平和主義と憲法を結び直す――戦争を止め、安心をつくる憲法へ
平和主義 憲法について、私、はらだよしひろが、個人的に思ったことを綴った日記です。
「平和主義」と「憲法」という言葉を聞くと、多くの人は日本国憲法第9条を思い浮かべるでしょう。もちろん、戦争を放棄し、武力による威嚇や武力行使を禁じ、交戦権を認めない第9条は、日本の平和主義の中心です。しかし、平和とは、戦争が始まっていない状態だけを意味するのでしょうか。貧困、差別、抑圧、性暴力、過酷な労働、災害時の放置によって、人の生命や尊厳が傷つけられている社会を、本当に平和だと呼べるのでしょうか。
私は、平和主義を第9条だけに閉じ込めるのではなく、基本的人権、社会保障、民主主義、情報公開、司法救済と結び直す必要があると考えています。平和主義とは、国家が戦争をしないという約束であると同時に、一人ひとりが恐怖と欠乏から免れ、尊厳をもって生きられる社会をつくる憲法原理であるべきです。
目次
- 1 平和主義と憲法は、第9条だけで完結していない
- 2 「戦争がない平和」から「人権が守られる平和」へ
- 2.1 構造的暴力とは何か
- 2.1.1 ヨハン・ガルトゥングの平和論を具体的に述べる。
- 2.1.1.1 暴力を「人間の可能性を奪うもの」と捉える
- 2.1.1.2 直接的暴力には、加害者と被害者が見える
- 2.1.1.3 構造的暴力には、明確な加害者が見えにくい
- 2.1.1.4 不平等が重なることで、暴力は固定される
- 2.1.1.5 災害そのものと、災害被害の偏りは別である
- 2.1.1.6 暴力は身体だけでなく、精神や人格も傷つける
- 2.1.1.7 悪意がなくても、構造的暴力は成立する
- 2.1.1.8 現れている暴力と、潜在している暴力がある
- 2.1.1.9 消極的平和は、直接的暴力が止まった状態である
- 2.1.1.10 積極的平和は、社会的公正が実現された状態である
- 2.1.1.11 平和は、対立や意見の違いがない状態ではない
- 2.1.1.12 文化的暴力が、直接的・構造的暴力を正当化する
- 2.1.1.13 三つの暴力は、互いに支え合っている
- 2.1.1.14 平和維持・平和創造・平和構築は役割が異なる
- 2.1.1.15 日本国憲法には二つの平和が含まれている
- 2.1.1.16 積極的平和は「安心をつくる政治」につながる
- 2.1.1.17 ガルトゥングの概念を無制限に広げないことも必要である
- 2.1.1 ヨハン・ガルトゥングの平和論を具体的に述べる。
- 2.2 人権は平和の内容である
- 2.1 構造的暴力とは何か
- 3 日本政府も、平和主義と人権を部分的には結びつけてきた
- 4 政府の「積極的平和主義」とは区別しなければならない
- 5 平和主義を「戦争を止める権利と制度」にする
- 6 自国民だけでなく、相手国住民の人権も守る平和主義へ
- 7 平和主義と憲法が目指すのは、「安心をつくる政治」である
- 8 はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
平和主義と憲法は、第9条だけで完結していない

日本国憲法の前文は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」と宣言しています。戦争を自然災害のような避けられない出来事ではなく、政府の判断と権力行使によって起こされるものとして捉えているのです。
さらに前文は、全世界の人々が「恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」を持つと確認しています。ここで挙げられているのは、戦争による「恐怖」だけではありません。生活できないほどの貧困や飢餓などの「欠乏」からの自由も、平和の条件に含まれています。しかも、その主体は日本国民だけではなく、「全世界の国民」です。
第9条の戦争放棄、第11条の基本的人権、第13条の生命・自由・幸福追求権、第25条の生存権は、別々の理念ではありません。
戦争によって生命を奪わせない。権力によって自由を奪わせない。貧困によって生存を脅かさせない。
この三つを一体として保障することが、日本国憲法の平和主義だったのではないでしょうか。
「戦争がない平和」から「人権が守られる平和」へ

構造的暴力とは何か
**平和主義と憲法の関係を考えるうえで、**平和学者ヨハン・ガルトゥングの考え方は重要な手がかりになります。ガルトゥングは、平和を「消極的平和」と「積極的平和」に分けて考えました。消極的平和とは、戦争や殺傷などの直接的暴力がない状態です。積極的平和とは、社会の仕組みを通じて人の可能性や生存条件が奪われる「構造的暴力」も取り除かれた状態です。
ガルトゥングは、同じ自然災害に遭っても、住環境や社会的条件の差によって一部の人だけが避けられたはずの被害を受ける例を挙げ、制度や資源配分のあり方も暴力になり得ると論じました。ヨハン・ガルトゥング「Violence, Peace, and Peace Research」
ヨハン・ガルトゥングの平和論を具体的に述べる。

暴力を「人間の可能性を奪うもの」と捉える

ガルトゥングの平和論の出発点は、暴力を殴打、殺傷、戦争だけに限定しないことです。人間が本来実現できたはずの身体的・精神的状態と、現実に置かれている状態との間に、避けることのできた隔たりがあるとき、その原因を暴力として捉えます。
例えば、治療方法そのものが存在しない時代に病気で亡くなることと、医療技術や薬が存在するのに、貧困、差別、居住地域などを理由に治療を受けられず亡くなることは同じではありません。後者では、社会の制度や資源配分が、人間の生存可能性を引き下げています。ガルトゥングは、このような状態も暴力の問題として分析しました。「Violence, Peace, and Peace Research」
直接的暴力には、加害者と被害者が見える

直接的暴力とは、誰が誰に危害を加えたのかを比較的はっきり確認できる暴力です。戦争における攻撃、殺人、拷問、暴行、性暴力、虐待、脅迫などが該当します。
直接的暴力では、命令した者、実行した者、被害を受けた者を特定できます。また、いつ、どこで、何が起きたのかも認識しやすいため、事件やニュースとして表面化しやすい特徴があります。
しかし、目に見える暴力だけを問題にすると、その暴力が発生するまでに蓄積されていた貧困、差別、支配、排除、政治的抑圧などが見えなくなります。ガルトゥングは、直接的暴力の背後にある社会構造まで視野に入れました。
構造的暴力には、明確な加害者が見えにくい

構造的暴力とは、特定の誰かが直接攻撃しなくても、政治、経済、教育、医療、労働、家族、地域などの仕組みを通じて、人の生命、健康、自由、尊厳、可能性が継続的に損なわれる状態です。
そこでは、制度に従って日常業務を行う一人ひとりに、明確な悪意がないこともあります。それでも、制度全体として見ると、特定の人々に不利益と犠牲が集中しています。
そのため、構造的暴力は「誰が加害者なのか」が見えにくく、「昔からそうなっている」「仕方がない」「本人の努力不足だ」と説明されやすいのです。この見えにくさこそ、構造的暴力が長期間維持される理由の一つです。
不平等が重なることで、暴力は固定される

構造的暴力は、一つの不利益だけで成立するとは限りません。所得が低い人ほど、十分な教育を受けにくく、健康状態も悪化しやすく、政治的な発言力も弱くなるように、複数の不平等が重なっていきます。
一方、所得や社会的地位の高い人は、教育、医療、情報、政治参加への機会も得やすくなります。経済力、知識、健康、政治的影響力が同じ側へ集中すると、社会の上下関係は固定されます。
形式上はすべての人に同じ権利が認められていても、実際にその権利を使える人と使えない人が分かれているなら、平等は実現していません。ガルトゥングの平和論は、権利の有無だけでなく、権利を現実に行使できる条件を問います。
災害そのものと、災害被害の偏りは別である

地震、台風、洪水などの自然現象を、人間が完全に防ぐことはできません。しかし、同じ災害に遭っても、耐震性の高い住宅に住める人と、危険な住宅から移転できない人とでは、被害の程度が異なります。
避難情報を受け取れない人、障害のため一人で避難できない人、避難所で性暴力の危険にさらされる人、持病の治療を中断される人もいます。
災害そのものは自然現象でも、被害が特定の階層や属性の人に集中する状態は、住宅政策、福祉、情報保障、防災計画などによって改善できる可能性があります。防ぐことのできた被害を社会が放置しているなら、そこには構造的暴力が存在すると考えられます。
暴力は身体だけでなく、精神や人格も傷つける
ガルトゥングは、暴力を身体的な損傷だけに限定していません。脅迫、侮辱、差別的な扱い、恐怖による支配、情報の遮断、思想の強制など、精神や人格、人間の判断能力を傷つける行為も暴力に含めて考えます。
身体を直接傷つけなくても、「逆らえば不利益を受ける」と思わせれば、人の自由な意思決定を奪えます。行政が重要な情報を隠すことも、市民が自らの生命や生活について判断する機会を奪う場合があります。
この考え方に立てば、平和とは、単に殺されない状態ではありません。恐怖によって沈黙させられず、必要な情報を得て、自分の意思を表明し、社会の決定に参加できる状態まで含まれます。
悪意がなくても、構造的暴力は成立する
直接的暴力では、加害者の故意や目的が問題になります。しかし構造的暴力では、誰かが人を傷つけようと意図していなくても、制度の結果として深刻な被害が生じることがあります。
例えば、行政が一律の手続を採用した結果、文字を読めない人、障害のある人、外国人、生活に余裕のない人が制度を利用できなくなる場合があります。担当者に差別する意図がなくても、特定の人々が繰り返し排除されるなら、制度自体を検証しなければなりません。
「悪気はなかった」という説明だけでは、人権侵害の結果は解消されません。ガルトゥングの理論は、個人の意図だけでなく、制度が実際に誰へどのような結果をもたらしているかを問います。
現れている暴力と、潜在している暴力がある
暴力には、すでに被害として現れているものと、条件が整えば直ちに表面化する潜在的なものがあります。戦闘が起きていなくても、軍備の拡大、敵意の蓄積、差別的な宣伝、生活資源の極端な偏りが進めば、直接的暴力が発生する危険は高まります。
家庭、職場、学校などでも、表面的には事件が起きていなくても、強い上下関係によって異議を述べられない状態が続けば、暴力が潜在している可能性があります。
平和政策に必要なのは、事件が起きた後の対応だけではありません。暴力が表面化する前に、権力関係、差別、情報の遮断、孤立などの条件を発見し、取り除くことです。
消極的平和は、直接的暴力が止まった状態である
ガルトゥングがいう消極的平和とは、戦争、殺傷、暴行などの直接的暴力が行われていない状態です。停戦が成立し、武器の使用が止まり、人が殺されなくなることは、何よりも重要です。
ただし、消極的平和だけでは、紛争の原因となった支配関係や差別、貧困、土地の収奪、政治的排除などが残ることがあります。戦闘が止まっていても、一方だけが自由を奪われ、沈黙を強いられているなら、その状態は安定しているように見えても、持続可能な平和ではありません。
消極的平和は不要なのではなく、平和を実現するための不可欠な第一段階です。しかし、そこを最終地点にしてはならないというのが、ガルトゥングの問題提起です。
積極的平和は、社会的公正が実現された状態である
積極的平和とは、構造的暴力が取り除かれ、人々が生命、健康、教育、生活、自由、政治参加などの可能性を実際に保障されている状態です。単に全員の所得や結果を同じにするという意味ではありません。
病気になれば必要な医療を受けられる。障害があっても学び、働き、政治に参加できる。性別、国籍、民族、出自などによって排除されない。行政の決定に異議を述べ、司法による救済を求められる。このような条件が整って、初めて人は権利を現実に行使できます。
ガルトゥングは、構造的暴力のない状態を社会的公正と結びつけました。積極的平和とは、人権が理念として掲げられるだけでなく、生活の中で実現されている状態です。
平和は、対立や意見の違いがない状態ではない
平和とは、社会から対立をなくし、全員が同じ考えを持つことではありません。利益、価値観、歴史認識、政策目標が異なる以上、対立そのものを完全になくすことはできません。
重要なのは、その対立を暴力、排除、弾圧によって処理しないことです。情報を公開し、当事者が対等に参加し、少数派が異議を述べ、対話、交渉、司法、選挙などを通じて解決を探る必要があります。
したがって、積極的平和は「対立のない静かな社会」ではありません。むしろ、異なる立場の人が声を上げても攻撃されず、対立を公正かつ非暴力的に扱える社会です。民主主義は、平和をつくるための制度でもあるのです。
文化的暴力が、直接的・構造的暴力を正当化する
ガルトゥングは1990年の論文で、直接的暴力と構造的暴力に加えて「文化的暴力」という概念を示しました。これは、宗教、思想、国家観、言語、芸術、教育、学問などの一部が、暴力や不平等を正当化する働きを持つことです。「Cultural Violence」
「敵国民は劣っている」「被害を受ける側にも責任がある」「貧しいのは努力が足りないからだ」「国家のための犠牲は当然だ」といった言説が広がれば、本来は不当な被害が、必要、自然、正義であるかのように見えてきます。
文化的暴力は、直接人を殺傷するものではありません。しかし、人を傷つける行為や制度を正当なものに見せ、抵抗や疑問を起こしにくくします。
三つの暴力は、互いに支え合っている
直接的暴力、構造的暴力、文化的暴力は、それぞれ独立して存在するのではありません。文化的暴力が差別や犠牲を正当化し、構造的暴力が不利益を特定の人々へ集中させ、直接的暴力がその支配を現実に実行します。
反対に、戦争や弾圧などの直接的暴力が続けば、秘密主義、軍事優先、敵視、服従といった社会構造や文化も強化されます。
そのため、戦闘だけを止めても、差別的な制度や敵意を正当化する思想が残れば、暴力は再発します。持続可能な平和には、武力の停止、制度の改革、暴力を当然視する価値観の見直しを同時に進める必要があります。
平和維持・平和創造・平和構築は役割が異なる
ガルトゥングの平和論では、まず暴力を抑えて人命を守る「平和維持」、対立する当事者の交渉を通じて合意をつくる「平和創造」、暴力を生み出した社会構造や関係を変える「平和構築」を区別して考えます。
停戦監視や住民保護は平和維持に当たります。和平交渉や調停は平和創造です。貧困や差別の是正、被害回復、教育、制度改革、地域の信頼回復などは平和構築に当たります。
三つのうち一つだけで平和を完成させることはできません。暴力を止め、対立を解決し、暴力が再発しない社会的条件をつくるところまで継続する必要があります。
日本国憲法には二つの平和が含まれている
この視点から日本国憲法を見ると、第9条は戦争、武力による威嚇、武力行使を抑える消極的平和の中心的規定です。一方、前文の「恐怖と欠乏から免かれ」という言葉、第13条の生命・自由・幸福追求権、第14条の平等、第25条の生存権などは、積極的平和を支える規定と考えられます。
つまり、日本国憲法には、戦争をしないための原理と、人間らしく生きられる社会をつくるための原理が、すでに存在しています。
問題は、それらが別々の政策分野として扱われてきたことです。第9条と基本的人権、社会保障、労働、教育、防災、環境、情報公開を、一つの平和主義として結び直す必要があります。
積極的平和は「安心をつくる政治」につながる
ガルトゥングの平和論を政治に置き換えると、戦争への不安だけでなく、失業、病気、貧困、差別、災害、性暴力、ハラスメント、行政の情報隠蔽などによる不安も、平和政策の対象になります。
その不安を解消するには、国が一方的に「守る」と宣言するだけでは足りません。市民が必要な情報を得ること、意思決定に参加すること、少数派にも調査や異議申立ての権限があること、不当な政策を停止できること、独立した司法救済を受けられることが必要です。
積極的平和とは、権力に安全を任せきる状態ではありません。市民自身が政治を監視し、参加し、必要なときには止められる状態です。
ガルトゥングの概念を無制限に広げないことも必要である
構造的暴力という言葉を広げすぎると、あらゆる不満や格差を暴力と呼ぶことになり、概念が曖昧になる危険があります。
そこで、具体的な政策を考える際には、その被害が避けられるものか、人の生命・健康・自由・尊厳を実質的に損なっているか、特定の集団へ継続的に集中しているか、制度や権力関係によって維持されているか、改善する現実的な手段があるかを検証する必要があります。
この検証を行うことで、構造的暴力は単なる比喩ではなくなります。誰が、どの制度によって、どのような可能性を奪われているのかを明らかにし、政策の変更へつなげるための分析概念になります。
人権は平和の内容である
この考え方を平和主義と憲法に取り入れると、人権は「平和になった後に保障するもの」ではなくなります。
- 貧困のために必要な医療を受けられない
- 差別によって教育、仕事、住居、政治参加の機会を奪われる
- 職場の暴力やハラスメントによって心身を壊される
- 女性や子どもが性暴力や家庭内暴力から守られない
- 災害時の避難所で安全、プライバシー、尊厳が保障されない
- 戦争、虐殺、災害によるPTSDが本人や家族の問題として放置される
- 行政が情報を隠し、市民が自らの生命に関わる判断へ参加できない
これらは福祉、労働、男女平等、防災、行政の個別問題であると同時に、平和の問題です。人権は平和によって守られます。そして、人権が保障されている状態そのものが平和なのです。
国連人権高等弁務官事務所も、人権は持続可能な開発と持続する平和の双方を支え、不平等や不満の原因に対処することが危機や紛争の予防につながるとしています。OHCHR「Human rights, peacebuilding and sustaining peace」
日本政府も、平和主義と人権を部分的には結びつけてきた

戦後日本は、憲法25条を基礎に生活保護、社会保険、国民皆保険・皆年金などを整備してきました。これを「第9条によって軍事費を抑え、その分を社会保障へ振り向ける制度」と明文化したわけではありません。
しかし結果として、軍事大国化を抑えながら、人々の生活を公的制度で支える方向を選びました。これは平和主義と人権を実質的に結んだ戦後の成果です。
外交分野では、その結合がより明確です。2023年の開発協力大綱は、非軍事的協力を「平和国家としての我が国に最もふさわしい国際貢献」の一つと位置づけています。同時に、「人間の安全保障」を、すべての人が恐怖と欠乏から免れ、尊厳をもって幸福に生きられる国・社会をつくる考え方として掲げています。
また、女性・平和・安全保障、いわゆるWPSは、紛争下の性暴力を防ぎ、被害者を保護し、和平や復興の過程に女性が参加することを平和政策の一部とします。外務省も、女性の参画によって持続可能な平和を実現する取組だと説明しています。外務省「女性・平和・安全保障」
これは重要な到達点です。戦闘が止まっていても、性暴力が続き、被害者が沈黙を強いられ、復興の意思決定から排除されているなら、平和は完成していないからです。
政府の「積極的平和主義」とは区別しなければならない

ただし、ここでいう積極的平和は、日本政府が掲げる「国際協調主義に基づく積極的平和主義」と同じではありません。
政府の積極的平和主義は、外交や国際協力を含む一方、防衛力と抑止力の強化、日米同盟、同志国との安全保障協力も包含しています。現在はODAとは別に、同志国の軍などへ資機材を供与し、インフラを整備する政府安全保障能力強化支援(OSA)も設けられています。
さらに、政府は憲法前文の平和的生存権と第13条の生命・自由・幸福追求権を、自衛のための必要最小限度の実力を保有し、武力を行使できる根拠として解釈してきました。2014年以後は、この論理が限定的な集団的自衛権を認める方向にも使われました。衆議院「憲法第9条の解釈に関する答弁書」
「人権を守るため」という言葉は、軍事力を制限する理由にも、拡大する理由にもなります。だからこそ、私が提案するのは、軍事力によって平和をつくる積極的平和主義ではありません。
基本的人権、社会的公正、対話、外交、非軍事的国際協力によって、戦争と構造的暴力を生み出す条件を取り除く「人権に基づく積極的平和」です。
平和主義を「戦争を止める権利と制度」にする

平和的生存権を具体的な権利へ
現行憲法には、重大な空白があります。政府は、平和的生存権を人権の基礎にある理念とは認めながら、主体や内容が明確でないとして、裁判で争える具体的権利とは認めていません。2007年の政府答弁書にも、その考えが示されています。
そのため市民は、違憲の疑いがある武力行使、基地負担、戦争協力、武器供与などを目の前にしても、直接の被害や法的利益を厳しく問われ、政策を止めるための司法審査を起動しにくいままです。
政府は人権を武力行使の根拠には使います。しかし国民が、人権を根拠に武力行使を止める制度は十分につくられていません。
私は、この関係を逆転させたいと考えています。
自衛権行使を民主化する
私の憲法改正草案では、戦争、武力による威嚇・武力行使、交戦権の放棄を維持します。その上で、自衛権を日本の領土、領海、領空と国民を守るための必要最小限の個別的自衛権に限定します。先制攻撃、集団的自衛権とその支援、徴兵と強制動員を認めません。
しかし、条文に「必要最小限」と書くだけでは、権力の拡大を止められません。重要なのは、誰が判断し、誰が監視し、誰が停止できるのかです。
そこで、自衛権に関する権限を内閣から分離し、国会に属させます。解散のない参議院に、各政党が同数で参加する防衛委員会を置き、原則として全会一致で判断します。自衛隊は、この防衛委員会の指揮監督に服します。
衆議院は予算を通じて統制し、武力行使を停止できるようにします。軍事情報も原則公開し、秘密を行政の都合ではなく、生命・身体への切迫した危険を避けるための必要最小限に限ります。
戦争を止める権限を分散する
さらに、最高裁判所が自衛権行使を独立して審査し、違憲な行使の全部または一部を停止できる仕組みを整えます。そして、一人の国民でも最高裁へ停止を申し立てられるようにする。
これは、戦争を始める権限を一か所へ集中させるのではなく、止める権限を国会、衆議院、司法、市民へ分散する仕組みです。
平和主義を守る最後の主体は、政府ではなく主権者である。
「一人でも戦争を止めに行ける憲法」とは、この原則を制度にすることです。
自国民だけでなく、相手国住民の人権も守る平和主義へ

人権に基づく平和主義を徹底するなら、日本国民の生命だけを守ればよいとはいえません。日本が自衛権を行使するとき、その武力を受ける側にも、生活を営む市民、子ども、高齢者、障害者、負傷者、避難民がいます。
日本を守るためなら相手国住民の犠牲はやむを得ない、と考えた瞬間、平和主義は自国中心の軍事論へ戻ってしまいます。自衛権を認める理由が人間の生命と尊厳にあるなら、その生命と尊厳は国籍によって選別されてはなりません。
現在の私の憲法改正草案には、他国や他国民への攻撃、人権侵害の禁止、外国人を含む基本的人権、全世界の人々の平和的生存権という理念があります。しかし、それを自衛権行使の直接的な限界へ結びつける条文は、まだ十分ではありません。
今後は、国籍や所在地を問わず、すべての人の生命、身体、人格を最大限尊重すること、一般住民を攻撃対象にしないこと、住民に過大な被害を生じさせる武力行使を禁じることを、明確にする必要があります。
人権は自衛権を認める根拠であると同時に、自衛権の方法、範囲、継続を制限する基準でなければなりません。
平和主義と憲法が目指すのは、「安心をつくる政治」である
戦争への不安だけが、市民の不安ではありません。生活が成り立たない不安、差別される不安、災害時に見捨てられる不安、行政が何を根拠に決めたのか分からない不安、自分の声が政治に届かない不安があります。

安心をつくるのは、「任せる政治」だけではなく「自分も参加し、止められる政治」である
これらの不安に対して、国家が「守ってあげる」と約束するだけでは、安心は生まれません。必要なのは、判断前の情報公開、意思決定への参加、少数派の権限、不当な政策を止める手続、独立した司法救済です。
平和も同じです。強い政府や強い軍事力に安全を委ねるのではなく、市民が情報を知り、判断に参加し、誤った権力行使を止め、被害を受けた人が救済を求められる状態をつくる。平和主義と立憲主義は、ここで一つになります。
第9条を社会全体で支える
積極的平和を憲法に取り入れることは、第9条を弱めることではありません。第9条の戦争放棄を、人権、社会権、民主主義、情報公開、司法救済によって支え、戦争を生み出す社会的条件そのものを取り除くことです。
現行憲法は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こらないようにする」と決意しました。次に必要なのは、その決意を、市民が実際に使える制度へ発展させることです。
戦争をしない。戦争を始めさせない。始まろうとする戦争を止める。戦争を生み出す貧困、差別、抑圧を取り除く。そして、被害を受けた人の生命と尊厳を回復する。
そこまでを平和主義とする憲法こそ、国家の安全だけではなく、一人ひとりの安心をつくる憲法になると、私は考えています。
はらだよしひろと、繋がりたい方、ご連絡ください。
私、原田芳裕は、様々な方と繋がりたいと思っています。もし、私と繋がりたいという方は、是非、下のメールフォームから、ご連絡ください。ご相談事でも構いません。お待ちしております。





