憲法改正する理由 自民党の本音と問題点~「国家があなたを動かす憲法」か、「あなたが国家を縛る憲法」か~

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私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。社会問題・政治問題にも首を突っ込みますが、日常で思ったことも、書いていきたいと思います。

1 はじめに――自民党は、なぜ憲法を変えたいのか

自民党は、長年にわたり憲法改正を主張してきた。

現在の自民党の公式説明では、憲法改正の主な柱として、自衛隊の明記、緊急事態対応、参議院の合区解消、教育環境の充実などが掲げられている。

表向きの説明は、非常に分かりやすい。

日本国憲法は施行から長い年月が経過した。
その間、国際情勢も、災害対応も、教育環境も、地方の人口構造も大きく変わった。
だから、時代に合わせて憲法をアップデートする必要がある。

一見すると、これは自然な主張に見える。

憲法も法である以上、社会の変化に応じて見直すこと自体は否定されるべきではない。実際、世界各国では憲法改正が行われている。日本だけが一度も憲法を改正していないことを、自民党は「時代に合っていない」と説明する。

しかし、ここで立ち止まって考える必要がある。

本当に問題なのは、憲法が古いことなのか。
本当に憲法を変えなければ、現在の課題に対応できないのか。
そして何より、自民党の改憲案は、日本国憲法の三大原則――国民主権、基本的人権の尊重、平和主義――をより強くするものなのか。

私が注目したいのは、ここである。

自民党は公式には、「日本国憲法の三原則は変えない」と説明している。つまり、自民党自身も、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の根本原理について、正面から否定しているわけではない。

しかし、問題はそこにある。

自民党改憲案は、三原則を「変えない」と言いながら、その三原則を現代社会の中でより強化する方向には向かっていない。

国民主権をもっと実質化する。
基本的人権をもっと現代的に保障する。
平和主義をもっと制度的に徹底する。
行政権をもっと国民が監視できるようにする。
裁判を受ける権利をもっと実効化する。
情報公開を憲法上の権利として強める。

そういう方向ではない。

むしろ、自民党の改憲案は、国家機能を強め、国家が政策を実現しやすくするための改憲である。

つまり、自民党の改憲論の本質は、こう言えるのではないか。

日本国憲法の三大原則を強化する改憲ではなく、三大原則を維持すると言いながら、国家権力の制約を緩める改憲である。

ここに、自民党改憲論の最大の問題がある。

2 日本国憲法の本質は「国家を縛ること」にある

まず、憲法とは何かを確認したい。

憲法は、単なる国家の基本ルールではない。

もちろん、憲法には国会、内閣、裁判所、地方自治など、国家機構の基本構造を定める役割がある。しかし、それだけなら憲法は「国家運営マニュアル」にすぎない。

近代立憲主義における憲法の本質は、国家権力を縛ることにある。

なぜ国家権力を縛る必要があるのか。

それは、国家権力が強大だからである。

国家は、法律を作る。
税金を徴収する。
警察権を行使する。
場合によっては人を逮捕し、刑罰を科す。
軍事力を持てば、戦争を行うことすら可能になる。

このような巨大な力を持つ国家を、そのまま放置すれば、国民の自由や尊厳は簡単に奪われる。

だから、憲法は国家に対して言う。

あなたは、ここから先には踏み込んではならない。
あなたは、国民の自由を侵害してはならない。
あなたは、法律に基づかずに権力を行使してはならない。
あなたは、戦争によって国民を犠牲にしてはならない。
あなたは、国民の信託によってのみ権力を行使できる。

これが、憲法の本質である。

日本国憲法は、まさにその構造を持っている。

前文は、国政は国民の厳粛な信託によるものであり、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者が行使し、その福利は国民が享受するとしている。

これは、国家権力は国民から預かったものであって、国家のために国家が存在するのではない、という宣言である。

また、日本国憲法99条は、憲法尊重擁護義務を負う主体として、天皇、摂政、国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員を挙げている。

ここで重要なのは、国民が入っていないことである。

なぜなら、憲法は国民が権力者を縛るための法だからである。国民が憲法に縛られるのではなく、国家権力を担う者が憲法に縛られる。

ここに、日本国憲法の立憲主義的な本質がある。

3 自民党は「三原則を変えない」と言うが、強化もしない

自民党は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三原則を変えないと説明している。

この点は重要である。

自民党ですら、三原則を正面から否定する形では憲法改正を語れない。これは、日本国憲法の三原則が、戦後日本社会において非常に強い正統性を持っていることを意味している。

しかし、問題は、その先である。

自民党は三原則を変えないと言う。
だが、三原則を強めるとは言っていない。

ここに、自民党改憲論の根本的な弱さがある。

本来、憲法改正を「時代に合わせたアップデート」と言うのであれば、まず問うべきは、次のようなことではないか。

国民主権は、現代日本で本当に機能しているのか。
選挙だけで、国民は本当に主権者と言えるのか。
行政文書は十分に公開されているのか。
国民は、政策決定過程を検証できているのか。
情報公開請求や住民監査請求、住民訴訟などの制度は、国民主権を実質化する制度として十分なのか。

基本的人権は、現代日本で本当に守られているのか。
格差、貧困、過労死、ハラスメント、差別、情報格差、デジタル監視、環境汚染、災害弱者の問題に、憲法は十分対応しているのか。
裁判を受ける権利は、本人訴訟を含めて実効的に保障されているのか。

平和主義は、単に戦争をしないというだけでなく、外交、環境、食料、水、エネルギー、人間の安全保障として発展できているのか。

本当に「時代に合わせる」というなら、こういう方向が憲法改正の中心になってもよいはずである。

しかし、自民党案はそうではない。

自民党が掲げる改憲項目は、自衛隊の明記、緊急事態対応、合区解消、教育環境の充実である。平成24年の自民党憲法改正草案まで見れば、さらに、天皇の元首化、国旗・国歌の尊重義務、国防軍、緊急事態条項、家族の助け合い、公益及び公の秩序、憲法改正要件の緩和、国民の憲法尊重義務などが登場する。

これは、国民の権利を強める方向ではない。

国家を動かしやすくする方向である。

4 自民党にとって、現行憲法の何が「邪魔」なのか

ここで問うべきは、自民党にとって、現行憲法の何が邪魔なのか、ということである。

自民党は、現行憲法では何もできないかのように語ることがある。

しかし、実際にはそうではない。

自衛隊はすでに存在している。
自衛隊法もある。
防衛予算もある。
日米安全保障条約もある。
安保法制も整備された。
災害対応についても、災害対策基本法、自衛隊法、感染症法、特措法などで対応してきた。
教育支援も、法律によって進められている。
私学助成も長年行われている。
選挙制度も公職選挙法によって改正されてきた。

つまり、現行憲法の下でも、多くの政策は立法によって実現されてきた。

では、なぜ憲法改正なのか。

ここが重要である。

自民党にとって邪魔なのは、政策がまったくできないことではない。

政策を進めるたびに、憲法上の制約、違憲論、国会統制、司法審査、国民からの批判が残ることである。

自衛隊について言えば、9条がある限り、政府は常に説明を求められる。

それは本当に必要最小限度なのか。
専守防衛を超えていないか。
集団的自衛権の行使は許されるのか。
海外での武力行使に近づいていないか。
軍事力の拡大は平和主義に反しないか。

9条は、自衛隊を完全に止める条文ではない。現に自衛隊は存在している。

しかし、9条は政府に問い続ける条文である。

国家に対して、「そこまでやってよいのか」と問い続ける。
これこそが、立憲主義のブレーキである。

自民党の自衛隊明記、あるいは平成24年草案の国防軍規定は、このブレーキを弱める方向に働く。

緊急事態条項も同じである。

災害対応は、現行法でも行われてきた。問題があるなら、法律を改善すればよい。行政運用を改善すればよい。情報公開を徹底すればよい。国会の監視機能を強めればよい。

しかし、自民党は憲法に緊急事態条項を置こうとする。

なぜか。

非常時に、内閣がより強い権限を行使できるようにするためである。国民への指示、地方自治体への指示、緊急政令、緊急財政支出、国会議員任期の特例など、平時の統制を一時的に緩める方向で制度を作ろうとしている。

ここでも、問題は「災害対応ができないこと」ではない。

非常時でも、国会中心主義、法律による行政、人権保障、司法審査という憲法上の制約が残ることが、自民党にとって邪魔なのである。

合区解消も同じである。

参議院の合区問題は、地方の声をどう国政に反映するかという問題であると同時に、一票の価値の平等という国民主権の問題でもある。

人口の少ない県にも必ず代表を置きたい。
そのためには、投票価値の平等という憲法原理が制約になる。
だから、憲法上、地域代表性を強めたい。

これは、国民主権を強化する改憲ではない。むしろ、一人一票の平等を相対化し、地域代表性を優先するための改憲である。

教育についても同じである。

教育支援や私学助成は、法律で行われてきた。それでも憲法に書きたいのは、教育を国家理念として位置づけたいからである。

教育を受ける権利を強めるという面もあり得る。しかし、自民党の文脈では、教育は「国の未来を切り拓くもの」「人づくり」「国家の成長」と結びつけられる。

つまり、個人の学ぶ権利というより、国家のための教育という色彩が強くなる危険がある。

5 平成24年草案に現れた「本音」

自民党の現在の公式改憲ページは、比較的ソフトな表現になっている。

しかし、平成24年の自民党憲法改正草案とQ&Aを見ると、自民党の憲法観はよりはっきりと現れる。

この草案は、単なる部分改正ではない。

前文を全面的に書き換え、天皇を元首とし、国旗・国歌の尊重義務を置き、9条2項を削除して国防軍を保持し、緊急事態条項を新設し、家族の助け合いを憲法上明記し、公共の福祉を「公益及び公の秩序」に置き換え、憲法改正発議要件を緩和し、国民にも憲法尊重義務を課す。

これは、国家像そのものの書き換えである。

現行憲法の前文は、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こらないようにするという決意から始まる。国政は国民の厳粛な信託によるものだと宣言する。

つまり、現行憲法の主語は、国家権力を信託する国民である。

これに対し、自民党草案の前文は、長い歴史と固有の文化、天皇を戴く国家、国と郷土を守る気概、家族や社会全体が助け合って国家を形成することを強調する。

ここで国民は、国家権力を縛る主権者というより、国家を支え、守り、継承する構成員として描かれている。

これは、国民主権の否定ではない。
しかし、国民主権の意味を大きく変える。

現行憲法の国民主権は、国家を縛る原理である。
自民党草案の国民主権は、国家を支える原理へと傾く。

この違いは非常に大きい。

6 「公益及び公の秩序」による人権制約――「福祉」から「秩序」への危険な転換

自民党草案の中で、最も問題が大きいものの一つが、現行憲法の「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に置き換える点である。

これは、単なる言葉の整理ではない。

むしろ、基本的人権をどう捉えるのかという、憲法観そのものに関わる重大な変更である。

現行憲法では、個人の自由や権利は「公共の福祉」によって調整される。

ここで重要なのは、「福祉」という言葉である。

「福祉」とは、単に国家や社会全体の利益を意味する言葉ではない。本来そこには、人間の幸福、尊厳、生活の安定、人権の保障という視点が含まれている。

つまり、「公共の福祉」とは、国家が国民の人権を制限するための便利な道具ではない。

むしろ、複数の人権が社会の中で共存するために、一人ひとりの自由と尊厳をできる限り守りながら調整するための原理である。

ある人の自由が、別の人の生命、身体、自由、人格を侵害する場合、その衝突を調整しなければならない。表現の自由も無制限ではないし、財産権も無制限ではない。営業の自由も、他者の健康や安全を害する形では制約され得る。

しかし、その制約は、あくまで人権を守るための制約でなければならない。

つまり、公共の福祉とは、国家の都合で人権を削る考え方ではなく、社会の中で人権と人権を共存させるための考え方である。

ここに、「福祉」という言葉の意味がある。

「福祉」には、人間を守る視点がある。
「福祉」には、個人の尊厳を支える視点がある。
「福祉」には、権利と権利を調整しながら、できる限り人権保障を実現しようとする視点がある。

だからこそ、公共の福祉は、単なる「公益」や「秩序」と同じではない。

ところが、自民党草案は、この「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えようとしている。

ここで、人権制約の軸が大きく変わる。

「公共の福祉」は、人権をどう共存させるかという発想である。
これに対して、「公益及び公の秩序」は、国家や社会秩序をどう維持するかという発想に傾きやすい。

もちろん、社会生活において公益や秩序が不要だということではない。

社会には一定のルールが必要である。暴力、脅迫、詐欺、差別的な加害行為、他者の生命や身体を危険にさらす行為を放置することはできない。人権の保障も、社会の中で成り立つ以上、一定の調整を必要とする。

しかし、問題は、その調整の基準である。

「公共の福祉」であれば、制約の根拠は、最終的には人権相互の調整に置かれる。つまり、ある人の権利行使が、他者の権利や自由を侵害する場合に、双方の人権をできる限り尊重しながら調整する。

ところが、「公益及び公の秩序」となると、国家が考える公益、行政が考える秩序、社会多数派が考える秩序が、人権に優先するように読まれる危険が出てくる。

公益とは何か。
公の秩序とは何か。
誰がそれを判断するのか。
政府か。
国会多数派か。
行政機関か。
警察か。
裁判所か。
その時々の社会多数派か。

この問いが極めて重要である。

政府が「公益に反する」と言えば、表現の自由を制限できるのか。
行政が「公の秩序を乱す」と言えば、デモや集会を制限できるのか。
多数派が「社会秩序に反する」と感じれば、少数者の主張を抑え込めるのか。
国家に批判的な運動が、「公益を害する活動」として規制される危険はないのか。

この危険を軽く見てはならない。

なぜなら、憲法上の文言は、いったん書き込まれると、長期にわたり国家権力の根拠として使われるからである。

自民党側は、「公益及び公の秩序」としても、人権が大きく制約されるものではないと説明するかもしれない。

しかし、問題は、現在の説明がどうかではない。

将来、その文言がどのように使われるかである。

憲法は、善良な権力者だけを前提にして作るものではない。むしろ、権力が濫用される可能性を前提にして、あらかじめ縛っておくための法である。

だから、憲法上の人権制約原理を、広く曖昧な言葉に変えることは危険なのである。

特に重大なのは、表現の自由との関係である。

自民党草案は、表現の自由を保障しながらも、「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動」や、そのような目的を持つ結社を認めないという趣旨の規定を置いている。

ここで問題なのは、「害することを目的とした」と誰が判断するのかである。

たとえば、政府に批判的な市民運動がある。
反戦運動がある。
環境運動がある。
労働運動がある。
行政訴訟を支援する運動がある。
水道水や食品の安全性を求める住民運動がある。
公文書の開示を求める運動がある。
差別や貧困に抗議する運動がある。

これらは、権力の側から見れば、時に「秩序を乱すもの」と見えるかもしれない。行政にとって不都合な情報を明らかにする運動は、「公益に反する」と言われる危険すらある。

しかし、憲法が守るべきなのは、まさにそういう権力に不都合な表現である。

表現の自由とは、政府にとって心地よい言葉を守るためにあるのではない。政府にとって不快な言論、耳の痛い批判、社会の多数派から嫌われる少数意見を守るためにある。

集会の自由も同じである。

静かで無害な集まりだけを守るなら、憲法上の保障など必要ない。社会に異議を申し立てる人々が集まり、声を上げ、政治や行政に圧力をかけることがあるからこそ、集会の自由は保障されなければならない。

結社の自由も同じである。

一人では弱い個人が、仲間とつながり、組織を作り、権力や社会に対して意見を述べる。そのために結社の自由がある。

それを「公益及び公の秩序」という広い言葉で制限できるようにすることは、立憲主義の観点から極めて危険である。

ここで改めて確認すべきことは、公共の福祉という言葉には、人権擁護の視点が含まれているということである。

公共の福祉は、国家の利益を個人に優先させるための言葉ではない。

公共の福祉は、個人と個人の権利を調整し、社会全体の中で人権をできる限り実現するための言葉である。

その意味で、公共の福祉は、人権保障の内側にある制約原理である。

これに対して、「公益及び公の秩序」は、人権の外側から、国家や社会秩序の名によって人権を制約する言葉になりやすい。

この差は大きい。

「福祉」は、人間の幸福と尊厳を含む。
「公益」は、国家や多数派の利益に傾き得る。
「公の秩序」は、権力による秩序維持に傾き得る。

もちろん、公益や秩序が全く不要だというのではない。

しかし、それを憲法上の人権制約原理として前面に出すならば、国家権力は、人権を守る側から、人権を制限する側へと重心を移しやすくなる。

ここが問題なのである。

日本国憲法の人権保障の核心は、個人の尊厳である。

個人が国家のために存在するのではない。
個人が秩序のために存在するのでもない。
個人が公益のために従属するのでもない。

国家こそが、個人の尊厳を守るために存在する。

この順序を逆転させてはならない。

したがって、「公共の福祉」から「公益及び公の秩序」への変更は、単なる言葉の整理ではない。

それは、人権を守るための調整原理から、国家や社会秩序による人権制約原理への転換である。

そして、この転換こそ、自民党草案の基本的人権観を象徴している。

自民党草案は、基本的人権を正面から否定しているわけではない。
しかし、基本的人権を、公益、秩序、責任、義務、家族、国家の中に位置づけ直そうとしている。

つまり、人権を国家権力に対抗する盾として強化するのではなく、国家や社会秩序の中で許される範囲の権利として再構成しようとしているのである。

ここに、自民党改憲案の大きな問題がある。

7 「個人として尊重」から「人として尊重」へ

自民党草案では、現行憲法13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という文言が、「全て国民は、人として尊重される」に変更されている。

一見すると、あまり大きな違いはないように見える。

しかし、これは非常に重要な変更である。

「個人として尊重される」という言葉は、日本国憲法の核心である。

人は、国家のために存在するのではない。
家族のために存在するのでもない。
会社のために存在するのでもない。
地域共同体のために存在するのでもない。

一人ひとりの個人が、それ自体として尊重される。

これが、個人の尊厳である。

ところが、「人として尊重される」という言葉になると、個人の独立性が弱まる。

もちろん、人として尊重されること自体は大切である。しかし、「個人として」という言葉が持っていた、国家や共同体から独立した人格の尊厳という鋭さが失われる。

しかも、自民党草案では、24条に「家族は、互いに助け合わなければならない」という規定が入る。

家族が助け合うこと自体は、道徳としては当然大切である。しかし、それを憲法に書くことには注意が必要である。

なぜなら、憲法は道徳の教科書ではないからである。憲法は国家権力を縛る法である。

家族の助け合いを憲法上の義務のように書けば、国家が社会保障を後退させる口実にならないか。
介護、貧困、障害、子育て、失業、病気の問題を、まず家族で支えろという方向にならないか。
個人が家族から逃げる自由、家族の中で傷つけられている人の自由は、十分に守られるのか。

現実には、家族は常に安全な場所とは限らない。
暴力、支配、虐待、介護負担、性別役割分業、経済的依存が発生する場でもある。

だからこそ、現行憲法24条は「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」を置いている。

自民党草案は、個人よりも家族、家族よりも共同体、共同体よりも国家という方向へ傾いているように見える。

これは、基本的人権の強化ではない。

8 平和主義から「軍事力を持つ国家」へ

自民党草案は、9条1項の戦争放棄を残す。

しかし、現行9条2項の「戦力不保持」と「交戦権否認」は削除される。そして、「自衛権の発動を妨げるものではない」とし、国防軍の保持を明記する。

これにより、平和主義の性格は大きく変わる。

現行9条は、軍事力に対する強いブレーキである。

政府は、自衛隊を持つとしても、それは戦力ではない、必要最小限度の実力組織である、と説明してきた。集団的自衛権についても、長く「保持しているが行使できない」と説明してきた。

このような説明は、確かに分かりにくい。矛盾を含んでいるとも言える。

しかし、それは9条が軍事力に対して強い制約をかけているからである。

自民党草案は、この制約を取り払う。

自衛権には個別的自衛権だけでなく、集団的自衛権も含まれる。国防軍は国際平和活動にも参加できる。場合によっては武力行使も法律に基づいて可能になる。軍事審判所も置かれる。

これは、単なる自衛隊明記ではない。

平和主義を、「軍事力を持たない方向」から、「軍事力を持つ普通の国家の平和主義」へ変えるものである。

ここで問うべきは、単に自衛隊を認めるかどうかではない。

軍事力に対する憲法上の制約をどこまで残すのか。
自衛権の行使を誰が、どのように、どの基準で止めるのか。
国会は事前承認できるのか。
司法審査は及ぶのか。
国民は情報を知ることができるのか。
軍事機密を理由に、国民の監視が遮断されないか。

平和主義を本当に守るなら、自衛隊を明記する場合であっても、その権限を厳格に縛る必要がある。

しかし、自民党草案は、国防軍を明記し、その活動範囲を広げる方向である。

これは、平和主義の強化ではなく、平和主義の国家安全保障化である。

9 緊急事態条項――非常時に国家権力を強める装置

自民党草案で非常に重大なのが、緊急事態条項である。

緊急事態条項は、有事や大規模災害などの際に、内閣総理大臣が緊急事態を宣言し、内閣が緊急政令を制定したり、緊急の財政支出を行ったり、地方自治体に指示したり、国民に指示への遵守義務を課したりする仕組みである。

自民党は、これは災害対応のために必要だと説明する。

しかし、災害対応は本当に憲法改正がなければできないのか。

これまで日本は、災害対策基本法、自衛隊法、感染症法、特措法など、さまざまな法律で災害や感染症に対応してきた。問題があったなら、法律や運用を改善すればよい。

避難所運営の改善。
情報伝達の改善。
自治体間連携の改善。
物資輸送の改善。
災害弱者支援の改善。
行政文書と検証体制の整備。
国会による事後検証。
被災者の権利保障。

本当に必要なのは、こういう具体的な制度改善である。

ところが、緊急事態条項は、国家権力の側を強める。

特に問題なのは、国民に対する指示への遵守義務である。

現行法では、国民に協力を求める仕組みが中心である。これを、憲法上の指示と遵守義務へと引き上げる。つまり、非常時に国家が国民を動員しやすくする。

災害時には、たしかに一定の協力が必要である。しかし、だからといって、憲法に国民の遵守義務を置くことは別問題である。

非常時ほど、権力は強くなる。
非常時ほど、国民の自由は後退しやすい。
非常時ほど、少数者や弱者の声はかき消されやすい。

だから本来、緊急事態条項を置くなら、権力の制約を徹底的に書き込まなければならない。

期間制限。
国会承認。
司法審査。
人権制約の限界。
情報公開。
事後検証。
補償。
地方自治の尊重。
少数者保護。

これらが中心でなければならない。

しかし、自民党草案の緊急事態条項は、内閣の権限強化と国民の遵守義務が前面に出る。

これは、立憲主義の観点から大きな問題である。

10 内閣総理大臣の権限集中

自民党草案では、内閣総理大臣の権限も強化されている。

行政各部の指揮監督・総合調整権。
国防軍の最高指揮権。
衆議院解散の決定権。

しかも、自民党Q&Aでは、行政各部の指揮監督について、現行憲法や内閣法では閣議にかけた方針に基づく必要があるが、草案では総理が単独で行政各部を指揮監督できると説明されている。

これは、行政権の集中である。

日本国憲法は、国会を国権の最高機関とし、内閣は国会に対して連帯責任を負う。行政権は内閣に属する。つまり、内閣は合議体であり、国会の統制を受ける。

しかし、自民党草案では、総理大臣個人の権限が強くなる。

これは、国民主権の実質化ではない。

国民が国家を監視しやすくなるのではない。
国会が行政をより強く統制するのでもない。
司法が行政をより厳しく審査するのでもない。

総理の指導力を強めるのである。

政治においてリーダーシップが必要な場面はある。しかし、憲法の役割は、リーダーシップを強めることだけではない。

むしろ、強いリーダーをどう縛るかこそ、憲法の本質である。

11 憲法改正要件の緩和は、立憲主義のハードルを下げる

自民党草案は、憲法改正の発議要件を、衆参それぞれ総議員の3分の2以上から過半数へ緩和しようとしている。

もちろん、最終的には国民投票が必要である。

だから、自民党は「国民が決めるのだから民主的だ」と説明するだろう。

しかし、立憲主義の観点から見ると、これは危うい。

憲法は、通常の政治多数派を縛るためにある。

そのときの多数派が、簡単に憲法を変えられるなら、憲法は通常の法律に近づいてしまう。国会の過半数で発議できるようになれば、時の政権与党が、政治課題として憲法改正を頻繁に国民投票へ持ち込むことも可能になる。

憲法改正は、単なる政策選択ではない。国家権力の枠組みそのものを変える行為である。

だから、改正要件は重くされている。

それを緩和するということは、憲法による権力制限を弱めるということである。

12 憲法は「国民を縛るもの」なのか――国民への憲法尊重義務が反転させる立憲主義

自民党草案では、国民にも憲法尊重義務を課している。

ここは、非常に象徴的である。

現行憲法99条は、憲法尊重擁護義務を、天皇、摂政、国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員に課している。

国民には課していない。

なぜなら、憲法は本来、国民が国家権力を縛るための法だからである。

この点を考えるうえで、現行憲法12条にも触れておく必要がある。

現行憲法12条は、次のように定めている。

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。
又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

ここには、たしかに国民に対する責任が書かれている。

しかし、その意味は、自民党草案が国民に課そうとする「憲法尊重義務」とは性質が違う。

憲法12条が国民に求めているのは、国家秩序への服従ではない。

むしろ、国民自身が、自らの自由と権利を守り続けるために努力しなければならない、ということである。

つまり、12条の前半は、国民に対して「憲法を守れ」と命じているのではない。

憲法が保障する自由と権利を、国民自身の不断の努力によって保持せよと言っているのである。

これは、非常に重要である。

自由や権利は、いったん憲法に書かれたら自動的に守られるものではない。国家権力は、時にそれを制限しようとする。多数派の空気も、少数者の権利を押し潰すことがある。行政の不透明性、司法へのアクセスの困難、情報の非公開、差別や同調圧力も、自由や権利を弱めていく。

だから国民は、自らの自由と権利を守るために、声を上げ、学び、監視し、参加し、必要ならば裁判を起こし、行政に説明を求めなければならない。

これが、憲法12条の「不断の努力」の意味である。

つまり、12条は、国民に国家への従順を求める規定ではない。
国民に、主権者として自由と権利を守り抜く責任を求める規定である。

また、12条後段は、自由と権利の濫用を戒め、「公共の福祉」のために利用する責任を定めている。

しかし、ここでいう「公共の福祉」も、国家の都合や秩序維持を無条件に優先するものではない。

公共の福祉とは、人権相互の調整原理である。ある人の自由が、他者の生命、身体、自由、人格、生活を侵害する場合に、互いの人権をできる限り尊重しながら調整する考え方である。

したがって、12条が国民に課している責任は、自由や権利を放棄して国家秩序に従う責任ではない。

自由と権利を濫用せず、他者の自由や権利と共存させながら、社会全体の中で人権を守っていく責任である。

ここが、自民党草案の国民への憲法尊重義務とは決定的に違う。

現行憲法12条は、国民を「権利を保持する主体」として見ている。
現行憲法99条は、国家権力の担い手を「憲法に縛られる主体」として見ている。

つまり、現行憲法の構造はこうである。

国民は、自由と権利を保持するために不断の努力をする。
権力者は、憲法を尊重し擁護する義務を負う。

この二つは、役割が違う。

国民には、自由と権利を守り、濫用せず、公共の福祉の中で行使する責任がある。
国家権力には、憲法に従い、国民の自由と権利を侵害してはならない義務がある。

これが、現行憲法の立憲主義的な構造である。

ところが、自民党草案では、国民にも憲法尊重義務を課す。

一見すると、憲法を大切にするのは当然だと思うかもしれない。

しかし、問題は「憲法を大切にする」という一般論ではない。

憲法上の義務として、国民に憲法尊重義務を課すことの意味である。

現行憲法において、憲法尊重擁護義務が公務員に課されているのは、国家権力を行使する側だからである。権力を持つ者は、憲法に従わなければならない。国民の自由や権利を侵害してはならない。だから、憲法尊重擁護義務を負う。

これに対して、国民は本来、憲法によって守られる側である。

国民は、憲法を根拠にして、国家に対して権利を主張する。
国民は、憲法を根拠にして、行政に説明を求める。
国民は、憲法を根拠にして、裁判所に救済を求める。
国民は、憲法を根拠にして、国会や内閣を監視する。

つまり、現行憲法において、憲法は国民の武器である。

ところが、自民党草案のように国民にも憲法尊重義務を課すと、憲法は国民の武器であるだけでなく、国民も従うべき国家規範としての性格を強める。

ここに、憲法観の大きな転換がある。

もちろん、国民が憲法を無視してよいという意味ではない。
また、国民が自由や権利を濫用してよいという意味でもない。

その点は、現行憲法12条がすでに定めている。

国民は、自由と権利を不断の努力によって保持しなければならない。
国民は、自由と権利を濫用してはならない。
国民は、公共の福祉の中で、他者の人権と共存する形で自由と権利を行使する責任を負う。

それで十分なのである。

現行憲法は、国民に無責任な自由を与えているわけではない。
すでに12条によって、自由と権利を守り、濫用せず、公共の福祉のために用いる責任を定めている。

それにもかかわらず、さらに国民に「憲法尊重義務」を課す必要があるのか。

ここが問題である。

自民党草案における国民の憲法尊重義務は、12条のように「自由と権利を保持するための責任」としてではなく、国家秩序としての憲法を国民にも尊重させる方向に働く危険がある。

つまり、国民が憲法を使って国家を縛るのではなく、国家が憲法を使って国民に義務を課す構造へと傾く。

これは、立憲主義の方向を反転させる危険がある。

憲法とは、国家権力を縛る法なのか。
それとも、国民に国家秩序を尊重させる法なのか。

現行憲法は、前者である。

国民には、12条によって自由と権利を保持する責任がある。
しかし、99条の憲法尊重擁護義務は、国家権力を担う者に課されている。

この区別こそが重要なのである。

自民党草案は、この区別を曖昧にする。

その結果、憲法の性格は、国民が国家を縛るための法から、国家と国民がともに従うべき秩序規範へと変質しやすくなる。

そして、そのとき、憲法は国民の自由を守る盾ではなく、国民に国家秩序への従順を求める道具になりかねない。

だから、国民にも憲法尊重義務を課すことは、単なる道徳的な確認ではない。

それは、憲法の主語を変える問題である。

現行憲法の主語は、国家権力を縛る国民である。
自民党草案の主語は、国家秩序を支える国民へと傾いている。

ここに、自民党草案の深い問題がある。

13 自民党改憲案の本音

ここまで見てくると、自民党が憲法を変えたい本当の理由が見えてくる。

それは、現行憲法では何もできないからではない。

すでに多くの政策は、法律によって実現されてきた。

自衛隊は存在している。
災害対応も行われている。
教育支援も行われている。
私学助成も行われている。
選挙制度も法律で変えられている。

では、なぜ憲法を変えるのか。

それは、現行憲法が国家権力に対して、常に問いを突きつけるからである。

それは本当に合憲なのか。
それは本当に必要最小限度なのか。
それは人権を侵害していないか。
それは国会の統制を受けているか。
それは司法審査を逃れていないか。
それは国民主権を弱めていないか。
それは平和主義に反していないか。

この問いを弱めたい。

そのために、憲法上の制約を緩め、国家権力に明文の根拠を与えたい。

これが、自民党改憲論の本音ではないか。

つまり、自民党改憲案の本質は、次のように整理できる。

できないことをできるようにする改憲ではない。
すでにやっていること、またはやりたいことに、憲法上の強い正当性を与える改憲である。

さらに言えば、国家が政策を実現しやすいように、立憲主義のブレーキを弱める改憲である。

14 本来必要な改憲とは何か

では、憲法改正は絶対にしてはいけないのか。

私はそうは思わない。

憲法改正そのものが悪いのではない。問題は、何のために改正するのかである。

国家を動かしやすくするために改正するのか。
国民が国家をより強く縛るために改正するのか。

この違いが決定的である。

本当に憲法を改正するなら、日本国憲法の三大原則を強化する方向であるべきだ。

国民主権を強めるなら、情報公開請求権、行政文書管理、国民の知る権利、住民自治、政治参加、国民投票制度の公正性、選挙制度の平等性を強化するべきである。

基本的人権を強めるなら、個人の尊厳、差別禁止、環境権、自己情報コントロール権、裁判を受ける権利の実効化、労働者の権利、教育を受ける権利、生存権の具体化を進めるべきである。

平和主義を強めるなら、自衛権の限界、武力行使の要件、国会承認、情報公開、文民統制、司法審査、軍事機密の制限、核兵器禁止、武器輸出規制などを憲法上明確にすべきである。

緊急事態に備えるなら、内閣の権限を強める前に、人権保障、国会統制、司法審査、情報公開、補償、地方自治、事後検証を強めるべきである。

これが、立憲主義を深める改憲である。

国家を強くする前に、国民が国家を縛る力を強くする。
これこそが、憲法改正を語るときの出発点であるべきだ。

15 結論――自民党改憲案は「三原則の強化」ではない

自民党の改憲案は、日本国憲法の三大原則を正面から否定するものではない。

しかし、三大原則を強化するものでもない。

むしろ、三大原則を維持すると言いながら、その中身を国家権力に都合のよい形へ組み替えていく危険を持っている。

国民主権は、国家を縛る原理から、国家を支える国民像へ傾く。
基本的人権は、「公益及び公の秩序」によって相対化される。
平和主義は、国防軍と自衛権の明文化によって、軍事力を持つ国家の平和主義へ変えられる。
緊急事態条項は、非常時に内閣権限を強め、国民に遵守義務を課す方向へ進む。
憲法改正要件の緩和は、憲法による権力制限のハードルを下げる。
国民の憲法尊重義務は、憲法を国民の武器から、国民も従う国家規範へ変質させる。

だから、自民党改憲案の問題は、単に「改憲に賛成か反対か」という話ではない。

より根本的な問いは、こうである。

憲法を誰のために変えるのか。
国家のためか。
国民の自由と尊厳のためか。

自民党案は、明らかに国家のための改憲に傾いている。

国家を強くする。
内閣を強くする。
軍事力を明文化する。
国民に義務を課す。
公の秩序で人権を制約する。
憲法改正をしやすくする。

これは、国民の権利を強める改憲ではない。

日本国憲法の魂は、国民が国家を縛るところにある。

その魂を守るためには、単に「憲法を変えるな」と言うだけでは足りない。むしろ、憲法とは何か、立憲主義とは何か、国民主権とは何か、基本的人権とは何か、平和主義とは何かを、もう一度深く問い直す必要がある。

憲法改正を語るなら、まず問うべきである。

その改正は、国家権力を強めるのか。
それとも、国民が国家を縛る力を強めるのか。

この問いに正面から答えない改憲論は、どれほど「時代に合わせる」と言っても、本質を見誤っている。

自民党改憲案の最大の問題は、日本国憲法の三大原則を否定していることではない。

三大原則を維持すると言いながら、それを強化せず、むしろ国家権力の中に取り込もうとしていることにある。

だからこそ、私たちは、憲法改正の議論をこう問い直さなければならない。

憲法は、国家を動かすための道具なのか。
それとも、国民が国家を縛るための盾なのか。

日本国憲法の本質は、後者にある。

そして、もし本当に憲法を改正するのであれば、その方向は、国家を強くすることではなく、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を、より深く、より具体的に、より実効的に強化するものでなければならない。

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