原始・古代から平安時代への春日井の歴史を見る

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旧石器時代から平安時代までの春日井の歴史を、一枚の時代絵巻として表現したアイキャッチ画像。石器を使う人々、縄文土器と竪穴住居、弥生時代の稲作、古墳と埴輪、須恵器・瓦の生産、古代寺院と地方行政、平安時代の荘園へと社会が変化していく様子を描いている。背景には庄内川流域や台地、集落、田園が広がり、「原始・古代から平安時代への春日井の歴史を見る」というタイトルが大きく配置されている。

原始・古代の春日井は、川と台地を利用した人々の暮らしから、稲作集落、地域の首長が治める社会、そして寺院や地方行政のある社会へと変化していきました。 その過程は、石器や土器だけでなく、住居、農具、古墳、窯、瓦、文字資料からたどることができます。

ここでは、現在の春日井市域を中心に、旧石器時代から奈良・平安時代までを説明します。古代の「春日部郡」は現在の春日井市より広い地域なので、両者は区別します。また、『郷土誌かすがい』の古い記事には、その後の発掘で更新された内容もあるため、発掘成果をまとめた資料と照合して述べます。

1.旧石器時代――春日井に人が活動していた最初の手掛かり

春日井の人間の歴史は、稲作や古墳よりもはるか以前にさかのぼります。

その代表的な場所が、春見町から浅山町にかけての地域に関係する梅ヶ坪遺跡です。『郷土誌かすがい』創刊号でも、この周辺から知られる石器を、春日井の旧石器時代を考える資料として紹介しています。『郷土誌かすがい』創刊号「原始」

旧石器時代の暮らしを考える際、石器は単なる「古い道具」ではありません。石材を選び、割り、刃を整える技術があったことを示します。狩猟や獲物の解体、木などの加工を行うために、人々は用途に応じた道具を必要としていました。

ただし、石器が見つかった場所と、人が長期間住んだ場所とは同じとは限りません。 採集された石器だけから、家の位置、集団の人数、滞在期間まで復元することはできません。春日井の最初期の歴史は、人の活動を示す物的証拠はあるものの、その生活の全体像には未解明の部分が多い段階です。

旧石器時代の春日井について、梅ヶ坪遺跡を中心に、人々の活動の手掛かりを図解した画像。春見町から浅山町周辺の風景と石器を示し、石材を選ぶ、石を割る、刃を整えるという石器づくりの工程を紹介している。完成した石器は、狩猟、獲物の解体、木の加工などに使われた可能性があることも描写。一方で、「石器が見つかった場所=長く住んだ場所とは限らない」と強調し、家の位置、集団の人数、滞在期間など、当時の暮らしにはまだ分からない点が多いことを示している。

2.縄文時代――川辺に暮らし、土器で煮炊きをする

縄文時代になると、春日井でも住まいや調理の痕跡が具体的に見えてきます。

市の2013年の報告では、神領絲田遺跡と大留六反田遺跡で、炉を伴う縄文時代の竪穴住居が確認されたとされています。また、松河戸遺跡では石を集めた遺構や土坑、勝川・町田・篠木などでは縄文土器が知られています。

特に身近な生活を伝えるのが、庄名町で出土した縄文時代後期の深鉢です。内側には焦げ付き、外側には繰り返し火にかけられた跡があり、煮炊きに使われたことが分かります。

ただし、この土器は後世の洪水堆積層から出ており、元の場所から移動したと考えられます。土器の存在は縄文人の活動を示しますが、出土地点にそのまま縄文集落があったとはいえません。第72号「庄名町字川端地内出土の縄文土器について」

縄文時代の一般的な生業は、狩猟・漁労・植物の採集などを組み合わせるものでした。春日井でも、川の水や魚、周辺の森林資源を利用できる場所は、生活上重要だったと考えられます。ただし、各集落で何をどれほど食べたかは、動植物の遺存体などによる裏付けが必要です。

縄文時代の春日井の暮らしを具体的に描いた図解画像。中央には川辺の近くに建つ竪穴住居があり、住居の中では人が炉の火にかけた深鉢土器で煮炊きをしている。周囲では、川で魚をとる人、森でシカ猟をする人、木の実や山菜を採集する人、石器を使って作業する人が描かれ、川と森林の資源を利用した生活が表現されている。右下には庄名町出土の縄文時代後期の深鉢の拡大図があり、内側の焦げ付きと外側の火にかけられた痕跡が示されている。さらに、神領絲田遺跡・大留六反田遺跡・松河戸遺跡・勝川・町田・篠木など、春日井市内の縄文時代の主な遺跡や出土地点を示す地図も添えられている。全体として、「川辺に暮らし、土器で煮炊きをする」縄文時代の生活像を一目で伝える構成。

3.弥生時代前期――松河戸で、新しい農耕文化を受け入れる

春日井の初期の稲作社会を考えるうえで、中心となるのが松河戸遺跡です。

松河戸の安賀地区では、弥生時代前期の環濠集落が確認されています。環濠集落とは、周囲を濠で区画した集落です。ここでは自然の流路も利用しており、人工の濠と川を組み合わせた構造になっていました。

注目すべき出土品は、二つの系統の土器です。

土器歴史を考える手掛かり
遠賀川系土器西日本から広がった初期弥生文化との関係
条痕文系土器縄文以来の地域的な土器文化の継続

新しい文化が入っても、それまでの文化が一度に消えたわけではありません。松河戸の資料は、地域に根付いた暮らしと、外から伝わる技術・文化が重なった過程を示しています。ただし、土器の違いだけで、使った人々の出自や移住人数を決めることはできません。

環濠からは、小さな土製の人形も出土しています。農業や道具の変化とともに、祈りや儀礼の変化を考える資料でもあります。第54号「土製人形―松河戸遺跡安賀地区出土」

稲作の定着には、耕作だけでなく、水の調整、収穫物の保管、農具の製作などが必要です。これによって、土地と水を継続して利用する関係や、人々の共同作業のあり方も変わっていったと考えられます。

なお、松河戸で見つかった水田遺構を、すべて弥生時代のものと考えてはいけません。発掘された水田には中世のものもあり、集落や土器の年代と、水田そのものの年代は別々に確認する必要があります。全国文化財総覧「松河戸遺跡」

弥生時代前期の松河戸遺跡(安賀地区)を図解した横長のインフォグラフィック。中央には、人工の濠と自然の流路に囲まれた環濠集落が描かれ、内部には竪穴建物、作業小屋、高床倉庫があり、人々が稲作、収穫、作業を行っている。左側には「二つの系統の土器」として、遠賀川系土器と条痕文系土器が並び、西日本から広がった初期弥生文化と縄文以来の地域文化の継続を示している。右側には土製人形が描かれ、祈りや儀礼の変化を考える手掛かりとして紹介されている。中央下には「地域に根付いた暮らし × 外から伝わる技術・文化」という大きなまとめが置かれ、下段には耕作、水の調整、収穫物の保管、農具の製作、共同作業の広がりという流れが図示されている。右下には、松河戸で見つかった水田遺構には中世のものも含まれるため、集落・土器と水田の年代は別々に確認する必要がある、という注意書きがある。

4.弥生時代中期以降――勝川に集落と生産の場が展開する

弥生時代中期には、勝川遺跡に環濠集落が成立します。

発掘成果からは、段丘上に住まいや墓地を置き、その下の低地を生産の場として利用した構成が想定されています。地形のわずかな違いを使い分けていたのです。

また、旧地蔵川沿いでは、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての木製品加工場と考えられる建物群が見つかっています。鍬・鋤などの農具、弓、容器のほか、加工途中の材料も出土しました。勝川には、食料を生産するだけでなく、暮らしや農業を支える道具をつくる活動がありました。春日井市遺跡解説パンフレット「勝川遺跡・勝川廃寺」

環濠は集落のまとまりを示す重要な施設ですが、その存在だけから「絶えず戦争をしていた」とはいえません。防御のほか、境界や排水などの役割も含め、濠の構造や出土状況に即して考える必要があります。

弥生時代中期以降の勝川の景観を図解した横長のイラスト。中央右には、環濠に囲まれた高まりの上の集落があり、竪穴住居が並び、人々が集落内で生活している。集落の周囲には濠がめぐり、「防御だけでなく、境界や排水の役割もあった」と説明されている。右上には、段丘上のやや高い場所に設けられた墓地の小さな挿絵がある。左側から中央下にかけては低地が広がり、水田で人々が稲作をしており、「低地の生産の場」として示されている。左下には旧地蔵川が流れ、小舟や川辺の作業風景も見える。中央下から右下には木製品加工場が描かれ、屋根付きの建物群の中で人々が木材を削り、農具や道具を製作している。右下には、出土した木製品の例として、鍬、鋤、弓、容器、加工途中の木材が並んでいる。全体として、勝川では段丘上に住居と墓地、低地に農業生産の場、川沿いに木製品加工場が展開していたことを、地形との関係を含めて視覚的に説明する構成になっている。

5.古墳時代前期――複数の集落をまとめる首長が現れる

古墳時代になると、大規模な墓を築ける有力者の存在が、はっきり見えてきます。

春日井の前期古墳としては、次のようなものが挙げられます。

古墳形・規模の目安
高御堂古墳前方後方墳、墳長約63メートル
天王山古墳円墳、直径約34メートル
篠木第2号墳円墳、直径約41メートル
出川大塚古墳円墳、直径約45メートル

これらは、市の解説資料で4世紀代の首長墓として整理されています。春日井市遺跡解説パンフレット「春日井の終末期古墳」

大きな古墳を築くには、土を運び、形を整え、埋葬施設をつくる労働力が必要です。その間も人々の食生活や農業を維持しなければなりません。

そのため古墳は、被葬者の富だけでなく、人・資材・食料を集める組織力や、複数の集落との関係を考える証拠になります。

ただし、古墳の大きさから、支配領域の境界や政治制度まで正確に復元できるわけではありません。現在の市域全体が、最初から一人の首長に統一されていたとするのも早計です。

古墳時代前期の春日井を説明する図解画像。中央には、大きな前方後方墳を築く工事の様子が描かれ、複数の集落から集まった人々が土を運び、墳丘の形を整え、埋葬施設をつくっている。周囲には集落や川、水辺、農地が広がり、別の人々が農業や食生活を維持している様子も示されている。右側には「高御堂古墳」「天王山古墳」「篠木第2号墳」「出川大塚古墳」の形と規模を示す一覧があり、下部には「古墳は被葬者の富だけでなく、人・資材・食料を集める組織力や複数の集落との関係を考える手がかりになる」とまとめられている。さらに、古墳の大きさだけで支配領域や政治制度を正確に復元することはできず、春日井市域全体が最初から一人の首長に統一されていたと断定できない、という注意書きも添えられている。

6.5~6世紀――味美古墳群に表れる有力勢力

春日井の古墳文化を代表するのが、味美古墳群です。

二子山古墳、白山神社古墳、春日山古墳、御旅所古墳が現存し、その中でも二子山古墳は、6世紀前葉の築造と推定される、墳長94メートルの前方後円墳です。

二子山古墳の調査では、人物・馬・家・盾など、多様な形象埴輪が見つかっています。これらは墓の周囲で儀礼の場面を表していたと考えられ、当時の権威や祭祀を知る手掛かりです。

古墳の形や埴輪のあり方から、畿内の有力勢力や尾張氏との関係も論じられています。しかし、誰の墓かを直接示す資料はなく、特定の人物名を被葬者として断定することはできません。春日井市遺跡解説パンフレット「国指定史跡 二子山古墳」

ここで重要なのは、当時の春日井が地域内だけで完結していなかったことです。古墳の築き方や儀礼の形式を共有することは、遠方の政治勢力や技術者との関係を考える材料になります。

5~6世紀の春日井・味美古墳群を解説した図解。中央に6世紀前葉、墳長約94メートルの前方後円墳・二子山古墳を大きく描き、周囲で行われる儀礼の様子を表現。人物・馬・家・盾の形象埴輪を並べ、当時の有力者の権威や祭祀を示す資料であることを説明している。左側には二子山古墳、白山神社古墳、春日山古墳、御旅所古墳の4基を紹介し、右側では畿内の有力勢力や尾張氏との関係が論じられる一方、被葬者を特定する直接資料はなく、特定人物と断定できないことを強調している。

7.古墳を支えた生産――下原では須恵器と埴輪を焼いた

古墳の歴史を、墓を造らせた有力者だけから見ると、生産を担った人々が見えにくくなります。

東山町の下原古窯跡群では、須恵器とともに埴輪が焼かれていました。『郷土誌』第46号は、出土品や胎土分析などから、二子山古墳との供給関係を説明しています。

また、下原から生路川・八田川沿いに二子山古墳方面へ至る地理的関係から、埴輪の運搬に水路を利用した可能性も指摘されています。これは有力な見方ですが、具体的な運搬方法まで確定したわけではありません。第46号「ふれあい緑道のハニワ道」

この関係からは、古墳の築造が、粘土の調達、成形、焼成、燃料の確保、運搬までを含む仕事だったことが分かります。春日井の古墳時代には、農業に加えて、専門的な技術と労働の組み合わせがありました。

古墳づくりを支えた生産の流れを一枚で示した図解。左側では「1 粘土の調達」「2 成形」「3 焼成」の各工程が描かれ、作業者たちが台地や川沿いで粘土を採り、須恵器や人物・動物形の埴輪を作り、登り窯で焼いている。下部には「4 燃料の確保」として木を切り出す様子もある。中央には「下原古窯跡群(東山町)」の窯場が描かれ、右側へ向かって生路川・八田川の水路に沿って船で製品を運ぶ大きな矢印が伸びる。右上には運搬先として「二子山古墳(味美古墳群)」が描かれ、右下には「下原で焼かれた主な製品」として須恵器と埴輪の例が並ぶ。全体として、粘土の採取から成形・焼成・燃料確保・運搬まで、多くの人の技術と労働が古墳の築造を支えていたことを示している。

8.6世紀末~7世紀――横穴式石室と、地域に広がる墓

後の時期には、横穴式石室を持つ比較的小さな古墳が各地に築かれます。

横穴式石室は、横から通路を通って入る構造を持ち、同じ石室に後から別の死者を葬ることができます。墓の使用方法に、重要な変化が起きたのです。

春日井では、6世紀末葉から7世紀中葉にかけてのこうした古墳が、庄内川流域や段丘の縁などに分布します。大きな首長墓だけでは見えなかった、各地域の有力者や集団の存在を考える材料になります。春日井市遺跡解説パンフレット「春日井の終末期古墳」

ただし、小さな古墳が増えたことを、そのまま「誰もが古墳に葬られる社会になった」と解釈することはできません。墓を築ける人々と、それ以外の人々との違いも考える必要があります。

「6世紀末~7世紀――横穴式石室と、地域に広がる墓」という題名の図解。中央に、横から通路(羨道)を通って入る横穴式石室の断面図があり、奥の玄室に遺体を葬る構造や、同じ石室に後から別の死者を葬れることが示されている。左側では、前の時代の大きな首長墓から、各地に比較的小さな古墳が広がる変化を対比している。右側には、庄内川流域や段丘の縁に小古墳が分布する春日井での分布イメージ図が描かれている。下部には、①墓の構造、②墓の使い方の変化、③小古墳が増えても誰もが葬られたとは限らないという注意点、の3つのポイントが整理されている。

9.飛鳥・奈良時代――春日部が地方行政の単位になる

7世紀後半から8世紀には、地方の人々や土地を、国家の制度の中で把握する仕組みが整います。

春日井に関係する重要な文字資料が、藤原宮跡で出土した、**「春部評」**と記す木簡です。「評」は、後の「郡」に先立つ地方行政の単位です。春部という地域名が、都で使われる行政資料に現れている点が重要です。

後世の『和名類聚抄』には、春部郡に属する郷として、池田・柏井・安食・山村・高苑・餘戸が記されています。ただし、各郷の成立時期や位置には検討すべき点があり、現在の町名と単純に対応させることはできません。第3号「春日部の起原」

律令国家の一般的な制度では、戸籍などで人々を把握し、土地や税、労役を管理しました。地域の暮らしが、地方の有力者との関係だけでなく、都を頂点とする行政の仕組みに組み込まれていったのです。

なお、「春日部」という名称の由来を、王族に関係する奉仕集団と結び付ける説があります。しかし、誰に関係する集団が、いつ置かれたかまで確定しているわけではありません。

飛鳥・奈良時代の地方行政を説明する図解。中央には役所風の建物で木簡や帳簿を扱う官人たちが描かれ、手前では人々が稲や布などを納めている。左には「春部評」と大きく記した木簡が立ち、藤原宮跡から出土した文字資料として示されている。右上には『和名類聚抄』に見える春部郡の郷として「池田・柏井・安食・山村・高苑・餘戸」が掲げられ、現在の町名と単純には対応しない注意書きもある。右下には「春日部」の由来について、王族に関係する奉仕集団と結び付ける説があるが未確定と説明。下段では「①戸籍で人を把握」「②土地を管理」「③税を集める」「④労役を課す」という流れを絵入りで示し、地域の暮らしが都を頂点とする行政の仕組みに組み込まれていくことを表現している。

10.勝川廃寺――仏教と文字のある地域拠点へ

勝川では、7世紀後半以降に古代寺院の造営が進みました。現在「勝川廃寺」と呼ばれる寺院跡です。

区画溝から、東西約227メートル・南北約148メートルの寺域が想定されています。ただし、塔や金堂の配置は分かっていません。瓦や文字資料などから、9世紀後半ごろまでの活動が推定されています。

また、旧地蔵川から出土した木製人形・舟形などは、水辺で行われた祓いの儀礼に関係すると考えられます。荷札木簡を転用したとみられる資料は、付近に郡の役所が存在した可能性を考える手掛かりですが、役所の場所が確定したわけではありません。春日井市遺跡解説パンフレット「勝川遺跡・勝川廃寺」

寺の造営を支える生産拠点としては、高蔵寺瓦窯が重要です。出土瓦の比較から、勝川廃寺への供給関係が考えられています。高蔵寺と勝川は、現在の市域の東西にある別々の地域ですが、古代には寺院建設を支える技術と資材の関係で結ばれていたのです。第22号「春日井市内の瓦窯跡について」

古代の勝川廃寺をテーマにした横長の図解画像。中央には、7世紀後半以降に造営が進む古代寺院のイメージとして、瓦屋根の寺院建物、塔、工事や資材運搬を行う人々、僧侶や役人風の人物が描かれている。左下には旧地蔵川の水辺で、木製人形や舟形の祭具を用いた祓いの儀礼の場面、右上には木簡や文書を扱う人物とともに文字資料・郡役所の可能性を示す場面、右下には高蔵寺瓦窯で職人たちが瓦を成形・焼成する場面が描かれ、寺院へ瓦を供給する矢印が付されている。下部には「寺院→文字→祓い→瓦の生産」という流れと、「勝川は、仏教・文字・生産・地域運営が重なる古代の拠点だった」というまとめ文が配置されている。

11.寺院の周りに暮らした人々――奈良時代の日常生活

勝川廃寺の歴史は、寺院建築だけではありません。

寺の北東側の調査では、7世紀後半から8世紀後半にかけての竪穴住居が確認されています。住居からは、煮炊きに使う土師器の甕、食器として使う須恵器の坏や皿、カマドの中で甕を支える石などが出土しました。

住居は重なり合っており、同じ付近で何世代にもわたって生活が続いたことが分かります。調査担当者は、寺院に関係する居住域であった可能性を指摘しています。春日井市「勝川遺跡発掘調査」

この発見は、古代の春日井を具体的に想像するうえで重要です。寺の瓦屋根が見える場所に、日々火を起こし、食事をつくり、器を使い、家を建て替えて暮らす人々がいました。寺院や行政を維持したのは、こうした生活を営む人々でもあったのです。

勝川廃寺の北東側で確認された奈良時代の生活跡を、発掘成果と復元イメージで示した図解。7世紀後半から8世紀後半にかけての竪穴住居が何度も建て替えられ、人々が長期間暮らしていた様子を描く。住居内ではカマドで土師器の甕を使って煮炊きし、須恵器の坏や皿で食事をする生活を再現。石製支脚、土坑、溝などの発掘成果や、寺院との位置関係も示し、勝川廃寺の周辺に寺院を支えた人々の居住域が存在した可能性を表現している。

12.平安時代――土地の支配が荘園へつながっていく

平安時代になると、後の春日井の村々につながる土地支配が見えてきます。

その一つが安食荘です。現在の名古屋市北区を中心に、春日井の勝川・味美方面に及んだとされる荘園で、9世紀末に成立し、10世紀初めに京都の醍醐寺領になったと説明されています。第73号「醍醐寺領尾張国安食荘絵図」

醍醐寺蔵 醍醐寺領尾張国安食荘絵図

春日井市域の唯一の荘園絵図であり、かつ、それが国宝に指定されています。

醍醐寺蔵 醍醐寺領尾張国安食荘絵図の画像
https://www.city.kasugai.lg.jp/bunka/bunkazai/1023948/kyodoshikasugai/1004412/1004416.htm から

ここから、春日井周辺の農地が、京都の寺院など遠方の権利主体とも結び付いていったことが分かります。ただし、安食荘の詳しい姿を伝える帳簿や絵図には中世のものが多く、それを成立当初の姿としてそのまま描くことはできません。

原始・古代の変化を身近な場所に引き付けるなら、梅ヶ坪では石器を使った人々、神領・大留では縄文の住まい、松河戸では初期の農耕集落、味美では有力者の古墳、東山では埴輪の生産、高蔵寺では瓦づくり、勝川では集落と寺院の歴史が重なっています。それぞれの地域が異なる役割を担い、川や人の往来を通して結び付いていたところに、古代春日井の具体的な姿があります。

平安時代の土地支配が荘園へつながる流れを説明した図解。中央に「安食荘」の大きな枠があり、現在の名古屋市北区を中心に春日井の勝川・味美方面にも及んだ荘園で、9世紀末に成立し10世紀初めに京都の醍醐寺領になったことが示されている。枠内には「醍醐寺蔵 醍醐寺領尾張国安食荘絵図」の画像が配置され、「春日井市域の唯一の荘園絵図で、国宝に指定」と説明が付く。右側には、京都の醍醐寺から現地の管理者、さらに農民たちへと矢印でつながる「荘園の仕組み(イメージ)」があり、土地の権利、年貢の徴収、荘園の管理、年貢・労役、農地の管理といった役割分担が整理されている。左側には、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代などの小さな場面が縦に並び、梅ヶ坪の石器、神領・大留の縄文の暮らし、松河戸の農耕集落、味美の古墳、東山の埴輪生産、高蔵寺の瓦づくり、勝川の集落と寺院の歴史が描かれている。下部には田園風景が広がり、「春日井のそれぞれの地域が異なる役割を担い、川や人の往来を通して結び付いていた」とまとめられている。右下には「安食荘の詳しい姿を伝える帳簿や絵図には中世のものが多く、それを成立当初の姿としてそのまま描くことはできない」とする留意点も記されている。

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