春日井市を地形と環境から、歴史を紐解く

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春日井市の地形と環境から歴史を読み解くことをテーマにしたアイキャッチ画像。上部に、添付の手書き文字を参考にした力強い筆文字で「春日井市を地形と環境から、歴史を紐解く」と大きく表示している。中央には「山・川・段丘・丘陵から見える、春日井の時間の重なり」という副題。背景には、右側の山地・丘陵から左側の市街地・低地へ続く春日井の景観を描き、庄内川が流れる様子を表現している。画面下部では地面を断面化し、礫・砂・粘土などが積み重なった地層を見せることで、現在の春日井のまちが長い地質の歴史の上に成り立っていることを示している。全体は水彩画調で、青空、緑の山並み、川、市街地、地層を組み合わせた構成。

春日井市の歴史というと、古墳や城、街道、尾張藩、高蔵寺ニュータウンなど、それぞれの時代の出来事から語られることが多いと思います。

しかし、もっと長い時間の流れから春日井を眺めてみると、別の歴史が見えてきます。

それが、地形と環境から見た春日井の歴史です。

春日井は、一見すると比較的平坦な都市に見えます。

ところが実際には、市域の東側には山地や丘陵があり、中央部から西側には段丘が広がり、その間を庄内川やその支流が流れ、川沿いには低地が形成されています。

つまり、春日井は決して一様な土地ではありません。

山、丘陵、段丘、低地、河川。

それぞれ異なる自然条件を持つ土地が、一つの市域の中に存在しています。

そして人々は、その地形に合わせて暮らしてきました。

水を得やすい場所には集落をつくり、洪水を避けるために少し高い土地を選び、水の乏しい台地には用水を引き、山から薪や肥料を取り、地下から亜炭を掘り、そして戦後には丘陵そのものを造成して巨大な住宅都市をつくりました。

そう考えると、春日井の歴史とは、

自然によってつくられた土地の上で、人々が暮らし、その自然条件を利用し、ときには作り替えてきた歴史

だったとも言えます。

地形は単なる「歴史の舞台」ではありません。

春日井の歴史そのものを方向づけてきた、大きな条件だったのです。


目次

春日井は「一つの平野」ではない

最初に、現在の春日井市の地形を大きく分けてみます。

おおまかには、

  • 東部の山地
  • 高蔵寺・坂下方面などの丘陵
  • 中央部から西部に広がる段丘
  • 庄内川やその支流沿いの低地

という構造を見ることができます。

この違いは、単に「高いところ」と「低いところ」の違いではありません。

土地がどのように形成されたのか、水をどのように得られるのか、農業に適しているのか、洪水の危険はどうなのかといった条件まで異なります。

たとえば、段丘は比較的平坦です。

住宅や畑をつくるには都合がいい。

しかし、川より高い場所にあるため、水田農業を行おうとすると水の確保が問題になります。

反対に川沿いの低地では、水を得ることは比較的容易です。

その一方で、洪水や排水という問題を抱えます。

つまり、

高い土地には「水が足りない」という問題があり、低い土地には「水が多すぎる」という問題がある。

春日井の歴史を地形から眺めると、人々がこの二つの問題と長い間向き合ってきたことが分かります。

春日井市の地形を「東部の山地・丘陵・中央部から西部の段丘・庄内川や支流沿いの低地」に分けて解説した縦長のインフォグラフィック。上部には「春日井は『一つの平野』ではない」と大きく表示され、左側の地図では春日井市内を色分けし、東部の山地を緑、高蔵寺・坂下方面などの丘陵を橙、中央部から西部の段丘を黄、庄内川やその支流沿いの低地を青で示している。右側には春日井を東西に横断した模式断面図があり、東側の標高の高い山地から丘陵、段丘、庄内川沿いの低地へと高さが下がる地形の違いを描いている。中央部では、それぞれの地形について、土地の成り立ち、水の得やすさ、農業や居住への向き不向き、主な課題を比較。低地は水を得やすく水田に向く一方で洪水や排水が問題、段丘は平坦で住宅や畑に適するが川より高いため水田用水の確保が課題、丘陵は谷の農地や後世の住宅開発に利用され、東部山地は森林や資源利用が中心で急傾斜が制約になることを示している。下段では、「高い土地には水が足りない」「低い土地には水が多すぎる」という対比を大きく表示し、段丘・丘陵側では用水整備が必要だったこと、低地側では洪水や排水への対応が必要だったことを図解。最下部では、微高地や自然堤防への古代集落、用水による段丘・台地の開発、低地の水田と治水、丘陵地の大規模造成や住宅開発という歴史の流れを並べ、春日井の歴史が異なる地形条件の上で、人々が水と向き合いながら暮らしてきた歴史であることをまとめている。

数百万年前の「東海湖」が、現在の春日井の地下に残っている


もちろん、人間が春日井に暮らし始めるよりはるか以前から、この土地の歴史は始まっています。

春日井東部の山地には、砂岩、頁岩、チャートなどの岩石が分布しています。

その西側の丘陵には、砂、礫、粘土などからなる地層が広がっています。

この丘陵の形成を考えるうえで重要なのが、数百万年前に東海地方に存在していた巨大な湖、一般に「東海湖」と呼ばれる湖沼群です。

湖やその周辺を流れる河川によって運ばれた砂や泥、礫などが長い時間をかけて堆積し、「瀬戸層群」と呼ばれる地層が形成されました。

春日井では、高蔵寺ニュータウン周辺から坂下方面などで、その地層を見ることができます。

つまり現在、多くの住宅が並んでいる高蔵寺周辺の丘陵の地下には、

数百万年前の湖や川が残した地層が存在している

わけです。

ただし、「昔の春日井市全域が一度に巨大な湖の底だった」と考えるのは正確ではありません。

湖の位置や広がりは時代によって変化しています。

重要なのは、現在の春日井の地形そのものが、人間の歴史とは比較にならないほど長い地球の歴史の上につくられているということです。

参考:『郷土誌かすがい』第8号「春日井の地質」

「数百万年前の『東海湖』が、現在の春日井の地下に残っている」というタイトルの縦長インフォグラフィック。上部では、現在の春日井市を西から東へ見た模式断面図を示し、西部の段丘・低地、中央の丘陵、高蔵寺ニュータウン周辺、そして東部山地を比較している。丘陵の地下には「瀬戸層群」と表示された地層断面が描かれ、湖や川が運んだ砂・泥・礫が積み重なってできたことが示されている。中央では、約500万年前から200万年前にかけて存在した大きな湖沼群「東海湖」を大きな湖の景観図で説明し、周辺の山地から河川が流れ込み、砂・泥・礫が湖底に堆積していく様子を矢印で表現している。右側には湖底の堆積断面図があり、上から粘土層、砂層、礫層が長い時間をかけて積み重なる様子が示されている。下部では、東海湖時代の堆積物が現在の高蔵寺ニュータウン周辺や坂下方面の丘陵地下に「瀬戸層群」として残っていることを、現代の住宅地と地下断面を組み合わせて説明している。さらに「ここは注意」の欄では、春日井市全域が同時に一つの巨大な湖の底だったわけではなく、湖の位置や広がりは時代によって変化したこと、重要なのは現在の春日井の地形が非常に長い地球の歴史の上に成り立っているという点だと整理している。最下部のまとめでは、春日井の東部山地・丘陵・段丘はそれぞれ異なる地質と成り立ちを持つこと、高蔵寺周辺の丘陵には東海湖時代の堆積物からなる瀬戸層群が分布すること、そして現在の地形の下には人間の歴史よりはるかに長い地球の歴史が残っていることを、3点に分けて示している。

『郷土誌かすがい』第8号「春日井の地質」

春日井の地質 地史と地下資源

大橋博 名古屋地学会会員

地質の違いは、そのまま地形によく表われている。本市東部の標高300メートルから400メートルの山地(尾張丘陵)は、中・古生代の砂岩、頁(けつ)岩、チャートからなる。その西側の標高100メートルから200メートルの丘陵(高蔵寺ニュータウンから西尾町、坂下町付近)一帯は鮮新世の礫(れき)、砂、粘土の層が分布している。そして、標高100メートル以下の大泉寺町以西の市域のほとんどは、洪積世の段丘面であり、砂、礫の互層である。

本市の地下資源といっても、現在採取されているものはほとんどなく、砕石程度である。しかし、亜炭、マンガン鉱、軟硅石、粘土、磨砂などが盛んに採掘されていた時代もあった。それらの資源が生成された様子と稼行(かこう)の状況を、地史と合わせて記す。

結晶質石灰岩の露頭

〈海底の時代〉
今からおよそ2億数千万年前(古生代末から中生代初)日本列島のほとんどは、静かな暖かい海であった。その当時の海底に堆積した砂、泥が現在内津町、外之原町で盛んに砕石として採取されている砂岩、頁岩、チャートなどである。この地層中に結晶質石灰岩(大理石)が挟(はさ)まれているところがある。また、外之原町では礫岩の存在も確認されている。

マンガン鉱床

今から7千数百万年前、この地域では地下よりマグマの貫入があり、黒雲母花崗岩ができた。廻間町の築水池付近に産出する。また、内津町で閃(せん)緑岩を確認しているが、その産状ははっきりしない。このマグマの貫入により、前記の古生層は熱変成を受けており、軟硅石化している部分が各所に見られる。また、マンガン鉱床も各所に生成された。軟硅石は玉野町、高蔵寺町などで採掘、粉砕されて、耐火レンガ、耐火モルタル、セメントなどの原料として出荷されていた。また、マンガン鉱(酸化マンガン鉱)も西尾町で昭和17年から昭和27年頃まで採掘されていた。品位は二酸化マンガン70パーセント前後で、年間60トン程度の産出であった。
今から1400万年前(新生代、第3紀、中新世)にも海が入り込み(第1瀬戸内期)右図のような状態になったと考えられている。このことは岐阜県の瑞浪市付近で多く産する海棲動物の化石によって広く知られている。本市のあたりは当然海底であったであろう。

第1瀬戸内期

〈東海湖の時代〉
今から500万年ほど前から200万年ほど前までは、このあたりは大きな湖であった。
この湖は「東海湖」と名づけられている。現在の伊勢湾の太平洋側がとざされたような状態の湖である。南は知多半島、東は豊田市、岡崎市、北は春日井市、小牧市、西は鈴鹿山脈の東麓にいたる地域である。この湖のまわりの陸地から泥、砂、礫が流入し、湖底にそれらを堆積した。この湖に堆積した地層をこの地域では「瀬戸層群」とよんでいる。この瀬戸層群の下部を「瀬戸陶土層」といい、上部を「矢田川累層」としている。本市付近では、矢田川累層の「尾張夾炭層」といわれる部分が分布している。この地層は高蔵寺ニュータウン一帯から坂下町にかけては地表に露出しているが、本市全域にわたって地下に分布している。この地層は主に礫岩と砂岩、粘土層の互層で、亜炭層、火山灰層を挟む。
亜炭は当時の陸地に繁っていたメタセコイア、フウ、シマモミ、イヌカラマツ、ヌマミスギ、カリヤクルミといった木々が洪水などによって流されてきて湖底に沈んで堆積したのであろう。亜炭は石炭ほど炭化されていない埋木であり、この地方では、「井屑(いくず)」「岩木(いわき)」「川木(かわき)」などと呼ばれて、古くから燃料として利用されていた。
これらの亜炭層は場所により層の厚さ、層の数に変化がある。多いところでは10枚もの層がみられる。矢田川累層全体が南西に2から3度の傾斜をしているので、東部の丘陵地では地表近くでも炭層が見られる。大留町付近では地表から12メートルほどのところに95センチメートル亜炭層がある。鳥居松町1丁目付近(標高21メートル)では地下30メートル付近と、152メートル、184メートル付近に埋木が確認されている。(ボーリング資料)
亜炭鉱として稼行されていたのは、高蔵寺町、松本町、大泉寺町、出川町、東山町で、最盛期の昭和23年ごろには、月産5,500トンも産出し、燃料として利用されていたが、昭和38年頃にはほとんどの鉱山が閉山された。
小牧市の大草町でも亜炭が採掘されていたが、同じ尾張夾炭層のものである。ところが岐阜県の瑞浪市や可児郡の御嵩町で産出されていた亜炭は、東海湖時代より古い時代に(1,600万年前)それらの地域が湖であった当時に堆積したものである。
大泉寺町、東山町の潮見坂平和公園付近の地下に火山灰層がみられる。これは白色の磨砂質であり、直径1センチメートルから3センチメートルの軽石を多く含む部分がある。なかには、25センチメートルもの亜円礫がある。層の厚さも場所により異なり、2メートル~4メートルで粘土層に移行することが多い。東海湖時代に、どこかに火山活動があり多くの火山灰、軽石を噴出し、それらが流されてきて堆積したのであろう。
この磨砂も古くから米つき用、洗剤用として採掘、出荷されていた。最盛期の昭和28年頃で年間1,500トン程度産出されていた。
明知町では蛙目(がえろめ)粘土の採掘がおこなわれていた。地表から12メートルから17メートルのところに粘土層があり、露天掘で昭和53年まで採取されていた。この粘土は花崗岩が風化して流されてきて堆積したものと思われる。石英の粒を多く含むので、水洗いで粘土と石英粒を選別して出荷していた。

火山灰層
地図

〈氷河の時代〉
今から200万年前から1万年前までを洪積世、1万年以降を沖積世という。
洪積世の時代は氷河期と間氷期が繰り返され、海水面の低下(海退)と海水面の上昇(海進)が繰り返された。特に濃尾平野の地域では、東部が上昇し、西部が沈降するという傾動運動が進んでいった時代である。そのためこの地域では、水面がいっそう低下し、東北部より多量の砂礫の供給を受けることとなった。現在の出川町以西の地域に分布する段丘の砂礫は、古庄内川、古木曽川によって運ばれてきたものであろう。現在の河川は堤防によって流路が決められているが、当時の河川は堤防もなく、流路を自由に変え、広大な氾濫原をもって流れていたことであろう。
今から10万年ほど前の間氷期に海水面が上昇し、この付近まで海進があった。現在の田楽町の付近に分布する砂礫が堆積した時代である。この地層を田楽層(名古屋市の熱田層に相当する)といっている。名古屋市の中心街をのせている標高10メートルから20メートルの平坦な台地の部分はこの層に相当すると考えられている。この砂層中に軽石の円礫(0.5ミリメートルから1センチメートル)が含まれている。この軽石は御岳火山(約3万5千年前)のものと考えられている。
氷期が深まり海退が進むと河床面が低下する。それが繰り返され小牧面(浅山町、六軒屋町、牛山町の面)、鳥居松面(篠木町、鳥居松町、柏井町、勝川町の面)春日井面(王子町、上条町の面)が形成されていった。
氷河最盛期には、海水面が現在より100メートルから140メートルも低下したといわれている。
その後約1万年前より後氷期に入り、海面の上昇が始まった。今から約6000年前、海水面が現在より5メートル上昇した時期がある。これを「縄文海進」といっている。その後海退が進み現在の地形となった。

郷土誌かすがい 第8号|春日井市公式ホームページ から
春日井市の地質・地史・地下資源をまとめた縦長のインフォグラフィック。上部では、西部から東部へ向かう地形断面を示し、西部~中央部の標高100メートル以下の段丘、標高100~200メートルの丘陵、標高300~400メートルの東部山地を比較している。中央では、春日井の地史を「約2億数千万年前の海底の時代」「約1400万年前の第1瀬戸内期」「約500万~200万年前の東海湖の時代」「約200万年前以降の氷河時代から現在」へと時系列で図解。海底に堆積した砂岩・頁岩・チャート、マグマ貫入による熱変成やマンガン鉱床、東海湖に堆積した瀬戸層群・尾張夾炭層、亜炭や火山灰層、古庄内川・古木曽川による段丘形成などをイラストと地層断面で示している。下部には、春日井でかつて採掘された亜炭、マンガン鉱、軟硅石、磨砂、蛙目粘土を並べ、燃料、製鋼・化学工業、耐火材、米つき・洗剤、陶磁器原料などの用途を紹介している。全体として、春日井の現在の地形と地下資源が、長い海・湖・河川の歴史によって形成されたことを視覚的に説明した図。

川がつくった段丘と低地

もう一つ、春日井の地形を理解するために重要なのが庄内川です。

川は単に現在の川筋を流れているだけではありません。

長い時間の中で流路を変え、土砂を運び、土地を削り、また新しい土地をつくってきました。

その結果として形成されたものの一つが「段丘」です。

段丘とは、かつて川底や氾濫原だった土地が、川がさらに深く土地を削ることで、周囲より一段高い平坦な場所として残った地形です。

春日井の中央部から西部には、このような段丘が広がっています。

一方、現在の庄内川や支流の周辺には、川が運んだ土砂によって形成された低地があります。

しかし、この低地も完全に平らではありません。

洪水のときに川の近くへ土砂が堆積して周囲よりわずかに高くなる「自然堤防」や、かつて川が流れていた「旧河道」などが入り組んでいます。

現代の道路を車で通るだけでは気付きにくい数十センチから数メートルの高低差が、かつての人々にとっては非常に大きな意味を持っていました。

なぜなら、それが、

「洪水のときに水につかる場所なのか、つかりにくい場所なのか」

を左右したからです。

参考:『郷土誌かすがい』第63号「天王山古墳範囲確認調査」

古墳時代の春日井を背景に、庄内川がつくった地形を説明する縦長のインフォグラフィック。大きく蛇行する庄内川を中心に、左側には川が土地を深く削ってできた一段高い平坦地「段丘」があり、崖状の縁の上に竪穴住居風の集落や畑、作業する人々が描かれている。右側の川沿いには、洪水で土砂がたまって少し高くなった「自然堤防」があり、水辺に近いが水につかりにくい場所として集落が立地している。川の周囲には低地や湿地状の「氾濫原」が広がり、水鳥が見られる。右下には、かつて川が流れていた跡を示す池状の「旧河道」が描かれている。遠景には古墳時代を示す二子山古墳のイメージが見え、全体に古代の暮らしと地形の関係を示している。下部には3つの小図があり、①川の下刻(侵食)で谷が深くなること、②削られた土砂が下流へ運ばれて低地に堆積すること、③洪水時に水があふれて氾濫原に広がること、を順に説明している。最下部には「わずかな高低差が、洪水のときに水につかるかどうかを左右した」という要点が強調されている。

『郷土誌かすがい』第63号「天王山古墳範囲確認調査」

平成15年度発掘調査速報天王山古墳範囲確認調査

古墳の立地と環境
天王山古墳は、市域の南東部、大留町字西島に位置し、標高約32メートルの庄内川の自然堤防上に 立地しています。明治期の地籍図には竹薮として表記されており、現在、西島の集落内に竹薮に覆われた古墳を目にすることができます 。
古墳の墳頂には小さな御社が祀られていますが、天王信仰との結びつきはなく、「天王山」古墳の名称の由来は 定かではありません。地元では「おてんとうさん」「てんとやぶ」「てんどうつか」と呼ばれ、「天導藪」「天導塚」と 記されることもあり、これが変化したものとも考えられます 。

天王山古墳全景

周辺の遺跡
天王山古墳の周辺は、繁田川、内津川が庄内川に合流する地点であり、その支流と考えられる旧河道により複雑な地形が形成されており、自然堤防上に弥生時代後期を中心とする大留六反田遺跡、大留井高上遺跡が所在しています。また、天王山古墳の西約200メートルには6世紀前半の親王塚古墳(円墳・横穴式石室)があります。

調査の概要
天王山古墳は、平成9年に墳丘測量調査を実施した以外調査は行われておらず、その詳細は不明なままでした。春日井大留上土地区画整理事業に伴い、天王山古墳を含んだ公園整備が計画されていることから、基礎資料の収集を目的として、古墳の時期、墳丘の築造方法や周溝の有無等の確認調査を平成16年1月15日から2月25日まで実施し、調査の結果、以下のことが明らかとなりました。

調査区全景
  1. 墳丘規模・外部施設
    直径約28.5メートルの円墳で、古墳の中腹に幅80センチメートル以上の平坦面が見られることから2段築成と想定され、墳裾に幅1メートルの平坦面と幅3メートルの周溝をもつと考えられます。葺石は原位置を留めておらず、崩落した状況で検出されました。検出状況から墳丘全面ではなく、段築の1段目と2段目の斜面に帯状に葺いていた可能性があります。
  2. 築造方法
    大きく5段階に分けて構築したと考えられます。
    1しまりのある暗から黄褐色土を1.5メートルの高さまで四層に分けて台形状に積み上げ、
    2その上に砂礫土を1メートルほど盛り、中央部に窪みを設けます。
    3しまりのある黄茶褐色土を土堤状に盛り、
    4土堤上に砂礫土を積み上げ、
    5最上位に礫を含まない黄褐色土を二層に分け墳頂部を形成しています。
    版築を伴わない合理的な築造方法を用いており、流域の特徴とも考えられます。
  3. 時期
    出土遺物が非常に乏しく、墳丘中腹部の礫に混じって中世の山茶碗と赤彩を施した壺の口縁部と体部が出土しています。埴輪、須恵器を伴わないことから5世紀前半とも考えられますが、主体部の確認も含め、今回の調査では古墳の時期を特定できる資料は検出されませんでした。

まとめ
現段階では 、庄内川流域の自然堤防上にある前期から中期古墳の様相は不明な点が多く、後期の小円墳を除くと大留町の 西方に所在する高御堂古墳(墳長63メートル・前方後方墳)と三明神社古墳(直径20メートル・円墳)が 現存するのみです。三明神社古墳は横穴式石室との伝承もあり、天王山古墳は庄内川流域の 中型古墳としては欠くことのできない位置を占める古墳であると考えられます。今後の公園整備でも慎重に 調査を進め、さらなる検証をしていく必要があります 。(事務局)

郷土誌かすがい 第63号|春日井市公式ホームページ から
春日井市大留町字西島にある天王山古墳の発掘調査結果をまとめたインフォグラフィック。天王山古墳は標高約32メートルの庄内川自然堤防上に位置する直径約28.5メートルの円墳で、現在も竹薮に覆われ、墳頂には小さな御社が祀られている。周辺には繁田川・内津川・庄内川の合流域や旧河道があり、自然堤防上には弥生時代後期を中心とする大留六反田遺跡、大留井高上遺跡、西約200メートルには6世紀前半の親王塚古墳がある。調査では、墳丘中腹の幅80センチメートル以上の平坦面から2段築成の可能性、墳裾の幅約1メートルの平坦面、幅約3メートルの周溝、崩落した葺石が確認された。築造方法は、暗~黄褐色土を台形状に積む、砂礫土を盛る、黄茶褐色土を土堤状に積む、その上に砂礫土を盛る、最後に黄褐色土で墳頂を形成するという5段階で、版築を伴わない合理的な構造とされる。出土品は少なく、中世の山茶碗と赤彩された壺片などが確認されたが、埴輪や須恵器はなく、5世紀前半の可能性はあるものの築造時期は確定していない。庄内川流域の前期から中期の中型古墳を考えるうえで重要な遺跡であることを示した図。

古代の人々は「水の近くで、水につからない場所」を選んだ

この地形と人間の暮らしとの関係をよく示しているのが、大留周辺です。

大留にある天王山古墳は、庄内川によって形成された自然堤防上に築かれています。

その周辺には、弥生時代後期を中心とする大留六反田遺跡や大留井高上遺跡もあります。

これらも自然堤防上に位置しています。

ここから浮かび上がってくるのが、

「水に近いこと」と「水につからないこと」

という二つの条件です。

川に近ければ、水を利用できます。

魚などの水辺の資源も得られます。

移動にも川を利用できた可能性があります。

しかし、低すぎる土地では洪水の被害を受けます。

そこで、低地の中でもわずかに高くなった自然堤防は、人が生活するうえで都合のよい場所になり得ました。

もちろん、一つ一つの遺跡や古墳がそこに造られた理由を、地形だけで説明することはできません。

政治的、社会的、宗教的な意味も考える必要があります。

それでも、古代の人々が土地の微妙な高低差を利用しながら生活していたことは重要です。

現代では堤防や排水設備があるため忘れがちですが、かつて土地の高さそのものが、人の暮らしを左右する重要な条件だったのです。

古代の人々が「水の近くで、水につからない場所」を選んで暮らしたことを説明する縦長のインフォグラフィック。題名は「古代の人々は『水の近くで、水につからない場所』を選んだ」。大留周辺を例に、庄内川の低地と自然堤防の関係を図解している。上部では、庄内川が蛇行する大留周辺の鳥瞰図と、川・自然堤防・低地・旧河道を示した断面模式図を掲載し、自然堤防が洪水時に土砂がたまって周囲より少し高くなった地形であることを説明。中央左では「水に近いことの利点」として、水の利用、水辺の資源の利用、移動や交流のしやすさを挙げ、中央右では「低すぎる土地の問題」として、洪水による浸水、ぬかるみや排水の悪さ、安定した暮らしの難しさを示している。中央下では、大留周辺の模式地図に天王山古墳、大留六反田遺跡、大留井高上遺跡を示し、いずれも自然堤防上に立地すると説明。右側には、川辺で漁や水汲みをし、自然堤防上の集落で暮らす古代の人々の復元イメージが描かれ、低地は洪水時に浸水しやすいことも示されている。下部では、「古代の人々は平野の中のわずかな高低差を見分けていた」「自然堤防は水辺の利便性と洪水回避を両立しやすい」「遺跡や古墳の立地はその手がかりになる」「立地理由は地形だけでなく政治・社会・宗教の要素も考える必要がある」と4点に整理。最下部で「土地の高さそのものが、かつて人の暮らしを左右する重要な条件だった」とまとめている。

江戸時代、「水がない土地」に水を運んだ

そして近世になると、人間と地形との関係に大きな変化が起こります。

それまで人々は、基本的には水のある場所に合わせて農地を広げていました。

ところが次第に、

水そのものを人間の手で別の場所へ運ぶ

ようになります。

春日井の中央部から西部には、比較的平坦な台地が広がっています。

土地そのものは農地として利用できそうですが、水田をつくるには大きな問題がありました。

水です。

川沿いの低地とは違い、台地の上には十分な水源がありません。

そのため近世初期まで、未開発の土地が多く残っていました。

小さなため池をつくったり、谷底の低地を利用したりすることはできましたが、それだけでは大規模な水田開発には限界があります。

この条件を大きく変えたのが、入鹿用水や木津用水などの大規模な水利施設でした。

なかでも重要なのが、1664年に完成した新木津用水です。

新木津用水の整備によって、それまで水に恵まれなかった春日井原へ水を供給することが可能になり、新田開発が進みました。

庄内川沿いでも、高貝用水や上条用水など、地域の条件に応じた水利施設が利用されました。

ここで起こったことは、単なる農業技術の発達ではありません。

それまで、

「水がないから水田にできない」

と考えられていた土地に、

「水を運んでくれば水田にできる」

という新しい土地利用が始まったのです。

人間が地形の制約そのものを変え始めたと言ってもいいでしょう。

参考:『郷土誌かすがい』第14号「近世の村3 山林と用水」

『郷土誌かすがい』第14号「近世の村3 山林と用水」

近世の村3 山林と用水

安藤慶一郎  金城学院大学教授

近世の初期から中期にかけての山林に関する史料はほとんどないが、『寛文覚書』によって、その概況をうかがうことはできなくもない。当時、山林原野は、御林・松山・野方に区分されていたようである。御林は、外之原村の「御林山四十三町、御留山三カ所」をみるだけである。松山は、各村に分散して、合計308町5反余りが書きあげられている。松山の性格は複雑である。尾張藩の支配が濃厚な御留林、給人(家臣)の扣山などが主体で、その限りでは、地元農民の直接的に支配できる山でなかったことが知れる。百姓が肥料・秣・薪などを採取する山は主として入会山で、「篠木山」と称されていた。面積5,250町(東西75町、南北70町)の広大な場所で、篠木荘関係の33カ村が共同利用していた。
こうした区分・利用のあり方も、新田の形成と関連して、しだいに変化していったのは当然である。『尾張徇行記』によって、中期以後の山林の概況をみると、定納山273町、平山860町、御林369町の分布を知ることができる。
御林は、藩が植林などをして百姓の勝手な利用を認めなかった藩有林であるが、平山と定納山の性格を適確に表現することは難かしい。これをあきらかにする史料がとぼしいからである。村絵図や村方の史料によって判断すると、平山は藩有林に近い性格の山で、一般に、定納山よりも奥地に立地している。定納山は、村落に近いところにあって、いわば百姓の利用度の高い百姓支配の村山とみてよさそうである。
利用の面からみると、御林は藩が用材の確保を意図して、伐木はもちろん苅草も禁止していたのに対して、平山は下草税をとって藩が村に貸与したり、定納山の名義の変換したりして村方へ下げ渡したこともあったようである。
明治維新になって、御林方奉行を歴代にわたって勤めていた水野正保(水野村住、現瀬戸市水野)が愛知県令に差出した明治10年の「尾張国定納山原由御下問御答」(徳川林政史研究所蔵)に、定納山の性格を浮きぼりにした条項がある。参考のためにしるしておこう。

第5条 …官ノ取扱ハ一村ノ共有ニシテ、村方ニテハ一人一己ノ所有ニ請扣来リ候ナリ

第6条 …旧来ヨリ互ノ売買勝手次第ニ取リハカライ候ナリ

第7条 右原由ハ民地ナルモノニシテ田地同様ノモノナリ
要するに、この定納山は、「悉ク祖先伝来或ハ一村共有等全ク私有地ノ積相心得樹木伐採ハ勿論、地所開拓売買共勝手ニ致来」った民有地であったと考えてよいようである。
このように百姓が利用する山は、具体的には、村の裏山(雑木林など)で、生活にかかすことのできない肥料・飼料としての下草、燃料としての薪木を採集して暮しをたてていた。個人持ちの山もあったが、たいていは村の共有山(総山)で、1カ村もしくは数カ村が入会い、共同利用していたことが多かった。したがって、その利用の仕方には非常に厳格なものがあった。山の口明けの日取り、持込む道具などがきめられていたのが普通である。

内津村・西尾村山論一札

山の利用関係は、村落生活に当然影響をおよぼし、多くの制約を加えていた。藩有林である御林や平山などを村のうちに持っているところではことさらであった。そうした村では折にふれて連判状を差し出している。御林に茸が生える頃ともなれば、「別して、皮茸松茸はつ立て候節ハ、御林近辺の通り筋いっさい通り申す間敷き旨」が申渡され、そのつど連判書を提出していたほどである。
このような統制がつきまとったとはいえ、耕地のすくない村では、平山や定納山を開墾して、新しく田畑をつくることは認められていた。場合によっては、落葉や下草の採取も許されていた。2、3男が分家をする場合、適当な屋敷地がないときには、定納山などをきり開いて家を構える例もすくなからずあった。
生活の手段として重要であった山であるから、山境いをめぐる争いも少なくなかった。境い口論は「山論」といわれ、中期以降になると頻発している。現存している史料としては、明暦年間ないし寛文年間(1655年~1680年)の内津村と美濃国可児郡大原村との山論が古く、ついで正徳元年(1711年)の西尾村と内津村との志水山をめぐっての出入り、享保6年(1721年)の美濃国小木村と出川村との一件がある。内津村と大原村との山論は、近世初期頃の状況をよく伝えている。(春日井市史214~215ページ)
つぎに用水の問題についてみよう。米つくりを中心とする近世の農業経営にとって、用水は、山林の場合と同様に、欠くことのできない基礎的な条件の一つである。新田開発が多かった春日井市域内の村落を見ようとすると、用水の発達と、その利用状況の考察が大切な問題となってくる。
自然の河川である内津川・玉野川(庄内川)などを利用する場合、人工の大用水である入鹿・木津用水などを利用する場合、溜池を築造してこれを利用する場合が考えられる。具体的には、その利用状況は複雑で、一つの用水系統によってこと足りる村は比較的すくなく、川・用水・溜池が並用されることが多かった。
用水の利用には一定の秩序が要求され、用水組織が構成される。一つの村が単一で利用するときは、その組織は比較的単純であるが、2カ村以上にわたる場合は、井組の結成が必要となる。入鹿・新木津・高貝・押草用水などはその代表例である。溜池灌漑の場合にも同様なことが指摘できる。(近世初期~中期頃の市域内各村用水の概況は、市史220ページ、表4―14を参照されたい)
春日井市域内の規模の大きな開拓事業はいうまでもなく、入鹿・木津両用水事業と深くかかわりを持っている。
尾張東部洪積台地には、水源が乏しく、近世初期までは未開発の土地が多かった。台地に分布する小さな溜池によって、谷底の低地が水田化されていた程度であった。こうした状況を大きく変えたのが、初期の大規模な用水事業で、最初に登場したのが入鹿池築造の構想である。戦国浪人と称する6人衆によって寛永5年(1628年)に工事に着手された。この事業は尾張藩を背景とした荒地の開発である。池ができると、丹羽・春日井両郡では新田開発が急速に進展した。用水路は尾張の東部台地の縁辺をかすめ春日井へぬけたので、付近の未墾地がまず開かれた。しかし、その後いくつかの問題は残った。その一つは農民の不足、他の一つは水不足であった。入鹿用水末端地域の水不足は、さらに新しい用水の計画を必要とした。古木津用水が完成したのは慶安3年(1651年)であるが、春日井市にとって関係の深いのは寛文4年(1664年)完成の新木津用水である。入鹿・古木津用水の末端地域、ことに春日井原の開発(410町余)はこの用水によって達成されている。
庄内川から分水し、牛毛・野田・桜佐・名栗・上条・関田・堀ノ内各村の水田を灌漑したのが高貝用水である。また、この用水の下流地域の開拓に利用されたのが上条用水で、上条・下条・中切・松河戸・勝川村が関係している。上流域の玉野村では、享保14年(1729年)に玉野用水が開さくされ、安政3年(1856年)には高蔵寺村が、この用水を延長して、40余町歩の灌漑に利用している。

落合池

丘陵地帯を背後にひかえている春日井市では溜池利用の村も多かった。『寛文覚書』に書上げられている溜池は53を数えている。溜池は単一の村で築き、これを利用している場合が多いが、古村の周辺で新田開発が進むと、新田村の池水の利用が当然おきてくる。下原村の大池などはそのよい例である。新田村がそのかたちを整えてくると、自村の溜池を新しく築造する必要に迫られる。下原新田の落合池がそうである。下原新田は東野・六軒屋・鳥居松と、広範囲に村落と耕地が分布していて水源は前記の両溜池で充足できなかったので大草村(現小牧市)の太良・大洞両池およびその他2か所の小溜池にも依存していた。こうなってくると、新田村の水利組織は複雑になってくる。

郷土誌かすがい 第14号|春日井市公式ホームページ から
春日井の近世の村における「山林と用水」を説明した縦長のインフォグラフィック。上部に大きく「春日井の近世の村3 山林と用水」とあり、山の恵みと水の仕組みが、村の暮らしと新田開発を支えたことを全体テーマとして示す。左上では、春日井の山林を「御林」「松山」「篠木山(入会山)」に分け、御林は藩有林で伐採や苅草が禁止、松山は御留林や給人の扣山、篠木山は33か村が共同利用した入会山として図解している。併せて、中期以後の区分として「定納山」「平山」「御林」の面積と性格を表に整理し、定納山は村に近く百姓利用の度合いが高い山であったことを示す。右上では、村人が山で薪を集め、落葉を肥料にし、下草や秣を刈る様子を描き、山が燃料・肥料・飼料を得る生活空間であったこと、共同利用には口明けの日や持ち込む道具など厳格なルールがあったことを説明している。中央左では、山境をめぐる「山論」を紹介し、境界標の前で村人が争う様子、内津村・西尾村山論一札の文書、内津村と大原村、西尾村と内津村、小木村と出川村などの具体例を掲載し、山が生活の基盤だったため争いが深刻であったことを示す。中央右では、用水の基本構造を地図風に描き、庄内川(玉野川)、入鹿用水、新木津用水、高貝用水、上条用水、玉野用水、落合池、水田、村落などを配置して、川・人工用水・ため池を組み合わせた複雑な水利の仕組みを説明している。下段中央では、大規模用水と新田開発を扱い、尾張東部洪積台地が水源に乏しく未開発地が多かったこと、1628年の入鹿池築造構想、1651年の古木津用水完成、1664年の新木津用水完成、春日井原の開発410町余などを年表と地図で示し、乾いた台地が用水によって水田化されたことを図解する。最下段では、庄内川水系から分水した高貝用水、上条用水、玉野用水の流れと関係村を示し、さらに市域内に53のため池があったこと、落合池の図、下原村の大池や太良池・大洞池などの例を挙げ、ため池が地域の水を支える重要な資源だったことを説明している。最下部には「この図のポイント」として、山林は生活資源であり、用水は村どうしを結ぶ共同管理の仕組みであり、春日井の新田開発は山の利用と大規模用水・ため池整備によって成り立った、という3点をまとめている。

用水は「水路」ではなく、村同士を結ぶ社会システムだった

しかし、用水は造って終わりではありません。

水路に土砂がたまれば取り除かなければならない。

堤が壊れれば修理する必要があります。

上流で水を取りすぎれば、下流の村には水が届きません。

つまり、水を運ぶためには、

誰が、いつ、どれだけ水を使うのか

というルールが必要になります。

複数の村を通る用水なら、その管理には村を越えた協力が必要です。

ここが非常に重要です。

水利の歴史は、単なる土木工事の歴史ではありません。

水を共同で管理する地域社会の歴史でもあるのです。

地形によって生じた「水不足」という問題を解決するために、人々は用水を造りました。

そして用水を維持するために、村同士の協力や規則、管理組織が形成されました。

自然環境が社会の仕組みまで形づくっていったわけです。

春日井の近世における用水の仕組みを説明した縦長のインフォグラフィック。上部に「用水は『水路』ではなく、村同士を結ぶ社会システムだった」と大きく書かれ、春日井の近世社会を支えた共同管理のしくみを解説している。第1部では、庄内川から取水した用水が上の村・中の村・下の村の田畑を潤す模式図を描き、土砂の堆積、堤の破損、上流での取りすぎ、日照りの年の配分調整など、用水を維持する上での課題を示している。第2部では、一つの用水が上流・中流・下流の複数の村をつなぐ様子を図示し、上流と下流の利害が結びついており、一つの村だけでは完結しないことを説明している。第3部では、「誰が使うか」「いつ使うか」「どれだけ使うか」「どう守るか」の4項目に分け、受益範囲、番水、水門の開閉、水番や井組での話し合いなど、用水利用の細かなルールを整理している。第4部では、井ざらい、堤の修理、水門の見回り、ため池の管理、共同作業(普請)など、用水を守る日常的な労働を村人たちが担っていたことを描いている。第5部では、複数の村が関わる用水を運営するために「井組」という水利組織が生まれ、村Aから村Dまでが、村寄合・水番・庄屋や名主・普請の割当・費用負担・争いの調停などを通じて管理に参加していたことを示している。第6部では、水不足を解決するために用水が造られ、その維持のために協力・規則・組織が生まれ、自然環境が地域社会の仕組みまで形づくった、という3点で全体をまとめている。全体として、用水の歴史は単なる土木工事の歴史ではなく、水を共同で管理した地域社会の歴史であることを視覚的に伝える図。

山もまた、農村生活を支える「生活空間」だった

現在、山林というと自然保護やレクリエーションの場所として考えることが多いかもしれません。

しかし江戸時代の農村にとって、山は生活に欠かせない場所でした。

農民は山へ入り、薪を集めました。

草や落ち葉は、家畜の飼料や田畑の肥料として利用されました。

つまり、

田畑だけでは農業は成立しなかった

のです。

春日井には「篠木山」と呼ばれる広大な入会地があり、篠木荘に関係する33か村が共同利用していたとされています。

もちろん、誰でも好きなだけ山の資源を取れたわけではありません。

山に入る時期、使用できる道具、採取する量などにさまざまな取り決めがありました。

藩が管理する山では採取が制限されることもありました。

村と村の間で山境をめぐる争いも起こっています。

現代の感覚では、

「家」
「田畑」
「山」
「川」
「ため池」

を別々の場所として考えがちです。

しかし当時の暮らしは、それらすべてがつながっていました。

家―田畑―水路―ため池―山林

という一つの生活環境があって、初めて農村社会は成り立っていたのです。

春日井の近世農村において、山林が生活を支える「生活空間」だったことを説明する縦長のインフォグラフィック。上部に大きく「山もまた、農村生活を支える『生活空間』だった」とあり、薪・草・落葉・共有地によって、春日井の近世農村が山と田畑のつながりの中で成り立っていたことを示している。第1部では、山林から木材、薪、落葉、下草、秣が得られ、それらが家、田畑、家畜、村の暮らしを支えていた様子を、山・農家・田畑・水路・ため池を一つの景観の中に描いている。薪は煮炊きや暖房、家の修繕や道具作りに使われ、家畜の飼育にも山の恵みが必要だったことが示され、「田畑だけでは農業は成り立たなかった」と強調されている。第2部では、山から得られたものを「薪」「落葉・草」「秣・飼料」「木材・竹」に分け、燃料、田畑の肥料、牛や馬のえさ、農具や建築材・日用品の材料として利用されたことを、人物の作業場面つきで説明している。第3部では、春日井にあった広大な入会地「篠木山」を地図風に描き、周辺の多くの村に囲まれた山として表し、「篠木荘に関係する33か村が共同利用」と記している。第4部では、入会山を勝手に使えたわけではなく、山の口明けの日、持ち込む道具、採取できる量、採取できる場所、藩の御林での制限など、厳格な取り決めがあったことを、寄り合いの場面と箇条書きで整理している。第5部では、山境の石標を前に村人たちが争う「山論」を描き、山が生活に欠かせない資源だったため、村と村の間で山境をめぐる争いが起こったことを示している。第6部では、「家―田畑―水路―ため池―山林」が矢印でつながれた循環図を置き、家での煮炊きや暖房、田畑の収穫と肥料、水路による用水、ため池の貯水と調整、山林からの薪・落葉・下草・木材が相互に支え合う一つの生活環境だったことを視覚的に示している。最下部では、この図のポイントとして、山林は単なる自然ではなく生活資源の場だったこと、山の利用には共同利用と厳しいルールがあったこと、春日井の農村社会は田畑だけでなく山や水と結びついて成り立っていたこと、の3点をまとめている。

濃尾地震は「土地」だけでなく、人間がつくった環境を破壊した

しかし、人間が自然条件を克服して農地を広げれば、それで自然との関係が終わるわけではありません。

そのことを象徴するのが、1891年10月28日に発生した濃尾地震です。

濃尾地震では、春日井でも多くの家屋が被害を受けました。

しかし、被害を受けたのは家だけではありません。

ため池や用水路など、長い時間をかけてつくられてきた農業施設も破壊されました。

『郷土誌かすがい』には、落合池の震災復旧工事についての研究があります。

さらに、新木津用水についても各地で復旧が行われた記録が残されています。

ここで重要なのは、農業を再開するためには自分の田んぼだけを直せばよかったわけではないということです。

用水路が壊れていれば、水そのものが届きません。

ため池の堤が壊れていれば、水を蓄えることもできません。

つまり、人々の生活はすでに、

自然の地形そのものではなく、人間が自然の上につくった巨大な水利システム

に依存するようになっていたのです。

参考:第33号・落合池震災復旧研究

参考:第84号「濃尾震災と春日井」

ここには、現代にもつながる重要な問題があります。

自然条件を人間の技術によって変えることは、暮らしを豊かにします。

しかし同時に、その施設を維持し続けなければ生活そのものが成り立たなくなります。

自然を克服したように見えて、別の形で自然との関係が深くなる。

これも春日井の環境史から見えてくる特徴です。

春日井では、地形の違いが洪水、水不足、地震後の被害などにも深く関係してきました。こうした視点から春日井の災害史を詳しくまとめた記事は、**「防災と歴史から読み解く春日井――地震・洪水・渇水・台風と地域の知恵」**もあわせてご覧ください。

1891年10月28日の濃尾地震が、春日井の家屋だけでなく、ため池や用水路など人間が築いた水利システム全体を破壊したことを説明する縦長のインフォグラフィック。上部には「濃尾地震は『土地』だけでなく、人間がつくった環境を破壊した」と大きく書かれ、地震後の農村景観とともに、水がなければ田は作れないという問題意識が示されている。第1部「地震で何が壊れたのか」では、倒壊・損傷した家屋、土砂崩れや土砂流入、落合池の堤の亀裂、取水施設の破損、用水路の破損などが一つの農村景観の中に描かれ、被害が家だけでなく農業施設全体に及んだことを示している。第2部では、川・取水口、用水路、ため池、分水、田んぼ、収穫・暮らしという一連の水利の流れを図式化し、どこか一つでも壊れると全体が止まること、壊れたのは個人の田ではなく共同の水利システムだったことを強調している。第3部「落合池の復旧」では、被災した堤のひび割れや漏水、土の崩れ、続く復旧工事として土を盛り直し石で補強する人びとの作業、そして再び水をためて農業用水を支える状態までを3段階で示している。第4部では、新木津用水の本流や落合池、春日井周辺の地図上に被害箇所と修理箇所を記し、取水口や水路の修理、土砂で埋まった区間の浚渫、堤や分水施設の補修など、各地で復旧が必要だったことを説明している。第5部では、「自分の田んぼだけ」を直した場合と、水利施設まで直した場合を対比し、田んぼだけ整えても水が来なければ農業は再開できず、用水路やため池も直してはじめて田に水が届くことを示している。第6部では、この震災が教えることとして、自然を変える技術は暮らしを豊かにする一方、施設が壊れれば生活全体が止まること、自然を克服したように見えても別の形で自然との関係が深くなることを3点で整理している。全体のまとめとして、春日井の災害史は地形・水・人の仕組みを一体で見る必要があり、地震・洪水・渇水への備えは土地だけでなく人間がつくった環境全体を守ることでもある、というメッセージを伝える図。

郷土史かすがい 第33号・落合池震災復旧研究

落合池の築造年代と構造について

昭和初期の落合池見取り図

安藤弘之 市文化財保護審議会委員

1.市内の水田灌漑
戦前(昭和12年刊)の5万分の1名古屋近郊図を土地分類すると、犬山市から知多半島にかけての尾張丘陵およびその周辺には、無数の溜池のあることがわかる。春日井市内だけでもその数は50にも達する。
春日井市の南部地域は、庄内川を水源とする高貝用水・上条用水(共に応永年間・1394年以降)によって開発が進められたが、西部地域は入鹿池の築造寛永10年(1633)に始まり、続く木津用水は慶安3年(1650)新木津用水の開さくによって、広大な地域を開発灌漑することになった。一方、水利の便の最も悪い東部丘陵周辺は、天水を溜めて灌漑するより他に方法はなかった。それでも下原町大池などは上流の集水面積が広く、立地条件がよかったため、すでに正保2年(1645)には、犬山城主成瀬隼人正が、田7町歩を捨てて池を広げ、水利の便を図ったというから築造はかなり早かったようである。

2.落合池の築造年代
落合池という地名は明らかでないが、大草・下原山・大泉寺方面の水が流れ込むというところから、いつとなくそう呼ぶようになったらしい。近世文書に溜池を雨池と書いているのは、雨水を溜めたからである。
東野新田の開発は、犬山城主成瀬隼人正の勧農方針によるもので、万治元年(1658)に始まったとされているが、その主体となったのは、いわゆる大草越し(小牧市大草の住民)でどちらにも西尾、波多野・安藤・梶田等の姓があることでもわかる。当時の頭目であった5人衆(甚右衛門・儀右衛門・三左衛門・市左衛門・七左衛門)は、いずれの祖であったかは決め難いが、ただ総本家らしい家々の家系を調べると、13、14代を経ていることがわかる。しかし新田開発に先立つものは、水田灌漑の用水である。これについて『東野誌』は「尾州春日井郡下原村雨池水わけ之事」を引用し、成瀬隼人正が大池掛り16町5反7畝6歩にあたる水を、東野新田に分け与えたとしている。寛文5年(1665)、これは野池地域あたりと思われるが、今もここは大池掛りとなっている。
氏神八幡社は、寛文3年(1663)大久佐八幡宮(小牧市大草)の分霊を勧請したが、その時すでに家数は21軒に達していた。天和2年(1682)尾張藩の支配地になり、同3年には下原村から独立、下原新田と呼ぶようになった。下原村と直接人的関係はないが、大池水の分水により開発が始められたからである。したがって、東野新田の地名が公に通用していたのは、犬山藩支配のころだけである。
大池分水によることになった野池地域より、さらに高い東部の地域については、別の雨池を築造しなければならなかった。これが落合池である。それがいつであったかは未だに明らかでない。ただ『寛文村々覚書』寛文12年(1672)には「一、雨池五ケ所 内落合上池同下池 山の池 大洞池 太良池」とあるように、すでに落合池が上下2池として記載されていることからして、八幡社が創建され、野池地域の大池掛りが決定されてからの、寛文5年(1665)から寛文10年(1670)ごろまでの間かと推察される。なお、小牧市大草所在の太良池・大洞池の水利権も、この大草住民移住とともに、この新田開発のため分け与えられているが、落合池築造前も直接利用していたのではないかと推察される(小牧市史462ページ参照)。

3.落合池の規模
『東野誌』所載の明治12年(1879)地租改正後の地内受益面積は、落合池によるもの40町5反3畝歩、大池によるもの13町8反9畝26歩、茨池によるもの9町8反2畝14歩、総面積64町2反5畝10歩(636,108平方メートル)であるが、『東春日井郡農会史』(昭和4年刊)に掲げる昭和元年の「水稲作付面積76町1反」と比較すると、12町歩ほどの増加となるが、この間に後で述べる濃尾大震災後の大復旧工事が行われ、堤防の増強、貯水量の増加があったことを考えれば、当然であるし、したがって落合池掛りの面積は約50町歩ということになる。池の周囲についての資料はないが、大池の改修工事碑にある1,100間(約2,000メートル)と比較しても大差はなかろう。仮に落合池の面積20町歩、落合池による灌漑面積50町歩とした場合、両者の関係はどうなるか。
水稲の生育に必要な水量は役30センチメートル、途中のロスを考えに入れれば50センチメートルということになる。したがって灌漑面積が池面積の約2.5倍であれば、池の水深は1.25メートルあれば足りることになる。深さの平均は、ほぼ一致していたようである。生活の知恵から出た先人の考えは、すばらしいの一語に尽きる。

下原新田村絵図

4.池の構造と震災復旧工事
天保12年(1841)の村絵図でみると、中堤防は上池内側へ曲がり、途中で切れている。これは大草方面太良池・大洞池から生地川立切を通って入った水が、上池をゆるやかに流れる中に粘土分を沈殿させ、下池へと入る仕組みになっていた。明治25年(1890)濃尾大震災後の一大復旧工事のとき、中堤防も延長して対岸と結んだが、この部分を今も新堤防と呼んでいる。大泉寺方面の水は、上池の東側にあるノマリ池に入り、ここで濁りを沈殿し、上池を通って下池へ入るようになっていた。
明治24年(1891)10月28日に発生した濃尾大震災は、落合池にも大きな被害をもたらし、堤防に大亀裂を生じた。当村では、急ぎ復旧するため県へ願い出たが、これに対し、翌25年1月26日付で、県知事より村受工事命令書(『東野誌』所載・柴山家蔵)を受領、直ちに夜を日に継いでの工事にかかったが、今回(昭和61年度より向こう10年計画)落合公園造成工事を施行するにあたり下池北西隅に放水路を設けるため、堤防の掘削をした。奇しくも、当時の工事をしのぶ断面が現れたが、当時の工事命令書と照らし併せると、築堤工法の一端を知ることができる。

落合池堤防断面写真
落合池堤防断面図

最も顕著なものは刃金(はがね)である。復旧工事以前の旧堤防(粘質赤土)に強く大きく打ち込んであるのがそれである。「刃金土ハ良質ヲ撰ミ監督員ノ検査ヲ経タモノニアラサレハ使用スルヲ許サス」とあるように、土選びはかなり厳しかったようである。粘土は乾燥すればもろいが、適度の湿度を保つときは強い粘着力を示す。これを堤防の内側に打ち込んだのは、そうした意味もあったろう。
新旧の間に全く雑物のないのは、「堤防築造ハ、盛土スヘキ場所、木草根其他瓦礫塵芥等入念掃除ノ上土砂運搬スヘシ」の指示通り、恐らく旧堤防の上土をかなりはねたものと思われる。なおその盛土は、1尺ごとに蛸木やカケヤで搗きかためていった。今も刃金打ち唄として残っている。
「溜池堤防内震裂長五百拾間」は約912メートルにあたる。これは下池の東堤防を除く3面の堤防全部にあたる。この復旧工事で、堤防は1メートル余りかさ上げされ、貯水量の増加とともに、灌漑面積も一段と広くなったと思われる。果して、この大量の粘土をどこからどんな方法で運んだかは明らかでないが、ただ余りの大工事に、南堤防はしだいに雑になっていったと、今に伝えている。当時の大八車は、木製の車輪の外縁に鉄板をあてるようになり、モッコとともにかなり活躍したと思われる。大半は上池に沈澱した粘土を使用し、足りない分は、今も良質の粘土が見られる東山町地内の丘陵から運んだのではないか。
毎年、秋に行っていた池こねも、ただ魚を獲るだけでなく、池の大掃除を意味していた。堆積している粘土を6尺角、厚さ2尺に切って運び出す。これを「坪出し」といっていた。瓦の原料として売られていったが、その量は相当のものであったと想像される。
戦前、旧暦9月5日は秋葉さまの祭りを、揚げ祭りといったが、この時、四島(東野の4部落)の馬は落合池水神に詣ったあと、北堤防の端まで馬を走らせるしきたりになっていた。復旧工事で馬踏が1間半(5メートル)に広くなったのと、当時の難工事をしのぶ意味があったと思う。また、護岸工事に使った腹石は、地元民が担いで運び、これを一荷いくらで買い上げたものだったという。

おわりに
尾張丘陵周辺には、無数の溜池があるが、四角四面堤防をめぐらした池は数えるほどしかない。築造のことは言うまでもなく、復旧工事のことすら、伝える人はいなくなった。明らかでない点は多々あるが、今後の調査をまって解明したい。

参考文献
『東春日井郡誌』(大正12年刊)
『東春日井郡農会史』(昭和4年刊)
『東野誌』(昭和57年刊)
『小牧市史』(昭和52年刊)

郷土誌かすがい 第33号|春日井市公式ホームページ から
春日井市の落合池について、築造年代・灌漑規模・池の構造・濃尾地震後の復旧工事をまとめた縦長のインフォグラフィック。上部に「落合池の築造年代と構造」と大きく表示し、「春日井の溜池と新田開発を支えた落合池を、築造年代・規模・構造・震災復旧から読み解く」と説明している。第1部では、春日井市内に戦前約50の溜池が存在したこと、南部は庄内川を水源とする高貝用水・上条用水、西部は入鹿池や木津用水・新木津用水によって開発が進んだ一方、水利条件の悪い東部丘陵周辺では雨水をためる溜池への依存が大きかったことを地図で示す。第2部では、東野新田の開発開始を1658年、八幡社創建を1663年、大池から東野新田への分水を1665年、寛文村々覚書に落合上池・下池が記録される1672年と時系列で並べ、落合池の築造を1665年から1670年頃と推定している。第3部では、1879年地租改正後の受益面積として落合池40町5反3畝歩、大池13町8反9畝26歩、茨池9町8反2畝14歩、総面積約63万6108平方メートルを表で示し、震災後の改修によって落合池の灌漑面積は約50町歩まで拡大したと考えられることを説明。池面積を約20町歩、灌漑面積を約50町歩とした場合、必要な平均水深約1.25メートルという概算も図示している。第4部では、落合池を上池と下池に分ける中堤防、太良池・大洞池方面から流れ込む水、生地川立切、大泉寺方面から濁水を受けるノマリ池、新堤防などを平面図で示す。水が上池でゆっくり流れる間に粘土分を沈殿させ、その後下池へ送る構造だったことを説明し、堤防断面図では旧堤防の粘質赤土、新たに打ち込まれた「刃金」、腹石、馬踏などを描いている。第5部では、1891年10月28日の濃尾地震で堤防に大亀裂が生じ、翌1892年1月に県知事から村受工事命令が出され、村人が夜を日に継いで復旧工事を行った流れを3段階で示している。復旧では約912メートルに及ぶ堤防亀裂への対応、良質な刃金土の使用、旧堤防上の草木や瓦礫の除去、1尺ごとの盛土と突き固め、腹石による補強、約1メートルのかさ上げなどが行われ、貯水量と灌漑能力が増したことを説明する。最下部では、落合池が東野新田・下原新田の開発を支えるために築かれた可能性が高いこと、築造年代は1665年から1670年頃と推定されること、上池・下池・中堤防によって沈殿機能を持つ巧みな構造だったこと、濃尾地震後の大規模復旧で池がさらに強化されたことを4点に整理し、落合池を春日井の新田開発・農業・地域共同体を支えた「人工の水環境」として位置づけている。

郷土史かすがい 第84号「濃尾震災と春日井」

濃尾震災と春日井 ―新たに発見した古文書を中心に―

近藤雅英 春日井古文書研究会会員

 いま東南海地震が盛んに取り上げられているが、ここでは、日頃から春日井市域に関する資料が案外少ないと、おりに触れ紹介して来た濃尾地震(明治24年)の新しい資料を取り上げたい。
 濃尾地震が、愛知県に大きな被害をもたらした伊勢湾台風(昭和34年)に次ぐものであったことすら忘れがちな今日、決してないがしろにしてはいけないと思うのが、新しい資料を発見するたびに心を新たにさせてくれる。
 今回紹介出来るのは、1 勝川に関するもの、2 東野の落合池に関するもの、3 春日井村に関するもの、4 冨田家が所蔵する古文書に関するものである。

1 勝川
 勝川村では、春日井市域全体が震度6であったのに、震度7と推定され一層揺れが激しかった。従って、やはり大きな被害があった。
 家屋の倒壊、田畑の破裂、人畜の死傷、堤塘の決壊、資産の滅失、家具、穀物の腐敗等が挙げられている。古文書は市文化財課が所有する資料で次の2点が目をひく。
 (1)238戸のうち74戸が栽培していた煙草・棉畑が湿地化し、収穫が半減した。
 (2)家屋被害で、「名古屋区裁判所勝川出張所建物(勝川村字下屋敷)の大修築願」。
 当時勝川村では、町制施行に向けて公共施設の誘致を積極的に図り、地元の有力者が無償で建物等を提供し、その修築の際は、地元で行う約束であった。貸与していた家屋等が倒壊したため約束した修築をしなければならないのに、村の被害も五万円ほどあって困難な状況にあり、その修築まで手が回らないことを願い出た(明治24年11月29日)ものである。建物は木造瓦葺平屋一棟(建坪38坪5合)厠二棟(建坪2坪)という。
 なお、町制の方は、「勝川村ヲ勝川町ニ改稱スル件」の意見書が出され、明治26年3月28日に実現している。

落合池の縮図
落合池縮図

2 東野の落合池
 
落合池に濃尾震災の被害が及んだのは、これまで八幡水利組合が作成の「落合池 灌漑の起こり」(平成15年)の年表で、堤防が275・4mに震裂が生じたこと、復旧工事中堤防を繋ぎノマリ池を築いたとあり、落合池の水神様近くの「落合池も濃尾地震で改修した」と「案内板」に書かれただけの素っ気なさであっ
た。だから、その程度の被害で済んでいたと思い込んでいた。
 今回、東野水利組合が保管していた貴重で膨大な資料を拝借できた。「明治廿四年十二月震災土木工事願書纏(八幡村、いまの東野町)」(コピーにして181枚)、「震災復旧工事設計帳」(コピーにして151枚)等から、負傷1名、建物全壊三棟などが判り、田畑を支える用水・河川・池、道路などの被害の大きかった部分を新たに知り得た。資料の詳細は、多くを割愛せざるを得ないが、堤防の破裂・損壊・圦樋伏替である。
 しかし村の負担は、これだけにとどまらない。落合池の名が大草山、下原山、大泉寺方面の水が流れ込む所から付けられたというだけに、水を引き入れている川、池も多かった、現小牧市の太良池(たいらいけ)や隣の下原村の大池とか茨沢池などの修繕もしなければならない。水路の確保も重要である。生地川があり、八田川があり、この支川とか、小さい池とか無数の個所が関係している。やっかいなことに震災当時は少々の水漏れで、損傷に気づかなかった所や、大雨の際漏水を発見するなど日を経るほどに損壊が顕著となる状況でもあった。大池、茨沢池、大洞池小用水路、太良池の水を落合池に落とし込むための水路(飛地として下原新田の所属する時期があった)、籠池などがあった。

東野八幡神社鳥居の写真
東野八幡神社鳥居

 落合池は、堤防を築造した池であり、池底が隣りの東野小学校の校庭と同じ高さであり、今の小牧の太良池やインターの側の大池からも水を引いていた。
 池・川の被害だけでも驚かされるが、さらに八幡村が負担しなければならないものが、八幡村役場(東丘)の建物一棟の全壊修復、概ね大破・半倒の民家、里道(西原・入鹿下・豊場道等)の修繕がある。池の上流部が干上がったりすると、落合池も干上がることはいうまでもない。地震当座は何事もなかったのに、10日も過ぎて水がなくなり水漏れが判明する事態もあった。大きな工事は国から補助金が出るが補助の対象とならない工事は地元の負担となる。北タガイ・南タガイの川の橋もほとんど壊れて、その一つであった。

東野八幡神社鳥居の写真
東野八幡神社鳥居(拡大)

 驚きながら、現地を見おわり、落合池の案内から少し足を伸ばした東野八幡社の一の鳥居の右の柱に刻み込まれた9名のうちの2名(児島勘次郎と児島彦助)の名は、震災善後策で北海道への団体移住する者の署名者である。

3 春日井村
 春日井村の古文書は、春日井郷土史研究会の前会長櫻井芳昭さんの紹介で、名古屋市守山に在住の知人から文化財課に提供されたものである。その量は段ボール箱四杯(コピーにして2,600枚を優に超す)もあり、約4年もかかっての判読と翻刻の大作業になった。
 この浅井家文書は、幕末から明治にかけて春日井原新田の庄屋や新木津揚水井組の役員等を務めた一人の喜兵衛の所有していたものである。(父喜左衛門も庄屋)
 そのうちの資料の一つが明治25年の「雑書綴」である。今回の資料から次の事実が判明した。工事竣工届の文書もある。残念ながら、工事願などは其の顛末まで記すものでないため実際に実施されたとか、完成届けも散在したものか、詳しい古文書が見当たらないが、被害があった事実は間違いない。
(1)片山村
  新木津の杁樋伏替及び堤防震裂築堅め修繕工事。工事竣工届では、新木津用水路大字大手地内の堤防陥落工事、伏越杁樋伏替工事一か所、堤防震裂工事、堤防垂土取除工事が完了したことの届けである。
(2)不二村
 連帯用水の復旧工事。甚だしき震害に係るものが数条あったと復旧工事を願い出ている。(明治25年5月29日)
(3)田楽村
 新木津堤防中橋以下大手境迄の復旧工事に着手したことの届け(明治25年6月6日)
(4)田楽村
 北条橋より上の復旧工事、新木津用水路堤防本村地内字北条橋より上へ下末(小牧市)境迄の復旧工事成功の届け(明治25年6月6日)
(5)和爾良村(新木津用水の井末になる)
 用水圦樋仕込(明治25年6月25日)
(6)春日井村
 新木津用水路春日井地内字高曽根兵太杁下西側、堤防垂所切上長四間平均高一尺・横二間初め二か所復旧工事、堤防欠所長八間平均内法長6尺・土坪7合の復旧工事の竣工の届け。
 春日井村は、春日井原の一角を占め、春日井原新田と呼ばれ、如意申、稲口から味鋺原(味美)になる連なる地域であり、寛文4年(1664)に新木津用水の完成以来大いに発展した所で、明治11年12月28日に春日井村になり、明治39年に勝川町に合併している。

4 熊野の冨田家の所有されている古文書
 地震関連文書として、次のような23件が見られる。この文書は冨田宏彦さんの所蔵されているものである。冨田家は、代々熊野神社の宮司を務めて来た家である。
(1)用水圦碑
 柵内埋立延長88間に使用の柳朶及び人足賃金、用水圦樋長16間半の修繕、用水圦樋長15間、立圦の修繕と板代等
(2)新池上池
 申新田溜め池地震長73間、堤防陥落長28間、内法築立て73間、堤防築立て長13間、刃百9坪5合、用水圦樋長7間半(刃=刃金土)
(3)新池下池
 溜め池堤防小口震裂長60間、刃120坪、用水圦樋長7間半、堤防堀割
(4)兵蔵持申新田
 溜め池堤防内法震裂長40間、築立て長40間、刃66坪7合、用水圦樋長6間、堤防堀割上口5間
(5)字善師(神田池)
 溜め池堤防内法陥落長18間、築立て長18間、刃金40坪、石場所長2間半、杭柵延長6間、葉唐竹120本使用
(6)字大根
 溜め池27間、築立て長27間、刃金土67坪5合、馬踏筋割長4間、用水圦樋長9間半、堀割上口
(7)字大根金太郎持
 溜め池堤防内法震裂長32間、築立て32間
(8)字大根喜代五郎持
 溜め池堤防内法震裂長17間、築立て32間、上置長17間
(9)字十人上納忠蔵持東池
 溜め池内法震裂、用水圦樋長四間、堤防割上口四間半
(10)字十人上納文左衛門持西池
  溜め池陥落長27間、築立て長27間、刃金土20坪3合、用水圦樋長3間半
(11)字十人上納丈助持
  溜め池堤防陥落長3間、築立て長3間、用水圦樋長3間
(12)字十人上納儀八持上池
  溜め池堤防内法長22間、築立て長22間、刃金土14坪7合、用水圦樋長3間、堤防堀割、上口等
(13)字十人上納儀八持下池
  溜め池堤防震裂長30間、築立て長30間、刃金土36坪7合、馬踏筋割長10間、用水圦樋長6間、堤防堀割上口6間
(14)字十人上納新治郎東池
  堤防内法陥落36間、築立て長30間、刃金土96坪、用水圦樋長6間半、堤防堀割上口8間
(15)字十人上納清十郎持小池
  溜め池堤防長10間
(16)字十人上納鶴吉持西池
  溜め池堤防内法震裂長24間、用水圦樋長3間半、立圦長4尺、堤防堀割上口4間半
(17)字十人上納鶴吉持東池
  溜め池堤防内法震裂長20間、上置長14間、用水圦樋長4間半、立圦長4尺、堤防堀割上口5間5分半
(18)字十人上納新兵衛持上池
  溜め池堤防内法震裂長20間、用水圦樋長4間半、立圦長4尺、堤防堀割上口5間
(19)字十人上納新兵衛持下池
  溜め池堤防震裂長19間、用水圦樋長4間半、立圦3長3尺、堤防堀割上口5間
(20)字十人上納文左衛門持東ノ池
  溜め池堤防内法震裂長十七間、用水圦樋長二間半、立圦長六尺、堤防堀割上口五間半
(21)字十人上納常七持池
  溜め池堤防内法震裂長10間
(22)字十人上納岩次郎持池
  溜め池堤防内法震裂長17間、堤防築立て17間、上置長17間、刃金土14坪、用水圦樋長5間半、立圦長5尺、堤防堀割上口5間半
(23)字十人上納大洞新池
 溜め池堤防陥落築立て長36間
 ここに出てくる字名を見ると、坂下の大根、申新田、善師と十人上納が目につく。坂下は、内津川の水が上流で伏流して、水の便が悪く、小さな溜め池が多く残されてきた。字十人上納は坂下の最西端に位置し、新しく開かれた地の年貢を十人で納めていた所から地名が付いたと思われる。事実、忠蔵、文左衛門、丈助、儀八、新治郎、清次郎、鶴吉、新兵衛、常七、岩次郎の名があるが、文字どおり忠蔵ら10人あるいは家系のものが該当するものと考えてもよいのではないか。10人上納のうち、大洞新池に持ち主の名がないのは、10人が共用していたものか。

郷土誌かすがい 第84号|春日井市公式ホームページ から
1891年の濃尾地震による春日井市域の被害を、新たに発見された古文書から整理した縦長のインフォグラフィック。上部に「濃尾震災と春日井―新たに発見した古文書を中心に―」と大きく表示し、近藤雅英・春日井古文書研究会会員の研究をもとに、勝川、東野の落合池、春日井村、熊野の冨田家文書の4つの地域・資料群に分けて解説している。第1部「勝川」では、春日井市域全体が震度6程度とされるなか、勝川では震度7相当の強い揺れが推定され、家屋倒壊、田畑の破裂、人畜の死傷、堤防決壊、資産損失、家具や穀物の腐敗などが発生したことを紹介。238戸のうち74戸が栽培していた煙草・綿畑が湿地化し収穫が半減したことや、名古屋区裁判所勝川出張所建物の大修築願が出されたことも記している。第2部「東野の落合池」では、落合池の縮図や東野八幡神社鳥居の写真を配置し、従来知られていた以上に被害が広範囲だったことを説明。東野水利組合に残された震災土木工事願書や復旧工事設計帳から、負傷者、建物全壊、堤防破裂、圦樋の伏替、道路や橋の損壊、大池・茨沢池・大洞池・太良池など周辺の池や水路の修繕まで必要だったことを示している。地震直後には分からなかった漏水や損傷が、数日後や大雨時に発見された例も紹介している。第3部「春日井村」では、浅井家文書をもとに、新木津用水沿いの片山村、不二村、田楽村、和爾良村、春日井村で行われた復旧工事を列挙。杁樋の伏替、堤防陥落・震裂の修理、垂土除去、用水路堤防の復旧などが各地で行われたことを示し、1664年完成の新木津用水によって発展した春日井原新田が、震災後に広範な水利復旧を必要としたことを説明する。第4部「熊野の冨田家文書」では、地震関連23件の古文書を一覧表にし、新池上池・下池、神田池、大根地区、十人上納地区など各地の溜池で、堤防の震裂・陥落、築立て、刃金土による補強、用水圦樋の修繕などが行われたことを具体的な長さや数量とともに整理している。最下部では、坂下周辺は内津川の伏流水のため水利条件が悪く、小さな溜池が多かったこと、「十人上納」という地名が新開地の年貢を十人で納めたことに由来する可能性を説明。全体として、濃尾地震の被害は家屋だけでなく、田畑、道路、橋、用水、溜池、堤防など地域社会を支える生活基盤全体に及び、その復旧には村や水利組合の共同負担と長期的な対応が必要だったことを伝える図。

地下を掘る――地質そのものが産業になった

近代になると、人々は土地の表面だけでなく、その地下にも目を向けるようになります。

春日井では、亜炭の採掘が行われました。

亜炭とは、古い植物が地中に埋まり、石炭ほど強く炭化しない状態で残ったものです。

高蔵寺、松本、大泉寺、出川、東山などでは亜炭が採掘され、燃料として利用されました。

『郷土誌かすがい』第8号によれば、1963年頃にはほとんどの鉱山が閉山しています。

また、春日井東部の山地では、岩石が砕石として利用されました。

それまで、

  • 山は薪や肥料を得る場所
  • 平地は農地
  • 川は水を得る場所

という形で利用されてきた自然環境が、近代になると、

地下資源や建設資材を供給する産業空間

としても使われるようになったのです。

土地の地質そのものが、地域産業を生み出しました。

一方で、地下の採掘や山地の採石は、当然ながら土地の姿にも影響を与えます。

人間と地形との関係が、さらに大規模になっていった時代でもありました。

春日井の近代における地下資源利用を説明した縦長のインフォグラフィック。上部に「地下を掘る――地質そのものが産業になった」と大きく書かれ、地下資源や岩石の利用が地域産業を支え、土地の使い方そのものを変えていったことを示している。第1部では、かつての春日井では山が薪や肥料を得る場所、平地が農地、川が水を得る場所だった景観と、近代になると地下資源や岩石を掘り出す産業空間へ変化した景観を対比している。第2部では、亜炭とは何かを図解し、昔の湿地や湖のまわりに生えていた植物が長い年月を経て地中に埋もれ、石炭ほど強くは炭化しない状態で残ったものだと説明。黒褐色でやわらかい燃料として利用されたことも示している。第3部では、春日井市内の地図に高蔵寺、松本、大泉寺、出川、東山を示し、これらの地域で亜炭採掘が行われたこと、採掘された亜炭は燃料として利用され、1963年ごろまでに多くの鉱山が閉山したことを整理している。第4部では、東部山地での砕石業を紹介し、岩石を切り出して砕き、道路や建物の建設資材として利用したことを描いている。採石場の崖、砕石の山、重機や運搬車両が描かれ、東部山地が建設資材の供給地となったことを示す。第5部では、「地質・地層」から「亜炭・岩石」、「採掘・砕石」、「燃料・建設資材」、「地域産業」へとつながる流れを矢印で整理し、春日井の地質そのものが亜炭や岩石という資源を生み、それが採掘や砕石を通じて燃料や建設資材となり、地域産業やまちの発展を支えたことを説明している。第6部では、かつての里山と田畑が広がる景観と、採掘・砕石後に削られた山肌や鉱山跡、砕石場、工場・集落が発展した景観を比較し、地下資源の利用が土地の姿そのものを変えたことを示している。最下部では、この図のポイントとして、山や平地は暮らしの場であるだけでなく資源を生む場にもなったこと、亜炭採掘と砕石が近代の地域産業を支えたこと、地下を掘ることは土地の姿そのものも変えていったこと、の3点をまとめている。

戦後――今度は丘陵そのものを「都市」に変えた

そして戦後、春日井の環境史にさらに大きな転換が訪れます。

高蔵寺ニュータウンの建設です。

高蔵寺ニュータウンでは1968年から入居が始まり、丘陵地に大規模な住宅地が形成されました。

道路、公園、学校、上下水道などが計画的に整備され、一つの巨大な都市空間がつくられていきます。

それまでの春日井では、人々は主として地形を利用しながら暮らしてきました。

近世になると、水を引くことで台地を農地へ変えました。

そして戦後になると、

丘陵そのものを削り、盛り、造成し、住宅都市へ変える

ところまで環境改変の規模が大きくなります。

しかし、ここでも興味深いのが「水」です。

『郷土誌かすがい』では、高蔵寺ニュータウンの建設地としてこの地域が選ばれた条件として、中央線を利用した名古屋への交通の便利さ、広大な土地を確保できることなどとともに、愛知用水を利用できることが挙げられています。

参考:第46号「高蔵寺ニュータウンの変貌」

これは非常に面白いところです。

江戸時代、新田を開発するためにも水が必要でした。

戦後、巨大な住宅都市をつくるためにも、やはり水が必要でした。

つまり、

春日井の土地利用の歴史では、時代が変わっても「水をどのように確保するか」が重要な条件であり続けた

のです。

新木津用水によって農地を広げた時代と、愛知用水を背景としてニュータウンを建設した時代。

目的は農業と都市生活でまったく違います。

しかし、「水を外から運ぶことで、それまでとは異なる土地利用を可能にする」という構造には共通点があります。

これは地形と環境から春日井の歴史を見るとき、非常に重要な連続性だと思います。

戦後の春日井で、高蔵寺ニュータウン建設によって丘陵そのものが住宅都市へ変えられたことを説明する縦長のインフォグラフィック。上部に「戦後――今度は丘陵そのものを『都市』に変えた」と大きく書かれ、サブタイトルで、高蔵寺ニュータウンと水の確保を通して春日井の土地利用が大きく変わったことを示している。第1部では、戦前から近世までの春日井では、山・丘陵・段丘・低地という地形を利用しながら農業中心の暮らしが営まれていたことと、1968年に入居が始まった高蔵寺ニュータウンでは、丘陵地に大規模住宅地が形成され、道路・公園・学校・上下水道が計画的に整備されたことを対比している。第2部では、造成前の丘陵、切土・盛土・造成工事の様子、そして完成した住宅都市の景観を順に描き、丘陵そのものを削り、盛り、造成して都市へ変えた過程を示している。第3部では、高蔵寺がニュータウン建設地として選ばれた理由を4点に整理し、JR中央線で名古屋へ通勤しやすいこと、広大な土地を確保できたこと、道路・公園・学校・上下水道など都市基盤を計画的に整備しやすかったこと、愛知用水を利用できたことを挙げている。第4部では、「ここでも決め手は『水』だった」として、江戸時代の新木津用水による春日井原の新田開発と、戦後の愛知用水を背景とした高蔵寺ニュータウンの都市開発を左右に並べ、時代が変わっても水をどう確保するかが重要条件だったことを強調している。第5部では、江戸時代の水利用は水田を潤し新田を開き村の共同管理を支えるものだったのに対し、戦後の水利用は家庭での使用、学校・公園・上下水道の維持、都市生活そのものを支えるものへ変化したことを示している。第6部では、古代から近世前期の地形に合わせた暮らし、近世の新木津用水による台地の新田化、近代の地下資源や産業による土地利用の拡大、戦後の丘陵造成による住宅都市化、そして現在の地形・水・環境をどう守るかという課題までを時系列で整理している。最下部では、この図のポイントとして、高蔵寺ニュータウンは丘陵地そのものを都市へ変えた戦後最大級の環境改変だったこと、その成立条件の一つに愛知用水による水の確保があったこと、新木津用水と高蔵寺ニュータウンには「外から水を運び、新しい土地利用を可能にする」という共通構造があること、の3点をまとめている。

郷土史かすがい 第46号「高蔵寺ニュータウンの変貌」

高蔵寺ニュータウンの変貌 住宅建設と人口・児童生徒数の推移を中心にして

小沢恵 本誌編集委員

はじめに
春日井市の東端に位置する高蔵寺ニュータウンは、現在人口5万2千人を擁する緑豊かで整備された“一つの住宅都市”を形成している。昭和30年代、高度経済成長に伴う大都市への人口集中から住宅供給の必要性に迫られた。そうした社会のニーズに応えるべく、高蔵寺ニュータウンの建設が計画された。ニュータウン建設は昭和36年の造成工事にさかのぼるが、ここでは特に昭和43年の入居開始以来27年の歩みを、住宅建設と人口の推移を中心に振り返ってみたい。

高蔵寺ニュータウンの歩み
人口と建設戸数の推移

土地開発及び住宅建設と人口の推移と若干の考察

  1. ニュータウン開発の概要
    ニュータウン建設に伴う土地開発は、昭和35年の地区決定を受けて、翌36年に開始された。事業名称は、「春日井都市計画事業 高蔵寺土地区画整理事業」と呼ばれ、全国先駆けの事業で、以後のニュータウン建設のモデルとなった。施工者は日本住宅公団(現住宅・都市整備公団)であった。春日井市東部の標高46~206mの丘陵地850haに、総事業費1,531億円(昭和41年度予定、昭和56年度4,576億円に変更)の巨費を投じ、昭和65年に約25,600戸の住宅を建設し、81,000人が住むという大規模住宅団地開発であった。この地が選ばれた理由は、
    〈1〉中央線もあって名古屋の通勤圏として便利であったこと
    〈2〉安値で広大な土地があったこと
    〈3〉愛知用水が使用できたこと
    〈4〉地元地域の協力が得られたこと
    であった。
    高蔵寺ニュータウンは低中高密度ゾーンを巧みに組み合わせた景観となっている。民間所有の30%弱の一般住宅地の利用については規制ができないため、公団がすべて完全に建設ができないことになり、公団の計画を優先させながらの開発であったということである。
    区画整理事業としては、正式には昭和40~56年度に実施され、ほぼこの期間で土地開発の骨格が完成された。すなわち、住宅建設に伴う道路・公園等都市施設、上下水道等供給処理施設、学校等公益・商業施設の整備がされた。その後さらに肉付けの時期に入り、今日に至っている。
  2. 住宅建設の推移から
    入居の最初の地区は藤山台で、賃貸の集合住宅を主としたものであった。当時“赤土砂漠”と呼ばれ、造成工事や住宅建設まっただ中でたいへん殺風景であったという。2DK、2LDK、3K、3DK等のタイプを中心に建設された集合住宅に限ってみると、各地区最初の建設年度は、昭和42年の藤山台につづいて、昭和44年岩成台、昭和46年高森台、昭和47年中央台、昭和49年高座台、昭和50年石尾台の順になっている。一般戸建分譲住宅等もほぼ同時期に建設が始まっている。なお、押沢台は昭和53年頃から一般戸建住宅が建設されている。
    住宅建設戸数をみると、入居開始から昭和50年代前半にかけては、集合住宅を主として、毎年ほぼ千戸以上が建設されている。昭和50年の1,384戸をピークにして、その前後の時期に多い。昭和57年以降は減少し、300戸~400戸前後である。
    この住宅建設の主体は、大きく3つに分けられ、日本住宅公団、愛知県・公社等、民間(会社等)の3者である。この建設主体からみると、当初の頃は集合住宅を中心に公団が主として建設していたが、昭和50年代後半に入ると、徐々に民間による戸建一般住宅に移行している。県や公社は公団や民間から土地を譲り受けて、昭和48年度から集合及び一般住宅の建設をした。現在公団や県等の住宅建設はほぼ終了し、残された造成地はほとんど民有地ということである。従って、今後急激な増加はみられないだろう。平成5年で建設戸数は、18,801戸、内訳は公団10,785戸、6,895戸、県・公社等1,121戸の順になっている。
男女別年齢別人口グラフ

人口や児童生徒数の推移と若干の考察

  1. 入居初期(昭和43~53年)の急増期 
    大規模住宅建設、それに伴う人口の流入による人口の爆発的増加、これは当然の流れである。入居初年度のニュータウン人口は、わずか1,426人であったが、その後住宅建設戸数に比例するようのに、昭和52年ごろまで年3千から4千人の割で人口が急増している。昭和47年には、最も多い4,725人の増加をみている。年齢構成は、10歳未満の子どもその親の25~35歳未満の層が10~20%と高い比率を占めている。まさに若い町を象徴していた。
  2. 10年経過以後(昭和54年~現在)の漸増・横ばい期
    昭和54年以降は千人を越える増加が続いたものの、住宅建設の減少とともに人口増も鈍った。昭和63年5万人を越えたが、集合住宅から他地域への転出もあって増加はさらに鈍った。その後今日まで2千人程度の増加でほぼ横ばい状態が続いている。バブル期には地価や建設費の高騰も重なって、増加がさらに鈍るとともに、平成に入ってマイナスになっている年さえある。そのバブル崩壊後は逆に住宅建設が促進され、また少し増加に転じている。ただ、住宅建設が少しずつ増加し、かつ世帯数も増えているにもかかわらず、人口減か微増であるのは、1世帯構成人員が昭和55年3.46人から平成5年3.05人のように、核家族化が進行していることを証明している。住民の年齢構成は極端に比率の高い年齢層はなくなって次第に平均化する一方、高齢者も増え住民の年齢も全体に上昇している。
  3. 児童生徒数の推移からみて
    ニュータウンという若い町を示すように、若い世帯が流入することにより児童生徒数の急増という現象につながる。児童生徒数の急増は、即学校建設のラッシュとなる。高蔵寺ニュータウン最初の学校は、藤山台小学校と藤山台中学校である。昭和45年のことである。以後昭和47年藤山台東小、岩成台小と建設が続き、昭和52年度までに小学校が6校、昭和53年度までに中学校2校が開校された。児童生徒数の急増で継ぎ足し継ぎ足しの校舎建設であった。学校建設が間に合わず、教室が足りなくなり、プレハブ教室でしのいだ時期もあった。1学級の定員を越えて指導しなければならない学級が何クラスも出た学校も珍しくなかった。その一方で転出入の激しいこともこのニュータウン地区の学校の特色であった。例えば、昭和55年開校の石尾台小学校は、2年目にかけて461人の増加があり、毎日転出も含めた手続きで担当の先生が悲鳴を上げたという話である。
    その後も住宅建設地区が順次変わっていくとともに、児童生徒数も地区を変えて増加した。児童数は昭和59年にピークで、6,696人を数えた。生徒数は昭和62年がピークで3,412人に達した。それに伴い、さらに小学校は3校、中学校は2校開校された(以上計小10校、中4校)。児童生徒数は、ピークを過ぎると減少期に入り、特に近年は予想以上の急減をしている。平成6年度でみると、小学校はピーク時の約60%、中学校は約70%まで減少している。これはニュータウン住民の年齢構成が高くなってきたこと、すなわち若い世代の象徴であったニュータウン住民も、ニュータウンの成長とともに高齢化が進んだことを証明している。全市的傾向とはいえ学齢児童の急減で、学級数はピーク時の半分から3分の2程度に減少し、空き教室も60教室を越えている。その活用が望まれる。
児童・生徒数の推移

おわりに(ニュータウン変貌の若干の考察)
大規模住宅団地開発の先駆けとなった高蔵寺ニュータウンも今、成熟期を迎えたといえる。その変容について次のようにまとめられよう。

  • 公団主導の区画整理事業による開発であったが、民間も入り交じって当初の苦労は大変なものであった。今日、人口5万人強の町に成長し、人工的には当初目標とは隔たりがあるものの町の規模としては適度な成熟をし、良好な居住環境と景観をもつに至っている。
  • 人口急増により学校を始め公共施設等の整備・充実は、地域エゴも加わって厳しい時期もあった。しかし、地域住民・行政・公団等の努力によって克服されてきている。新旧住民との一体化という課題も大きな山を越え、全市一体化が進んでいる。
  • 周辺地域の施設・設備の整備を含め、春日井市のニュータウン以外の地域への刺激的役割も果たしてきたのではないか。
    駐車場確保の問題、近い将来訪れるであろう集合住宅の老朽化に伴う建て替えの問題、今後進む住民の高齢化の問題等ニュータウン自身の抱える問題もある。これらを克服し緑豊かで明るく住みよい町づくりが進められ、住民の春日井市民としての意識がより一層高められることを期待したい。
郷土誌かすがい 第46号|春日井市公式ホームページ から
高蔵寺ニュータウンの開発、住宅建設、人口、児童生徒数の推移をまとめた縦長のインフォグラフィック。上部に「高蔵寺ニュータウンの変貌 住宅建設と人口・児童生徒数の推移を中心にして」と大きく表示し、高蔵寺ニュータウンが高度経済成長期の住宅需要に対応して計画された大規模住宅都市であることを示している。第1部では、春日井市東端に位置するニュータウンの位置を地図で示し、人口約5万2千人を擁する緑豊かな住宅都市へ成長したことを説明。第2部では、1960年の地区決定、1961年の造成工事開始、開発面積約850ヘクタール、標高46~206メートルの丘陵地、計画戸数約2万5600戸、計画人口8万1000人などの事業概要を整理し、中央線で名古屋へ通勤しやすいこと、広大で比較的安価な土地、愛知用水の利用、地元の協力が立地条件だったことを挙げている。第3部では、丘陵地の自然景観から切土・盛土による造成工事、集合住宅や戸建住宅の建設、現在の緑豊かな住宅都市までを時系列の写真風イラストで示している。第4部では、住宅建設戸数の推移を棒グラフで表し、公団、県・公社等、民間の建設主体別に色分け。入居開始後に建設が急増し、1975年の1384戸をピークに、その後減少していったことを示す。第5部では、藤山台、岩成台、高森台、中央台、高座台、石尾台、押沢台の順に住宅建設が始まった年代を表で整理している。第6部の人口推移グラフでは、1968年の入居開始時1426人から急増し、昭和63年頃に5万人を超え、その後は約5万2千人前後で横ばいとなった様子を示す。第7部では、児童・生徒数の推移を折れ線グラフで表し、小学生は1984年に6696人、中学生は1987年に3412人でピークを迎え、その後減少したことを示している。第8部では、入居初期とその後の男女別年齢構成を人口ピラミッドで比較し、当初は10歳未満の子どもと25~35歳程度の親世代が多い「若い町」だったのに対し、年月とともに年齢構成が平均化し、高齢化が進んだことを示す。第9部では、学校整備の流れを整理し、1970年の藤山台小学校・藤山台中学校開校以後、人口急増に合わせて学校建設が続き、最終的に小学校10校、中学校4校となったこと、教室不足でプレハブ校舎を使用した時期があった一方、その後は児童生徒数減少による空き教室が課題になったことを説明している。第10部では、入居初期の急増期と、その後の漸増・横ばい期を比較し、住宅建設の減少、核家族化、世帯人員の減少、住民の高齢化が人口動態に影響したことを整理。第11部では、新木津用水による江戸時代の新田開発と、愛知用水を利用した戦後の高蔵寺ニュータウン開発を比較し、「外から水を運ぶことで、新しい土地利用を可能にする」という共通点を示している。最下部では、高蔵寺ニュータウンが丘陵を大規模造成して住宅都市へ変えた戦後の環境改変であり、急激な成長期を経て成熟期に入り、現在は高齢化、施設の老朽化、集合住宅の更新、空き教室の活用など新たな課題に直面していることをまとめている。

庄内川も「生産の川」から「都市の環境」へ変化した

土地だけではありません。

人と川との関係も大きく変化しました。

松河戸付近の庄内川では、昭和20年代頃までアユなどの漁が盛んに行われていました。

川は、食料を得る場所であり、人々の生活や生業と直接結びついた場所でした。

しかし高度経済成長期になると、庄内川の環境は大きく変化します。

『郷土誌かすがい』第66号では、水が白濁した時代があったことが記されています。

その後、水環境が改善し、川辺は散策などにも利用される場所になっていきました。

参考:第66号「図会にみる景観」

ここにも時代の変化を見ることができます。

かつての庄内川は、

魚を捕る場所、渡る場所、水を得る場所

でした。

現代になると、それに加えて、

景観を楽しむ場所、歩く場所、自然と触れ合う場所

という意味が強くなります。

川そのものが変化しただけではなく、

人間が川に求める役割が変わった

のです。

庄内川と人々の関係が、昭和20年代頃までの「生産の川」から、高度経済成長期の水質悪化を経て、現代の「都市の環境」へ変化してきたことを説明する縦長のインフォグラフィック。上部に「庄内川も『生産の川』から『都市の環境』へ変化した」と大きく表示し、「川と人との関係の変化から、春日井の環境史を読む」と説明している。第1部では、昭和20年代頃の松河戸付近の庄内川を描き、アユ漁、投網、川を渡る人、水をくむ人などの姿を通して、庄内川が魚を捕る場所、渡る場所、水を得る場所、生業の場として地域の暮らしを直接支えていたことを示している。第2部では、高度経済成長期の1960~70年代を取り上げ、工場や都市化の進展を背景に庄内川の水が白濁した時代を描き、排水や生活排水の増加などによって水質が悪化し、かつての清らかな流れが失われていったことを示している。第3部では、その後の水環境改善の過程を1970年代、1980~90年代、2000年代以降の3段階で並べ、下水道整備、工場排水規制、河川整備、地域の環境保全活動などを背景に、水質が少しずつ改善し、濁った流れから清らかな水辺へ変化していく様子を示している。第4部では、現在の松河戸付近の庄内川を描き、散策路、ジョギングをする人、川辺で休む人、親子で自然観察をする姿、サギなどの生き物を配置し、庄内川が景観を楽しむ場所、歩く場所、自然と触れ合う場所、都市生活に潤いを与える水辺空間になっていることを説明している。第5部では「川に求める役割の変化」として、かつては「魚を捕る」「渡る」「生活用水を得る」「生業の場」といった直接的な生活・生産機能が中心だったのに対し、現在では「景観を楽しむ」「歩く・走る」「自然と触れ合う」「都市の環境を支える」といった役割が強くなったことを左右に比較している。中央には「川そのものだけでなく、人間が川に求める役割が変わった」と大きく示している。最下部では、農村とともに生きる川、高度経済成長期の都市化と汚濁、水環境の改善、現在の都市環境という流れを時系列で並べ、庄内川が農村の生産を支える川から都市生活を支える川へと役割を広げてきたこと、春日井の環境史は土地だけでなく川との関係の変化からも読み解けることをまとめている。

郷土史かすがい 第66号「図会にみる景観」

春日井をとおる街道24 図会にみる景観(2)

櫻井芳昭 市文化財保護審議会委員

松河戸

1 玉野道
(1)松河戸
庄内川で魚を釣る人が5人。下流の流れの狭いところに木の橋が架けられ、馬を引いた人が渡っている。ここの渡河は徒(かち)渡りか笹舟が基本であったが、渇水期には仮橋が設けられていた。松河戸と川村を結ぶこのルートはこの地域の主要経路であったので、通行人は相当あったものと思われる。
享保5年(1720)新橋を造ったが、勝川村庄屋からの訴えで、役人立会いの上、取り壊しになった。
明治時代は渡船が主流であったが、大正6年に仮橋ができ、昭和8年に欄干のない木橋が完成した。
しかし、30センチメートルほどの丸太を橋桁に使った本格的になったのは昭和13年である。はるか向こうに鈴鹿と伊吹の山なみが見えることから、西方の下流を見て描かれ、ゆったりとした風情を漂わせている。
春日井音頭に「南は庄内 鮎子の産地よ」と歌われているように、昭和20年代までは清流で鮎・うぐい・はえなどがよくとれ、投網や釣りが盛んであった。高度経済成長期には白濁した水になったが、昭和40年代以降は清流に戻り、現在では河川敷でのスポーツ、散策など市民の憩いの場所になっている。 
また、尾張名所図会の小野道風出生地の図には道風碑と八幡社が描かれている。この四角柱の碑は現存するが、八幡社は大正元年に白山神社に移された。戦後、小野小学校の奉安殿が移築されて小野社になっている。

野田の渡し

(2)野田(吉根)の渡し
密蔵院の南の野田と守山の吉根を結ぶ渡しで、棹で漕ぐ船頭が6人ほどの客を乗せて庄内川を渡している。春日井側は河原となり、守山側は崖を上がったところに建物が2棟描かれている。
野田渡の古覧(東春日井郡史)では、「この一帯風光甚だうるわしく、昔より往還の道路に属する舟渡なりき。天正の役、池田勝入兵を分かちて三隊となし、自ら先鋒を率いて大日渡を超えしとき、第二隊堀久太郎秀政は実に此処より渡河し、而して先鋒の兵と志段味に合せ舊蹟なり。」と述べている。
大正時代には、吉根の郷船と呼ばれる20人乗りの船で、渡し賃は2から5銭の志で、村の費用を加えて運営されていた。船頭さんは岸近くの小屋に待機して、客があり次第対応していた。

密蔵院

(3)密蔵院
対岸の吉根の高みから全景を遠望した図であり、多宝塔の九輪がひときわ高くそびえている。庄内川の堤防を下ってすぐのところに総門がある。右手に常林坊、その東に野田村の家並が12棟ほど描かれている。多宝塔、拝殿、本堂、庫裡、書院、鐘楼、宝蔵の伽藍とともに吉祥坊、善明坊、福泉坊などの塔頭がみえる。中世の最盛期には39坊、末寺は700余を数えたという。ここは葉上流の中核で僧侶に位を授与する寺で、灌頂堂がこの中心施設である。
江戸時代には野田村、田幡村(名古屋市北区)の137石余が密蔵院の領地として認められていたので、将軍の代替わりには朱印状を受けるため、住職が江戸まで出向いていた。

入尾の渡し

(4)入尾の渡し
客2人を乗せた小船が入尾から高蔵寺へ向けて玉野川を渡っている。その下流には木杭を打ち小枝を詰めて川を堰き止め、打盤艘を入れてアユをとる仕掛けが造られている。
この渡しは、春日井郡の村々から水野代官所へ行く場合や玉野道から定光寺へ出て、下半田川から中馬南街道を木曽方面へ通じているので、この辺りの中心的な経路であった。
明和2年(1767)尾張藩の御船奉行から「ここの渡船は十三人に限って乗船させ、馬一疋は人八人、荷物一駄は三人分、長持一棹・乗物一挺は四人分、挟箱一荷は一人分として渡すようにすること」との達しが出されており運用の基本にされていた。また、注意事項として「十三人より多い人が押しかけた時は次の船まで待つように穏やかに言い聞かせること、水が出たり風が強い時は乗る人を減らし船頭を増やしてていねいに渡すこと、出水した時に船を出すかどうかは庄屋・組頭の許可に従うこと」とあり、守らない時は船頭・庄屋ともにとがめを受けると書かれている。
危険を伴う渡船であったので、極めてていねいに指示していたことがわかる。野口道直らの文政元年(1818)3月の「玉野行」荷は「入尾の板橋を渡り」とあり、渇水期には板橋が架かっていたことがわかる。
中央線の高蔵寺駅が明治33年に開設されて、瀬戸方面からの往来が増え、この渡しは大賑わいになった。このため、両岸を結ぶ鋼鉄線を張ってこれと船をロープでつないで引っ張る方法になり、輸送量と安全性が高まったという。明治42年に鹿乗橋が完成して渡しはなくなった。

玉野川渓谷

(5)玉野川渓谷
谷間をうがって屈曲しながら流れる玉野川の急流、奇岩に当たって吹き上がる水しぶき、切り立った斜面におおう変化に富んだ樹々や岩石などでつくる景観が、新緑、さつき、つつじ、紅葉、雪景色で代表される四季の風趣のある名所として有名であった。鹿乗が淵から新虎渓に至るおよそ4キロメートルの間には玉野川50景があり、奇岩や風景の特徴を捉えて座禅石、猩々石、天狗岩などと名称を付けて親しんでいた。尾張志には「両岸または川中に大岩並び立ち、川幅も広くなり狭くなり屈曲さまざまに漲(みなぎ)り流れ、水音高くあるいは低く、いくばくとも計り難く青くよどみあるいは岩にさえぎられて白雲を乱すが如く涌き返り、老松怪木枝たれてその風景たとうべきものなし」と述べられている。
河岸の少し平らになった猩々ノ皿に訪れた3人を上流のハサミ岩、ノゾキ岩には岩先などを歩く2人を配している。「ハシガセ」と書いてある辺りが現在の城嶺橋のところである。この名勝を訪れる文人墨客も多かったようで、田宮如雲「玉野水上に遊ぶ」などの漢詩や歌・紀行文が伝わっている。

2 おわりに
先回から「図会にみる景観」として2回にわたり連載しましたが、図会は遠景や視点を中空においた俯瞰図が多い。細かいところをみていくと、今まで文には出ていない事項を見つける場合があり、こんな時は嬉しさがこみ上げてくる。川から原、山地へと直線的に走る下街道、庄内川沿いの古い村を結ぶ玉野道、これらの道沿いには歴史を蓄積した寺社とともに、庶民の生活の息吹が伝わってくる。図会をもとに、村の位置を周辺の山川や街道との関係で再考したり、関連資料で記入事項等を肉付けしたりして、現在と比較しての変化をまとめてみた。図会の読み取りは、文では得られない具体的景観を見ながら考えを巡らすことができるので、臨場感を持って考察する効果は大きいと改めて感じた。
[主要参考文献]
小田切春江「名区小景」弘化四年(1847)
岡田啓・野口道直「尾張名所図会」天保12年(1841)
鬼熊・梅香・蝶女「内津道中記」天保11年(1840)、岡田弘「矢田河原を描く内津道中記」所収
内藤東甫「張州雑志」寛政元年(1789)
岡田啓・中尾義稲「尾張志」天保十五年(1844)
名古屋市「名古屋市史第2巻(安食庄絵図解説)」(1998)
春日井市「新修春日井市近世村絵図集」(1988)
多治見市教育委員会「多治見市史料絵図集(一)」(1996)
加納陽治「多治見風土記」(1958)
野口道直他「玉野行」文政元年(1818)名古屋市博物館蔵
東春日井郡役所「東春日井郡史」(1923)
高橋敏明「内々神社の特異性」(1998)

郷土誌かすがい 第66号|春日井市公式ホームページ から
春日井を通る街道と庄内川・玉野川沿いの景観を、江戸時代の図会風イラストと解説でまとめた縦長のインフォグラフィック。上部に「春日井をとおる街道24 図会にみる景観(2)~庄内川・玉野川と人々の暮らし、街道、寺社の風景~」とあり、櫻井芳昭・市文化財保護審議会委員の研究をもとに構成されている。第1部「玉野道・松河戸」では、庄内川で魚を捕る人々、木橋を渡る人や馬を描き、松河戸が徒渡り・笹舟・仮橋などで対岸と結ばれていたこと、昭和20年代頃までアユ・ウグイ・ハエなどの漁が盛んだったこと、のちに河川敷がスポーツや散策の場へ変化したことを説明。第2部「野田(吉根)の渡し」では、船頭が複数の客を乗せて庄内川を渡す舟を描き、野田と吉根を結ぶ重要な渡しであったこと、大正期には20人乗りの郷船が運航されていたことを紹介している。第3部「密蔵院」では、対岸の吉根方面から望む伽藍を描き、多宝塔、本堂、鐘楼、塔頭などが並ぶ寺院景観と、中世に多数の坊・末寺を持った宗教拠点であったことを解説している。第4部「入尾の渡し」では、小舟で玉野川を渡る人々と、川をせき止めてアユを捕る仕掛けを描き、春日井郡から水野代官所や定光寺、木曽方面へ向かう交通路として重要だったこと、乗船定員や増水時の運航ルールが細かく定められていたこと、明治期には鋼鉄線とロープを使う方式に改良され、鹿乗橋の完成で渡しが廃止されたことを説明している。第5部「玉野川渓谷」では、急流、奇岩、岩壁、紅葉や樹木に囲まれた渓谷を描き、鹿乗が淵から新虎渓まで約4キロに「玉野川50景」と呼ばれる景勝地があり、座禅石、猩々石、天狗岩などの名が付けられて親しまれていたことを紹介している。最下部の「おわりに」では、図会を読み解くことで、街道や村の位置、川や山との関係、寺社、渡し、漁、庶民の生活など、文章だけでは分かりにくい具体的な景観を復元できることをまとめ、主要参考文献も一覧で掲載している。

開発した後に「何を残すのか」という時代へ

そして現在、春日井の環境史はさらに新しい段階へ入っています。

これまでの歴史では、自然環境をいかに利用するのかという問題が大きなテーマでした。

水を引く。

山を使う。

地下資源を掘る。

丘陵を造成する。

道路を造る。

住宅を建てる。

そうやって、人間が利用できる空間を広げてきました。

しかし、自然環境を利用し続けた結果として、

今度は「何を残すのか」という問題が生じています。

2025年の『郷土誌かすがい』に掲載された蝶の調査では、東部丘陵に残るギフチョウなどの減少が指摘されています。

参考:第84号「春日井の蝶の変遷(2)」

ここで重要なのは、単純に「緑を残せばよい」という問題ではないことです。

蝶が生きていくためには、幼虫が食べる植物が必要です。

成虫が蜜を吸う植物も必要です。

そして、それらが継続して存在できる環境が必要です。

つまり自然環境とは、単なる「緑色の場所」ではありません。

植物、昆虫、鳥、土、水、光などの関係によって成り立つ、生態系そのものです。

春日井の環境史は、

自然を利用する歴史から、利用しながらどう自然を維持するのかを考える歴史へ

移りつつあるのかもしれません。


春日井の歴史は「水との付き合い方」の歴史でもある

ここまでを振り返ると、春日井の歴史を貫いているものの一つが「水」であることに気付きます。

古代の人々は、水辺に近く、それでいて洪水を避けられる自然堤防を利用しました。

近世になると、水の乏しい台地へ用水を引きました。

その結果として新田が広がり、その用水を維持する共同体が形成されました。

濃尾地震では、その水利施設が破壊され、地域社会は復旧に取り組みました。

戦後になると、高蔵寺ニュータウンという巨大な住宅都市を維持するためにも水源の確保が必要になりました。

そして庄内川では、漁業の場だった川が汚染を経験し、その後、都市の中の水辺環境として再評価されるようになりました。

つまり春日井の歴史とは、

水のある場所を探して暮らした歴史から、水を動かして土地を変える歴史へ、そして水環境そのものを守る歴史へ

という流れとして見ることもできます。


「自然に適応する」から「自然を改変する」へ

もう一つ、大きな流れがあります。

それは人間と地形との力関係の変化です。

古代には、人間の側が地形に合わせていました。

自然堤防のような、わずかに高い場所を選んで暮らす。

谷の水を利用する。

山の恵みを使う。

つまり、

自然の条件の中から暮らしやすい場所を選ぶ

という関係です。

近世になると、それが変化します。

用水を建設することで、水のない場所へ水を運びます。

近代になると地下を掘り、山から石材を取り出します。

そして戦後になると、丘陵そのものを大規模造成して住宅地へ変えます。

つまり、

自然に合わせる社会から、自然条件そのものを変更する社会へ

移っていったわけです。

しかし、その結果として災害時のインフラ被害や環境汚染、生態系の変化といった新しい問題も生まれます。

人間が自然から自由になったのではありません。

むしろ自然との関係が、より複雑になったと考えた方がよいでしょう。


春日井のまちを歩くと、異なる時代の「環境改変」が重なっている

こうして見ると、現在の春日井市の風景も違って見えてきます。

庄内川沿いの少し高い場所には、古代の人々が選んだ生活の痕跡があります。

中央部や西部を流れる用水には、江戸時代に水の乏しい土地を農地へ変えた人々の努力があります。

東部の丘陵には、亜炭や砕石など地質を利用した産業の歴史があります。

そして高蔵寺ニュータウンには、戦後の日本が丘陵を巨大な住宅都市へ変えていった歴史があります。

現在の春日井は、

数百万年前の地質の上に、河川がつくった地形があり、その上に農業社会の水利が築かれ、さらに近代産業と戦後都市が重なっている。

そういう非常に多層的な土地なのです。


まとめ――春日井の歴史とは、土地と人間が互いを変えてきた歴史である

春日井市の歴史を地形と環境から振り返ると、単なる「自然史」では終わらないことが分かります。

最初に地形をつくったのは自然でした。

湖や川が砂や礫を堆積させ、山や丘陵、段丘、低地をつくりました。

人間はその土地の違いを読み取りながら暮らしました。

古代には、水に近く洪水を避けやすい微高地を選びました。

近世には、新木津用水などを整備することで、水の乏しい台地へ水を運び、新しい農地をつくりました。

山林からは燃料や肥料を得ました。

近代には地下から亜炭を採掘し、山地から石材を取り出しました。

そして戦後には、高蔵寺の丘陵そのものを造成し、巨大な住宅都市へ変えました。

その一方で、濃尾地震によって用水やため池が破壊され、高度経済成長期には庄内川の環境が悪化し、現在では東部丘陵の生態系をどのように維持するかという課題も生まれています。

つまり春日井の歴史は、

自然に支配されてきた歴史でも、自然を征服してきた歴史でもありません。

むしろ、

自然によって条件を与えられた人間が、その条件に適応し、技術によって作り替え、その結果として生まれた新しい環境と再び向き合ってきた歴史

と考えるのが一番近いのではないでしょうか。

春日井の現在の風景は、その長い歴史の結果です。

何気なく流れている用水。

庄内川沿いのわずかな土地の高低差。

高蔵寺の丘陵。

東部に残る山林。

住宅地の中に残された緑。

それらを地形と環境という視点から見直すと、春日井のまちは、これまでとはまったく違った姿を見せてくれます。

そして、その歴史を知ることは、これから春日井という土地をどのように利用し、どの自然を残し、災害とどう向き合い、どのような都市をつくっていくのかを考えることにもつながっていくのだと思います。

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