国旗損壊罪(自民党案)の問題を、憲法から説く
私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。
目次
1 国旗損壊罪の問題は「国旗を大切にするか」ではない
国旗損壊罪をめぐる議論では、ともすれば「国旗を大切にするべきかどうか」という道徳論に話が流れがちである。
しかし、この問題の本質はそこではない。
国旗を大切に思う人がいることは当然である。国旗に誇りを感じる人もいる。国際大会で日の丸を見て胸が熱くなる人もいるだろう。そうした感情は、個人の自由として尊重されるべきである。
だが、問題は、その感情を国家が刑罰によって保護してよいのか、という点にある。
しかも、自民党案では、国旗損壊罪の保護法益として「国旗を大切に思う国民感情」が掲げられている。ここに、憲法上の重大な問題がある。
刑罰は、国家が国民に対して最も強い制裁を加える手段である。だからこそ、刑罰によって守る利益は、できる限り明確でなければならない。生命、身体、自由、財産、公共の安全、円滑な国交などであれば、少なくとも何が侵害されたのかを比較的具体的に説明できる。
しかし、「国旗を大切に思う国民感情」はどうだろうか。
誰の感情なのか。
どの程度害されれば犯罪になるのか。
国旗に複雑な感情を持つ人は、この「国民感情」に含まれるのか。
国旗を大切に思わない自由は、どのように扱われるのか。
このように考えると、「国民感情」という保護法益は、非常に漠然としている。形として見えず、被害者も特定しにくい。結局のところ、「多くの人が不快に思う表現だから処罰する」という構造に流れ込みやすい。
ここが、憲法上もっとも危険な部分である。
自民党案の構成要件はどうなっているか
では、自民党案の構成要件は、具体的にどのようなものなのか。
現時点で示されている案を整理すると、処罰対象となるのは、まず、「国旗・国歌法に定める国旗として用いられていると社会通念上認められる有体物」である。つまり、単に日の丸の図柄が描かれていれば何でも対象になるというより、社会通念上、日本国旗として用いられている物が対象になるという構成である。
次に、行為としては、国旗を「損壊し、除去し、又は汚損する」ことが挙げられている。典型的には、破る、燃やす、踏みつける、落書きする、汚す、といった行為が想定されていると考えられる。
さらに、その行為は「公然」と行われる必要がある。不特定又は多数の人が認識し得る状態で行われることが必要になる。路上、集会、デモ、広場などでの行為だけでなく、ライブ配信やSNS投稿のように、インターネット上で不特定多数に向けて示される場合も問題となり得る。
そして、最も重要なのが、その方法である。自民党案では、単なる損壊等ではなく、「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法・状態」で行われることが要件とされている。
つまり、構成要件を分解すると、次のようになる。
第一に、客体は、社会通念上、日本国旗として用いられている有体物であること。
第二に、行為は、その国旗を損壊し、除去し、又は汚損することであること。
第三に、その行為が公然と行われること。
第四に、その方法・状態が、人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるようなものであること。
第五に、法定刑は、二年以下の拘禁刑又は二十万円以下の罰金とされている。
さらに、自ら国旗を損壊等する状況を撮影し、その映像データを不特定多数に提供したり、公然と陳列したりする行為も、処罰対象に含める構成が示されている。
ここで注目すべきなのは、刑法92条の外国国章損壊罪のように、「外国に対して侮辱を加える目的」といった主観的目的を要件としていない点である。自民党案は、内心の目的ではなく、外部から認識できる行為態様によって処罰範囲を限定するという建て付けを取っている。
しかし、ここにこそ問題がある。
一見すると、「侮辱目的」という内心要件を外したことで、思想や内心を処罰していないように見える。だが、その代わりに入っているのが、「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法」という評価要件である。
これは、客観的要件のように見えて、実際には、その行為が社会的にどのような意味を持つのか、見る人にどのような感情を生じさせるのか、国家や国旗に対する侮辱的意味を持つのか、という評価を避けて通れない。
つまり、自民党案は、表面上は「国旗という有体物の損壊」を処罰する構成を取っている。しかし実質的には、「国旗を大切に思う国民感情」を害するような象徴的表現を、国家が評価し、刑罰の対象にする構造を持っている。
ここに、この法案の憲法上の危うさが集約されている。
2 憲法21条――政治的表現の自由との衝突
国旗を燃やす、破る、踏む、汚すという行為は、たしかに多くの人にとって不快である。礼を欠いた行為だと感じる人も多いだろう。
しかし、憲法上の問題として考えるなら、それが政治的抗議の手段になり得ることを無視してはならない。
たとえば、ある人が政府の戦争政策に抗議するために国旗を燃やす。ある人が国家権力の暴走に抗議するために国旗を破る。ある人が、歴史認識や差別政策に対する批判として、国旗を使ったパフォーマンスを行う。
その行為が上品かどうか、好ましいかどうかは別として、それは単なる物の破壊ではなく、政治的な象徴表現である。
表現の自由の中でも、政治的表現は中核に位置する。なぜなら、民主主義社会において、国家権力に対する批判や異議申し立ては、最も強く保護されるべき表現だからである。
ところが、国旗損壊罪は、まさに国家の象徴に対する否定的表現を処罰対象にする。そこでは、国家に敬意を示す表現は許されるが、国家に対する侮辱的・否定的・挑発的な表現は刑罰の危険にさらされる。
これは、表現内容に着目した規制であり、さらに言えば、国家に対する見解の違いに着目した規制に近づく。
国旗を称える表現は自由である。
国旗を批判的に扱う表現は処罰される。
このような非対称が生じるなら、それは憲法21条との関係で極めて重い問題を抱える。

3 「著しく不快又は嫌悪」という構成要件の危うさ
自民党案では、「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法・状態」で国旗を公然と損壊、除去、汚損する行為を処罰対象にするとされている。
一見すると、単なる損壊行為すべてを処罰するわけではなく、限定をかけているようにも見える。
しかし、この限定こそが危うい。
「著しく不快」とは何か。
「嫌悪の情」とは何か。
誰を基準にして判断するのか。
国旗を強く尊重する人を基準にするのか。
政治的表現に寛容な人を基準にするのか。
少数派の歴史的記憶や政治的立場は考慮されるのか。
これらは、非常に曖昧である。
刑罰法規においては、どこから犯罪になるのかが事前に予測できなければならない。これを罪刑法定主義、あるいは明確性の要請という。
ところが、「著しく不快又は嫌悪」という要件は、見る人の価値観や政治的立場によって大きく変わる。ある人には許しがたい侮辱に見える行為が、別の人には政治的抗議として理解されるかもしれない。
このような評価概念を刑罰構成要件の中心に置くと、捜査機関や裁判所が後から「これは著しく不快だ」と評価すれば犯罪になる危険が生じる。
つまり、国民の側から見ると、何が許され、何が犯罪になるのかが分かりにくい。その結果、人々は処罰を恐れて、国家や国旗に関する強い批判表現を控えるようになる。
これが萎縮効果である。

4 憲法19条――国旗への感情を国家が方向づける危険
この問題は、憲法21条だけではなく、憲法19条の思想・良心の自由にも関わる。
国旗に対してどのような感情を持つかは、人によって異なる。誇りを感じる人もいる。親しみを感じる人もいる。逆に、戦争の記憶、植民地支配の記憶、学校現場での強制の記憶などから、複雑な感情を持つ人もいる。
憲法19条は、こうした内心の自由を保障している。
もちろん、自民党案は「内心を処罰するものではない」と説明するだろう。たしかに、条文上は、国旗を嫌っていること自体を処罰するわけではない。
しかし、保護法益を「国旗を大切に思う国民感情」と置いた時点で、国家は一つの価値判断をしている。
すなわち、国旗を大切に思う感情は法的に保護する価値がある。
しかし、国旗に異議を唱える感情や、国旗を否定的に扱う表現は、刑罰による制約の対象になり得る。
この構造は、国旗に対する「正しい感情」を国家が事実上方向づけるものになりかねない。
思想・良心の自由は、単に頭の中で何を考えてもよいというだけの自由ではない。内心に基づいて、一定の表現や行動をする自由とも深く結びついている。
その意味で、国旗損壊罪は、国旗に対する内心の自由を直接処罰するものではないとしても、国旗に対する否定的・批判的態度の表明を萎縮させる点で、憲法19条との関係でも問題を持つ。
5 憲法31条――刑罰法規として明確か
憲法31条は、適正手続の保障を定めている。刑罰法規については、ここから罪刑法定主義や明確性の要請が導かれる。
国旗損壊罪案では、いくつもの曖昧な概念が重なっている。
第一に、「社会通念上、国旗の用に供していると認識される有体物」という客体の問題がある。国旗国歌法上の日章旗そのものではなく、社会通念上国旗として用いられているものが対象になるという説明であれば、どこまでが国旗なのかが問題となる。
第二に、「損壊、除去、汚損」という行為の範囲が問題となる。破る、燃やす、踏む、落書きするなどは含まれ得るだろう。しかし、加工する、切り貼りする、芸術作品の素材にする、風刺表現として使う場合はどうなるのか。
第三に、「著しく不快又は嫌悪」という評価要件がある。これは、先ほど述べたとおり、非常に主観的であり、社会状況によって揺れ動く。

刑罰法規は、国民に対して「ここから先は犯罪である」と事前に明示するものでなければならない。ところが、この法案は、外形上は国旗という物を扱っているように見えながら、実際には、その行為の社会的意味や人々の感情反応によって犯罪性が左右される。
これは、刑罰法規としての明確性に疑問がある。
6 刑法92条との均衡論の弱さ
推進論では、「外国の国旗を損壊すれば刑法92条で処罰されるのに、日本国旗を損壊しても処罰されないのはおかしい」という均衡論が語られる。
しかし、この理屈は慎重に見る必要がある。
刑法92条の外国国章損壊罪は、外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊、除去、汚損する行為を処罰するものである。そして、この罪は外国政府の請求がなければ公訴を提起できない。
つまり、外国国章損壊罪は、単に「外国旗を大切に思う人の感情」を守っているのではない。日本と外国との円滑な国交、外交関係、国際儀礼を守るという性質が強い。
これに対し、日本国旗損壊罪案は、外国との関係ではなく、国内の「国旗を大切に思う国民感情」を守ろうとするものである。
保護法益が違うのである。
外国国章損壊罪があるから日本国旗損壊罪も必要だ、という理屈は、一見分かりやすい。しかし、刑法理論としては、保護法益の違いを飛ばしている。
外国国章損壊罪は外交関係保護型の犯罪である。
国旗損壊罪案は国民感情保護型の犯罪である。
この二つを単純に同列に置くことはできない。

7 自己所有物の処分自由と刑法の謙抑性
他人の国旗を壊せば、既に器物損壊罪が問題となり得る。官公署の国旗を壊せば、器物損壊だけでなく、公務への妨害、建造物管理、道路使用、火気使用など、具体的な状況に応じた既存法で対応できる場合がある。
そうすると、新たな国旗損壊罪が実際に狙う中心は、自己所有の国旗を使った表現行為になる。
自分で購入した国旗を、自分の政治的意思表示として燃やす。
自分の所有物としての国旗を、抗議のために破る。
自分の作品の一部として、国旗を加工する。
こうした行為に刑罰を加えることになる。
所有者は、法令の制限内で所有物を使用、収益、処分する自由を持つ。もちろん所有権は絶対ではないが、自己所有物の処分行為と政治的表現が重なる場面を刑罰で規制するなら、相当に強い正当化が必要である。
また、刑法は最後の手段でなければならない。これを刑法の謙抑性、補充性という。
既存法で対応できる場面が多いにもかかわらず、あえて新しい罪を作る必要があるのか。守ろうとしている利益は、本当に刑罰でなければ保護できないのか。
この問いに、国旗損壊罪案は十分答えられていない。
8 治安維持法の「国体」概念との構造的類似
ここで、歴史的に想起すべきものがある。治安維持法の「国体」概念である。
治安維持法は、1925年に公布された。当初、その条文は「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社」を組織し、または加入する行為などを処罰対象としていた。
ここで中核に置かれていたのが「国体」という概念である。
「国体」とは何か。
何が「国体変革」に当たるのか。
どの思想が国体変革目的につながるのか。
どの結社、どの言論、どの研究、どの文化活動が危険なのか。
これらは、非常に抽象的で評価的な問題であった。
治安維持法が恐ろしかったのは、単に条文が厳しかったからではない。抽象的な国家的価値を刑罰法規の中心に置き、その意味を権力が解釈し、拡張できる構造を持っていたからである。
もちろん、現在の日本国憲法下の制度と、戦前の治安維持法体制をそのまま同一視することはできない。現在には、表現の自由、思想・良心の自由、罪刑法定主義、裁判所による違憲審査がある。
したがって、「国旗損壊罪案は治安維持法そのものだ」と言うのは、やや粗い。
しかし、構造的類似はある。
国旗損壊罪案は、外形上は「国旗という有体物の損壊」を処罰するように見える。だが、その実質は、「国旗を大切に思う国民感情」という抽象的な国家象徴的価値を保護法益とし、「著しく不快又は嫌悪」という評価概念を通じて、国家に対する象徴的・政治的表現を処罰し得る構造を持つ。
治安維持法の「国体」概念も、抽象的な国家価値を刑罰法規の中心に置いた。そして、その解釈が拡張され、思想、言論、結社、学問、文化活動へと取締りが広がっていった。
国旗損壊罪案もまた、当初は「極端な国旗損壊行為だけを処罰する」と説明されるだろう。しかし、いったん「国旗を大切に思う国民感情」という抽象的法益を刑罰で保護し始めれば、その論理は拡張され得る。
国旗を侮辱する表現。
国歌を侮辱する表現。
国家象徴を毀損する表現。
国民統合を害する表現。
国家への敬意を欠く表現。
こうした方向へと、理屈が伸びていく危険がある。
問題は、日の丸を燃やすことの是非ではない。国家が「国旗への正しい感情」を前提にして、それに反する象徴的表現を刑罰で裁く構造を作ることなのである。

9 「国民感情」を刑罰で守ることの危険
民主主義社会には、多様な感情が存在する。
国旗を誇りに思う感情。
国旗に敬意を払う感情。
国旗に複雑な記憶を持つ感情。
国旗に抵抗感を持つ感情。
国旗を国家権力の象徴として批判する感情。
これらは、いずれも国民の内心から生まれるものである。
ところが、「国旗を大切に思う国民感情」だけを刑罰で保護するなら、国家は、国民の中にある複数の感情のうち、特定の感情だけを公的に優遇することになる。
これは、民主主義社会にとって危険である。
国民感情は一枚岩ではない。そもそも「国民」とは、多数派だけを意味するものではない。国家に違和感を持つ人、歴史的記憶から国旗に複雑な思いを持つ人、権力に対して強い抗議を行う人も、同じ国民である。
その人々の表現を、「国旗を大切に思う国民感情」を害するものとして処罰するなら、それは多数派感情による少数派表現の抑圧になり得る。
憲法は、多数派の感情をそのまま刑罰に変換するためにあるのではない。むしろ、多数派が不快に思う表現であっても、国家権力が安易に処罰しないようにするためにある。

10 結論――憲法から見れば、国旗損壊罪案は危うい
国旗損壊罪案の問題は、単に「国旗を燃やすことを許すのか」という感情的な問題ではない。
憲法から見ると、少なくとも次の問題がある。
第一に、「国旗を大切に思う国民感情」という保護法益が漠然としている。
第二に、国旗に対する否定的表現を処罰する点で、憲法21条の政治的表現の自由と衝突する。
第三に、国旗への感情を国家が方向づける点で、憲法19条の思想・良心の自由にも関わる。
第四に、「著しく不快又は嫌悪」という要件が不明確で、憲法31条の罪刑法定主義・明確性の要請に反する疑いがある。
第五に、刑法92条の外国国章損壊罪とは保護法益が異なり、均衡論だけでは正当化できない。
第六に、自己所有物の処分自由や刑法の謙抑性から見ても、新罪創設の必要性は十分説明されていない。
第七に、抽象的な国家的価値を刑罰法規の中心に置く点で、治安維持法の「国体」概念が持っていた危険構造と類似する。

国旗は、国民統合の象徴であり得る。
しかし、象徴であるからこそ、その意味を国家が独占してはならない。
ある人にとって国旗は誇りである。
別の人にとって国旗は抗議の対象である。
また別の人にとっては、歴史の痛みを呼び起こすものでもある。
その多様な意味を、刑罰によって一つの方向に固定してはならない。
憲法が守ろうとしているのは、国旗そのものではない。国家に対して敬意を示す自由も、国家に対して異議を唱える自由も、ともに存在できる社会である。
国旗を大切に思うなら、なおさら、国旗を刑罰の道具にしてはならない。
国旗を尊重する社会は、処罰によって作るものではない。自由な社会の中で、それぞれの国民が、自らの意思で国旗と向き合うことによってしか成り立たない。
だからこそ、国旗損壊罪案は、憲法の観点から慎重に、そして厳しく検討されなければならない。
はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
私、原田芳裕は、様々な方と繋がりたいと思っています。もし、私と繋がりたいという方は、是非、下のメールフォームから、ご連絡ください。ご相談事でも構いません。お待ちしております。





