阜県可児市今にある戦国時代の城跡です。規模だけを見れば大きな城ではありません。しかし調べてみると、地域の土豪の城として始まり、やがて織田信長の東美濃進出、森氏による地域支配、本能寺の変、さらに小牧・長久手の戦いへとつながる城だった可能性が見えてきました。
最初の今城は、小池氏の地域支配の城だった
可児市の資料によれば、今城は天文年間(1532~1555年)頃、在地の土豪であった小池家継が築いたと伝えられています。
城の北側には小池氏の屋敷跡とされる場所があり、小池氏の墓と考えられている五輪塔も残されています。
つまり、もともとの今城は大名が築いた大規模な軍事拠点ではなく、可児南西部を基盤とした在地領主が、自分たちの土地や家臣、交通路を守るためにつくった城だったのでしょう。
その後、1565年頃に織田信長が東美濃へ勢力を伸ばし、金山城へ森可成が入ると、小池氏も森氏の支配体系へ組み込まれたとされています。
本能寺の変の後、今城の性格が変わった可能性がある
1582年、本能寺の変によって織田信長が死去すると、東美濃の政治状況は大きく揺れます。
地域の伝承では、小池氏も森氏に反抗し、森長可によって今城から退去させられ、その後は帰農したとされています。ただし、この経緯については同時代史料ですべて確認できるわけではなく、「伝えられていること」として扱う必要があります。
重要なのは、その後も今城が単純に放棄されたわけではない可能性があることです。
現在の城跡には、横堀、堀切、土塁、土橋、切岸、枡形状の虎口など、かなり技巧的な防御施設が残っています。
森氏が今城を改修した可能性
可児市は、現在残っている縄張りから、小池氏退去後に森氏が今城を改修した可能性を指摘しています。
特に興味深いのが虎口です。
城への入口を単純な一本道にせず、土塁や曲輪によって進行方向を変えさせ、侵入した敵を狭い場所へ誘導する構造になっています。また、本丸と二の丸の間には堀切が設けられ、土橋を通らなければ移動しにくいようになっています。
大きな城ではありません。しかし、小さいからこそ敵の進路を限定し、少人数でも守りやすくする工夫が見られます。
「土豪の居城」から「地域防衛網を構成する軍事拠点」へ性格が変わったと考えると、現在の縄張りが理解しやすくなります。

小牧・長久手の戦いと今城
さらに可児市は、今城の改修時期として1584年頃、つまり小牧・長久手の戦いとの関係を考えています。
当時、森長可は羽柴秀吉側に属していました。一方、南の尾張では徳川家康と織田信雄が小牧山を中心に軍事態勢を整えていました。
可児盆地から南へ進めば、善師野を経て犬山、さらに小牧方面へつながります。
そのため今城や大森城など可児南部の城を、南からの侵攻に備える防衛線として整備した可能性があります。
ただし、「森長可が1584年に今城を改修せよと命じた」という文書が残っているわけではありません。縄張りの特徴と当時の政治・軍事情勢を重ねた推定として理解する必要があります。
現地にあった古い縄張り図も気になった
現地の案内板には、今城を描いた古い絵図が掲示されていました。
最初は戦国時代の縄張り図かと思いましたが、調べてみると、これは森長可や小池氏の時代に作られた設計図ではなく、近世後期に城跡の姿を記録したとみられる絵図のようです。
そこには「本丸」「二丸」などの区画、堀、道筋などが描かれています。
一方、可児市が現在公開している現代的な「今城跡縄張り図」は、『可児市史』第1巻をもとにした別の資料です。
古絵図と現在の遺構を比較すると、城が使われなくなった後も、土塁や堀、曲輪の形がかなり長く残されていた可能性が見えてきます。
小さな今城から、戦国時代の変化が見えてくる
今城を調べて面白いと思ったのは、一つの城の中に複数の時代が重なっていることです。
最初は小池氏という地域の土豪の城だった。
やがて織田信長の東美濃進出によって森氏の支配下に入り、本能寺の変後の混乱を経て、森氏が直接利用する城へ変わった可能性がある。
さらに小牧・長久手の戦いの時期には、南の犬山・小牧方面を意識した防衛網の一部として改修されたのかもしれません。
今城は巨大な天守を持つ城ではありません。しかし、残された土塁、堀切、虎口、そして一枚の古絵図から、地域の土豪の時代から戦国大名による広域支配へと移っていく過程を読み取ることができます。
現地では小さな城跡に見えましたが、帰ってから調べるほど、今城が置かれていた歴史の大きさが見えてきました。
途中で出会った、衝撃的なたこ焼き屋さん
また、歴史的な遺構だけでなく、こんなたこ焼き屋さんも見つけてしまいました。

書いてある内容がとても衝撃的です。
場所はこちらです。
久々利城
そして、一番最後がこの久々利城でした。実際に歩いてみると、この久々利の地が、景行天皇以来の由緒のある土地であり、江戸時代に支配した千村氏が尾張藩と幕府の両属で、4400石なのに10万石待遇だったことも考えれば、実はかなり重要な土地であることが分かります。


久々利城とは――古代から見る
久々利城を訪れると、まず目に入るのは、山の斜面を何段にも削って造られた曲輪や、大きな堀切、土塁です。現在残っている城跡だけを見れば、戦国時代の山城として理解することができます。
しかし、久々利という土地の歴史を調べてみると、この城だけを戦国時代に切り取って見るのは少しもったいないように感じます。
久々利には、古代の「泳宮」の伝承があり、中世には美濃守護土岐氏の一族である久々利氏が本拠を置き、江戸時代になると旗本・千村氏が屋敷を構えました。
支配者は何度も変わっています。
それでも、久々利という同じ場所が、古代の伝承地、中世の政治・軍事拠点、近世の行政・文化拠点として何度も選ばれているのです。
久々利の歴史は「泳宮」の伝承までさかのぼる
久々利には、景行天皇の「泳宮(くくりのみや)」があったという伝承があります。
『日本書紀』には、景行天皇が美濃国へ行幸し、八坂入彦命の娘である弟媛を后に迎えようとして、「泳宮」に滞在したという物語が記されています。
また『万葉集』にも、美濃国の「くくりのみや」と読まれる宮が登場します。
現在の可児市久々利が、その泳宮の場所であったと古くから考えられてきました。
ただし、ここは注意が必要です。
景行天皇が実際に現在の久々利へ来たことや、泳宮の建物跡が現在の久々利で確認されたわけではありません。可児市も、史実として確認できるものではないとしています。
それでも、「くくり」という名前が古代文献に登場し、それが後世の久々利と結び付けられてきたことは、この地域の歴史を考えるうえで興味深い点です。
中世になると、土岐氏の一族が久々利を支配する
時代が大きく下り、南北朝時代になると、久々利には美濃守護土岐氏の一族が入ります。
久々利氏の祖とされるのが土岐悪五郎康貞です。
康貞は南北朝の争乱のなかで1352年に戦死したとされ、その子の行春が「久々利太郎行春」を名乗ったことから、久々利氏が始まったとされています。
久々利氏は、単なる一村の土豪ではありませんでした。
美濃守護土岐氏の一族として室町幕府の奉公衆にも属したとされ、現在の可児市東部から多治見方面の一部に及ぶ地域を支配したと考えられています。
その政治・軍事の中心となったのが久々利城でした。
久々利城は可児市内でも最大級の山城
久々利城は、久々利の集落を見下ろす標高約236メートルの山に築かれています。
築城年代そのものは明確ではありません。
南北朝時代から久々利氏の拠点が存在した可能性がありますが、現在残る城の姿が一度に造られたわけではなく、室町時代から戦国時代にかけて何度も改修されたと考えられます。
久々利城には、
本丸・二の丸・三の丸などの曲輪
土塁
堀切
竪堀
横堀
土橋
枡形状の虎口
横矢を意識した防御施設
などが残されています。
可児市は、久々利城を市内の中世城館の中でも最大規模のものと評価しています。
城跡には石垣や天守はありません。しかし、山の地形そのものを削り、盛り、切断して造った**「土の城」**としての骨格が、現在でもかなりよく残っています。
山城だけでなく、麓に城下町があった
久々利城を見るうえで重要なのは、山の上だけを見ないことです。
久々利氏は、普段から山頂で生活していたわけではありません。
城の麓、現在の可児郷土歴史館付近には、久々利氏の居館があったと考えられています。
そして、その周囲に家臣や商工業者、住民が集まり、現在の元久々利の集落につながる城下町が形成されました。
つまり久々利は、
山上=軍事拠点としての城
山麓=居館・行政・生活の中心
という構造を持っていました。
この山麓の政治的中心地が、後の江戸時代にも引き継がれていくところが、久々利の歴史の面白いところです。
1583年、久々利氏は森長可によって滅ぼされる
戦国時代後半になると、東美濃へ織田信長の勢力が進出します。
1565年には森可成が金山城へ入り、可児地域の在地領主も森氏の支配下へ組み込まれていきました。
本能寺の変後、森長可は東美濃の支配を再編します。
その過程で、天正11年(1583)、最後の久々利城主とされる久々利頼興が森長可によって殺害され、久々利城も森氏の軍勢に攻められました。
これによって、約200年間続いた久々利氏の支配は終わったとされています。
ただし城は直ちに消滅したわけではなく、その後は森氏の支配下に置かれました。
現在残る横堀や技巧的な虎口などについては、久々利氏時代だけでなく、森氏による改修が含まれている可能性も指摘されています。
つまり現在の久々利城には、久々利氏が長期間造り続けた城と、戦国末期の森氏による軍事再編とが重なっている可能性があるのです。
江戸時代になると、城ではなく「千村氏屋敷」が中心になる
関ヶ原の戦いの後、久々利の支配構造は再び大きく変わります。
慶長6年(1601)、徳川家康の家臣であった千村平右衛門良重が久々利に屋敷を構えました。
千村氏は、木曽氏の旧臣である「木曽衆」の有力者です。関ヶ原合戦では木曽路の確保に功績を挙げ、戦後、久々利周辺に知行を与えられました。
現在の可児郷土歴史館がある場所が、その千村氏上屋敷跡です。
興味深いのは、千村氏が新しい山城を築かなかったことです。
戦国時代のように山上の城から武力で地域を支配する必要はなくなりました。
その代わり、
屋敷
役所
家臣団
年貢
文書
によって地域を統治しました。
久々利城という「武力の城」から、千村氏屋敷という「行政の拠点」へ、支配の形そのものが変化したのです。
千村氏は、久々利の古代史まで掘り起こした
さらに面白いのは、江戸時代の千村氏が、最初に紹介した古代の「泳宮」を研究していることです。
千村氏9代の千村仲雄は国学に関心を持ち、文政2年(1819)に『美濃国泳宮考』を著しました。
つまり千村氏は、自分たちが暮らす久々利の歴史を『日本書紀』や『万葉集』までさかのぼって調べ、
この久々利こそ、古代の「泳宮」の土地ではないか
と考えたのです。
その後、千村家臣の櫛田道古も、明治2年(1869)に『美濃国泳宮略記』を書いています。
ここで久々利の歴史は、不思議な形で一周します。
古代の泳宮伝承
↓
中世の久々利土岐氏
↓
久々利城と城下町
↓
森氏による支配
↓
江戸時代の千村氏屋敷
↓
千村氏による泳宮研究
とつながっていくからです。
久々利城は「1500年の久々利」を見る入口
久々利城そのものは中世の城です。
しかし、久々利城を古代から見てみると、この場所の意味が少し違って見えてきます。
久々利は、古代には泳宮という王権伝承の土地として語られ、中世には久々利土岐氏が山城と城下町を築き、江戸時代には千村氏が同じ山麓に屋敷を構えました。
支配者も制度もまったく違います。
しかし、「久々利が地域の中心になる」という地理的な性格は繰り返し引き継がれているように見えます。
だから久々利城を見るときには、山の上の堀や土塁だけを見るのではなく、麓の元久々利、千村氏屋敷跡、そして泳宮の伝承地まで歩いてみると、この土地の歴史が立体的に見えてきます。
久々利城とは、単なる戦国時代の山城ではありません。
古代から近世まで、人々が何度も「ここを地域の中心」として選び続けた久々利の長い歴史を読み解くための、重要な入口なのです。
古墳 はじめてみた横穴石室式古墳!

熊野古墳について
可児市広見にある熊野古墳は、古墳時代後期から飛鳥時代へ移り変わる頃につくられたと考えられる古墳です。岐阜県の史跡に指定されており、現在は墳丘の土がかなり失われているため、内部に造られた大きな横穴式石室が地表に露出しています。
この古墳の最大の特徴は、何といっても巨大な横穴式石室です。
横穴式石室とは、墳丘の横から内部へ入り、通路である「羨道」を通って、遺体を納める「玄室」へ入る構造です。古墳時代前期に多かった、上から埋葬してそのまま閉じる墓とは異なり、入口を開ければ追葬することもできました。
熊野古墳の玄室には、長さ約4.4メートル、幅約2.8メートル、厚さ約50センチにもなる巨大な一枚岩が天井石として使われています。
これほど大きな石を運び、持ち上げ、石室の上に据えるには、大勢の人々を動員する必要があります。
つまり熊野古墳の巨大な石室は、ここに葬られた人物が、かなり大きな力を持った地域の首長であったことを物語っています。
可児地域では、古墳時代後期になると横穴式石室を持つ古墳が各地につくられるようになります。
それまでの首長たちは、長塚古墳のような巨大な前方後円墳を築くことで力を示していました。
しかし時代が進むと、巨大な墳丘そのものより、
大きな石室を造ること
巨大な石を使用すること
武器や装飾品を副葬すること
へ、首長の権威を表現する方法が変化していきます。
熊野古墳は、その変化をよく示している古墳です。
可児地域の首長墓は、川合狐塚古墳、次郎兵衛塚1号墳などを経て、熊野古墳へ続いた可能性が指摘されています。
そして熊野古墳が築かれた7世紀前半頃になると、古墳を築く時代そのものが終わりに近づきます。
中央では律令国家の形成が進み、地方の有力者も、大きな墓を築く地域首長から、国家の地方支配に組み込まれる豪族や官人へと変わっていきました。
その意味で熊野古墳は、単なる「大きな石室のある古墳」ではありません。
巨大な前方後円墳の時代が終わり、横穴式石室を持つ首長墓が成熟し、やがて古墳そのものが造られなくなっていく――その大きな転換期を現在に伝える古墳なのです。
まとめ 歴史的に面白い歩きができる区間
実際に歩いてみて感じたのは、この区間は、歴史的に面白いものを肌で感じることができる区間だということです。
今城・久々利城などの、遺構がかなり残っている城跡をいくつも見ることができましたし、横穴式石室古墳というのも、可児のあちこちで見ることもできました。
また、自然も独特なところがあり、それをひとつひとつ感じて歩いていくと、とても楽しい歩きになるのではないかと思います。
はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
私、原田芳裕は、様々な方と繋がりたいと思っています。もし、私と繋がりたいという方は、是非、下のメールフォームから、ご連絡ください。ご相談事でも構いません。お待ちしております。






