人間の営みの意味~無限のつながりの中で、限りある一生懸命をどう生きるか
私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。

目次
- 1 はじめに――人間はなぜ一生懸命になるのか
- 2 1 無限のつながりの中に、私たちはいる
- 3 2 人間の努力は限られている
- 4 3 苦しみは「限りある自分」を忘れるところから生まれる
- 5 4 欲求は悪ではないが、握りしめると苦しみになる
- 6 5 怒りは大切だが、怒りを自分の家にしてはいけない
- 7 6 「私の成果」という思いが、人を孤独にする
- 8 7 むなしさは、人生を壊すものではなく、握りしめをほどくもの
- 9 8 一生懸命をやめるのではなく、一生懸命を澄ませる
- 10 9 有限な行為は、無限のつながりの中で響く
- 11 10 人間の営みの意味とは何か
- 12 おわりに――むなしさを知った人間の一生懸命さ
- 13 はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
はじめに――人間はなぜ一生懸命になるのか
人間は、一生懸命に生きようとする。
仕事をする。
家族を支える。
誰かを守ろうとする。
文章を書く。
不正に声を上げる。
生活を立て直す。
誰かに認められようとする。
自分の人生に意味を与えようとする。
その姿は、決して軽いものではない。
人が何かに真剣になるとき、そこには必ず切実さがある。何かを失いたくない。何かを守りたい。自分の存在が無駄ではなかったと思いたい。誰かの苦しみを少しでも減らしたい。世の中に残る理不尽を、そのまま放置したくない。
だから、人間の一生懸命さを、簡単に笑うことはできない。
しかし同時に、その一生懸命さは、どこか危うい。
なぜなら人間は、自分の努力を、いつの間にか「自分だけのもの」として握りしめてしまうからである。
「私がやった」
「私が正しい」
「私こそ分かっている」
「私の努力は認められるべきだ」
「私の人生には意味があるはずだ」
この思いが強くなるほど、人は苦しくなる。
人間の営みは大切である。
しかし、人間の営みは限られている。
ここを見失うと、一生懸命さは、苦しみの原因にもなる。
1 無限のつながりの中に、私たちはいる
人間は、自分を一つの独立した存在だと思いやすい。
私は私。
あなたはあなた。
これは私の人生。
これは私の努力。
これは私の成果。
日常生活では、そう考えなければ動けない。名前があり、身体があり、生活があり、責任がある。だから、「私」という感覚は必要である。
しかし、少し深く見れば、人間は決して単独では存在していない。
自分の考え方は、親や学校や社会から受け取った言葉でできている。
自分の怒りは、過去の経験や傷と結びついている。
自分の判断は、その時代の空気や情報に影響されている。
自分の仕事は、誰かが作った道具、制度、交通、食料、電気、通信に支えられている。
自分の身体でさえ、自分一人で作ったものではない。
一人の人間の中には、無数の人、場所、時間、出来事が入り込んでいる。
そう考えると、「私がやった」という言葉は、かなり狭い。
もちろん、努力したのは私である。
考えたのも私である。
行動したのも私である。
しかし、その私を作ってきたものは、私だけではない。
一つの行為の背後には、無数の条件がある。
一つの言葉の背後には、無数の経験がある。
一つの怒りの背後には、無数の記憶がある。
一つの成果の背後には、無数の支えがある。
人間の営みは、いつも無限のつながりの中に置かれている。
ここに気づくと、自分の一生懸命さは、大切でありながら、同時にとても小さなものとして見えてくる。
2 人間の努力は限られている
人は、努力すれば何かが変わると信じたい。
実際、努力によって変わることはある。
生活が整う。
技術が身につく。
文章が深まる。
人間関係が改善する。
社会の制度が動く。
誰かの心が少し軽くなる。
だから、努力には意味がある。
しかし、努力には限界もある。
どれだけ努力しても、すべてを理解することはできない。
どれだけ調べても、事実の全体を完全にはつかめない。
どれだけ正しい言葉を尽くしても、すべての人に届くわけではない。
どれだけ人を助けたいと思っても、すべての苦しみを引き受けることはできない。
どれだけ一生懸命に生きても、人生そのものには終わりがある。
ここで人は、むなしさを感じる。
自分が必死にやっていることは、結局、どれほどの意味があるのか。
この努力は、どこまで届くのか。
自分がいなくなった後、この営みは何として残るのか。
世界は、自分の努力など知らないまま動き続けるのではないか。
この問いは、とても重い。
しかし、このむなしさは、人生を否定するためのものではない。
むしろ、人間の努力を、正しい大きさに戻すための感覚である。
努力は大切である。
しかし、努力は万能ではない。
一生懸命は尊い。
しかし、一生懸命は世界を所有できない。
この事実を受け入れないと、人は自分の努力に押しつぶされる。

3 苦しみは「限りある自分」を忘れるところから生まれる
人間の苦しみの多くは、自分の限りを忘れるところから生まれる。
人は、完全に分かりたいと思う。
完全に正しくありたいと思う。
完全に認められたいと思う。
完全に報われたいと思う。
完全に傷つかないでいたいと思う。
しかし、人間は完全ではない。
見えるものには限りがある。
理解できることにも限りがある。
身体にも限りがある。
時間にも限りがある。
心の強さにも限りがある。
それなのに、限りある自分が、限りのない確かさを求める。
ここに苦しみが生まれる。
「自分の努力は絶対に報われるべきだ」
「自分の正しさは必ず認められるべきだ」
「自分の苦しみは世界に理解されるべきだ」
「自分が見たことは、すべての人にも見えるべきだ」
そう思うほど、現実とのずれが大きくなる。
もちろん、認められたいという思いは自然である。
苦しみを理解してほしいという願いも当然である。
理不尽を正したいという気持ちも大切である。
しかし、それを絶対化すると、自分自身が苦しくなる。
人間は、世界全体を背負えない。
自分の正しさで、すべてを裁くこともできない。
自分の努力で、すべての結果を支配することもできない。
この限界を忘れたとき、一生懸命さは苦しみに変わる。
4 欲求は悪ではないが、握りしめると苦しみになる
人間には欲求がある。
食べたい。
休みたい。
認められたい。
愛されたい。
勝ちたい。
安心したい。
影響を与えたい。
何かを残したい。
自分の人生は無駄ではなかったと思いたい。
これらは、人間として自然なものである。
欲求があるから、人は動く。
欲求があるから、学ぶ。
欲求があるから、働く。
欲求があるから、人と関わる。
欲求があるから、社会をよくしようとする。
だから、欲求そのものを否定する必要はない。
問題は、その欲求を握りしめることである。
認められたいという思いが、「認められなければ自分には価値がない」に変わる。
勝ちたいという思いが、「負けた相手は価値がない」に変わる。
正したいという思いが、「自分だけが正しい」に変わる。
助けたいという思いが、「助ける自分は立派だ」に変わる。
残したいという思いが、「残らなければ人生は無意味だ」に変わる。
ここで欲求は、人を動かす力ではなく、人を縛る力になる。
特に厄介なのは、よいことをしているときの欲求である。
人のために動いている。
社会のために動いている。
真実のために動いている。
弱い立場の人のために動いている。
そういうとき、人は自分の内側にある欲求に気づきにくい。
「自分は正しいことをしているのだから、自分の思いはきれいなはずだ」と思いやすい。
しかし、よいことの中にも、認められたい気持ちは混じる。
人を助ける行為の中にも、自分を高く見たい気持ちは混じる。
正しさを求める行為の中にも、相手を打ち負かしたい気持ちは混じる。
人間は、そういう存在である。
だからこそ、自分の一生懸命さを、ときどき疑う必要がある。
私は本当に相手の苦しみを見ているのか。
それとも、自分の正しさを証明したいだけなのか。
私は事実を明らかにしたいのか。
それとも、自分が勝ちたいのか。
私は社会をよくしたいのか。
それとも、自分の人生に意味を与えたいのか。
この問いから逃げると、善意さえ人を縛る。
5 怒りは大切だが、怒りを自分の家にしてはいけない
理不尽を見れば、怒りが生まれる。
人が踏みにじられている。
嘘がまかり通っている。
責任が曖昧にされている。
弱い立場の人が黙らされている。
権力を持つ側が都合よく逃げている。
こういう現実を見て、怒らない方が不自然である。
怒りには大切な働きがある。
怒りは、「これはおかしい」と知らせる信号である。
怒りは、沈黙を破る力になる。
怒りは、人間の尊厳が傷つけられたときに生まれる反応でもある。
だから、怒りをすべて悪いものとして扱う必要はない。
しかし、怒りを握りしめ続けると、今度は怒りが自分を支配する。
相手は絶対に悪い。
自分は絶対に正しい。
この社会はすべて腐っている。
理解しない人間は敵である。
負けたら自分の存在が否定される。
こうなると、怒りは現実を見せる力ではなく、現実を狭める力になる。
怒りは、火のようなものだと思う。
寒さの中では必要である。
暗闇の中では道を照らす。
しかし、抱え込みすぎれば、自分も周りも焼いてしまう。
大事なのは、怒りを消すことではない。
怒りを、自分の住む場所にしないことである。
怒りを出発点にして、事実を見る。
怒りをきっかけにして、言葉を整える。
怒りを力にして、行動する。
しかし、怒りそのものを自分の身分証明にしない。
「私は怒っている。だから正しい」と思った瞬間、人は見誤る。
怒りがあることと、正しいことは同じではない。
怒りが強いことと、現実を深く見ていることも同じではない。
怒りを持ちながら、怒りに飲まれない。
これが、人間の一生懸命さを守るために必要な態度である。
6 「私の成果」という思いが、人を孤独にする
人は、自分の成果を求める。
それは当然である。
努力したなら認められたい。
苦労したなら報われたい。
考え抜いたなら評価されたい。
行動したなら結果がほしい。
しかし、「私の成果」に強くこだわるほど、人は孤独になる。
なぜなら、成果は本当は自分一人のものではないからである。
一つの文章を書くにも、そこにはこれまで読んだ本、聞いた言葉、出会った人、受けた傷、怒り、悲しみ、生活の経験が入り込んでいる。
一つの訴えを起こすにも、そこには制度、記録、相手方の行為、過去の判例、社会の矛盾、周囲の支え、自分の体力、偶然のタイミングが関わっている。
一つの仕事の成果にも、見えない人たちの労働がある。
それなのに、人は成果だけを切り取って、「これは私のものだ」と言いたくなる。
そこに無理がある。
成果を自分だけのものにしようとすると、支えてくれたものが見えなくなる。
失敗を自分だけのものにしようとすると、自分を責めすぎる。
成功を自分だけのものにしようとすると、傲慢になる。
評価を自分の価値そのものにしてしまうと、評価されないときに崩れる。
だから、「私の成果」という思いは、人を孤独にする。
本当は、成果も失敗も、無数のつながりの中で起きている。
自分はその中で、確かに働いた。
しかし、自分だけがそれを生み出したわけではない。
この感覚を持てると、成功しても舞い上がりすぎない。
失敗しても潰れすぎない。
認められても自分を絶対化しない。
認められなくても自分を全否定しない。
人間の営みは、自分のものではある。
しかし、自分だけのものではない。
ここに、心を軽くする入口がある。
7 むなしさは、人生を壊すものではなく、握りしめをほどくもの
「人間の営みは、なんと限られているのか」
この感覚は、ときに人を深く沈ませる。
どうせ死ぬ。
どうせ忘れられる。
どうせ世界は変わらない。
どうせ自分の努力など小さい。
どうせすべては流れていく。
ここまで行くと、むなしさは危険である。
それは、人生を否定する方向へ向かってしまう。
しかし、むなしさには別の働きもある。
それは、握りしめた手をほどく働きである。
自分がすべてを成し遂げなければならないと思っていた。
自分の正しさを証明しなければ生きていけないと思っていた。
自分の努力が報われなければ人生が無意味だと思っていた。
自分の声が届かなければ、自分には価値がないと思っていた。
その思いが、少しゆるむ。
人間の営みは限られている。
だからこそ、すべてを背負わなくていい。
自分の一生懸命さは小さい。
だからこそ、それを誇りすぎなくていい。
自分の努力はいつか消えていく。
だからこそ、今この一歩を丁寧にすればいい。
むなしさは、絶望ではない。
それは、自分を大きく見積もりすぎた心を、現実の大きさに戻す働きである。
人間は小さい。
しかし、小さいことは無価値であることではない。
一滴の水は海ではない。
しかし、一滴の水がなければ海も成り立たない。
一つの言葉は世界を変えないかもしれない。
しかし、一つの言葉が誰かの心に残ることはある。
一つの行為は社会全体を変えないかもしれない。
しかし、一つの行為が次の行為を生むことはある。
人間の営みは限られている。
だからこそ、むなしい。
しかし、限られているからこそ、具体的で、手触りがあり、誰かに届く。
むなしさを通ることで、人はようやく、自分の行為を絶対化せずに大切にできる。
8 一生懸命をやめるのではなく、一生懸命を澄ませる
では、人間はどう生きればよいのか。
答えは、一生懸命をやめることではない。
むしろ、一生懸命に生きればよい。
ただし、その一生懸命を、自分の所有物にしないことである。
努力する。
しかし、努力した自分を偉いものにしない。
怒る。
しかし、怒っている自分を正義そのものにしない。
訴える。
しかし、訴える自分を世界の中心にしない。
助ける。
しかし、助ける自分を上に置かない。
書く。
しかし、書いた言葉を自分の支配物にしない。
結果を求める。
しかし、結果で自分の価値を決めない。
これが、一生懸命を澄ませるということだと思う。
人間の行為には、どうしても濁りが混じる。
認められたい気持ち。
勝ちたい気持ち。
見返したい気持ち。
自分を証明したい気持ち。
他人より上に立ちたい気持ち。
それらを完全になくすことはできない。
しかし、気づくことはできる。
「ああ、自分はいま認められたいのだ」
「ああ、自分はいま勝ちたいのだ」
「ああ、自分はいま相手を見下しているのだ」
「ああ、自分はいま正しさに酔っているのだ」
そう気づけるだけで、一生懸命さは少し澄む。
濁りのない人間になる必要はない。
濁りに気づける人間になればよい。
それだけで、行為の質は変わる。
9 有限な行為は、無限のつながりの中で響く
人間の一つの行為は、小さい。
たった一通の手紙。
たった一つの発言。
たった一枚の記録。
たった一度の抗議。
たった一人への言葉。
たった一日の労働。
しかし、小さいからといって、意味がないわけではない。
どんな大きな変化も、小さな行為の積み重ねから始まる。
ただし、その意味は、本人が思う通りには広がらない。
自分では失敗だと思った行為が、誰かの記憶に残ることがある。
自分では小さいと思った言葉が、後になって誰かを支えることがある。
自分では届かなかったと思った訴えが、別の場所で問いを生むことがある。
自分では敗北だと思った経験が、次の誰かの方法になることがある。
人間は、自分の行為の行き先を完全には知ることができない。
だからこそ、行為を支配しようとしなくてよい。
丁寧に行う。
誠実に言葉にする。
事実を見つめる。
怒りに飲まれず、しかし黙らない。
自分の限界を知りながら、目の前の一歩を引き受ける。
それでよい。
有限な行為は、無限のつながりの中で、本人の知らない形で響いていく。
その響きを、自分のものとして握りしめる必要はない。
10 人間の営みの意味とは何か
人間の営みの意味とは、何だろうか。
それは、世界全体を変えることではない。
自分の正しさを永遠に証明することでもない。
自分の名を残すことでもない。
すべての苦しみをなくすことでもない。
完全な成果を手に入れることでもない。
人間の営みの意味とは、限りある自分が、限りある場所で、限りある時間の中で、それでも何かに応答することではないだろうか。
目の前に苦しむ人がいる。
おかしいと思う出来事がある。
守りたいものがある。
伝えたい言葉がある。
残したい記録がある。
変えたい制度がある。
支えたい生活がある。
そのとき、人は動く。
その動きは小さい。
不完全である。
濁りもある。
欲求も混じる。
怒りも混じる。
誤解もある。
限界もある。
それでも、人は動く。
その動きの中に、人間の営みの意味がある。
ただし、その意味は「私が作った意味」ではない。
無数のつながりの中で、自分に与えられた場面に、自分なりに応じたということ。
それ以上でも、それ以下でもない。
この感覚を持てると、人は少し楽になる。
自分が世界を完成させなくていい。
自分がすべてを理解しなくていい。
自分がすべての責任を背負わなくていい。
自分の努力がすべて報われなくてもいい。
自分の言葉がすべて届かなくてもいい。
しかし、だから何もしないのではない。
限りあるからこそ、今日できることをする。
小さいからこそ、一つの言葉を丁寧にする。
不完全だからこそ、他者の声を聞く。
濁りがあるからこそ、自分を点検する。
終わりがあるからこそ、今この一歩を大切にする。
私は、すれ違った人に笑顔で挨拶をすることから、これを実践しています。
おわりに――むなしさを知った人間の一生懸命さ
人間の営みは、むなしい。
どれだけ努力しても、すべては残らない。
どれだけ正しくあろうとしても、完全にはなれない。
どれだけ人を助けようとしても、すべての苦しみは引き受けられない。
どれだけ言葉を尽くしても、すべては伝わらない。
どれだけ生きても、人生には終わりがある。
しかし、このむなしさは、人間の営みを否定するものではない。
むしろ、むなしさを知らない一生懸命さの方が危うい。
むなしさを知らない努力は、自分を大きく見せようとする。
むなしさを知らない正しさは、他者を裁きすぎる。
むなしさを知らない怒りは、自分を焼き尽くす。
むなしさを知らない善意は、相手を支配する。
むなしさを知らない成果は、人を傲慢にする。
むなしさを知った人間の一生懸命さは、違う。
一生懸命やる。
しかし、握りしめない。
怒る。
しかし、怒りに住みつかない。
訴える。
しかし、自分を絶対化しない。
助ける。
しかし、相手を見下さない。
成果を求める。
しかし、成果で自分を決めない。
自分の営みが限られていると知っているからこそ、目の前の一つを丁寧に扱う。
人間の営みは、無限の前では小さい。
しかし、その小さな営みの中に、無数のつながりが入り込んでいる。
だから、人間の営みはむなしい。
けれど、無意味ではない。
むしろ、むなしさを知ったとき、ようやく人は、自分の一生懸命を澄ませることができる。
人間の営みの意味とは、巨大な成果を手に入れることではない。
限りある自分が、限りある場所で、限りある時間の中で、無数のつながりに支えられながら、目の前の現実に誠実に応じること。
その小さな応答の積み重ねこそが、人間の営みの意味なのだと思う。

はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
私、原田芳裕は、様々な方と繋がりたいと思っています。もし、私と繋がりたいという方は、是非、下のメールフォームから、ご連絡ください。ご相談事でも構いません。お待ちしております。




