ガルトゥングの「文化的暴力」とは何か――暴力の正当化を問い直し、安心して生きられる社会へ

「本人のために厳しくしている」「組織を守るためには仕方がない」「将来の豊かさのために、今は我慢してほしい」。
こうした言葉が、人を支える説明になることもあれば、苦痛や不公正を受け入れさせる説明になることもあります。言葉だけを取り出して善悪を決めることはできません。しかし、誰かが傷ついているとき、その傷つきを当然のものにする説明には、立ち止まって考える必要があります。
平和学者ヨハン・ガルトゥングが1990年の論文「文化的暴力」で問うたのは、まさにこの問題でした。暴力は、目に見える行為や社会の仕組みによって生じるだけでなく、それを正しい、自然だ、やむを得ないと思わせる文化によっても支えられています。
私はこれまで、平和を「一人ひとりが安心して生きられること」から考えてきました。ガルトゥングの文化的暴力論は、安心を損なう行為や仕組みが、なぜ放置され、ときには称賛までされるのかを考える手がかりになります。
本稿では論文全体の議論をたどり、その意義と限界を確認しながら、積極的平和と私、原田芳裕の「安心」の考え方につなげます。職場や地域社会の例は、概念を説明するための仮の例です。
ガルティング【文化的暴力】日本語訳版
ガルトゥング【文化的暴力】 原文(英語版)
目次
- 1 そもそも、文化的暴力とは何か。
- 2 文化的暴力は、暴力を「正しい」「仕方がない」と思わせる
- 3 文化全体を「暴力的」と決めつけてはいけない
- 4 直接的・構造的・文化的暴力は、同じ問題の異なる側面を見る
- 5 暴力によって損なわれるものは、生命だけではない
- 6 「自分が悪い」と思わせる内面化と、暴力の悪循環
- 7 宗教・政治・言語・芸術・科学は、何を正当化するのか
- 8 論文自身も、批判的に読む必要がある
- 9 コスモロジー――「当然だ」と思う、その前提を問う
- 10 ガンディーから考える、生命と手段・目的の一体性
- 11 積極的平和は、日々の行動・仕組み・文化の中につくられる
- 12 私の「安心」の定義と、文化的暴力をつなぐ
- 13 平和を、苦しむ人に沈黙を求める言葉にしない
- 14 平和研究は、誰の声から学ぶのか
- 15 参考文献
- 16 はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
そもそも、文化的暴力とは何か。
ガルトゥングのいう文化的暴力とは、直接的暴力や構造的暴力を正当化するために利用され得る、文化の諸側面です。人を傷つける行為や、人々の基本的な必要を損なう仕組みに、「そうしてよい」という根拠を与える働きを指します。[1・第1節]
ここでいう文化には、宗教、政治思想、言語、芸術、科学などが含まれます。それらを通じて共有される「何が正しいか」「誰を尊重すべきか」「どのような社会が当然か」という価値観も、分析の対象です。
例えば、身分を理由に、ある人々だけが教育を受けられない社会を考えてみます。教育の機会を奪う制度には、構造的暴力の問題があります。学校に来た人を脅して追い返す行為には、直接的暴力の問題があります。そして「その身分の人間に教育は必要ない」という考えによって、制度や行為を正当化するところに、文化的暴力の問題があります。
この区別によって、何が人を傷つけているのかに加え、なぜその扱いが当然のものとして受け入れられるのかを考えられます。具体的な加害を止めても、それを支える制度や価値観が残れば、同じ被害が繰り返される可能性があるからです。
ただし、ある文化のすべてが暴力的だという意味ではありません。同じ文化の中にも、人を排除する考え方と、人の尊厳を守る考え方があります。文化的暴力の分析では、特定の言葉や価値観が、どのような暴力を支えているのかを具体的に確かめます。

文化的暴力は、暴力を「正しい」「仕方がない」と思わせる
ガルトゥングは文化的暴力を、直接的暴力や構造的暴力を正当化するために利用され得る、文化の諸側面として定義しています。宗教、イデオロギー、言語、芸術、経験科学、形式科学などが、その対象になります。[1・第1節]
ここでいう文化は、伝統芸能や生活習慣に限りません。「何が正しいか」「誰を尊重すべきか」「どのような社会が当然か」を理解するときの、言葉、象徴、知識、価値観を含んでいます。
例えば、ある人を繰り返し侮辱して従わせる行為があり、それを「愛情のある指導だ」と説明しているとします。侮辱や威圧という行為と、その行為を善いものとして受け入れさせる説明は、分析上、区別できます。後者に文化的暴力の問題があります。
その働きには、大きく二つあります。
一つは、暴力の評価を変えることです。「悪い行為」を「正しい行為」に変え、そこまでできなくても「許される行為」「必要な犠牲」として受け入れさせます。
もう一つは、暴力を見えにくくすることです。生活が成り立たない人を「努力不足」とだけ説明すれば、賃金、住居費、支援へのアクセスなどを調べる必要が見えなくなります。被害を「人間関係の行き違い」とだけ表現すれば、一方が拒否できない力関係が隠れることもあります。
文化的暴力を考える際には、説明する人の悪意だけに注目していては足りません。善意で語られた説明であっても、実際に何を正当化し、誰の苦痛を見えなくしているのかを問う必要があります。

文化全体を「暴力的」と決めつけてはいけない
ガルトゥング自身が、定義の段階で強調していることがあります。分析するのは「文化の諸側面」であって、文化全体ではないという点です。
ある宗教的解釈が差別を正当化することと、その宗教に属する人々が暴力的だということは、まったく別です。ある言語で戦争を扇動できることから、その言語自体が暴力的だと結論することもできません。
同じ文化の内部には、支配を支える解釈も、支配に抗う解釈もあります。国家への帰属意識が他者の排除に使われることもあれば、その社会で暮らす人々を分け隔てなく守る責任につながることもあります。
したがって、具体的に問うべきなのは、どの文化的要素が、どの場面で、どの行為や仕組みを正当化しているのかです。
この限定を外すと、文化的暴力を批判する言葉が、「あの民族は危険だ」「あの宗教は劣っている」という別の排除を生みかねません。文化を批判的に検討する作業には、その内部の多様性を見失わない姿勢が必要です。

直接的・構造的・文化的暴力は、同じ問題の異なる側面を見る
ガルトゥングの三つの暴力は、別々の箱に現実を振り分けるだけの分類ではありません。一つの問題に、三つの側面が重なっていることがあります。
| 種類 | 注目するもの | 仮の職場での具体例 |
|---|---|---|
| 直接的暴力 | 人を傷つけ、脅し、自由などを侵害する具体的な行為 | 侮辱や脅迫を繰り返して従わせる |
| 構造的暴力 | 回避可能な被害を継続させる、資源・権限・機会の配分や関係の仕組み | 安全に働けない負担が一部に集中し、その人々が改善の決定から排除される |
| 文化的暴力 | それらを正当化し、自然なものとして受け入れさせる意味や価値観 | 「下の者は耐えて当然」「成果を出す上司なら多少の威圧は許される」と説明する |
例えば、威圧的な上司が交代しても、無理な負担を押し付ける仕組みと、それを評価する文化が残れば、次の上司のもとで同じ問題が起こる可能性があります。
逆に、規則が改善されても、「相談する人は組織への忠誠心がない」と考えられていれば、規則は利用されません。尊重を説く研修を行っても、日々の業務で健康や生活が損なわれ続ければ、理念は実感を伴いません。
行為を止めること、仕組みを変えること、正当化を問い直すこと。それぞれが必要であり、一つだけで残りが自動的に解決するとは限らないのです。
なお、言葉で脅すことは直接的暴力にもなり得ます。「言葉だから文化的、身体への攻撃だから直接的」という分け方ではありません。一つの発言が、相手を脅す行為であると同時に、支配を正当化する働きを持つ場合もあります。

暴力によって損なわれるものは、生命だけではない
ガルトゥングは暴力を、回避可能な、人間の基本的必要や生命に対する侵害として考えます。そのうえで、生存、福祉、アイデンティティー、自由という四つの必要を挙げています。[1・第2節]
生存は、生き続けられることです。福祉は、健康を損なう悲惨な状態に置かれず、暮らしの必要が満たされることです。アイデンティティーは、自分が何者であり、どう生きるかという意味を奪われないことです。自由は、抑圧されず、選び、行動できることです。
例えば、命を奪われてはいなくても、自分の言語や文化を捨てるよう強制されれば、アイデンティティーが侵害されます。働く場所があっても、生活を維持するために危険な扱いを拒否できなければ、福祉や自由が損なわれます。
このため、平和を「死傷者が出ていない状態」だけで評価することはできません。人がどう生かされているのか、生活を選び直せるのか、自分として生きられるのかが問題になります。
ただし、あらゆる苦痛や不満を、そのまま暴力と呼ぶわけではありません。どの必要が、どの行為や仕組みによって損なわれ、どのような改善が実現可能なのかを具体的に示す必要があります。

「自分が悪い」と思わせる内面化と、暴力の悪循環
文化的暴力が深く働くと、支配する側の説明が、被害を受ける側自身の判断にも入り込みます。
「自分が弱いから耐えられない」「この扱いを受けるのは能力が低いからだ」「助けを求めるのは恥ずかしい」。こうした判断によって、問題を訴えたり、他の人とつながったりすることが難しくなる場合があります。
ガルトゥングは、搾取を維持する仕組みとして、被支配者に支配側の見方を植え付ける「侵入」、全体像をつかみにくくする「細分化」、参加の外に置く「周縁化」、互いにつながりにくくする「分裂」を挙げます。これらは、問題を理解することと、状況を変えるために行動することを妨げます。[1・第2節]
ここでは、知らないこと自体を直ちに文化的暴力とするべきではありません。注目したいのは、知る機会や参加の可能性が狭められ、その状態が「専門家に任せておけばよい」「下の者が口を出す必要はない」と正当化される関係です。
三つの暴力の間には、相互作用があります。暴力を肯定する文化が仕組みを支え、その仕組みが具体的な加害を生み、加害の反復が「以前からこうだった」という新たな正当化を生みます。反対に、最初の加害を後から正当化するために、文化が動員される場合もあります。
これは暴力の原因を文化だけに求める理論ではありません。文化、構造、行為のどこから循環が始まったのかは、事例に即して調べる必要があります。
また、苦痛の深い社会で必ず反乱が起こるとも限りません。諦め、撤退、沈黙として表れる場合もあります。苦情が少ないことを、そのまま被害の少なさの証拠にはできないのです。

宗教・政治・言語・芸術・科学は、何を正当化するのか
論文の第4節は、文化的暴力の働きを六つの領域で検討します。次の表は、その着眼点を整理したものです。
| 領域 | ガルトゥングが注目する問題 |
|---|---|
| 宗教 | 選ばれた者と選ばれない者という区別が、支配や排除を神聖なものにすること |
| イデオロギー | 自分たちを高く、他者を低く位置付け、搾取や攻撃を正当化すること |
| 言語 | ある人々の存在を見えにくくしたり、暴力を別の言葉で覆い隠したりすること |
| 芸術 | 他者を野蛮・専制的な存在として描き、自分たちの優越を感じさせること |
| 経験科学 | 特定の社会関係を合理的・必然的なものとして説明し、その変更を考えにくくすること |
| 形式科学 | 厳密な二分法を人間社会に持ち込み、複雑な関係を二者択一へ押し込める可能性 |
宗教とイデオロギーに共通するのは、「自己」と「他者」の価値に大きな落差をつける働きです。他者を、自分たちと同じように生き、苦しみ、喜ぶ存在として見なくなれば、その人々に負担を押し付けることへの抵抗が弱まります。
宗教を離れても、この構図は残ります。「文明的な者と遅れた者」「有能な者と無能な者」といった区分が、権利や生活条件の格差を当然視させる場合があるからです。努力や能力を評価することと、それを理由に人間としての価値や基本的な生活保障まで序列化することは、分けて考えなければなりません。
言語と芸術は、人の見方や感情に働きかけます。例えば、威圧をすべて「指導」と呼べば、行為の具体的な内容が検討されなくなることがあります。ある社会を残虐さだけで描き続ければ、その社会で暮らす普通の人々や、異なる実践が見えなくなります。
科学に対する問いも、科学的な検証を否定するものとして読むべきではありません。何を前提とし、何を測定し、何を考慮の外に置いたのかという問いです。
比較優位論への批判では、現在の生産条件に基づく分業が、将来の能力形成や産業の変化を閉ざす現状維持の説明として使われていないかが問題になります。これはガルトゥングの批判であり、それを評価するには、理論の前提、具体的な政策、実際の結果を区別して検討する必要があります。
数字による説明が正確であっても、何を良い結果と評価するかは別の問題です。全体の生産が増えても、誰の生活が損なわれ、その負担を回避できたのかという問いは残ります。

論文自身も、批判的に読む必要がある
文化的暴力という概念が有用であることと、論文に挙げられた個々の説明がすべて正しいことは、同じではありません。
例えば、超越的な神への信仰が社会的な序列化につながるという議論は、宗教の多様な解釈や実践を調べて検証する必要があります。欧州の言語と日本語・中国語の特徴から、社会の暴力性を直接説明することにも慎重さが必要です。
形式科学を扱う箇所にも課題があります。「ある命題とその否定が同時に真ではない」という矛盾律と、「ある命題かその否定のどちらかが成り立つ」という排中律は、異なる原理です。また、論理的な推論を学ぶことが、そのまま敵味方の分断や暴力を生むと証明されたわけでもありません。
この箇所から受け取れる問いは、形式的な整合性だけで、人間の複雑な経験や社会関係を十分に説明できるのか、ということです。数学や論理そのものを暴力的と決めつける必要はありません。
さらに、論文は西洋文化全体を強く批判する表現も用いています。そこには、冒頭で文化全体の一括評価を避けようとした姿勢との緊張があります。
文化的暴力を分析する概念は、分析者自身の説明にも向けられるべきです。 相手の文化を単純化し、その内部の人々や異論を見えなくしていないか。この問いを手放さずに読むことで、論文の力をより正確に生かせます。

コスモロジー――「当然だ」と思う、その前提を問う
ガルトゥングは、個々の説明のさらに奥にある深層文化を、「コスモロジー」という概念で考えます。ここでいうコスモロジーは、宇宙の成り立ちについての自然科学だけを意味しません。何を自然・正常と感じるかを形づくる、世界についての深い前提です。[1・第4節7]
例えば、「人は競争で順位をつけられるものだ」「社会を変えるには、まず誰かが犠牲にならなければならない」「自然は人間が利用するためにある」といった前提です。
こうした前提が自明になると、そこから外れる発想は、内容を検討される前に「非現実的」と退けられます。無理な働かせ方を変える提案が、「仕事とは苦しいものだ」の一言で閉ざされる場合も、その一例として考えられます。
ただし、深層文化を生物学的な運命のように扱うべきではありません。論文が使う「文化の遺伝的コード」という表現は比喩です。同じ社会にも複数の価値観があり、対話、経験、制度の変更を通じて、何が当然かという理解は変わり得ます。
ここで問いたいのは、何となく繰り返されている「仕方がない」の中身です。その判断は、どの事実に基づき、どの代替案を検討したうえで出されたのか。誰かにとって便利な前提が、すべての人にとっての必然として扱われていないかを確かめる必要があります。

ガンディーから考える、生命と手段・目的の一体性
ガルトゥングは第5節で、ガンディーの思想を二つの原則から読み解きます。「生命の一体性」と「手段と目的の一体性」です。
生命の一体性は、自分たちと他者の生命の間に、犠牲を正当化する価値の隔たりを置かないこととして理解できます。国籍、民族、階級、能力などによって、ある人の苦痛を軽く扱わないということです。
これは、全員が同じ考えになることでも、被害を受けた人が加害者と親しくなることでもありません。責任を明らかにし、必要な距離を保ちながらも、人間としての尊厳まで否定しない関係を考えます。
手段と目的の一体性は、将来の理想を理由に、現在の人々を際限なく犠牲にしないという原則です。豊かさを目指す取り組みであれば、その過程でも人の暮らしが守られる必要があります。自由を目指す取り組みであれば、参加する人々の異論や選択を尊重する必要があります。
将来への投資や、本人が選ぶ努力まで否定する考え方ではありません。誰が負担を決め、誰がそれを負い、拒否や変更が可能なのかが問われます。
「平和が実現した後に尊厳を守る」のでは、現在の犠牲を終わらせる歯止めがありません。平和を目指す行動の中に、すでに平和の条件をつくる必要があります。
生命の一体性は、人間以外の生命にも向けられています。ある社会の安心や繁栄が、他の人々や自然の継続的な破壊によって支えられていないかという問いも、この原則に含まれます。

積極的平和は、日々の行動・仕組み・文化の中につくられる
ガルトゥングは1969年の論文で、直接的な暴力の不在を消極的平和、構造的暴力の不在を積極的平和とし、後者を社会的公正と結び付けました。[2・第5節]
1990年の文化的暴力論は、公正な社会を実現し、維持する条件に、文化という側面を加えて考えるものです。結論では、暴力の三角形に対して、平和の三角形が提示されます。
| 平和の側面 | 具体的につくるもの |
|---|---|
| 直接的平和 | 危害を止めるとともに、協力、配慮、支援を行動として実践する |
| 構造的平和 | 多様な人々が、互いの生を支え、公正に資源や機会を得られる関係を整える |
| 文化的平和 | 尊厳を守る行動や、公正な仕組みを、価値あるものとして支える |
ここで「直接的平和=消極的平和」と単純に対応させることはできません。本文の直接的平和には、協力や友情、愛という積極的な行動が含まれています。
また、構造的平和の「多様性・共生・衡平」は、違いを保てること、互いの生を支えられること、公正に関係できることを、それぞれ問う言葉です。同じ場所で暮らしているだけでも、一部の人々だけが豊かになっているだけでも、十分とはいえません。
この三つの平和は、互いを支えることができます。相談した人が実際に守られる経験は、「相談してよい」という理解を育てます。その理解は、支援制度を充実させる支持につながり、制度が働けば、次の人も助けを求めやすくなります。
だからこそ、ガルトゥングは三つの角に同時に働きかけるよう求めます。同時にとは、すべてに同じ労力をかけることではありません。緊急の危害を止めながら、再発を生む仕組みと正当化も、改善すべき課題として引き受けることです。

私の「安心」の定義と、文化的暴力をつなぐ
私は、安心を、心が平安であり、安定し、満足していることとして考えてきました。そして暴力を、次のように定義しています。
原田芳裕の、暴力の定義
暴力とは、一人ひとりが安心して生きられる環境を実現できるにもかかわらず、人の行為や社会の仕組みによって、その環境が奪われ、損なわれ、またはその実現や回復が妨げられることである。
安心を創る政治5原則を制定しました - はらだよしひろ に具体的に書いてあります。
これはガルトゥングの文章の引用ではなく、その議論を踏まえた私自身の定義です。
ここで重視しているのは、安心して生きられる「環境」です。心の状態だけを見て、本人の受け止め方を変えればよいと考えるものではありません。身体の安全、生活の見通し、自分として生きられること、支援を求められること、傷ついた後に暮らしを立て直せることが関わります。
文化的暴力の概念を重ねると、問いが一つ加わります。その環境が損なわれているのに、なぜ「それでよい」「変えなくてよい」と説明されるのか。
例えば、「働ける場所があるだけで感謝すべきだ」という説明によって、健康を損なう扱いの改善が妨げられるなら、その説明の働きを検討する必要があります。「過去のことをいつまでも言うな」という言葉によって、被害の確認や回復の支援が閉ざされる場合も同じです。
一方で、安心できない状態をすべて直ちに暴力とすることはできません。人が避け切れない不確実さもあり、他者との違いに向き合う際の戸惑いもあります。だからこそ、実現可能な改善と、それを妨げている行為や仕組みを確かめることが必要です。
本人が「平気だ」と話していることも、大切な情報です。その声を尊重しながら、情報を得られるか、拒否できるか、別の選択肢があるかも確認します。外から本人の幸福を決めつけず、同時に、諦めや沈黙だけを根拠に問題がないと決めない姿勢が求められます。
そして、自分の安心を得るために、他の人を黙らせ、排除してよいわけではありません。一人ひとりの安心が、他の人の安心と両立する条件を探ることに、積極的平和との接点があります。

平和を、苦しむ人に沈黙を求める言葉にしない
文化的暴力を考えるとき、私自身が特に注意したいのは、「平和」や「和」を掲げる言葉の使われ方です。
被害を訴えた人に「みんなが仲良くするために我慢してほしい」と求めるなら、何が守られているのでしょうか。すでに不利益を受けている人の沈黙によって関係が維持されるのであれば、その状態をそのまま平和と評価することはできません。
異議申立て、批判、交渉が起こることと、暴力が起こることは同じではありません。声を上げられるようになったことで、それまで見えなかった問題が表に出る場合もあります。
平和の文化をつくる取り組み自体にも、この問いは向けられます。「正しい平和観」を一方的に教え込み、異論を封じるなら、その方法が人の自由を損なっていないかを検討しなければなりません。
必要なのは、誰も異議を唱えない状態をつくることではなく、異議が出ても人を傷つけずに扱え、必要な変更につなげられる関係を育てることです。謝罪や和解も、被害を受けた人に結論を押し付ける形で進めるべきではありません。

平和研究は、誰の声から学ぶのか
論文の結論は、人文学、思想史、哲学、神学などにも平和研究への参加を呼びかけ、分野を横断して文化を研究する「文化学」を構想します。
人を傷つける仕組みを調べるには、制度や資源配分の分析が必要です。同時に、その仕組みを当然とする物語、感情、言葉を読み解く研究も必要になります。文化的暴力という概念は、これらの問いをつなぎます。
この構想を実践に生かすなら、研究者同士の協力だけでなく、被害を経験した人々の知識も欠かせません。何が苦痛だったのか、どの説明によって声を出せなくなったのか、何が回復につながったのか。その経験は、外から見える制度や統計だけでは分からないことを教えます。
ガルトゥングが最後に置いた「多様性・共生・衡平」は、研究する側の姿勢にも当てはまります。特定の学問や権威だけが問いを決めず、異なる経験から学び、その成果を人々の生活へ返していく関係です。
文化的暴力を問い直す作業は、誰かの考えを「暴力だ」と名指して終えるものではありません。何が損なわれ、その状態がどう正当化され、どのような改善が可能なのかを明らかにする作業です。
「仕方がない」とされてきたことに、別の選択肢を見いだす。声を上げた人を守り、その人だけが闘い続けなくてもよい仕組みをつくる。守られた経験が、次の人を守る文化につながる。一人ひとりが安心して生きられる社会への取り組みを、私はそのように考えたいと思います。

参考文献
- Johan Galtung, “Cultural Violence,” Journal of Peace Research, 27(3), 1990, pp. 291–305. [原文PDF]
- Johan Galtung, “Violence, Peace, and Peace Research,” Journal of Peace Research, 6(3), 1969, pp. 167–191. 本稿では特に第5節、p. 183を参照。[原文PDF]
※ガルトゥングの議論の説明と、職場・地域社会への応用および「安心」をめぐる筆者の考察は、区別して記述した。
はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
私、原田芳裕は、様々な方と繋がりたいと思っています。もし、私と繋がりたいという方は、是非、下のメールフォームから、ご連絡ください。ご相談事でも構いません。お待ちしております。





